異様とは、このような事を言うのだろうか。
甘い匂いが漂う密室で、
初めから1階の喫茶店の席ではなく、自室に案内された事は些か不思議ではあったが、席に座って良いかどうかは店の混み具合も関係しており、且つ彼女の自室を訪れるのは何も今日だけの話ではない。これまでも何度か足を運んだことがあり、その度に楽しい時間を過ごしていた。だが……今日は、違う。確かに2人の話は弾んでいる。この二者間で空気が悪くなる事などほぼ皆無で、互いにそれを認識しているのだが、どこか探り合っているかのように、互いの地雷を踏まないように両者共に上手く立ち回っていた。その違和感に気が付かない程、2人は鈍感ではなかった。
次の話題が終わったところで、音羽が先に動いた。タイミングを見計らった後、数秒間流れていた沈黙を破る。
「もうすぐ、東京大会だね」
「そうだね。気付いたらもう、1ヶ月切ってるもんね」
「何か悩み事とかない? 相談なら、いくらでも乗るよ?」
かのんはその言葉を聞いた瞬間、驚いたように音羽の方を向いた。いつもと変わらない、彼の心遣い。その優しさにいつも助けられる。勇気を貰える。そんな筈なのに。その声音は、明らかに無理をしているようだった。きっと、今の音羽の精神状態は平常時とは異なるのだと、自分じゃなくても分かる。かのんはそう確信し、音羽に率直な気持ちを言葉にする。
「悩みがあるのは、おとちゃんの方なんじゃないの?」
「えっ……?」
「おとちゃん、最近なんか変だよ? 誰もいないのにおっきい声出したり、ぶつぶつ独り言呟いてたり……今日だって、渡した詞をそんなに確認しないで曲を作ろうとした。今までのおとちゃんなら……そんなことしなかったじゃん!」
「それは……」
音羽はそう言われ、言葉に詰まる。かのんの言葉は全て事実で、否定のしようが無いのもあって言葉を続けられなかったが、同時に彼女に気付かれる程の態度や行動をしていた自分を悔いる。現実世界でも自身を邪魔するような言動をとる得体の知れない声に対しての返答は、人気の無い場所でしていた筈だと思い込んでいたが、気付かぬうちにかのんに聞かれていた自身の詰めの甘さを自覚した。
しかし、他者に自分が見る夢の内容を話したとしても何とかなるような問題ではないとも音羽は感じている。かのんに指摘された瞬間から、彼は何を話せば良いのか分からなくなり、暫くの間押し黙る。俯いて唇を噛む音羽を見て、かのんは更に言葉を続ける。
「おとちゃん……何があったの? ちゃんと話してよ。私、おとちゃんの力になりたいよ。自分のことよりもまず……おとちゃんが心配なんだよっ……」
「かのん、ちゃん……」
「なんでも話して。どんな話でも、受け止めるから」
音羽と距離を詰め、かのんは彼に話をしてもらうように懇願する。きっと、彼女は話すまで自分をここから帰さないつもりなのだと、音羽は悟った。それ程の強い気持ちが、かのんから伝わってきたのだ。やはり、彼女には敵わない。彼女の前では、意地を張れない。自分に、もっと嫌気が差しそうだった。
「……僕はただ、皆の力になりたい。それだけ。本当に、それだけなんだ」
「でも……どうしてそんなに頑張るの? 身体壊しちゃったら大変じゃん! なのに、どうして!?」
「僕、は……」
『どうしてそんなに頑張るのか』。嘗て
自分がかのん達を、スクールアイドル部のことをどう思っているのか。それを考えたら、自ずと答えは導き出されていた。たった1つ、揺るがない事実が存在していた。音羽は、その答えを伝える為に口を動かす。
「僕は……かのんちゃん達や、『Liella!』や、音楽が……っ!?」
彼の脳内に、雑音が流れ込んできた。
『君は、何も出来ない。何も出来やしない』
『君は無力だ。そんな君がいくら頑張ろうと、無意味で無価値なんだよ』
