かのんと
「結局、来てしまいましたね……」
「来ちゃった、ね……」
「ククは気にナッテ夜も眠レズ……」
「あっ! こらっ! 見つかるって!」
「痛いデスぅ!!」
「痛くない! 大きい声出すんじゃないわよ!」
「離すデスぅ!!」
「もう! いちいち声が大きいのよあんたっ!」
「かのんちゃん……」
千砂都は一言、幼馴染の名を呼ぶ。無理矢理かのんを独りにさせてしまった事に対して、彼女の心が痛まない筈が無い。けれど、かのんが今後何不自由なく歌えるようになるにはこの方法が最善であるという考えは、間違いではないとも感じている。ただ、かのんを信じる。幼馴染である千砂都もまた音羽と同じように、彼女が歌える事を切に祈り続けるのであった。
微かに講堂内に居る生徒達の騒めきが聞こえるステージ裏で、かのんは時間が来るまで無言で待機していた。先日も来た筈のこの場所は、当日に来てみるとその景色は何故だか違って見えた。先日来た時には感じられなかった緊張感、重圧。それらがかのんに容赦無くのしかかる。独りで歌うというのは、こんなにも心細くて、息が詰まりそうになる程の緊張を伴うものであったか。ここで改めて、仲間の存在の大切さを思い知る。隣で歌ってくれる仲間達が居るだけで、どれだけ心が救われることか。
ふと、気が付いたことがあった。根拠は無い。単なる自身の思い上がりかもしれない。けれど、確かめたかった。千砂都達が言っていたことの、その真意を。何故自分1人がこの場で歌うことになったのか。きっとそれが、皆の意志でそうしたのではないか。本番当日に、かのんはそのような結論に至った。かのんは制服のポケットからスマホを取り出し、チャットアプリを開く。お世辞にも多いとは言えない連絡先一覧から千砂都を探し、通話ボタンをタップした。
数秒のコールがあった後、彼女と通話が繋がった。今この場所には居ない、彼女の声が電波を通して聞こえてきた。
『もしもし? かのんちゃん?』
「……ちぃちゃん」
『どうしたの?』
「……ありがとね」
千砂都は電話を掛けてきたかのんに対して要件を問う。すると聞こえてきたのは、かのんからの謝意であった。彼女の声音を聞き、千砂都は自分達の意図がかのんに悟られたのだと考え、糾弾されることを覚悟でスマホを持つ手に力を込める。しかし、彼女の想定とは違う反応が、かのんから返ってきた。
「私、皆が居るから歌えてた。それで良いって、思ってた。でも……それじゃダメなんだよね?」
かのんは落ち着いた口調で千砂都にそう問い掛ける。皆と一緒に歌う事、仲間が側に居た状態で踊る事。それらが全て正しいと思っていた。1人では生み出せない想いやパフォーマンスを、仲間と一緒なら生み出せるから。そう信じて疑わなかった。だが、それだけが全てではないのだと気付いた。それに気付けたのは他でもない。かけがえの無い、かのんの仲間達の存在であった。
「誰かを支えたり、力になる為には……ちぃちゃんが頑張ったみたいに、1人でやり遂げなきゃいけないんだよね?」
かのん自身が導き出した答えを聞き、千砂都は安堵したようにそっと微笑む。1人ででも歌わなくてはいけない時が来た時に、不安無く歌えるようになるには、自分だけの力で成し遂げる必要がある。それにかのんが気付くことが出来た。その事実に、彼女の胸が熱くなる。
『うん。どんな時でも、問題なく歌えるようになるには……1人で乗り越えなくちゃいけないと思う。それに……
「えっ?」
『居るはずだよ。あの頃のかのんちゃんが……歌を全世界に響かせようとしてた、かのんちゃんが!』
千砂都はかのんにそう伝え、スマホのボタンをタップして通話を切る。唐突に彼女の口から出た、『あの頃の自分』という単語。その発言の意図が分からず、かのんは神妙な表情でスマホの画面に映る自分自身を見つめる。
「私、が……?」
『……みんなっ!』
「えっ? ……!」
千砂都が発した言葉の意味を考えようとしたその刹那。背後から声が聞こえた。振り返った先に、嘗ての自分自身を……皆を引っ張り、歌を全世界に響かせようとしていた、あの頃の澁谷かのんを幻視した。夢を見ているのか、もしくは目の錯覚かもしれない。だが、目線の先には確かにあの頃の自分がそこに立っていた。
『大丈夫だよ! 歌はこわくないっ! 楽しいものだよ! 歌うのは……とっても楽しいものなんだよっ!』
幻視している嘗ての自分の周囲には緊張している仲間達が居り、その仲間達をかのんは明るい笑顔で励ましていた。
『みんなががんばって練習してこられたのは、歌うことが楽しかったからでしょ? だから歌おうっ! 楽しく!』
