祝福を継ぐもの【完結】   作:李座空

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第一章 病床

「精密検査の結果も前回同様良好、経過は順調です。こう言っては何だが、医者としても信じられませんよ。不治と言われた繋靭帯炎をここまで克服するとは」

「そうですわね。私自身も不思議に思っているほどで」

 主治医ともう何度も繰り返したやりとりをしながら、メジロマックイーンはいそいそと帰り支度を整える。診察室の机上に置かれた患者用資料や処方箋を鞄に仕舞い込むと、左手首に目線を落とす。アンティークの腕時計が指す時刻は午後二時二九分。彼女の予想時間通りに定例診察は終わった。次の予定まで約三〇分。もう少し主治医と雑談をしても時間は余ると思った彼女は、収納を終えた鞄を膝上に置き、にこやかに口を開く。

「一番の薬はやはり去年のあのレースでしょうね」

「ああ、あの有馬記念。あれは胸が熱くなりましたな、この歳にもなってテレビの前で大泣きしてしまいましたよ。本当に凄い光景だった」

「あの“奇跡”を間近に見られたから、いい刺激を貰えたのかもしれません。だからこの故障を克服する“奇跡”を私も、なんて言うと笑われるでしょうけれど」

 自嘲気味にマックイーンが言う。主治医は笑うことなく、静かに首を振る。現にもう一つの奇跡が徐々に実りつつあるのを彼はつぶさに見てきている。

 左脚部繋靱帯炎。昨年の天皇賞(秋)を目前に彼女は故障を発症した。それはウマ娘にとって不治といわれるものだった。走ることはおろか、悪化すれば日常生活さえままならなくなる故障。トウカイテイオーとまた一緒に走り、真の決着を着けたいと願っていた彼女を、どん底に叩き落とすものだった。もう走れない。完治出来る見込みもほとんどない。テイオーとの約束はもう守れない、奇跡でも起きない限り。絶望したマックイーンは全てを投げ出そうとした。ウマ娘としての使命も友との約束も、何もかも投げ出そうとした。

 だがテイオーは昨年の有馬記念を目前にしてこう云った。「奇跡が起きなきゃ無理だ。だから起こすよ、奇跡。ボクが証明して見せる。ボクとマックイーンはもう一度絶対走れるようになる」

 そしてテイオーは克った。あらゆる不利を跳ね返し、絶対不可とされた状況を覆し、有馬記念で奇跡の復活を遂げた。最もテイオーに近い場所にいて、最も親しかったマックイーンがそれを目の当たりにして如何な影響を受けたのか、とても論理的説明がつくものではないが、その日を境に彼女の脚が変わった。少しずつ、本当にゆっくりではあったが快方へと向かい始めたのだ。

 まだ完治したわけではなく予断は許されない。元のように走れるのも遥か先の話だろう。それでも次は私の番だ、私が奇跡を起こすのだといわんばかりにマックイーンの脚は確かに一歩ずつ進み続けている。

「とにかく、無理は絶対なさらないで下さい。ここまでくれば完治も夢ではありません。期待しておりますよ、お嬢様」

 暫し談笑したのち、次に待つ患者の気配を察したのか、主治医は膝を叩いて立ち上がると会話を締め括った。

 マックイーンも長居をしてしまったと思い、慌ただしく鞄を手に取ると一礼して診察室を立ち去る。期待している、という言葉に内なる手応えを噛み締めながら。

 診察室を出た後は受付で診察代の支払手続きを済ませ、エレベーターに乗り病院の五階まで移動した。いつもならば彼女の実家であるメジロ家お抱えの執事が送迎に現れるのだが、その姿は見えない。マックイーンにはまだ用事が残っていた。

 五階のサービスカウンターの前を交わし、フロア端にある別館への連絡通路を往く。午後の西日が照りつける廊下を真っすぐ抜けながら、鞄から一枚のメモ用紙を取り出した。白地の紙切れには『二号棟515』の文字。それを見ながら、マックイーンは連絡通路を抜けて入院患者用の病室の並ぶ病棟フロアに進入する。

 もう一つの用事とは入院見舞いだった。彼女が治療のため通院するトレセン学園最寄りの府中総合病院には、入院を要する故障を負ったウマ娘専用の入院病床がある。この日、自身の通院のため病院に訪れたその足で、ある人物のお見舞いをするつもりだった。