『それは、いずれ呪いに変わるものなんだから』
音羽の言葉を邪魔するかのように、得体の知れない声が何度も五月蝿く音羽の脳内に響き、頭に鋭い痛みが走る。気持ちを言語化しようとした瞬間に、望まない言葉達がとめどなく溢れ始める。音羽は頭を抑えながら、苦しそうに声を上げる。
「うぐっ……ぁ……あぁぁぁ……」
「おとちゃん……? おとちゃんっ! 大丈夫!? おとちゃん!?」
「僕は……僕はっ……! 音楽が……っ……」
どうしてもかのんに伝えたい、伝えなくてはいけない、その先の言葉が紡げない。あの声が、執拗に言語化するのを邪魔してくる。だが、その声に負ける訳にはいかない。伝えねばならないと、音羽は強い気持ちを以って抗う。凄まじい頭痛に襲われながらも、彼は懸命に声を絞り出す。
「僕はっ……かのんちゃ……たち……の、音楽、がっ……」
「おとちゃんっ……!」
「僕は……僕は、僕はっ……音、楽がっ……」
激しくなる頭の痛みに堪えながら、呼吸することも難しくなっていく中で、音羽は気持ちを言葉にする為に得体の知れない声に抗い続ける。言わなければ。かのんに、伝えなければ。自分の中に生まれた、この気持ちを。たとえ自身が壊れようとも、伝えなくてはならない。邪魔する声を押し退ける為にこれまでの出来事を必死に思い出した末、音羽は微かに声を出した。
「音楽が……
「……!」
『音楽が好き』。辛うじてではあるが、音羽は確実にその言葉を形にしてかのんに発した。出会って間もない頃、『好き嫌い関係なくすごい人を目指していたから、音楽が好きなのか分からない』と言っていた音羽が、今はっきりと音楽が『好き』だと言った。その事実に、彼女は目元に涙を浮かべる。音楽に対する気持ちが生まれ、必死に自分に先に続く言葉を伝えようとする音羽の手を、かのんが強く握った。
「僕は……僕はっ……! 僕はぁっ……!」
「おとちゃん! 大丈夫……大丈夫だから……! おとちゃんの気持ち、伝わったよ! だからもう、大丈夫! 大丈夫だよっ……」
「かのん……ちゃん……」
脂汗を額に滲ませ、音羽はかのんが居る方へ視線を移す。何かに怯えながら肩で息をしている彼を安心させる為に、かのんはぎゅっと手を握り続ける。
「どうして、辛そうだったの?」
かのんにそのように訊かれ、音羽はこれ以上隠し通すのは不可能だと判断し、腹を割って話す決断を己に下した。
「……夢を、見るんだ。声が、聞こえて……それに耳を貸すと……自分が、自分じゃなくなっちゃいそうで……怖い。だから……証明しなくちゃいけないんだ。『Liella!』のサポーターとして皆の役に立てるんだって。皆の足を引っ張るんじゃなくて、助けられる存在なんだって。その為にも……頑張らなくちゃいけないから」
「おとちゃん……」
先日『Sunny Passion』の2人から言われたことを反芻しながら、音羽は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。耳障りな声に耳を貸さない為に、否定する為に必死で皆のサポートに励んでいた。『要らない存在』だと、言わせたくなかった。認めてしまえば、己の存在価値を見失いそうになるから。夢に出てくるその声から逃避する為に、思い出さないように無茶と言える程に長時間ピアノを弾いたり、四六時中『Liella!』や皆のことを考え続けた。そうしなくては、今の音羽は自分を保つことなどままならなかった。様々な言葉で揺らぎそうになる心に鞭を打ちながら、出来ることを只管に頑張った。サポーターだと胸を張って言えるようになるには、頑張るしか選択肢が無いからだ。
「皆の為に、出来ることを全力でやりたいんだ。東京大会も近いから、妥協はしたくない」
「でもっ! 今のおとちゃんを見てると……辛いよっ……おとちゃんだって、ほんとは辛いんじゃないの……?」
