祝福を継ぐもの【完結】   作:李座空

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第二章 呪縛

 あんな夢を見るようになったのは、

 他人を羨むから、嫉妬するから、妬んだりするから、

 ライスが悪い子になってしまったからだ。

 だからきっと神様が怒っているのかもしれない。

 『ヒール』に相応しい、と。

 

 去年の暮れの第三十八回有馬記念。そのターフには私もいた。

 レース終盤、最終コーナーを回っての立ち上がり。順位は七、八番手だろうか。既にスパートに入っていたビワハヤヒデさんの姿は遥か前方に見えた。大逃げを見せていたパーマーさんは抜き去られ、ラストスパートをかけた他のウマ娘達もその背に追い縋れるだけの脚を残してはいなかった。菊花賞よりの前評判通り、圧倒的という他無かった。もう誰も追いつけない、勿論、私も。勝者は決まったと走りながらに思った。

 でもただ一人、食らいつくようにその背を目掛けて猛追していく者がいた。私も見知っていたウマ娘。かつてブルボンさんやマックイーンさん達と共に、悩んでいた自分を説得し背中を押してくれたウマ娘のひとり。

 トウカイテイオーさんだった。

 必勝パターンに乗りもはや誰も止められないと思われたビワハヤヒデさんをテイオーさんは捉えた。体の限界はとうに超えていた筈なのに。まるでそれを気力と執念、否、それらでさえ説明も付かない――途方もない不可思議な力で補うように、末脚を開放したテイオーさんはそのままゴールへ滑り込んだ。

 二分の一バ身差。不落と思われたビワハヤヒデさんの前に、テイオーさんがいた。

 結果的に私はこのレースを八着で終えた。だけどその時は自分の順位はどうでも良かった。目の前で起きた、同じターフで確かに見た奇跡。その圧倒的な出来事を目の当たりにし、胸が一杯になるようだった。

 観客席から湧き上がるのは割れんばかりの声援。大健闘を、大復活を讃える数々の声。『スピカ』のメンバーや『カノープス』、『リギル』の皆も涙を流してテイオーさんを褒め称えていた。絶えることなく続く歓喜と祝福のコールは、とても大きな渦となって会場全体を一つにしていくようだった。

『……おめでとうございます』

 ネイチャさん達に揉みくちゃにされ、ターフに倒れるテイオーさんへ私はそう言った。言わずにはいられなかった。幾度の故障を乗り越えて、幾多の思いを背負って一年ぶりに勝ち取った勝利を祝福せずにはいられなかった。心の底からそう言ってあげたいと思ったからだ。

 だけどその時、私の心の奥底にはもう一つ別の思いがあった。純粋に称賛し労ってあげたいという思いとは裏腹に、心底で微かに、確かに沸き立つ黒々とした思い。

『――私も欲しい。この絶えることの無い歓喜と祝福を。同じように浴びたい――』

 菊花賞と天皇賞(春)。かつて二度GIの重賞レースで勝利した時、私は歓喜と祝福を受けることはなかった。代わりに待っていたのは落胆と呪詛の声だった。勝利を得たにも関わらず私に回ってきたのはヒールとしての役回りだった。

 それが単に間が悪かった結果というのはもう分かっている。ヒールの扱いを受けることにもすっかり慣れてはいた。しかしそれでも、否、だからこそ。あの感動の渦が揺り動かされた凄まじい光景を間近で目の当たりにして、私ははっきり、明確に羨んだ。恨めしい、と思った。

 なぜ自分は報われないのか。なぜ後ろ指を指されなくてはならないのか。皆は勝てば喜ばれるのになぜ自分は誹りを受けなければならないのか。どうして、自分だけがこんな思いをしないといけないのか――。

 決して人には語れない感情だった。黒々とした心底の思いはその日を境に日に日に大きく、強くなっていく。気が付けば自らの身をも焦がすように肥大していくこの気持ちは紛れもない、嫉妬。それは知らぬうちに心と体を蝕み、いつしか私に深い影を落としていく。

 どうすればいい。勝利を得るには、歓喜と祝福を得るためにはどうすればいい――?