「ええと、ここですわね」

 程なく件の病室の前まで辿り着き、メモと病室番号を見比べ患者名プレートも確認すると、彼女は小さく咳払いしたのち戸をノックする。

「どうぞ」室内からあどけない少女のような声が聞こえたのを確認して引き戸をするすると開いた。

 病室は一人用個室となっていた。かつてマックイーンと同じ「スピカ」のメンバー、サイレンススズカが故障で入院していた時と同様のレイアウトの病室だ。

「こんにちは。マックイーンさん、来てくれたんだ」ベッドの上で顔馴染みであるウマ娘、ライスシャワーが上体を起こして出迎えた。

 室内にはもう一人。どうやら先客らしい。同じく顔馴染みのミホノブルボンがサイドチェアに腰掛けていた。

「お久しぶりですライスさん、それにブルボンさんも。偶然ですね、お見舞いの時間が被っていたとは」

「はい、少し前から来ていました」

 互いに挨拶を交わす三者。ブルボンは立ち上がると折り畳まれていたサイドチェアをもう一つ開いて、「どうぞこちらに」座るよう促す。ありがとう、と一礼しマックイーンも着席した。

 ベッドの傍らに視線を向けると、サイドテーブルの上にはフラワーギフトや菓子折り、単行本等が所狭しと並べられている。先んじて訪れたライスと縁のある者達からの見舞い品だろう。ブルボンや『スピカ』の面々が持参したと思しき品もその中にちらほら見られた。

「これ、つまらないものですが。お身体に良いと思います。どうぞ受け取って下さいな」

 座るなり、マックイーンも持参した紙袋を開き中身を手渡す。両手で丁度抱えられる大きさの直方体の箱。中身はフルーツギフトだった。見舞い品として予め準備していたもので、整った色味や形、装丁から決して安価な代物ではないことが覗える。

「わあ、ありがとう。リンゴに、メロン、パイナップルに……色とりどりできれい」

 目を輝かせたライスの口端が思わず垂れそうになる。果物類の色鮮やかな見た目への感激もさることながら、昼下がりの時間帯とあって少なからず空腹であったらしい。

 すぐそれを察したのか、ブルボンは笑みを浮かべながら「よろしければ切り分けます」と提案した。

「いいの、ブルボンさん?じゃあいま皆で食べようよ。いいかな、マックイーンさん」

「ふふ。勿論ですわ」

 三人はしばらく、マックイーンが持ち寄った高級フルーツを肴に、話に花を咲かせた。病室内にささやかな笑い声と甘酸っぱい果物の香りが満ちる。

 ライスシャワー、ミホノブルボン、メジロマックイーン。三人には奇妙な縁がある。ライスはかつて二人の大記録がかかったレースで勝利しその達成を阻んだ。ブルボンは無敗の三冠を賭けての菊花賞で、マックイーンは三連覇のかかった天皇賞(春)で、ライスの驚異的な差し脚により破られている。

 しかし二人はそれを憎んでなどいない。生粋のウマ娘がレースという戦場で魂の応酬をした上での結果だ。そこに恨みも辛みもなく、寧ろ上には上がいる、レースの真の醍醐味を教えてくれた『ヒーロー』であり『ライバル』として、以後二人はライスと親交を持ち、絆を深めた。ライスもまた両者を強く信頼し尊敬すべき大切な仲間として慕うようになった。

 

 

「それにしても、お元気そうで安心しました。春の天皇賞直前に右管骨の故障で入院と聞いて。治療の方も山場は越えたと聞きましたが、退院はいつ頃に?」

 暫し会話が続くうち、話題はライスの退院後のことに移っていた。マックイーンが問うとライスは少し目線を落としながら返事をする。

「う、うん。退院はもうすぐ、お医者さんが十月中には復帰も出来るだろうって」

「そうですか。復帰は早く叶いそう、ということですわね」

 ライスシャワーが故障したのはこの年の春のことだった。連覇が懸かった天皇賞(春)を目前に控えた追い込みのトレーニング中、右管骨を骨折。競走ウマ娘としての選手生命を危ぶまれる程の怪我で、一時は界隈を騒然とさせた。天皇賞の出走は当然取り消し、即入院が決まり、以後治療とリハビリに専念せざるを得なくなった。

 本当はもっと早く見舞いへ来るべきだと思っていたマックイーンだが、彼女自身も実家での長期療養や学園復学後の勉学の巻き返しに多忙を極めタイミングが合わず、ようやくこの日に実現したのだ。

