#0 かくして、物語は動き始める。
『この度はグローバル・ジェットをご利用いただきまして、誠にありがとうございます。当機はまもなく日本に着陸いたします。ベルト着用サインが消えるまで、シートベルトはそのままお締めください。当機は……』
ヘッドホン越しからアナウンスが聞こえ、少女はゆっくりと目を開け、耳に着用していたヘッドホンを外す。彼女の半日間に渡る空の旅が、今ようやく終わりを迎えようとしていた。
程なくして飛行機が日本の空港に着陸し、周囲の乗客が荷物を纏めるのを目にし、少女は機内に持ち込んでいた手提げ鞄を荷物棚から取り出した後、数分の待機時間を要したが、彼女も飛行機から降り、無事に日本に到着する事が出来た。
日本。幼い頃に住んでいた時期があり、自身の家族からも日本の音楽や芸術が話題が出される事が多く、自身も一族の令嬢としてその文化も、言語も大いに学んでいたのだが、実際にこの地へ足を踏み入れるのは久方振りであった。薄紫色のウェーブがかった長髪に、黒いハットを深く被り直した彼女は、久方振りの来日に心を躍らせる様子も、ここに到着出来た事に対して特に大きなリアクションもせずに無言で空港内を歩いていた。
母国と日本の時差は約7時間。季節により異なりはするが、今の季節はサマータイムを採用して考える為に、7時間の時差があるという認識であった。時刻は午後3時前。ここに来るまでに半日もの時間を要し、長時間機内の椅子に座り続けた疲労が無い訳ではないが、この程度の事で音を上げるようでは、一族の名が廃る。恥を晒してしまう事にもなり得ると少女はそう思っており、その表情には一切の疲労感は感じられない。少女の風貌、その堂々とした立ち居振る舞いを目にした周りの人達が次々に視線を彼女に向け始める。モデルだと言われれば即座に信じてしまうような、優れたスタイルと容姿であった。自身に集まる視線に何も反応する事無く、少女は歩を進めて行く。荷物受取所でベルトコンベアから流れて来たキャリーバッグを回収し、それを引きながら彼女はまた空港内を歩き始めた。
少女は空港内にある珈琲屋に目線が行き、静かにそちらへ向かって行った。店員が彼女にメニューを見せながら何を注文するか伺うと、無言でメニューに記載されているエスプレッソを指差し、店員は『かしこまりました』と笑顔で彼女に伝える。スマホの電子マネーで会計を済ませ、数十秒の後にエスプレッソが淹れられたカップを店員から手渡された。それを受け取り、店員を一瞥した後に少女は再度歩き始める。同性ではあるものの、その店員は彼女の美しさに暫く見惚れていた。自分より明らかに年下であるのは分かるのだが、それでも、ただ彼女を美しいと思った。他の客がカウンターに立っている事に気付かない程に、店員は彼女に目を奪われていたのだった。
カップのエスプレッソを飲みながら、少女は空港の5階にある展望デッキへ足を運んだ。滑走路を見る事が出来て、発進前の機体も自由に撮影出来る上に誰でも無料で入場可能なこの場所は空港の人気スポットであり、彼女以外にも沢山の人が展望デッキを訪れていた。
暖かな春風に吹かれながら、少女は改めて日本に来た目的を整理する。毎年日本で開催されている大会に優勝し、もう1度チャンスを貰うこと。その為に、決して本意では無かったが、この地……日本へとやって来た。母国で歳を重ねてから知ったことではあるが、故郷よりも音楽のレベルが低いと感じる、この国へ。
日本へ行くにあたり、少女は現代の日本の音楽文化を調べた。流行りの曲やダンスはどのようなものがあるのかを頭に入れた。どれも、彼女にとっては酷くくだらないように思えた。プロでもないくせに、SNSで歌やダンスを投稿してインフルエンサーを気取っている若者、ただ綺麗なだけ、揃っているだけの何も心に響かないパフォーマンス。そんなもの、音楽ですらない。少女にとっては子供のお遊び同然であった。
しかし、今の日本にも母国と引けを取らないレベルの優れた存在が居ると家族から聞き、特に彼等が目を付けているという2人の少年少女のことを彼女は耳にした。何でも昨年開催された『ラブライブ!』という、スクールアイドルと呼ばれる者達が出場する大会で好成績を残したのだと言う。そのようなアマチュアな大会で好成績だと言われても何の凄みも実力も感じられないと彼女は思うのだが、少女はこの日本、東京都に住んでいるらしい2人の人物について詳しく話を聞いた上で来日していた。鞄の中に手を入れ、家族から貰ったある物を探す。すぐにそれを掴み、ここへ来る前に教えてもらったその名を、一言呟く。
「……シブヤ、カノン……」
写真を取り出し、そこに写っている少女を見つめて彼女は暫し思考する。まだ名と顔しか知らない、自分とほぼ同年代の少女が日々何を考えて生きているのか、彼女の歌声は本当に親族の者達が言うように、世界に名を轟かせられるポテンシャルを秘めているのか。真相は自身の目で確かめてみなくては何1つ分かりはしないが、それでも考えてしまう。果たしてこの2人は、『音楽』とは何たるかを理解しているのか否か。自分の音楽を以て、捩じ伏せてみたいという思いも少女にはあった。1枚目の写真を指で横に動かし、下に重なっていたもう1つの写真にも目を向ける。
「……アズマ、オトハ……」
親族の人間が少女の他に目を付けていた、黒いタキシードに身を包み、柔和な笑みを浮かべているこの少年。音楽業界で国内外問わず名を馳せている