 そう苦悩し迷いを抱き始めていた矢先のことだった。今年の春の天皇賞前週のトレーニング中に私は骨折した。放課後の誰も居ない練習コースでの出来事だった。

 偶々様子を見に来てくれたブルボンさんの通報がなければどうなっていたか分からなかった。次に気がついた時に私が居たのは病院のベッド。右脚にはギプスが嵌められ動かすことすらままならない。右管骨の骨折。先生からは半年以上かかるとも、悪化すれば競走引退も有り得ると宣告された。目の前が真っ暗になるようだった。

 入院した病室で出来る事は殆ど何もなかった。学園の教科書を読み受けられない授業を独学するか、スマホを触るか、備え付けのテレビを見るかの三択。

 入院当初はテレビを見るのは避けていた。『ライスシャワー骨折』『引退の可能性も』『不振の只中でのダメ押し』画面の向こうで好き勝手な文言を並べ立て、世論を煽られるのがとても嫌だった。何もする意欲が無くなっていき、無気力になっていくのが自覚できて、自己嫌悪が進んだ時期だった。

 幾度かに分け大きな手術を受けた。幸いにも上手くいったらしく、先生は秋には復帰できると太鼓判を押してくれた。症状が山場を越えたこの頃から学園の皆が徐々に見舞いに来てくれるようになった。クラスの皆や同じレースで走ったことのある人、『スピカ』のマックイーンさん。そしてブルボンさんも。ブルボンさんに至っては入院当初から何度もお見舞いに来てくれた。まるで身の回りの世話をするように何度も会いに来てくれた。

 皆が一様に声をかけてくれた。復帰したらまた走ろう、期待している、トレーニング頑張って、と。それは嬉しかった。だけど心の奥底では不安の方が勝っていた。入院するまで不振に苦しんでいた私が復帰したところで果たして何ができるのだろう。調子は戻らず走りも衰え、私が望む歓喜も祝福も得られない、苦しいだけのレースがまた続くだけなのではないかと。この葛藤は入院中ずっと抱えていたものだった。夜な夜な見る頻度が増えたあの夢のことも相俟って、私は完治後の自身の進退に関しても消極的になっていた。

 もう走るべきではないのではないか。復帰したところで戦績が振るわず、再び周りから揶揄され、期待を裏切ってしまうのを繰り返すだけならもう、自分はこのまま――。治っていく脚とは裏腹に私は怖かった。また走ることに怖れを抱くようになっていた。

 そんな状態のまま、退院の日は来た。先生はおめでとう、活躍を楽しみにしていると声を掛けてくれたが心は晴れない。今後の見通しも立たないまま、浮かない気持ちで私は病院を去った。

 しかしトレセン学園に戻った私に思いも寄らぬ出来事が待っていた。

「ライス、退院おめでとう。早速ですが今後のリハビリとトレーニングについて話し合う為に」

「快気祝いも兼ねて、スイーツ食べ放題に参りますわよ!」

 復学した私にいの一番に会いに来たのは、ブルボンさんとマックイーンさんだった。二人は私が退院するまでの間、ずっと復帰後の事を考えてくれていたらしい。その上で私を連れ出し、強く説いてくれた。

「……という訳で、当面の目標は暮れの有馬記念。それまでにライスに元の走りを取り戻させる。以上がマックイーンさん達と練った復帰プランです。あ、マスター。メロンパフェを追加で」

「時間もさほどありませんが、ライスさんならばこなせますわ、必ず走りを取り戻せます。その為に私達も全力でサポート致します。あ、店員さん、私はチョコワッフルを!」

 驚くべきことに二人は私のトレーニングプランまでも考えていた。それも取って付けたようなものではない、入念に練られたものだった。

 当初は二人の勢いに流されるがまま、走りが戻るかどうかも半信半疑のままに、リハビリとトレーニングをこなしていった。最初のうちはとても辛かった。長い空白期間で落ちた体力や走りの勘を取り戻すのに時間を要し、否が応にも出戻り感を味わった。今の自分は病院のベッドで予想した以上に無力であることを痛感させられた。

 だけど心には徐々に変化が起きていった。ブルボンさんとマックイーンさん、学園の皆とまた触れ合ううちに、下向きだった心を、少しずつ上へ上へと持ち上げられるのを感じた。これは入院中には無かったものだ。他人との触れ合いがもたらす精神的滋養とでも言うべきか。独りでいると消極的方向に向きがちになる気持ちを、持ち直させてくれるようでとても有り難かった。

 ブルボンさんは以前と変わらず毎日のようにトレーニングに付きっきりで見てくれるようになった。本当は自分のレース日程やトレーニングもあって大変であるにも関わらず。

 マックイーンさんも自身のリハビリや、『スピカ』や実家の手伝いに多忙ながら、何度も顔を出して見守ってくれた。「私が復帰する時の、大いなるお手本を示して下さい」としきりに口にするのが印象的だった。