「復帰と言えば、そうそう。先日の中京でのレース、見ましたわブルボンさん。最後方から直線での末脚、復帰戦で一着。素晴らしい走りでしたわ」

「いえ。デビュー戦の時のように、初心に返りがむしゃらに走っただけ。課題も多く見つかりました。元の走りにはまだまだです」

 復帰繋がりで今度はブルボンに話が振られる。彼女もライスと対決した菊花賞後、怪我に苦しみ長らく戦線を離れていたが、ごく最近開催されたオープン特別で満を持して復帰、見事に白星を挙げていた。

 トップクラスをひた走るウマ娘ほど、怪我と隣り合わせの宿命とよく言われる。この三人もまさにそうだろう。だがそれを乗り越えて再び走り、勝利と栄光を掴もうとするのも彼女らの本能。

 ブルボンは一足早く再起の道を歩み出した。マックイーンもそれを心から嬉しく思い、自分もそれに続かねばと心中で誓った。

「ライスさんも十月中に復帰出来るなら、その後はどうお考えです?復帰戦は年末あたりになるのですか」

 もう一度、ライスに話が振られる。マックイーンとしては、自身より先に復帰予定のライスの動向は気になるのだ。

「……。まだはっきりと決めてないけど、一応はそのつもりかな」

 どこか歯切れ悪くライスは答える。ここでおや、とマックイーンは感じた。先程退院の時期を訊ねた時も同様に感じた妙な違和感。その正体を認識するよりも早く「マックイーンさんはいつ頃になりそう?」少し慌てた様子でライスが問い返してくる。

「私は、復帰にはまだまだかかりますわ。レースはおろかトレーニングも主治医から止められていて。当面はリハビリ続きですわね」

「そう……なんだ」

 気まずいことを聞いてしまったと、ライスは俯いてマックイーンから目線を逸らした。八の字眉と伏せた瞼が彼女の憐憫さを一層際立たせる。

 (気にすることありませんのに)マックイーンは一つ息をつき、ベッド上のライスの手に、自身の手も添えながら口を開く。

「私も必ず復帰してみせます。もともとはテイオーと決着をつける為に開始した治療。ですが復帰した暁には、お二人とも一緒に走りたい。私とブルボンさんにとっては、ライスさんへのリターンマッチという形になりますわね。だからもう少しの辛抱、頑張って下さい。今でもあなたは私達にとって、ライバルでありヒーローなのですから」

 気落ちしたライスを気遣い、鼓舞する意図を込めてマックイーンは落ち着いた口調で諭した。言葉に一切澱みはない、名門メジロの第一人者として、一人のウマ娘としての、友を気遣う薫陶に他ならなかった。

「……そうだね。ライスも、頑張るから」

 しかし、それにもライスシャワーは躊躇いがちの横顔で、オウム返しに答えるのみであった。

 

 

「マックイーンさんも感じましたか」

 見舞いを終え、病室を後にしたエレベーターの中でブルボンは唐突に言った。いきなりだったのでマックイーンも「えっ」と間の抜けた返事をしてしまう。ブルボンは向き直り、マックイーンの顔をじっと見ながらもう一度口を開く。ライスといた時とは打って変わって神妙な面持ちだった。

「違和感です。ライスから感じる違和感を」

 主語が付け加えられ、それでマックイーンも理解した。十分に分かる気がした。病室での会話の途中、何度かライスから感じた態度の異変のことだ。

「ええ、何だか話の最中で急に元気がなくなるといいますか。まるで」

 まるで何かを怖れているような、触れてほしくない事があるような振舞いだったとマックイーンは思い返す。

 最初に病室に入った時、ライスは明るく振舞い迎えてくれた。フルーツを食べながら、談笑をしている時も笑顔を見せていた。それがある特定の話題を振った際、表情を曇らせ笑顔を引っ込めた。触れないで欲しい、といわんばかりに。

「そうですわ。退院や復帰後の話をすると決まってライスさん、一歩引いたような反応になっていました」

 流石のマックイーン、違和感の分析は早かった。故障が完治してからの話になるとライスは決まってばつが悪そうに目線を逸らした。本来ならば明るい話題の筈が、何故かライス自身がそう感じていないようだった。

