「待ってくださいミホノブルボンさん、今日のレースの感想を一言」
「復帰明けから怒涛の三連勝、しかも今日は重賞勝利。次の展望は」
「こちらにも是非、一言だけでいいので」
中山レース場記者会見室のドアが開放されると同時に、目にも留まらぬ速さで人影が一つ飛び出してくる。栗毛のウマ娘、ミホノブルボン。近未来的な意匠の勝負服を着たままの彼女は、レース場の出口を目指し廊下をひた走る。
背後からは会見の途中で急に立ち去ったインタビュイーに取材を求める記者らの声が続々と上がったが、程なくしてその声は止んだ。「やかましい!」と大声で一喝した筋骨隆々の大男に阻まれたからだ。ブルボンのトレーナーである黒沼である。残りの記者対応は彼が単独で引き受ける手筈だった。
ブルボンには用事があった。大切な用事だ。そのため予め会見を途中で抜ける算段をつけていた彼女は単身、中山レース場の最寄り駅である船橋法典へ駆ける。道中はレース返りの観客もちらほら見られたが、メインレースが終わって間も無く然程の混雑ではない。
「あれってミホノブルボンじゃん」
「マジ?本物?」
「今日のレース凄かったよ」
「一着おめでとう!」
道行くファンから掛けられる声に律儀に手を振り返しつつ、駅に到着したブルボンは颯爽と改札口を抜けホームに滑り込んできた武蔵野線に飛び乗った。
トレセン学園に程近い府中本町駅までは小一時間。車両の振動がレースで疲れた身体に心地よい。忘れぬうちに、と座席に座ったブルボンはスマホを取り出しすかさず連絡を入れる。チャット形式のメールで『今から向かいます。十八時には落ち合えます』と送信。
一旦スマホをスリープにしようとしたところで周囲の目線に気が付く。突如レース用勝負服で乗車してきたウマ娘を目の前に、周囲の乗客は目を丸くしている。「問題、ありません」言いながらブルボンは顔を僅かに赤くする。
間髪置かずに返信が来た。『私もいま収録終わりました。一足先に準備してます』差出人の名はメジロマックイーンとある。『追伸、一着おめでとうございます!』とも送られてきた。
この日、二人は多忙だった。ブルボンは中山でのレース出場。マックイーンはトレセン学園にてURAの取材対応。朝早くから夕方までそれぞれの用事で慌ただしい一日を送っていた。そんな二人が夕方になってようやく解放され、ある目的の為に一斉に動き出す。その目的とは。
『府中本町、府中本町。終点です。南武線はお乗り換えです。トレセン学園、東京レース場へお越しのお客様は〇番出口を――』
列車はようやく目的地に到着、ブルボンがトレセン学園に舞い戻った頃には既に辺りは暗くなっていた。更衣室で手早く私服に着替えを済ませ、既に人通りもまばらになったキャンパス内を足早に進む。
美浦寮の建物前にまで辿り着く。「ブルボンさん。こちらですよ」寮の前で待機していたマックイーンに呼び掛けられ、合流した二人は寮の中に入ると一直線にある部屋へ向かった。
予め学園で待っていたマックイーンの両手には、大きな藍色の包みがしっかり抱えられている。包みには華やかな装丁が施されていて、しきりにそれを見つめながら「気に入って頂けるとよろしいのですが」と彼女は言う。ブルボンは少し考えたのち「大丈夫」と呟きながら、ポケットに忍ばせたクラッカーを二つ取り出した。
そして目的の部屋の前に辿り着く。相室の寮部屋。この時間、目的の人物が在室しているのは既に下調べ済みだ。ブルボンがノックをしたのち、二人は勢いよく部屋の中に雪崩れ込んだ。
「えっ?ブルボンさん、マックイーンさん!?」
直前まで単身トレーニングに励んでいたのだろうか。部屋の中で湯上りの髪を乾かしていたライスは驚き呆気にとられる。その彼女目掛けて二人はクラッカーを放ちながら高らかに言った。
「ライス、誕生日おめでとう」
「ライスさん、お誕生日おめでとうございますわ」
乾いた二つの撥音、部屋に舞い散る色とりどりの紙吹雪。
この日、三月五日はライスシャワーの生誕日だった。突然のことに吃驚するも、徐々にそのことを実感してきたライスは目を潤ませ頬を朱く染める。
「あ、ありがとう……。覚えててくれたんだ」
二人が今日、多忙なのを彼女は知っていた。わざわざその大事な用の合間を縫ってまで、祝われる価値はない――そう思っていただけに喜びもひとしおだったらしく、感極まった彼女は涙までも浮かべ二人に感謝を述べた。
サプライズをするだけの価値はあったと、二人は気恥ずかしそうに鼻をかいた。
第三十九回有馬記念から年は明けて春が近づく三月。三人は変わることなく一緒だった。トレーニングに励むライス。それを手伝いつつ、復帰以来レースで徐々に活躍の場を広げていくブルボン。リハビリを重ね、不治といわれた繋靭帯炎からいよいよ復帰秒読みと目されるマックイーン。
ブルボンとマックイーンがライスに付きっきりでいられる時間は以前より減りつつあったが、如何に忙しくとも三人で一堂に会する機会を決して無下にはしなかった。今回の誕生日会もその一つで、有馬記念以来、依然として調子の戻らないライスを気遣い、一計を案じてサプライズを実施したのだった。
「さあ、切り分けましたよ。紅茶もここに。どうぞ召し上がれ」