「ライス、また走ってもいいのかな。このまま走り続けても結果が出なかったら意味なんて……ないよ」

 ある時私が二人にこう漏らしたことがある。トレーニングで自分を苛め抜いて疲弊しきったときに、思わず零した弱音だった。手伝ってくれている二人を無碍にするような発言だったとすぐに気付き、はっと口を噤んだ。

 しかし二人は穏やかな顔で、こう諭してくれたのを覚えている。

「ライスが走ってくれないと、私達が困るのです。あなたは私達のヒーローであり、私達にとっての目標。たとえ世界中があなたをヒールと呼んでもこれだけは覆らない」

「ブルボンさんのように粋な言葉は言えませんけれど。放っておけませんのよ、諦めそうになっている方の背を。かつての誰かを、見ているようで」

 辛いと思っていた復帰後のトレーニングを、気が付くと私は楽しみながらこなせるようになっていった。そうなれたのは間違いなくこの二人のお陰だ。一緒に走る喜び、支え合える信頼、許し合える心。不振にあえぎ、入院中に薄れてしまったウマ娘としての本懐を二人は取り戻させてくれた気がする。

 いつしかまた走りたいという希求は、勝利を得たいという意欲へと発展していた。それだけ競走へのモチベーションを復調させることに成功していた。日々のトレーニングに夢中になっていって、告げられる時間も暇もなかったけれど。この時私は確かに幸せだった、心から二人に感謝した。

 だからこそこの恩に報いなくては。勝ちたい、勝たなくては。火のついた思いは、日に日に大きく、膨れ上がる。レースで勝利せよと自身を衝き動かすようになっていく。

「ライス、頑張るよ。次の有馬記念で必ず……」

 私は決意した。復帰戦となる有馬記念、そこで必ず勝利を掴むと。ブルボンさんとマックイーンさんに恩を返すため。そして『歓喜と祝福』を得る為に。

 残されたレースまでの期間を全力でトレーニングに励んだ。ささやかながら心身も充足できていたこの頃、私だって頑張れるという前向きな気持ちも芽生えつつあった。そしてこれまた不思議だったのが、そんな心の有り様に反比例したかのように、あの悪夢を見る機会は徐々に減っていった。

 瞬く間に時間は流れてその日は訪れた。第三十九回有馬記念。しかしそこで私は冷厳たる現実に直面する。

 

 

***

 

 

『さあ今年の最後を飾る大一番、有馬記念。第三十九回グランプリ、芝・二五〇〇メートル。選び抜かれました十三人によって争われます』

 十二月末。テイオーさんの復活劇から一年振りの中山レース場に赤坂さんの実況が響く。

 私は再びターフに立つ、六枠十番・ライスシャワーとして。

 会場は昨年と同様、十万を超える観衆の熱気に包まれていた。レース前からターフには並々ならぬ殺気が満ち否応なしに緊迫を誘う。

 それもその筈、このレースには同年クラシック三冠を達成したウマ娘、ナリタブライアンさんが出走していた。パドックやゲート前で放つ武骨で破天荒なその威圧感は、他のウマ娘が早くも掛かり気味になってしまう空気を醸していた。勿論一番人気はブライアンさんで、世論は彼女がどのくらいの強さで勝つかに焦点が当てられていた。

 それに負けじと、私も静かに闘志を蓄えスタートを待つ。会場をどよめかせるスタンドの大観衆に紛れ、ブルボンさんやマックイーンさんも見てくれている。絶対に下手を打つわけにはいかない。負けられない、負けるわけにはいかない。

 ゲートインが始まる。勝負の時がやって来た。退院から数か月、この日を目指し調整してきた。二人の支えを受けながら苦しいトレーニングを続けてきた。走りも少しは自信を持ち直せるほどに復調したつもりだ。

 見ていて。ライスは必ず。

 ついに有馬のゲートは開かれた。およそ九か月ぶりになる復帰戦のゲートが。

『十三人ゲートに収まり、スタートしました。ナリタブライアンが好スタートを見せた、そして予想通り内からツインターボ、ぐんぐんとツインターボが行って二バ身から三バ身とリードを取る』