 推察を聞いたブルボンは得心して大きく頷く、更に話を進める為の前提を確認していたようだ。少し間を置いたのち、再度おもむろに口を開く。

「実は今日、ここでマックイーンさんと会ったのは偶然ではないのです。本日午後三時、あなたが見舞いに来ることは予めライスから聞いて把握していました。あなたにはこの事を話しておきたくて」

「どういう、ことですの?」

 エレベーターが地上階に着く。重くなっていく空気を吐くように乗降口が開き、夕日が差すロビーを歩きながら二人は話を続ける。

「ライスは今、スランプに陥っているようなのです。昨年の天皇賞であなたを破った後も、あの子は走り続けると決めた。ヒールと言われようと、皆から受け入れられずとも。歓喜と祝福をいつか得られると信じて走り続けると。しかし」

「結果は未だ実らず、ということですか」

 スランプ。ブルボンはそう言う。実際それを裏付けるように、ライスの直近レースの成績は芳しくなかった。昨年のオールカマーで“逃亡者”ツインターボの大逃げに屈したのを皮切りに、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念と惨敗。年が明けてからも京都記念五着、日経賞二着とGⅡレースでも勝ち切れず、一着での勝利はマックイーンを破った天皇賞以来一度もないという有様だった。

 この一連の成績不振に対し、「こんなことならブルボンとマックイーンに勝たせてやればよかった」、「大記録を壊しておきながら不甲斐無い」、「空気を読まない、期待外れ」等、世間では冷ややかな声が多く挙がった。そこへさらに故障入院というダメ押しが入り、直近のライスシャワーは終わったウマ娘とさえ揶揄されているのが実情だった。

「私達を破った時期がピークであったとか、過酷なトレーニングの反動が来たとか、世間では憶測が飛び交っています。ですが私はそうは思わない。今は入院こそしていますが、日経賞までのライスはあの春と殆ど変わらない出来でした、それは間違い無いのです」

 それでもブルボンはそう力説する。自分よりも早くからライスと親交を結び、より長く彼女の走りを見てきたのだから、そうなのだろうとマックイーンも思う。

「そうなると、考え得る原因は」

 では何が。体が出来上がり、トレーニングにも問題が無いならば何が足りないというのか。マックイーンの問いにブルボンは足を止める。

 いつの間にか病院外にまで出て、トレセン学園へ続く憂愁の並木道の只中で、本題に切り出すブルボンの表情は心苦しかった。

「……恐らく“精神的なもの”。ライスは非常に繊細で傷つきやすい子です。ヒールとしての立ち位置を自覚したとしても、それを乗り越えてみせると決めたのだとしても。まだあの子の心の中には、迷いや不安が、走る事への怖れが、くすぶっているのかも知れません」

「それが違和感の正体、ですか」

 ブルボンを破った菊花賞と、マックイーンを破った天皇賞。ライスに対し世間は如何な反応を見せたかを二人は思い出す。

 共に大記録が懸かった大レース、押し寄せた大観衆の前で大本命を打ち破ったライスを待っていたのは歓喜でも祝福でも無かった。偉業達成の期待を水泡に帰され、興醒めした観衆達からの心無い罵詈雑言と野次の嵐。仮にも勝利をもぎ取ったにも関わらず、彼女に『ヒール』という印象を決定付けた、皮肉な過去。

 この時の辛い経験が、ライスの心の奥底に今もなお消えないコンプレックスとなって巣食っていて、その憂慮が長く続く不振によって蒸し返して故障入院により一気に膨れ上がってきたのではないか。ゆえに復帰後の展望についても消極的になってしまっているのではないか。ブルボンはそれを案じていたのだ。

「……もう一つ気になる事も聞きました。さっきマックイーンさんが来る前にライスが話していたのですが、ここ最近ずっと同じ夢を繰り返し見ると言っていました。それがとても“怖い夢”、とも」

 ブルボンはさらに懸念を付け足す。

「怖い、夢?」曖昧で腑に落ちない内容に、マックイーンは怪訝そうに首を傾げる。「どのような、夢なのでしょう?」

「聞きました、が。とても思い返すのが辛そうで聞くのはやめました。どんな意味があるのかは分かりませんが……」

 そこまで話し終えてブルボンの口は噤まれた。心がかりな面持ちの彼女を見、マックイーンは思ったよりも事態が深刻なのだと認識する。

 ブルボンの苦悩も、ライスの苦悩も痛いほど分かるものだった。今まさにもがき、苦しんでいる友を放っておけない、どうにかしてあげたいというブルボンの痛切な希求。不振と怪我にあえぎ、心に影を落とし、先行きを見通せず不安に駆られるライス。