この日のために用意していた巨大特注ホールケーキ。ブルボンと協力して切り分けた山盛りのフルーツケーキをこれまた巨大な取り皿に盛り付け、マックイーンは主役へ手渡す。人間と比較し法外な食欲のウマ娘を満たすのにも余りある量だ。甘いものに目が無いマックイーンはもとより、そこまで食に貪欲ではないブルボンも、せっせと切り分けながらもその口端が垂れつつある。
「美味しい。美味しいね、ケーキ」
クリームとスポンジ、イチゴを口一杯に頬張るライス。浮かび上がる満面の笑み。愛くるしい少女のような仕草を見ていると、二人も心穏やかな気持ちになった。
「それと、これを」
一皿目を全員が平らげたところで、マックイーンとブルボンが包みを持ち出した。マックイーンが予め準備していた華やかな装丁の包みだ。部屋に入ってからも巧く存在を隠していたものを、ここで主役へ手渡す。
またも驚くライスに、開けてみてと二人が促す。藍色の袋を開くと、中にはリボンの編み込まれた烏黒のパンプスシューズが入っていた。これは普通のシューズではない。ウマ娘用に強化繊維で造られたレースシューズの一種で、ライスシャワー勝負服仕様の特注品だった。
「皆で打ち合わせて造りました。サイズや形状は従来のものを踏襲しているので問題はありません」
「そろそろ履き替える時期ですわ、それに。気持ちを新しく出来るかと思いまして」
シューズはライスに合わせて作られた既製のものを発展改良した新生仕様だった。現在ライスが使っているものは、一〇〇%機能し得る耐用期限が間も無く切れる計算だった。それを見越した二人が誕生日の贈り物にと手回しして完成に至ったものだった。
「……ありがとう。ライスね、頑張る。次のレースも頑張るから」
ライスは袋ごと、受け取ったシューズを抱き寄せ涙ぐみながら応えた。頬には涙が伝って感激を露わにしている。
が、その時ブルボンとマックイーンははっとした。しまった、と思い内心では後悔の二文字が浮かんだ。シューズを受け取ったライスが見せる涙や表情に、喜びだけではない意味合いが含まれているのを察したのだ。
***
「……やはり以前と変わらない、のでしょうか」
夜の帳が下りた、薄暗い学園のキャンパスを歩きながらマックイーンはしんみりとした口調で云う。寮の門限時刻が迫り、ささやかな誕生日会がお開きになったあと二人は所属寮へ戻る最中だったが、この言葉ではたと立ち止まる。
「表面上は変わらず振舞っていますが。やはり先の事、レースの事を考える時、辛そうでした」
思うところがあるのはブルボンも同様だったらしく、顔を俯けながら答えた。
二人が言うのは無論、ライスのことだった。サプライズで誕生日会を開き、ケーキを広げ、贈り物を渡したところまでは良かった。ライスは二人の友人に祝福され、感激し、喜びを感じていた。そこまでは良かった。
しかしシューズを受け取った時、一瞬表情が曇ったのをやはり二人は見逃せなかった。贈り物が気に入らなかったわけではない。かねてより懸念していたように、ライスは今なお先行きに少なからぬ不安を感じている。レースに出ることに、走ること自体に怖れを感じている。新しいシューズを見て、それがライスの中でよぎったのだ。これならプレゼントは他の物にしておけば良かったのではないか。良かれと思い、思慮が足らぬ浅はかな行為でライスに憂患を与えたことを二人は後悔していた。
そして今回の件で、ライスの精神不安は有馬での敗退以来、再び色濃くなってきていると二人は確信した。
現に年明けのライス初戦となった二月の京都記念。GⅡレースで、周りのウマ娘は格下と言っても差し支えの無い面子だったが結果は八人中六着。彼女はスパートすべき終盤に伸び切らず惨敗。本来の持ち味である筈の差し脚は、有馬に続いて活かされなかった。ライス本来の走りは目に見えないものに、彼女の『精神的な弱点』によって阻害し打ち消されているように思われた。
「トレーニングも十分、怪我の影響ももう無い。それでもまだ本調子にならない精神的な理由は一体何なのでしょう……」
言いながらマックイーンは思う。精神的な弱点、その克服こそがライス復調の鍵というのは分かる。だがその正体が分からない。ライスシャワーという他人の見えない心の内の事なのだから当たり前ではある、容易に分かれば苦労もないが、それがもどかしかった。
言い換えれば、今のライスに対し具体的にどんな対処法を授けてあげればよいのか、精神的な弱点をどう克服させてあげればよいのかが何ら分からないのだ。
「私たちは、ライスさんのお役に立てているのでしょうか」
噴水横のベンチに腰掛け、弱弱しくマックイーンが言った。珍しく弱気な姿にブルボンも居たたまれなかった。
元々、積極的にライスを支える役を買って出たマックイーンだ。ウマ娘として華々しい経歴を持つ彼女だがその実、故障からの復帰やリハビリ等辛い事も多く経験しており経験値は並のウマ娘の比ではない。それを自負しているからこそ、今のライスに風向きを大きく変えるアドバイスの一つもしてあげられないのが悔しいのだろう。
ライスを苦しめるもの、彼女の精神を蝕むもの。一体それは何なのだろうか。
「……可能性があるとすれば」そこで突如ブルボンは思い出した。退院前にライスが病室で一度だけ漏らした言葉を。「夢。怖い夢を見ると言っていた、同じ夢を何度も」
ライスが見る『悪夢』。入院していた際、ライスはブルボンにそれを仄めかしたことが一度だけあった。具体的に内容を聞こうとしたが、ライスが思い出す事を躊躇ったので内容は分からずじまいだった。