かのんに励まされた仲間達は緊張が解けたようで、笑顔でステージに向かって行った。そうしてその場にはかのん1人だけが残った。彼女も皆と共にステージに向かうものかと、今嘗ての自分を見つめているかのんはそう思っていたが、あの頃のかのんはなかなか歩を進めようとしない。そして、彼女は俯きながら一言、自身の感情を言葉にした。
『……こわい』
「あ……」
『なんでだろう……こわいよっ……』
その小さな身体を震わせて、嘗ての自分が恐怖を吐露している。そんな姿を見て、かのんはゆっくりと近付いていく。今にも泣き出しそうな顔をしている、嘗ての自分に向かって。歩きながら、かのんは思い出すことが出来た。あの頃も、皆の前で歌う事に恐怖を感じていた。本当は、怖くて怖くて堪らなかったのだ。『歌は怖いものではない』と、皆の前では明るく振る舞ってはいたものの、自分自身がその恐怖を拭い切れていた訳ではなかった。嘗ての自分と距離を詰め、しゃがんで目線を彼女に合わせる。
「そう。怖かったんだ。あの時も。……それでも、私は……」
恐怖で小刻みに身体を震わせているあの頃の自分に、かのんはそっと頬に手を添える。時が経っても、変わっていないものはもう1つあった。歌に対する気持ちだけでなく、人前で歌うという恐怖。それが未だ根底にあるのだった。しかし、現在のかのんは、その恐怖と向き合える。向き合った上で、恐怖を打ち消す言葉を知っている。
「……大丈夫。
『歌が大好きなら、大丈夫』。先日、音羽が自分に言ってくれた言葉。嘗ての自分も、歌を愛する気持ちは変わらない筈。であれば、大丈夫だとかのんは自信を持ってあの頃の自分に問い掛ける。恐怖で震える彼女を安心させる為に、かのんは優しく微笑んでみせた。すると、彼女は唇をきゅっと引き締める。歌う覚悟を決め、嘗ての自分はステージがある方角へ歩いて行った。暫くその小さな背中を見送ると、あの頃のかのんの姿が消え、現実と同じ景色が見えた。明るいライトが床を照らしているステージまで続く短い道。歩き出す前に、かのんは今一度胸に手を当て、音羽が伝えてくれた言葉を思い出す。
『大丈夫。かのんちゃんは絶対、大丈夫だから。歌が大好きな……かのんちゃんなら!』
『大丈夫。『大好き』だったら、大丈夫だよ!』
「っ……!」
思い出すだけで胸が高鳴る。心が暖かくなっていく。こんな自分でも、なんだって出来そうな気持ちにしてくれる言葉。目を閉じても、笑顔の彼が浮かぶ。優しくて、それでいて落ち着く笑顔の、音羽が瞼の裏に居るのだ。
『『大好き』だったら、大丈夫だよ!』
「大丈夫。……歌える」
閉じられた瞼を開き、かのんは自身に言い聞かせるようにそう呟く。嘗ての母校の生徒達の前で歌う覚悟を決め、かのんはステージへと向かった。
ステージに上がると、かのんに向けて大きな拍手と歓声が上がった。全校生徒が揃った講堂、そこに居る生徒達からの熱い眼差しに一瞬圧倒されるかのんだが、すぐに平静を取り戻し、歌う為に自身のコンディションを整える。
「────」
深呼吸をひとつ。全く何気なく、それでいて何処か厳粛なその動作だけで、講堂に満ちる何かが決定的に塗り替わった。それは一種の雰囲気と言うべきそれであるか、或いは世界そのものの
いっそ異様とさえ言える光景だ。それらの視線が注がれる先で、かのんは自身が齎したその変革に全くの無自覚であった。彼女の意識はただ己の裡へ、裡へ。実時間にして須臾にすら満たず、而して主観では永続にすら等しいそれは、彼女の中に潜む彼女自身との相克だ。
数年の時を経て今一度この場所に立ち、心臓が早鐘を打っているのを自覚する。弱気の虫は未だ彼女の心から立ち去る事はなく、瞑目すれば今でもトラウマは脳裏に蘇る。頽れた身体が背中を強かに打ち付ける感覚も、呼吸すら覚束ない閉塞も、嫌に照り付ける照明も、全てが色濃い。それら過去の合一は仮想の質量と化してかのんの胸中に押し寄せて───しかし、それを前に為す術もなく圧殺されるかのんではなかった。
自身にとって始まりとも言えるこの場所に立ち、少女は漸く、或いは改めて理解した。歌は彼女にとって辛い記憶の根源でもあったが、同時に幸福でもあったのだ。今この瞬間さえ、痛痒を塗り潰すように思い出されるものがある。それは他でもない、仲間達との日々。それが背を支えてくれる。故に、1人だけれど、独りではない。
そう、既に答えは得ていたのだ。───歌が好き。それこそが澁谷かのんにとっての唯一にして絶対の真理。