 マックイーンも両者と似たような経験を味わってきた。『スピカ』でテイオーと切磋琢磨しあってきた中で、互いに苦しみ、涙を流しつつも、手を差し伸べ合い困難を乗り越えてきた。

 ならば今この状況で自身が為すべき事は決まっている。マックイーンは迷いなく決心すると、ブルボンに歩み寄ってその手を取る。

「話は分かりました。どうやら一つ大事な用が増えそうですわね」

「マックイーンさん……」

「ライスシャワーさんを支えてあげられるのは、私達二人だけなのかも知れません。あの走りを最も間近で見た、本当の勝負をご教示戴いた私達だからこそ。ささやかながら協力致しましょう、今の彼女を見過ごせはしません」

 テイオーと同様、ライスもライバルの一人。ライバルと書いて、友ともいうのだ。そう思いマックイーンはブルボンに心の内を晒し協力を申し出た。普段は表情変化に乏しいブルボンも微笑み胸をつまらせ「ありがとう、マックイーンさん」と答えるのだった。

 

 その夜、トレセン学園に帰った二人は食堂で夕食を交えながら、寮の門限一杯まで以後の作戦を練っていたという。二人でライスの復帰を支援しようというささやかな計画がこの日スタートしたのだった。

 だがマックイーンもブルボンも未だ知る由も無い。この先、ライスを待ち受ける運命が想像を絶するものだということを。

 

 

***

 

 

『夢の中で、ライスは走っているの。どこか分からない、真っ暗なレース場を。そこで“何か”がずっとライスを追い掛けてくる。足音はどんどん大きくなってだんだん近づいてくる。それと色んな声が聞こえてくるんだ。何を言ってるのかは分からない。分からないのに、何故かそれを聞くと怖くて、涙が出てきて。もう思い出せない、思い出せないよ』

 

 何も言えなかった。

 ブルボンさんにも、マックイーンさんにも、

 その夢のせいで走るのを怖れているなんて。

 本当はレース復帰を怖れているなんて。

 口にすると、それが本当になってしまうようで。

 

 あの夢を見るようになったのは年が明けた頃からだった。それは夜毎、眠りに落ちた私の脳内で幾度も繰り返され、功を焦る心の憔悴に拍車をかけた。

 夢の内容はいつも決まったものだった。闇の中を、私は息急き必死に駆けている。それは真っ暗なターフの只中。走っているのは自分だけで他にウマ娘の姿は見えない。だけど気配を感じる。何か、何かが、後ろから自分を追いかけてくる。地面を蹴る音は異様に大きく、幾重にも折り重なった、まるで人ならぬ怪物のような重々しい足音。それから逃れるように、私は不安に駆られ必死に走る。

 やがてどこからともなく声が聞こえだす。

『ぽっと出の脇役に、偉業を阻止されるなんて』

『この悪役が、どの面下げて出走する気だ』

『無敗の三冠が見たかったんだ』

『天皇賞三連覇が、消えちまったよ』

『出てこなければよかったんだ』

 かつて聞いたことのある、呪詛の声。ヒールとして投げられる声。声の主の姿などない、まるで地獄の底から響いてくるような心を締め上げる怨嗟の数々。

 聞きたくない、聞きたくない――。

 そう思い耳を塞ぐ。しかしそれでも聞こえるものがある。怪物の足音。さっきよりもずっと大きく、間近に迫ってきている。それに伴い体を苛む重圧が、緊張が増す。怖れるあまりスパートをかけた。かえって足はもつれ、思うように前に進めない。

『この馬……領はこ…から。次…菊……で、徹………マークし…』

『倒せ、メジ…を!お前なら……三連覇…ど、砕…て…やれ!』

『誰が…と言……と、……はヒ…ローだ、…の厩舎にと…てお前は……ロー……だ!』

 声が変わる。それまでと違い怨嗟の声ではないが、言葉の内容は砂嵐が被ったように途切れ途切れで殆ど聞き取れない。

 しかし何故だろう。自分も覚えていない遥か遠くで、記憶の奥底に眠っていたような、何処かで聞いたその言葉の欠片たちは私の心を一層粟立たせた。

 知らない、知らない――分からないよ。

 不気味な既視感。押し迫った不安が恐怖に変わっていくのが自分でも分かる。

 やがて暗闇のコースは右に湾曲していく。不思議とそこが『第三コーナー』だといつも分かった。何故かそうであると身体が断じるのだ。このまま第四コーナーも曲がりきればホームストレッチ、その先に待っているのはゴール。