「夢、まさかそれが?」
マックイーンは信じられないといった表情で顔を上げる。そんな曖昧模糊としたものが、精神的な弱点になっているとは俄かに信じ難いといった様子だ。
それに対しブルボンは真剣な眼で見つめ返す。「本当に辛そうだったんです。話すことを憚るほど、ライスは……怖がっていたように思えて」
今思えば、ブルボンも恐れたのかもしれない。深く追及することでライスをますます思い悩ませるのを。だがあらためて考えれば、その夢に何らかの意味があるのではないか。もしかしたらその悪夢こそがライスを苦しめる根源なのではないか。降って湧いた異説に、二人は唖然とした。
「では、聞きますの?ライスさんに夢の事を。そこから手掛かりを得ようと」
慎重な面持ちでマックイーンは問う。こうなった以上、話はそこに行き着く。ライスに『悪夢』の事を訊くのかどうか。具体的に話を訊いたうえで、そこからライスの精神面を弱らせる要因があれば抽出し、克服する手立てを考えねばならない。
しかしブルボンは首を横に振った。ここまでの話の流れを反故にするそぶりに思わず声を上げそうになるも、すぐにマックイーンもやはりそうかと合点がいく。
「ライスは、繊細です。ましてや今のあの子はいつも以上に、苦しんでいる。苦しみ悩み抜いている。そこへ私達の方から辛い事を掘り返すような真似は、やはりしたくありません」
「ではどう致しますの」口ではそう言いながらも、マックイーンも既に為すべき事は分かっていた。
「今出来るのは、一緒に居てあげること。寄り添い、勇気付けて、あの子に励みをあげること。それだけなのかもしれません……」
ライスは一度ブルボンに悪夢のことを打ち明けようとしていた。だが彼女はさらけ出せなかった。夢などという虚構的な、迷妄的な事象を話すことに気が引けたのか。その内容自体、話すことも憚られる内容だったのか。或いは話すことでそれが現実となるような悪寒がしたのか。
「待つのですね、ライスさんの傍で。話してくれるのを」
ならば待つのみ。ライスの方から勇気を出して精神の弱点の根源、それをさらけ出してくれるのを待つのみ。ブルボンとマックイーン、二人の行き着く結論は合致していた。
「ライスを信じています、あの子はきっと蘇ると」
夜空を遠く、彼方まで見上げながらブルボンは祈るように呟く。
二年前、ライスを説得した時のことをブルボンは思い出していた。あの天皇賞(春)、マックイーン三連覇を打ち破ることとなる、その直前の在りし日。テイオーと二人で学園内にてライスを追い回し、出場を拒む彼女を説得した。「四の五の言わずに走りなさい!」柄にもなく大声を出し、恐喝めいた真似もした。しかしそれは諦めてほしくなかったからだ。
小さな頃から、ブルボンは感情表現が乏しかった。それ故周囲に友人と呼べる者もおらず、孤独に過ごすことが多かった。ウマ娘として頭角を表してからも変わらない。寧ろ無敗という言葉が周りを遠ざけた。無敗という言葉は孤高とともにより一層の孤独を彼女に与えた。そんなブルボンを初めて地につけ無敗の三冠を打ち砕いたライスは、それまで敗北を知らなかったブルボンにとって生まれて初めて出来た『ライバル』だった。
その後大きな故障で走ることが出来なくなり、走ることを諦めそうになった時。心の支えになったのはライスだった。次こそは勝ちたい、負けたくない。強いライバルともう一度走りたい。その気持ちを与えられたからこそ、今再びブルボンはターフにいる。
ブルボンにとってライスは夢を奪った人物であり、それ以上の夢を新たに与えた人物だった。故にブルボンは『ヒーロー』としてライスを称える。だからこそ放っておけない、見限るなど出来ない。今再び、そのヒーローが苦しんでいるのを。
だってあなたは私が初めて出会えた、心から親友と呼べるひとなのだから――。
ブルボンの横に並び立ち、夜風に透き通るような葦毛を揺られながらマックイーンも静かに頷く。
二人にとって『ヒーロー』であり『ライバル』であるライス。その彼女の傍らで支え続ける。今日のように三人で温かく手を取り合う時間を絶やさずに、今よりも心をもっと通わせるようになって。いつかライスの方から悩みをさらけ出してくれるまで。
たとえ遠回りであろうとも、今はそれしか術はない。でももし、あなたの方から打ち明けてくれたらば。私達は全身全霊を以て答えよう。あなたが「歓喜と祝福」を手に出来るように。
二人が友を思う清廉な意志。後にその友の運命が佳境に差し掛かる局面で、あらためてその真価は問われることとなる。
***
二週間後の三月中旬。
この日、中山レース場は再び賑わいを見せている。毎週末恒例のウマ娘によるレースがこの日も朝から行われていた。午前は主に未勝利戦が繰り返され、午後から一勝クラス、特別競走、重賞レースと、プログラムが進むにつれレース格式が徐々に上がって行くのは従前通りのものであった。
時刻は昼下がりの十四時過ぎ。ターフでは十四時二五分発走のレースが間も無く開始されようという時刻。
『……ゲート入りは順調の模様、本日の第九レース両国特別。一番人気は勿論この娘、エインベーイ。二番人気、キアイスレンダー。三番人気は……』