「……頑張ることは、辛くないよ」
なんとか心を落ち着かせた音羽は優しい声音でそう言いながら、かのんに笑みを見せる。これは紛れもない、彼の本音だ。音羽にとって、努力は苦しいものでも、辛いものでもない。目標に近付く為、何かを成すにはそれらが不可欠だと思っているが故に、その行為自体に忌避感や嫌悪の感情は無い。だが、音羽はかのん達と出会い、恐れるようになったものがある。強い忌避感と、恐怖を感じる事柄が、1つだけあった。
「1番辛いのは……
「っ……」
『孤独』なこと。それが音羽にとって最も恐れ、厭悪するものであった。唯一の幼馴染である恋と決別し、数年間孤独を経験した彼は、二度とあんな日々に戻りたくないと、皆と関わりを持ってから強く思うようになった。皆と友達で居続けたい。スクールアイドル部という大切な居場所を失いたくない。故に『Liella!』を高みへ登らせる為に尽力する。それが自身の成すべき事で、成せねば己の価値を問われる。彼は日々そう感じながら今まで生活していた。徐々に大きくなる重圧と共存するその目標は、彼のモチベーションを高くすると同時に、他者には計り知れない責任感を植え付けている。独りに戻りたくないが為に、自分は皆にとって不要な人物だと思われないような行動をとっているのである。
「僕は、平気だよ。かのんちゃん達の期待を裏切りたくない。今回も、しっかり曲を作るから」
「……おとちゃんの気持ちはわかったよ。でも……自分を追い込むのはやめて。そんなの、私も皆も望んでない。もっと、楽しく行こうよ。音楽は……そういうものだって私は思うから!」
「……うん。ありがとう。かのんちゃん」
かのんの言葉を受け、音羽はそっと顔を綻ばせる。自身の言い分がどれだけ彼に伝わるかは分からない。きっと、『無理をするな』と言っても、自分の知らないところで無理をしてしまうのが音羽の性分であるなら、安易に咎めるようなことはできない。自分も無理をする事が皆無なのかと問われれば怪しいし、そこに関して他人にどうこう言える権利は無いとかのんは思っている。しかし、必要以上に自分を追い込んだり、無用に責任を感じてしまうのは決して本意ではないと同時に、スクールアイドル部の皆も等しく望まない事だ。彼の心を少しでも安定させられるように、かのんは柔らかな声音で話しかける。
「おとちゃんはもう、独りじゃないよ。それを……忘れないでね」
「わかってる。かのんちゃんも、独りじゃない。僕達が居るから、困ったらいつでも頼ってね」
「ありがとう。おとちゃんもね。もっと、私を頼ってほしい。なんでも言ってよ。友達なんだからさ!」
「……! 友達……」
前も、そうだった。自分のことを、友達だと言ってくれた。音羽の脳内で、彼女と出会ってからの出来事が思い出されて行く。
「うんっ! 友達だから、頼るのは当たり前だよ! 私だって、おとちゃんに色々頼むことあるんだし」
「そう、だね……僕は、なんでも頼ってほしいって思ってるから……」
「それと同じ! 悩みでもなんでも、私に話してよ!」
微笑を浮かべるかのんにそう言われ、音羽は暫し考える。かのんと2人きりで居られる時間は今となっては貴重と言え、彼女に話したいことがあるのなら、話しておくべきだと思い至る。今の自分が、かのんに対して言いたいこと。それは、彼にとって熟考するまでもない事柄であった。
「じゃあ……かのんちゃんに、言っておきたかったことがあるんだ」
「うん。何かな?」
かのんは姿勢を正しつつ、音羽の言葉を耳に入れる。
「僕さ……自分には何もないって、そう思ってた」
音羽はかのん達と出会う前の自分を思い出しながらそう口にした。両親のように優れた功績を何個も生み出している訳ではない、そんな自分が嫌だった。恋と離れ、音楽と一時的に距離を置いていた頃は、自分に対しての失望で心が埋め尽くされていた。