 レースは予想通りの展開で始まった。ターボさんがいつも通りの大逃げ。本命のブライアンさんは無理に追わず二番手集団に収まる。腰を据えて大胆不敵に時機を待つレース運びだ。

『単独行のツインターボをよそに、ナリタブライアンは二番手集団の直後につけている。これをぴったりマークするのは内のライスシャワー』

 私はそのブライアンさんをマークして走る。これはかねてより今回のレースへ向け考えていた作戦だった。最後の直線でトップに出るであろう最有力者にスタミナを駆使してついていき、ゴール直前に差し切る。私の最も得意とする定石だ。

『一周目のスタンド前出てきました、ナリタブライアンの周辺はごった返している。ツインターボの逃げ、リードが開いて五〇メートル、リードが開いています』

 それも私一人で企図した安易な策ではない。ブルボンさんとマックイーンさん、二人の実力者からのアドバイスやシミュレーションも重ねて洗練してきた作戦だ。これは私だけのレースじゃない。二人の期待も背負っている。私の為にここまで手を施してくれた二人の為にも絶対に負けられない。

『第一コーナー回っていって、既にツインターボはリードを七〇メートルぐらい開いた。大きくリードを取って、二コーナーへ向かう。大きく差があって、二番手集団が続く、この辺り有力馬が固まっているぞ』

 ターボさんの逃げもやはり凄い。ただでさえブライアンさんに注意を割くため心理的消耗を強いられているのに、そこへ更に大逃げで先頭距離を大きく開いて二重のプレッシャーがかる。並の者ならば瞬く間に掛かってしまうレース展開が出来上がっている。

 しかし今の、このレースでの本命はやはりブライアンさんだ。ここまで三冠を獲り、今なお暴力的な勢いを有する最有力。最後に前に出るのは紛れも無くこの人だろう。そこを差す。必ず差して勝利を得てみせる。だからそこまでは慌てず、騒がず、静かに、影を踏むようにマークに徹する。

『三コーナー入って、あと八〇〇メートルしかありませんがこの差はどうなのか。セーフティリードか、ツインターボの逃げ、軽快に飛ばして十バ身くらいのリードがある』

 大勢が変わらぬまま中盤を過ぎ、レースは早くも終盤へ差し掛かる。依然逃げ続けるターボさんは第三コーナーを曲がりだした。が、遥か彼方に見えるそのコーナリング体勢に揺らぎが見えた。やはりスタミナが尽きかけている。所謂『逆噴射』だ。

 この時を待っていたといわんばかりにブライアンさんの目つきが変わった。標的と定めた対象を射抜く眼光。ターボさんの劣勢を見抜いての一瞬の判断。直後、バ場を発破したかのような激烈な蹴り出しを以て、ブライアンさんは押し上げを開始した。持ち味の豪脚を開放し一気に先頭を奪い去るつもりだ。これに触発されたかのように後続集団もこぞって進出を始めた。いよいよ決着へ向けレースが一気に動き出した。

『ここで差が徐々に詰まってきた。三コーナー、二番手ナリタブライアン、外からグイグイ上がってきた!外からヒシアマゾンも行った、ライスシャワーもこれに続くか――』

 そうここだ。ここが勝負の仕掛けどころ。

 四コーナー後のホームストレッチ、中山の直線は短く、差しにかかるならば従来よりも早い仕掛けが必要。事前に数十通りに及ぶレース展開シミュレーションにより、このパターンも既に自分の中で構築済みだった。幸い、好位置は確保できて、スタミナも十分残してある。気力も十分。ここからスパートを掛け、コーナー後の立ち上がりでブライアンさんの横を取れば、直線での差しに持ち込める。

 仕掛けるなら今。第三コーナーからスパートを掛ける。いける、抜ける、差せる。

 ――見ていて、ブルボンさんもマックイーンさんも。ライス、ここで絶対に差して勝つ。

 今まで舐めた苦渋を、トレーニングの成果を、支えてくれた二人の思いを。

 待ち焦がれた『歓喜と祝福』を今こそ!

 そう思い、私も思い切り脚を蹴り出した。ゴールまでのラストスパートをかけようとした。

 ところがその瞬間。

 数百分の一にも満たないであろうほんの一瞬。踏み込もうとした『左脚』に、高圧電流でも奔ったかの如く、沸騰し燃え上がるかのようなおぞましい感覚がよぎる。

『…が上……った。…っと一頭落…!一…落馬!…は何が落…したんで………か!?ラ……シャワー落…!ライ……ャワー……であり……』

『あぁ…残!十六番の…イ……ャワー、左脚…折……!第三……ナーの下…で大ア…シデ…ト……!』

 あのうなされた夢。そのなかで断片的に聞かされた、得体のしれない声。それと似通った、これもまたいつかどこかで聞いたような、心を粟立て掻き乱す幻聴が聞こえた。

 私はその瞬間、レース中にも関わらず全身が総毛立ち身震いしていた。

 ――なに、今のはなに?