選手控え室で中継モニターから聞こえてくる赤坂実況を耳にしながら、一人きりのライスシャワーは浮かない表情で床に目線を落とす。彼女はこの日、第十一レース『日経賞』に出走する予定だった。出走時刻の十五時四〇分までまだあるが、既に勝負服への着替えも済ませ、いつでも向かえる状態になっている。シューズも生誕日にブルボンとマックイーンから贈られた新しいものに履き替え、準備は全て整っていた。
だがレース直前にも関わらず、彼女のモチベーションは一向に上がって来ない。モニター越しには、既に開始された第九レースの様子が映し出される。先頭集団のウマ娘達がピックアップされ、必死の表情が浮かぶ。あと一時間もすれば自分も同様に走るのだ。しかしライスにはそれがひどく他人事のように思えた。
「凄いな、みんな」
画面を傍目に、ぼそりとライスは呟いた。少女の声はいつも以上にか細く力がない。
昨夜も彼女はあの夢を見た。最早、毎晩のように夢に現れる声と怪物にうなされた。いつものトレーニングで維持している体はともかく、心は決して万全ではない。今までと同じで精神的な弱さが今日もまた顕在化してしまう。レース前から早くもライスはその事を気に病んでいた。
前走の京都記念も同様だった。有馬の時と同じ。レース中にあの囁くような声が聞こえた。集中を乱されて結果は六着。不甲斐無くてレース後は二人に合わす顔が無かった。
きっとそれが今日のレースも続くのだろうか、今日も勝てないのだろうか――消極的な思考をしていると、無意識にまた聞こえてくるようだった。まるでこの世の果てからの幻聴の声が。
そして不意に疼く左脚。以前故障を負い、今は完治した右脚とは反対の左脚がなぜ疼くのだろうか。
悪寒がしてライスは首を振った。丁度モニターのレースが終わる。画面から歓声が響き、カメラは一着で駆け抜けたウマ娘にクローズアップされた。
『一着エインベーイ、過酷なローテと不良バ場を跳ね除け一番人気に応えました。泥だらけになりつつも、スタンドからは健闘を称える声が送られます……』
全身泥に塗れながらも、晴れやかな表情でウイニングランをする姿。それを見てライスは自分でも気付かぬうちに唇を噛んでいた。自分がどれだけ藻掻いても、これだけ苦しんでも得られない『歓喜と祝福』。モニターの向こうで走る娘は、今それを手にしている、噛み締めている。その事実が妬心を再び呼び覚ます。
第九レースが終わり次のレースまでしばし間が空く。ここでレース場を映していたモニター映像が突如切り替わり、ドキュメンタリー調のVTRが始まった。レース間にギャラリーを退屈させない為によく流れる、URAの演目の一種だ。
『あれから一年半。僕らは待ち続けた。次なる奇跡、誰もが望む新たな復活劇』
謹直なナレーターの声と共に、黒色の画面にテロップとして流れていく文字。菊花賞一着、阪神大賞典一着、宝塚記念一着、等々。最後に流れてきた一際大きい天皇賞(春)二連覇、という文言。
『名優よ、もう一度』
続いて、ホームストレッチで後続を引き連れ堂々とスパートを切る一人のウマ娘の映像。見覚えのあるその姿に、俯いていたライスも思わず目を瞬かせる。
『その名は、メジロマックイーン』
天皇賞(春)二連覇時のゴール映像。そこでVTRのタイトル『Document of Uma-Musume』が大きくセンタリングされ、オープニングが終了する。一旦フェードアウトしたのち、そこからトレセン学園でのマックイーンの姿が次々と映し出された。
VTRの内容は、マックイーンに関する特集映像だった。故障後のリハビリに打ち込む姿や、インタビュー、過去の実績等を踏まえながら、今後の彼女自身の展望や復帰計画、目標を紹介していくドキュメンタリー仕立ての小番組だった。かつてライスの誕生日会を開いた日、その直前にマックイーンがURAからの取材要請に応え収録したものがこれだった。
この映像が始まると、ライスのいる控え室の外から大きなどよめきが起こり始めた。同じものはレース場のターフビジョンにも流れている。つまりそれを目にした観客達が反応を示しているということだ。かつて天皇賞連覇等で、世間を大いに沸かせたマックイーンの復活を予見させる映像に会場の期待も膨らみ上がっているのだろう。
『脚は既に完治しつつある、とのことですが』
『はい。お医者様からも許可を頂き、この春以降にトレーニング再開を予定しております』
『復帰後のレースについては、どのようなお考えで』
『私が志してきたのはステイヤー。それは今も変わりません。復帰後も主に長距離に挑戦していくつもりですわ』
反響は尚も収まらないようだった。ライスの控え室には今なお外の大歓声が伝播してきて、机上の物品を小刻みに揺らすほど。先程のレースが決した時以上に、マックイーンの復活ドキュメンタリーで観客は盛り上がりを見せているようだった。さながらレース後のウイニングライブを彷彿とさせる。
「……やっぱり凄いや、マックイーンさん」
ドキュメンタリーを見ながらライスは自然とそう口にした。発したその声が震えていることに彼女自身が驚いた。胸がつかえる思いもした。
まただ――またライスは。
レースで勝ったわけでもないのに。走ったわけでもないのに。あんな映像一つで、復活しますと宣言しただけで、多くの人の心を掴み、揺り動かせる。それだけ数多くのファンが、味方がマックイーンにはいる。
