かのんと
ピアノは元来、1人が両手を用いて演奏することを想定して作られている。しかし、ピアノは演奏部……謂わば鍵盤の幅が通常120cm以上あり、そこには標準で88個の鍵が備えられている為、2人で同時に演奏にあたることが充分可能である。その為、独奏曲ほど多くないものの、数多くの連弾曲が作曲されてきた歴史がある。より良い曲を作る為には、自分以外の誰かが隣で演奏の補助を担当するやり方が望ましいと判断した音羽は、連弾で曲を作る事に決め、その相手に幼馴染であり、且つピアノを経験している恋を指名した。
音羽からその頼みを受けた恋は、嬉しくもあり、同時に音羽の並々ならぬ覚悟を感じ取った。東京大会の為に、半端なものを決して生み出さず、今までスクールアイドル部で作られた曲を超えるような、そんな曲に仕上げるという気概を、彼の目を見て理解した。
音羽は目を閉じて、作曲に最大限集中する為に精神を研ぎ澄ます。それを試みる中でも、雑念という物は容赦無く入ってくる。『自分に出来るのか』、『過去に作った曲を超えられるか』。そういった自問が己の心に現れる。その問いに対して、論理的な答えを出そうとしても、無意味に時間が溶けてしまう。今は答えを出すよりも、誰かの言葉を思い出して、気持ちをリセットする事にリソースを割いた。
隣で瞑想に耽る音羽を、恋は何も言わずに見守っている。邪魔をしないように、静かに彼を見つめていた。そんな中、膝の上に乗せられていた音羽の手が震えている事に気が付いた。固く握られた両の手が小刻みに振動しており、彼女は一瞬、迷いが生じる。声を掛けて良いものなのか、それとも無言を貫いて音羽を待つか。だが、冷静に考えて、恋は自身に問い掛ける。『人が震えるのはどんな時か』を。寒い時や、緊張している時。且つ最も震えが起きやすいのは、『恐怖を感じている時』だと自答した。恐らく、音羽が感じているのは、緊張と恐怖。それらを和らげたり、安心させる為に恋は1つの行動に出た。
音羽の左手の甲に、柔らかく、暖かな感触が伝わった。目を閉じていても、何をされているのかが容易に想像がついた。自分の左隣に居る恋が、手を乗せてくれたのだと。
言葉は無い。目を閉じている為、彼女の表情も分からない。けれど、音羽は不思議と安心する事が出来た。『独りじゃない』と、言ってくれている気がした。あの日のかのんもそうだった。自分に、独りじゃないとそう言ってくれた。独りじゃないからこそ、誰かの為に尽力したいと思える。自身の行動原理は全て、側に居てくれる誰かの為であった。それを思い出し、音羽は一気に集中する。かのんから言われた、『楽しもう』という言葉を何度も言い聞かせる。音楽は本来楽しいものであり、楽しくなければ、音楽とは言えないと彼は悟る。そうだ。楽しく、それでいて最高の曲を作ろう。音羽が心の底からそう思えた瞬間に、閉じていた瞼が開かれる。そして、右手の五指を内側に折り曲げた。関節内の気泡が弾ける音が聞こえ、恋は一瞬、肩を跳ねさせる。今のは、音羽が本気になる時に行う決められた動作……謂わばルーティンであった。
「……いくよ。恋ちゃん」
そう言った音羽の声音は、いつものように優しかった。だが、その表情は恋でさえも気圧されそうな程に、鋭いものだった。
「……っ! はいっ!」
音羽の呼びかけに恋は我に帰り、力強い返事で応える。彼女の返答を受け取った音羽は前を向き、鍵盤にそっと手を置いた。同じく恋も鍵盤に手を乗せ、いつでも演奏出来る状態を作った。
2人で作曲するにあたり、担当する音域を分担しており、鍵盤に向かって右側に位置する高音パートを担う
恋は事前に音羽に『好きなように演奏してほしい』と伝えており、それに自分が音を合わせて調和させるつもりである。これが彼の隣で役に立つ為の最善の方法だと確信している彼女は、頼まれた側の責任を果たす決意を固め、与えられた役割を全うすると強く誓った。音羽は恋の準備が整ったのを見計らい、指を動かす。
音楽室に、2人が奏でる音色が溶け合うように調和し、室内全体に響き渡っていった。
「お疲れ。恋ちゃん。手伝ってくれて、ありがとう」
「いえっ! 音羽くんのお役に立てたのなら、何よりです!」
「うん。すっごく助かったよ!」