刹那、歌声が満ちた。明朗に、かつ伸びやかに。歌詞のひとつひとつを己と世界に深く刻み付けるが如く、高らかに歌い上げる。なればそれは再起と決意の
時空が解け、万象は屈服し、浮世に存する遍くが少女のために動員される。そんな在り得べからざる夢想さえ現実に相違なく、故にやがて歌声の残響が世界の裡に溶け消えた時、観客達が彼らの胸中を支配する熱狂のままに礼賛を贈ったのは全く道理な事。まさしく万雷の喝采。それを満身に浴び、五体に満ちる熱情の残滓の中で漸く彼女は自覚した。───今度こそ、自分は歌えた。もう一度、この場所で。その事実を。
鳴り止まぬ喝采が響く講堂の真ん中から、声が聞こえた。自身の名を呼ぶ、幼馴染の声が聞こえた気がした。そんな筈は無いと思っていたのだが、その想定は目の前の光景で良い意味で崩れ去ることとなった。
「かのんちゃんっ!」
「ちぃちゃんっ!?」
千砂都が自分に向かって飛び込み、かのんは驚きながらも彼女の身体を受け止める。
「かのんちゃん……かのんちゃんっ!」
「ちぃちゃん……!」
目に涙を溜めて、千砂都は嬉しそうにかのんの名を呼んだ。ただ名を呼ばれただけだが、何も言われずとも、千砂都が今何を思っているのか、分かった気がした。彼女の中に在るのは安堵と歓喜。1人でも無事に歌えた事実を、千砂都は自分の事のように喜んでくれた。何故来る筈の無い彼女がここに来ているのか、気になることはいくつかあれど、今はそれよりも、この嬉しさを共に共有したい。2人の気持ちは同じだったようで、言葉を交わさずに共に笑い合う。そうしているうちに、千砂都に引き続いて可可達もステージに飛び込んできた。
「かのんーッ!」
「あっ! 可可ちゃん! それに皆も! ど、どうしてっ!?」
「あんたなら大丈夫だとは思ってたけど、一応来てたのよ。……ちゃんと、歌えたじゃない」
「すみれちゃん……うんっ! 私、歌えたよっ!」
「本当に、勝てるような気がしてきました……!」
「ふふっ。勝つわよ! ラブライブ!」
「当たり前デス! 『Liella!』は、最強なのデスから!!」
皆も嬉しそうにかのんに激励し、ラブライブ優勝に向けて意気込む可可の言葉を聞き、再度かのんは夢と目標を認識する。1人で歌える事が終わりではない。その先にある夢を掴む為には、これはスタートラインに立っただけに過ぎない。だが、確かな一歩だ。かのんは今日、確かに前に進んだ。そうさせてくれた皆に感謝を述べると同時に、かのんは自分の背中を後押ししてくれた彼について言及する。
「ねぇ、皆。今日、おとちゃんは?」
「来てるわよ。ほら、あそこ」
すみれが指差した方向を見ると、講堂の入り口付近に1人、立っている人物が居た。ステージから距離がある為はっきりとは見えないが、結ヶ丘の制服を着用していることは判断出来た。そこに居るのが音羽で間違いないと分かったかのんは安心したように、それでいて心底嬉しそうに笑みを溢した。かのんは千砂都達にひとつ提案し、皆それを了承。一同はステージ上で横に並び、手を繋ぐ。
「「「皆さん、はじめまして! 『Liella!』です! 私達の歌を、聴いてください!」」」
講堂に居る生徒達に挨拶すると、再び熱を持った拍手と喝采が響き渡る。次はかのんだけでなく、『Liella!』の5人全員で歌う事を決めたのだ。その挨拶は、遠く離れた音羽の耳にもにもしっかりと届いていた。
「かのんちゃん。僕は、かのんちゃんの歌が……音楽が……」
かのんの歌声を聴き、音羽の心が動かされた。この気持ちは、自分の中で確かなものになっていく。だが、それを邪魔するように、脳内に声が響く。
『君は、何も出来ない。何も出来やしない』
「っ……」
また、あの声が聞こえる。聞きたくないのに、耳を塞ぎたいのに、絶えず否定の声が続く。そんな折、仲間達の歌声が聴こえてくる。5色を纏った音色が脳内に入り込み、反響する。しかし、その鮮やかな色が一瞬、灰色に染まった。
『君は、何も出来ない。何も出来やしない』
違う。違う。違う違う違う。違う。
脳に直接響く声を、音羽はただ只管に否定し続ける。
皆の歌声を聴くのに全ての集中を注ぎたい筈であるのに。
自分を否定する得体の知れない声が、厭に五月蝿く音羽の思考を邪魔し続ける。
皆の歌声が、色彩が遠ざかるかのような感覚を覚え、音羽は恐怖で喉を鳴らした。
恐怖を乗り越えた先にあるのは、希望、或いは絶望か。
歌唱描写協力:かってぃーさんhttps://syosetu.org/user/164436/
評価用リンク
https://syosetu.org/?mode=rating_input&nid=264358