羨ましい――マックイーンさんもやっぱり私にはないものを持っている。
込み上げてくる黒々とした感情。自分でも御しきれない、やり切れぬ思い。普段は親しく接してくれる友人であり、尊敬すべきウマ娘である彼女に対し明確に抱いてしまっている。自身に無いものを持っている者への妬心。日に日に増していく嫉妬の思い。
私は――何を考えているんだろう。
思い詰めていると、背後でノックする音が聞こえた。肩を震わせ我に返ったライスは返事をして振り返る。来訪者だ。遠慮がちに控え室の出入り戸が開けられる。入室してきた人物を見、ライスは息を?んだ。
「お邪魔致しますね」
「マ、マックイーンさん」
ライスは思わず目を逸らす。直視できなかった。
たった今まで、ライスはあなたのことを――。
「あのドキュメンタリー、作っていただいておいて何ですが、自分で見るととても恥ずかしくて」
髪をくるくると指で巻きながら、恥ずかし気な様子でマックイーンはライスの隣まで来て空いた椅子に座った。それから今まで今日のレース観戦のため観客席にいたこと、先の映像が始まって周囲の盛況ぶりでかえって居づらくなったこと、それで控え室を訪れたことを話した。
「本当はレース直前なのに、邪魔はしたくなかったのですが。ごめんなさい」
「う、ううん。いいの」
「次の第十がブルボンさんのレース。そして第十一レースがいよいよライスさんの出番ですわね」
「……うん」
ばつの悪そうな表情でライスは、答える。普段と違う緊迫めいた様子に、マックイーンはライスの肩を優しく叩いた。
「大丈夫。トレーニングの成果を出すだけ。思うがまま、思い切り走ってくるだけでいいのですから」
思うがまま、思い切り。本当にそう走ることが出来たらどれだけよいだろう。どれだけ気持ちよいだろう。それで勝利を得られるのならどれだけ楽だろう。
心の中で沸々と現れては消える皮肉を押し殺す。いまマックイーンは励まそうとしてくれている。気遣ってくれているというのに自分は嫉妬をし、あまつさえ掛けてくれる言葉を疎ましく感じている。あらためてそれを自覚しライスは自らに失望した。
依然レースに勝てず、自分を長い目で見て支援してくれる仲間に恩を仇で返す様な、抱いてはならない感情を向けている。これも精神的な弱さがそうさせるのだろうか。弱さの矛先を、何よりも大切な恩人に突きつけるようにまで、なってしまっているのだろうか。
だとすれば――やはり、私は。
『お知らせします。第十一レース出場者はパドックへお進み下さい。繰り返します、第十一レース出場者は――』
業務放送が鳴った。出走前のパドックでのお披露目の招集だ。第十レースが間も無く開始されるので、第十一レースに出走するライスはその前にパドックに向かわなくてはならない。
「行ってくるね」
椅子を立ったライスはそう言うと、控え室をあとにしようとする。逃げるような足取りだと自分でも思った。
「ライスさん。応援していますから。二人で見ていますから」
去り行く背に穏やかな声が染み入る。戦場に向かう者へのエール。
それを今自分に受け取る資格はあるのだろうか。優しさを享受する価値が今の自分にあるのだろうか。
「頑張るね」それだけしか言えなかった。振り向いて言うことも出来なかった。俯いたまま戸を閉じ、ライスは部屋を後にした。
「……ライスさん」
控え室に残されたマックイーンは憂いをたたえながら、友の消えた戸口を見つめる。
やはりまだライスは心のトンネルの中を彷徨っている。出口の見えない精神の暗い狭間で藻掻き続けている。見守ってあげなくてはならない。今日のレースも結果が如何なものになろうと――。
一人頷いた彼女は、ようやく落ち着きの戻った観客席へと戻っていった。
***
『第十一レース、続いて登場するはこのウマ娘。一枠一番、ライスシャワー』
いつも通りの反応を傍目に、回ってきた順番通りパドックでの慣例行事をこなす。反応はいつも決まりきったものだった。成績不振を呪うもの、ブーイングや心無い野次。レースで走る前からいつも同様。最も苛烈だったあの菊花賞や天皇賞(春)に比べれば昨今はかなり落ち着いてきてはいるが、マイナスにはなれどもプラスとなることはない、ライスにとって憂鬱な時間に変わりなかった。
心にわだかまりを残したまま、早々にパドックステージから退いたライスは、ステージのすぐ横にあるライブモニターが目についた。ちょうど第十レースが始まったのか、モニター内で中継映像が流れ始める。
第十レース、東風ステークス。このレースにはミホノブルボンも復帰後四戦目として出走していた。観客席のマックイーンは今日、このブルボンの出るレースとライスの出る第十一レースを連続観戦する為訪れている。
『ミホノブルボン、第三コーナー入ってなお先頭。降り続く雨と朝からのレースでバ場はすっかり荒れているが何のその。安定した走りだ』
レースは既にブルボンの独壇場だった。復帰後の脚質変化で重バ場への適正が懸念されていたが、その下バ評を跳ね除ける快走により後続のウマ娘を寄せ付けない。
ターフの面子の中に差し返せるであろうウマ娘はいない、これはもう決まりだろう。モニターでレース模様を見ながらライスはぼんやりとそう思う。ブルボンとの付き合いも長く、実力も把握している間柄だ。その予測は当たっていた。