「いや……
「おとちゃん……」
かのんは思わず、悲しげな表情で彼の名を呼んだ。彼女が自分をどのように思っているかは別として、音羽はあの頃の自分は何も持ち得ない、価値の無い存在だと感じていた。何も無い、何も出来ない、何も生み出せない、何も成し得ない。無い無い尽くしの人間なのだと自覚していた。そんな自分が嫌だと思っていたくせに、現状を変える勇気さえも持ち合わせていない。なんとも愚かで、惨めで、滑稽な人間なんだと、何度も自身に言い聞かせた。そうしていくうちに、笑うことさえ出来なくなっていった。
結ヶ丘に入学しても、孤独と劣等感に塗れた日々は変わらなかった。自分1人では変えられなかった。そんな中、音羽は今目の前に居るかのんに出会った。今にして思えば、彼女と出会ってから、自身を取り巻く全てが変わったと言える。
「でも、今は違う。かのんちゃんと出会って、手を引いてくれて。スクールアイドル部に入って……今は、たくさんの人達に恵まれてる。かのんちゃんと出会えたから、こんな自分が……少し、好きになれた」
かのんのお陰で
「音楽に対しても……そう思えるようになった。かのんちゃんと出会えてなかったら、きっと……僕はもっと自分を嫌いになってた。だから……今伝えておきたいんだ。かのんちゃんに」
「……うん。なんでも、聞くよ」
『恥ずかしいなぁ』や、『照れくさいよ』などと言いたかったのだが、彼の表情を見て、すぐにそんな思考はかのんの思考から霧散した。彼女はしっかりと、音羽の言葉を受け止める事に決めた。今にも泣きそうな彼の表情は、ゆっくりと、自分がいつも見てきたあの笑顔に変化していった。
「あの日僕の手を引いてくれた人が……かのんちゃんで良かった!」
「っ……!」
「ありがとね、かのんちゃん。僕を、『独りじゃない』って思わせてくれて」
最近ずっと目にしてなかった、彼の心からの笑顔。安心して、心が暖かくなる笑顔。自分の前でまた、音羽はその表情を見せてくれた。その笑顔に、最近感じていた違和感も、嘘も微塵も見受けられなかった。
「この気持ちは、きっと僕の中で一生……揺らぐことはないから。結ヶ丘に入ったのも、今は良かったって……心の底から思える。『楽しい』って、そう言えるんだ! だから、1番にそれをかのんちゃんに伝えたかった。『言わなきゃ』って、思ったんだ」
「う……うぅ……うぅぅっ……」
「え……えぇっ!? 何で!? 何で泣くのっ!? かのんちゃん!?」
糸が切れたように、かのんは目から涙を流し始める。それを見た音羽は分かりやすく慌てながら取り乱す。
「うれし、くてっ……おとちゃ……がっ……おんがく……すきって、いってくれて……わたし、わたしっ……うぅっ……うぅぅぅっ……」
「かのん、ちゃん……」
言葉を詰まらせながら噎び泣くかのんを見て、音羽は改めて彼女の優しさを知った。まるで自分のことのように喜び、時に涙を流す。他人の為に本気で喜び、悲しめる彼女は音羽にとって憧憬の対象である。そんなかのんだからこそ、彼は惹かれて行ったのかもしれない。
「よかった……よかったよぉっ……おと、ちゃ……おと……ちゃぁんっ……」
「かのんちゃん……ど、どうしようっ……え、えっと……」
顔をくしゃくしゃに歪ませ、嗚咽するかのんを目にしながらどのように落ち着かせるのが正解か悩み出す音羽。暫く泣き止む気配が見られない彼女に、彼は些か申し訳なさを感じるものの、最近まで重りのように心に伸し掛かっていたモノが、消えたような気がした。どうしてか、心が軽くなっていた。無論、それが何故なのかを考える余裕は、この状況では少しも無かった。
音羽の気持ちを確認出来た嬉しさにより、かのんの泣く声が満ちて行くこの部屋で、たった2人だけの夜が、徐々に更けて行くのだった。