 そこまで走り切ればこの悪夢は終わる、辛くて怖い思いをするのもおしまいだ。そんな根拠のない自信を自分に言い聞かせようとしたその時。

 そう、いつも決まってこの第三コーナーの下り坂へ入った時に、怪物の足音が並ぶ。すぐ真横の大外を抜いていく。私は驚愕に目を見開きいつも見るのだ。自分の体の五倍以上はあろう、漆黒を纏う巨大な“それ”が、私を流し目に抜き去ろうとするのを。

 その瞬間、私は金縛りに掛かったかのように動けなくなる。手が、足が、時間が、すべてがそこで静止する。

『この小…な馬体…は、種……として、価値は知…て』

『無茶だ、コ…ツの疲労…考…てや…てくれ!』

『引退す…ま…に、まだ実績が必…な…だ』

『出…しかあるま…、宝塚…念に……!』

 動きを止められた身に、最後に聞こえてくる声。さっきの声と同じでノイズがかった曖昧な声。だが明らかに違うのは、その声が悲愴さと苦渋に満ち満ちた声だということ。

 そして何故だろう。この声を聴くたびに私はいつも大粒の涙を流すのだ。理由も分からない、そもそも話している内容さえも分からないのに、独りでに涙がとめどなく湧き出でてくる。

 私が見るこの夢は決まっていつもここで唐突に途切れる。うなされて飛び起き、腫らした目を擦りながらいつも思う。幾重にも折り重なり響いてくるあの声は一体何なのか、夢の中のターフで追い掛けてくる怪物は一体何なのか。

 そして何故いつも決まって、第三コーナーで夢が終わるのだろうか。

 

 私の望みしもの、それは歓喜と祝福。自らの走りを見てくれる皆に幸せを運ぶこと。でももしも、それは叶わぬ運命だと初めから決まっていたとしたら。走り続ける果てに辿るべき末路がもう決まっていたとしたら。

 これは私――ライスシャワーの運命を辿る物語である。




史話(一)
 
 史実における競走馬ライスシャワーはメジロマックイーンを破った天皇賞後、放牧に出され一九九三年九月初頭に帰厩。秋緒戦のオールカマーでは一番人気に支持されたが、道中で大逃げしたツインターボを捉えられず三着となる。春秋連覇を目指した天皇賞(秋)では再度一番人気となったが六着と敗れ、ジャパンカップは一四着、有馬記念ではトウカイテイオー復活を前にして八着と大敗が続いた。
 飯塚調教師は当時の状態について「見た目は普通、というか、春とほとんど変わらないデキなんだが……。どこか足りないというか、本当じゃない。調教も走るし、内臓だってまるで悪いところはない。そうなると、精神的な原因ということを考えたが、それがなにかわからない。そういう状態が、このシーズンずっと続いた」と述べている。
 翌一九九四年初戦は関西の競馬場が合っているのではないかという同氏の考えにより、西下して阪神競馬場で行われた京都記念に臨んだ。結果は前年の菊花賞馬ビワハヤヒデの五着となったが、主戦騎手の的場氏によると「直線の動きは一瞬あれっ、というところがあり、もうひと追いすれば伸びる予感があった。長いスランプだったけど、ここらあたりがトンネルの出口かとも思った」という。関東に戻っての日経賞では最後の直線で先頭に立ち、差し込んできたステージチャンプにハナ差の二着と復活の兆しを見せた。
 この後は連覇が懸かる天皇賞(春)を目標に、関西馬の調教拠点である栗東トレーニングセンターに入り調教が積まれたが、天皇賞の前週である四月一六日の調教中、三歳時に骨折した右前管骨に再び故障を発生する。三歳時とは異なり競走生命を危ぶまれる重傷で、この時点で引退が検討され種牡馬となる道が模索された。しかし長距離競走以外の実績に乏しかった点や、小柄な馬体が敬遠され受け入れ先が見つからず、現役続行が決定する。その後はユートピア牧場に移動して療養。復帰は翌春になると見込まれていたが、予想より回復が早く十月末に帰厩を果たした。
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