『さあ最後の直線。後続が追い上げてくるか。ジーザスナチュラ、外から四番のシルバリオティガー。まだしかし、二バ身から三バ身、残り二〇〇だ、ブルボン先頭!』
ホームストレッチ。差は三、四バ身。二番手が詰め上がりラストスパートで差し上がる。が、ここに至っても末脚を残すブルボンに敵うはずもない。差は全く縮まらないまま、距離だけが減っていき。
『チャリオッツ三番手上がった、二番手集団はしかし、ブルボンには届かない、おそらく勝てるだろう!ミホノブルボン強い、三バ身から四バ身、五バ身リードで逃げ切った!』
パドックの裏手で歓声が上がった。レース場からの観客の声。無論それはブルボンの一着へ宛てられた歓声に他ならない。
『終始圧倒、ミホノブルボン貫禄!この勢い、再びトゥインクルシリーズに旋風を巻き起こすのは間違いないでしょう』
無敗の二冠をかつて達成しただけのことはある。その実力者が今日のレースでも遺憾なく実力を発揮した。一度は故障で終了したと思われたブルボンは復活から四戦を経て、今後の第二の隆盛を思わせる勢いを誇示してみせた。
「ブルボン、やっぱり速いな!」
「カッコよかったよ」
「次のレースも楽しみだ!」
パドックにいても聞こえてくるブルボンへの歓声。勝利への祝福。今、会場を揺り動かしているのは紛れも無く彼女に他ならない。
「いいな……」
ライスはまた、羨んでいた。ブルボンの勝利を讃える言葉よりも先に、その言葉が口を衝いて出ていた。
レースの内容は本当にブルボンが強い走りをしたという一言に尽きた。最初から最後までただの一度も先頭を譲らなかった。
その走る直前、ブルボンが控え室に来た時の事をライスは思い出す。「私も頑張ります。頑張って走ってきます。だから、ライスも。二人で応援していますから」それだけ言って軽く抱擁を交わしレースに向かっていった。
頑張る、頑張る――どう頑張ればいいのだろう。頑張り方が分からない。どうすればいいのか分からない。だから今これだけ、勝てずに苦しんでいるというのに。レース中に遭遇する幻聴。あの悪夢の延長。それはライスの精神の弱さが形となったもの。それを打ち消し、聞こえなくなるようにし、それで走れるようになること。そこでようやく初めて、頑張るという皆と同様の土俵に立てる。その弱点の消し方が今も分からない。この先ずっと分からないままなのかもしれない。それなら今、走っている意味は何だろう?果てない自問自答をライスは繰り返す。
『いよいよ本日のメインレースです。GⅡは日経賞。九人立てで行われます。雨足は強くなる一方ですが、健闘を期待したいところ』
レースの時が、発走の時が近づいてくる。本バ場入場でコースに放たれ、ファンファーレが鳴り響き、流されるままにゲートへ押し込まれる。
どうしてこんなところにいるんだろう――とふと思う。降りしきる雨で、髪が、肌が、服が濡れることもどうでもよく思えてくる。
枠入りが完了したのか、勢いよくゲートが開く。一斉に駆け出す出走者。ライスも引っ張られるようにそれに続く。開始早々、出遅れた。後続集団につく。
不意に、周囲の音が遠くなっていった。スタンドからの声、ターフに響く足音と打ちつける雨の音、全ての音量が下がっていくように、やがて何も聞こえなくなる。
『雨が上が……観客……合いも……、京都レ……場、雨……がりました!』
『マック……ンも、ミ……ブル…ンも、お……く応援して…るのでは…いか!そのライ…シ…ワーが…都の坂の上り…先頭に立……勢…!』
また聞こえ始めた。例の幻聴だった。レース開始早々、未だ四分の一も走らぬうちに、少女の身を苛んだ。
「やめて――」
左脚が痛み、疼く。鉛が乗ったかのように頭が重かった。この時の幻聴は、直ぐに消えようとしなかった。レース前から大きく空いたライスの心の隙に居座ろうとするかのように、すぐに出ていこうとしなかった。
目を瞑る。頭を振り乱す。早く去ってと心で叫ぶ。いずれも効果は無かった。足並みは乱れペースも大きく狂わされていく。
『ライスシャワーは掛かり気味!今日は向こう気がありません。雨で濡れたターフで足取りが重いか、そろそろ差していかねばならないが、どうしたのかライスシャワー!』
ぬかるんだターフの泥が絡みつく。一足一足を踏み込む度に足を取られ、少女の口からは呻きが漏れた。新調したばかりのシューズはあっという間に汚れていく。
やっとの思いでバックストレッチに辿り着く。今なお聞こえる呪う声。彼女をいずこかへ手招きする、運命の呼び声。
「ライスは、勝ちたい」
それだけなんだ――勝って、そして。歓喜と祝福を得たい。皆を幸せにしたい。
「それだけなのに、なんで」
何故。何故邪魔をするのか。勝利とは、こんなにも難しいものだったのか。自分が歓喜と祝福を得るのはそんなにいけないことなのか。
ブルボンや、マックイーン、他のウマ娘達。皆は得られるものが自分には得られない。遠く、遠く、遠ざかっていく。
『第三コーナーと、第四コーナー中間入る。先頭争い激しい叩き合い、ライスシャワー伸びてくるのか。間に合うのか?』
あの足音が聞こえる。大地を穿つ、重厚で幾重にも重なる怪物の足音が、徐々に迫ってくる。ライスにはそれが死神の足音に思えてならなかった。
「いや、だ、いやだ……」