 雷撃を受けたかのような衝撃から我に返ったのは一瞬だった。咄嗟に周りを見渡すが、何かと接触したり外傷を受けたような痕跡はない。さっきまでと何ら変わらずレースが続いている。自身の身体にも何ら変化はなく、左脚に生じた異様な違和感はまるで無かったかのように消え失せている。

 一瞬。ほんの一瞬の出来事だった。

 しかしそれは私のこのレースを狂わせるには十分過ぎた。気を散らされスパートが遅れた私は、瞬く間に上がってきた第二集団のバ群に埋もれた。ここまでぴたり追従してきたブライアンさんは既に一バ身、いや二バ身先へと離れていた。

『ライスシャワー置いて行かれている!かつての切れ味鋭い差し脚はどうしたのか、先頭争いから、完全に置いて行かれた』

 そんな、嘘だ。待って。あれだけ練習をしたのに。絶対に差すと決めていたのに。慌ててスパートを切る。しかし既に前方は他のウマ娘達がひしめいていて、好位置を取られていた。バ群に呑まれた私は身動きを奪われたも同然だった。

『四コーナーのカーブに入ってツインターボの先頭はここで終わり!そして先頭はナリタブライアンだ、ナリタブライアンが先頭で、ヒシアマゾンが追ってくる。そしてナイスネイチャ突っ込んできた、現在三番手』

 二番手集団がターボさんを次々に躱し、最後のホームストレッチに躍り出る。先頭を華麗にもぎ取りいの一番に進出していくのはやはりブライアンさん。最後の直線に入って脚の伸びがより増した。追従するウマ娘を引き剥がすように、豪快な末脚を発揮し遠ざかっていく。

 こんな筈じゃなかった……。全てが狂った。あの一瞬に見た悪夢のような幻、そのせいで狂ってしまった。最後のカーブを終えてようやくバ群から解放された私は必死に後を追う。順位は五、六。まだ先頭は見える。スタンドを横目に中山の直線最後のスパート。私だけでなく皆も必死に押し上がる。先頭を取り返そうとなりふり構わぬ形相で疾駆する。

 あんなに練習したんだ、ブルボンさんとマックイーンさんと。二人の期待を背負ってここまで来た。なのにこれでは、これでは。負けたくない、負けられない。勝ちたい、勝ちたいのに。でないと、私は――。

 あと二〇〇メートル。一人抜かした、四番手。しかしブライアンさんの背はますます遠ざかっていく。

『三番手ライスシャワー上がってきた、しかし!ナリタブライアン強い、強い!』

 あと一〇〇メートル。三番手にまで上がった。もう心臓も脚も悲鳴を上げている。それくらい決死の思いでひた走る。だけどより遠くに、遠くへと、一着は遠ざかっていく。

 ゴール板間近、スタンド最前席で声を張り上げ叫ぶ二人が視界の端に映った。ブルボンさん、マックイーンさん。ライスが勝つのを見届けようとそこで待っていてくれたのに。

「諦めるな、ライスッ!」

「まだですわ!まだ!」

 何か応援の言葉を言ってくれているのは分かった。しかし私の目には、二人が敗北を目の当たりにし悲痛に叫んでいるように見えた。

『差は詰まらない、差は詰まらない!先頭はナリタブライアン、ゴールイン!鮮やかに、ナリタブライアン、四コ-ナー先頭でまさに横綱相撲――』

 決着。順位は覆らなかった。当初の目論見は完全に外れ、差すことは出来なかった。ゴール板を過ぎてすぐに私はその場に崩れ落ちた。三二〇〇のような長距離を走ったわけでもないのに、体じゅうから力が抜けるようだった。肩で息をつきながら、視界に入った掲示板に言葉が何も出ない。私は三着だった。勝つことは出来なかった。

 遥か彼方のバックストレッチを悠々とウイニングランするブライアンさん。勝敗の決したいま、十万を越える歓喜の声は全て彼女に向けられていた。勝者を讃え祝福するエールを一心に集める堂々たる姿に、私の胸の奥底で黒い感情が去来した。テイオーさんの復活の時と同じだった。