数時間後。演奏を終えた2人は手を止め、姿勢を楽にして休憩していた。音羽が生み出す音に恋は必死に喰らい付き、調和を保ち続けていた。隣に座り、共に音羽とピアノを奏でる中で、やはり彼の技術は相当なものであると改めて理解した。紛うことなく音羽は逸材で、音楽の道を志す者であれば誰もが羨むであろう程に、実力と技術が一線を画しており、彼と並び立てる者が果たして存在するのだろうかと疑ってしまうくらいに明らかな隔たりを感じる能力は、まさしく『最強』と言わざるを得ない。彼を一言で表すには、この言葉が最も適しているだろう。
しかし、そんな音羽といえども疲労しない訳ではなく、常人と違い脳で知覚する情報が多い故に負担も計り知れない。恋と会話している今も肩で息をしており、心臓の拍動を落ち着けようとゆっくりと呼吸を繰り返す。そうしているうちに普段通りの鼓動に戻り、音羽は恋が居る方に向き直る。
「曲、完成したね」
「はい……自信を持って、東京大会に使える曲になっていると思います!」
「そう、だね。そうだと……良いんだけど」
「大丈夫ですよ。音羽くんや皆さんの想いが込められた、素敵な曲に仕上がっていますから。負ける筈が……ありません」
「……うん。弱気になってちゃ、だめだよね。勝てるって、思わなくちゃ。この曲で……東京大会を勝ち抜くんだ」
白紙の楽譜を手に取りながら、音羽は脳内で作った曲の音符を思い浮かべる。曲を楽譜に起こすのはこれまで何度かやった事があり、曲を作ってからさほど期間が空いていなければ彼はものの数十分で作業を終わらせる事が出来る。楽譜に起こすのは今日明日で完了させる事とし、音羽は静かに椅子から立ち上がる。
「あ……音羽くん、どちらへ?」
「普通科の教室に行こうかなって。ナナミさん達にちょっと用事があってさ」
「そういえば……放課後は暫く会場のレイアウトを考える為に教室に残ると言っていましたもんね」
音羽はナナミ達に用があるらしく、普通科の教室を訪れたいと申し出る。先日、東京大会の会場作りは自分達に任せてほしいと言っていた3人は、着々と打ち合わせや作業に着手しており、ステージのデザインや規模を考える為に暫くは放課後の時間を利用するのだと、かのんからそう聞かされていた。ステージ作りはナナミ達に一任している筈だが、音羽が3人に会いたいというのは些か不思議であった。
「そうそう。きっとまだ教室に居るだろうし、行ってくるよ。恋ちゃんは先に部室戻ってて!」
「分かりました。であれば、楽譜に起こす作業は私がやっておきます。恐らく、本日中には完成できるかと!」
「えっ……良いの?」
「ええ。音羽くんのことです。ナナミさん達に、『会場作りを手伝いたい』と言うつもりだったのでしょう?」
「そ、そうだね……わかるんだ……」
自分の考えをあっさりと見抜いた恋に驚きながら、音羽は苦笑する。そんな彼を見て、恋は優しく微笑む。
「分かりますよ。いつも、一緒に居るのですから」
「……うん。そうだったね。ありがとう、恋ちゃん」
あの日から、音羽と恋はずっと一緒に居て、彼女は側で音羽を見続けている。一緒に『居た』ではなく、一緒に『居る』と言える今は、互いにとってこの上無い幸福なのである。音羽は笑顔で礼を言いつつ、恋を見据える。
「また一緒に曲を作れて良かった。恋ちゃんが隣に居てくれたから、安心して弾けた。恋ちゃんには、無理させちゃったかもしれないけど……ごめん」
「謝らないでください。私も、音羽くんの隣でピアノを弾けて、とても……嬉しかったです。音羽くんと一緒なら、私はどこまでも上を目指せます!」
「……! 敵わないなぁ、やっぱり」
恋の心底嬉しそうな表情、そして自分と一緒なら上を目指せるという言葉に、音羽は少し照れ臭そうに笑う。自分と一緒に居る事を望んでくれる人が目の前に居て、昔と変わらない笑顔を見せてくれる。それが、何より暖かくて、心地良い。恋の笑顔が、音羽の心に沁み渡っていく。自分の側に居る人達の為に、彼は今すべき事を強く認識する。そうした上で、音羽は恋に一言告げる。
「恋ちゃん。……行ってきます」
「……はい。行ってらっしゃい」
恋は音楽室を後にする音羽を軽く手を振って見送る。いつも、いつでも前を向いて、常に他人の為を想って行動する。そんな彼が、時に心配になることもある。無理をしていないか、抱え込んでいないか。すぐに聞きたくなる。けれど、それこそが音羽の本質で、他の誰にも無い、彼だけが持つ特別な優しさだからこそ、恋はそれを是としていて、音羽のことを側で支えたいと思う。眩しくて、それでいて儚く、愛おしく、誰よりも皆の力になれるように尽くしてくれる彼の為に、恋はラブライブ東京大会で勝利を掴みたいと、強く願うのであった。