心が擦り減らされていく。半ば狂乱しつつ、ホームストレッチ。先頭は遠い。既に六バ身、七バ身以上。左方に掠めるスタンドからの罵詈雑言、ライスにはそれが全て自分に投げかけられるようにさえ聞こえる。
『今日も期待外れだ』
『前の有馬そこそこだったのに、何だよ』
『もう、完全に終わりだな』
言葉の一つ一つが心の壁を抉る。突き崩され無防備になった心の中身をも啄んでいく。やめて、痛い――そう叫んでも止めてくれない。
こんなに脆い精神なら。精神が勝利への足をやはり引っ張っているのならば。
『残り二〇〇!ライスシャワーやはり駄目、伸びて来ない!このレース唯一のGⅠウマ娘、完全に失速――』
「ライスは、ライスはッ――!」
慟哭。頭が真っ白になるようだった。気が付けばあの声も足音も掻き消えていた。身体が、手が、足が動き続ける。気力も体力も欠乏していたが、誰かに操られているかのようにしばらく動き続けた。
ライスが我に返ったのは、レース場の作業員に数人がかりでようやく引き留められた時だった。ゴールしてから何周も、ウイニングランが終わっても尚一人だけ走り続けていたらしい。丁度止められた場所がゴール板の間近。見上げるまでもなく目につく掲示板。五着までの番号にライスのものは無かった。彼女は六着入線だった。自分ではそれさえも覚えていなかった。
次のレースが始まるからと、呆れた表情の作業員らに地下バ道へ移動を促される。その間も放心していたライスだが徐々に?み込めてくる事実がただ一点。今回も負けた、それも今までにない最悪の負け方で。
そこへ更なる追い討ちを掛けるように退場するライスの背にスタンドから罵声が飛ぶ。
「いつまでグズグズしてんだ」
「引っ込んでろよ、期待させやがって」
「情けないったらないよな」
「あんな走り、ブルボンとマックイーンが可哀想だ」
もう慣れたと思っていた野次、悪辣な声。もう気にしないと決めた。ヒールと呼ばれても頑張って走り続けると決めた。それなのに今は、かつてない程に心に刺さる。ズタズタに精神を引き裂かれる。
こんな思いをするために戻ってきたんじゃない――リハビリやトレーニングを頑張ってきたのは。
力のない足取りでようやく降りてきた地下バ道。既に引き揚げたのか他のウマ娘の姿はない。足が止まる。雫が垂れる音がする。雨の中走り続けた身体から、髪から、勝負服から、水がぽたぽたと零れていく。そこでもう決壊した。通路の壁に身体をつき、力が抜けていくのを感じながら嗚咽を吐く。
「どうして、勝てないの。うう、うぅ……ッ」
ライスは限界を感じていた。出来得る努力を全て尽くしても、彼女の精神の弱さがあと一歩を妨げた。自らをここまで恨めしく思ったことはない。歯を食いしばり、表情は苦しく歪む。
残された道はもはや一つ。肉体を凌駕出来ない精神。それそのものを――。
「ライスッ」
「ライスさん」
その時、地下バ道に声が二つ響く。聞き覚えのある声に、今この時は聞きたくない声にライスは身震いした。駆け足でやって来る二つの足音。顔を上げずとも分かった。ブルボンとマックイーン。レースを見て、その後の様子を心配して駆け付けてきたのだ。
「ライス……こんなところに。これを」
ブルボンは持ってきたタオルで、ライスを包んで水気を拭おうとする。
「こんなに濡れてしまって。風邪をひいてしまいます」
マックイーンはうずくまったライスを抱き起こそうとした。
――この二人の期待も裏切った、今回も裏切った。なのに施しを受ける価値なんてあるのだろうか。この先もずっと勝てることも無く期待は裏切り続けるだろう。一緒に居たところで迷惑だ。二人に迷惑をかけ、不幸を伝染すだけではないか。
レースでこれから勝ちを重ねていくであろうブルボンさん――復帰後はマックイーンさんだって――。冷静さを失った頭が、ズタズタになった矜持がライスの黒々とした思いを一気に肥大化する。
きっと自分はこの先も勝てない。対する二人は素晴らしいウマ娘。きっとこの先勝っていく。自分を差し置いて、勝って、歓喜と祝福を得ていく。自分に無いものを得ていく。それが眩しくて、羨ましくて、妬ましくて、憎らしくて。勝てども得られない祝福。勝つことさえ出来ない現状。親愛を寄せる友をも妬む心。自分を型取る全てのもの、それを蝕んでいく精神も、何もかもが憎い。憎いのは自分、ライスシャワーという自分が憎い。憎い。憎い。
ライスの心中でこの時、何かが決壊した。
「やめて!ライスにもう、構わないで!」
思わず手を跳ね除けていた。タオルが地面に払い落とされる。驚愕に目を見開く二人。無意識のうちに自分がした行為にライスはぞっとした。それでもなお沸き上がり首をもたげてくる赤黒い感情。
「ライス……?」
「ど、どうしたのですか」
突然のライスの言動に狼狽しその場で固まる二人を他所に、ライスは悠然と立ち上がる。ブルボンとマックイーンはまるで金縛りにあったかのように動けなかった。仮に動けたとしても、その場で動こうとするものを食い千切らんとする異様な空気が満ち満ちていた。
かつて二人が感じたことのある気配。特にマックイーンはその身にまざまざと覚えている。そう、かつて三連覇のかかった天皇賞で、追い縋り差し迫ってきた『鬼』の気配そのもの。だが今感じるこれは『鬼』というよりは――。
「ライスは不幸にしちゃう……ブルボンさんもマックイーンさんも、このまま一緒に居ると不幸に……だから」