 何てはしたない、醜い真似を。首を振って私は妬心を掻き消そうとする。これがレースだ、勝負なんだ。悪いのは、負けた私だ――。

 涙が溢れてきた。悔しさと、自己嫌悪と、申し訳なさと、自分でもまとまりのつかない様々な感情で混沌とした涙。私はその場から起き上がれなくなる。

「ライス、お疲れ様。惜しかったですがいい走りでした。本当にお疲れ様……」

「復帰戦であれだけの走りをし、三着を取れた。十分に素晴らしい結果ですのよ。顔を上げて下さいな」

 二人が駆けつけてきた。労いの言葉をくれた。しかしそれに答える術もない。

「……ごめんなさい、勝てなかった。あんなに二人に手伝ってもらったのに、期待をしてくれたのに、ライスがそれを無駄にしてしまった」

「大丈夫。ライスの走りはまだまだ取り戻せる余地があるのです」

「そうですわ。気に病むことなんてありませんのよ」

 二人はどこまでも優しかった。私が自力で引き揚げられるようになるまで、ずっとその場に付き添っていてくれた。だからこそその優しさが痛かった。とても身に刺さった。

 いい走り?素晴らしい結果?違う、違う。

 このレース、私は自分の手で勝ちを手放した。あの第三コーナーで見た幻。それに気を取られてペースをひとりでに崩し、その末の敗北。敗因は何もかも私自身にあった。

 どうして私はレース中にあんなものを見たんだろう。集中すべき大事なレースの最中に。それは精神的な弱さがあったからではないだろうか。昔から私は優柔不断でくよくよして、些細なことで心悩ませて。競走界にデビューしてからもそうだ。『ライスシャワー』としての在り方、役回り、他人の評価を、気にしてばかり。

 あれはそんな私の精神の脆さが顕在化したものではないだろうか。走る意義や意欲も曖昧で、数少ない応援し支えてくれる人にも満足に応えられない、『自分を越えられない』ことへの怖れそのものではないだろうか。

 かつてマックイーンさんを倒したとき、精神は肉体を超越すると思っていた。現にそれを体現出来たからこそ、勝てたのだと思う。しかし今はその精神がかえって、肉体の足を引っ張っているのではないか。肉体を超越出来ない脆弱な精神は、勝利への足枷に過ぎないのではないか。

 ならば私が取るべき道は――。

 

 

 敗北と苦悩にまみれた第三十九回有馬記念は終わった。それは、歓喜と祝福に手が届くのではと思い上がっていた私への報いだったのだろうか。

 そして精神の弱さを明確に自覚し思い知らされたこの日以降、私はあの夢を再び見るようになっていった。




史話(二)
 
 一九九四年の第三十九回有馬記念においては日本競馬史上五頭目となる三冠を達成したナリタブライアンが初めて古馬と対決する点に注目が集まったが、同年の天皇賞(春)、宝塚記念を優勝したビワハヤヒデ、ジャパンカップを優勝したマーベラスクラウンが故障を発症して出走できなくなり、出場する古馬のうちGI優勝馬はネーハイシーザーとライスシャワーの二頭のみであった。さらに両馬はそれぞれ距離適性、体調面に不安要素を抱えていたため、ナリタブライアンが優位と見られており、どの馬が勝つかというよりはナリタブライアンがどのくらいの強さで勝つかに焦点が絞られていた。
 レースはツインターボが序盤から大逃げを打ち、一時は中継画面の端まで後続馬が見えないほどリードが広がっていたが、三コーナーで早々と後続馬に捕まり、第四コーナーで先頭に立ったナリタブライアンがそのまま二着の牝馬ヒシアマゾンに三馬身差をつけて圧勝した。ライスシャワーは健闘するも三着に終わったが、四年連続有馬記念三着というナイスネイチャの珍記録を阻止する格好となった。
 
●着順
 1.ナリタブライアン
 2.ヒシアマゾン
 3.ライスシャワー
 4.アイルトンシンボリ
 5.ナイスネイチャ
 6.サクラチトセオー
 7.ムッシュシェクル
 8.チョウカイキャロル
 9.ネーハイシーザー
 10.マチカネアレグロ
 11.ヤシマソブリン
 12.ダンシングサーパス
 13.ツインターボ
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