ライスから立ち昇るそこはかとない末法的な、悲愴な空気。重苦しい、身の危険さえ思わせる剣呑なオーラ。隔絶的な影を纏った彼女はそれだけを言い残すとおもむろに歩き出した。地下バ道の暗闇の奥にその姿は遠ざかっていく。
ライス、待って。待って――。
お待ち下さい、ライスさん――。
二人は呼び止めようと声を発するも、まるで声帯が麻痺したかのように掠れ声さえ上げられない。ライスが遠い所へ行ってしまうような、戻ってこないような気さえする。しかし何度発声しようとしても無駄だった。
二人がようやく身動きが取れるようになったのは、それからずっと後のことだった。
***
その日のうちは追うのを断念した。レースで上手く立ち回れなかったことによる一時的なショックなのだろう。一人にして欲しかったのだろう。だから一度間を置いて、もう一度出直そう――ブルボンとマックイーンはそう決めて、翌日あらためてライスの様子を見に行くことにした。
だが学園の授業が始まる前の早朝、美浦寮へ向かう二人は胸騒ぎがずっと収まらなかった。昨日にライスが発したあの悪寒。天皇賞で見せた『鬼』の気配に似た異様な雰囲気。それが一体何を意味するのだろうか。そして去り際に放った言葉も気になった。やはり昨晩、無理をしてでも会ってやればよかったのではないか……そんな後悔さえも浮かんでいた。
とにかく一目だけでもいい、会ってあげなくては。そう思い辿り着いた美浦寮で待っていたのは二人にとって重い事実だった。
「ライスシャワー?……ああ、今は居ないんだ」
美浦寮の寮長ヒシアマゾン。寮の玄関で遭遇した彼女へ二人が訪問した理由を話したところ、返ってきた答えがこれだった。
呆気に取られると同時に、不穏な空気を感じる二人。不在の理由を聞くと、ライスと親しい二人にならとヒシアマは躊躇いがちに喋り出した。
「昨夜あいつが来てな。自主トレでしばらく寮を離れるってさ。昨日のレース、アタシも見てたけど……堪えたんだろうな」
その他にも様子がおかしかったのを咎めたが有無を言わさぬ空気で出て行ったこと、かつての天皇賞(春)以前にも同じことはあったがその時と異なり雲行きが怪しいこと、心配故に出来れば様子を見てやって欲しいということを告げられた。
二人は即座に学園を発った。授業やトレーニングの予定はあったが居てもたってもいられなかった。向かったのはかつてライスが単身で山籠もり特訓に使用していた場所。学園から人里離れた山奥の廃校跡地だ。
嫌な予感はしていた。電車やバスを乗り継ぎ、夕方になってようやく二人はその場所に辿り着く。既に日が暮れかけ薄暗くなった廃校のグラウンドに入ると、果たしてそこにはかつてのように一人分のキャンプ用品一式が置かれていた。ライスが使っていたのと同じ物品だ。
やはりここにいた、と安堵したのも束の間だった。グラウンドには肝心のライスの姿は無かった。廃校の周辺も探し、夜になるまで待っても彼女の姿は見えなかった。
ただ残っていた痕跡は――これもまたかつてと同様、ボロボロに履き潰されたトレーニングシューズの山。しかし今回はその量が異常だった。自主トレーニングを始めて一日と経っていない筈なのに、その一日間に履き潰せるとは思えないような、何十足もの靴が打ち捨てられていた。
「ライス、一体何処に……」
「ライスさん……」
いくら待てどもライスが戻ってくる気配は無かった。山積みにされた襤褸切れの靴とともにライスは往ってしまった、大切な何かを置き去りにして――ブルボンとマックイーンはそんな気がしてならなかった。
彼女達が次にライスを見るのは、第百十一回天皇賞(春)のターフとなる。そしてその舞台で、二人は恐るべき光景を目の当たりにすることとなる。
史話(3)
一九九五年三月十九日に行われた日経賞の結果は以下の通りであった。
●着順
1.インターライナー
2.ステージチャンプ
3.クリスタルケイ
4.シャコーグレイド
5.ワンダフルタイム
6.ライスシャワー
7.マルブツセカイオー
8.ジョウノバタフライ
9.ホクトベルビュー
以下余談。
ライスシャワーは一九八九年三月五日、栗林運輸会長の栗林英雄氏が北海道登別市に所有するユートピア牧場に生まれる。小柄ながら健康で近隣の牧場から訪れた人々からも体躯のバランスの良さを高く評価され、購買の申し入れもあった。一九九〇年十月末には育成調教を行うため千葉県にある分場・大東牧場に移動。外見では「身体の硬い馬」という印象を与えていたが、担当者によれば騎乗してみると「雲の上に乗っているような気分だった」というほど柔らかかったと言う。また性質的に馴致に全く手が掛からない馬であり、育成の進捗は常に他馬よりも先んじていた。
育成を終えたのち、一九九一年三月に茨城県美浦トレーニングセンターの飯塚好次氏の元へ入厩、「ライスシャワー」と馬名登録された。これは結婚式のライスシャワーのように、本馬に触れる全ての人々に幸福が訪れるようにとの意味が込められていた。異説として秋篠宮文仁親王と紀子妃の結婚の時期であったため、祝賀の気持ちを込めたとも言われている。飯塚氏は当馬の印象について「男馬にしては体が小さい。それもあって大物感はなく、もちろんグレードレースでどうの、といったことは少しも考えなかった。ただ小さいけれど、いかにもバランスがいい体型なので、うまくいけば中堅クラスまではいくかな、と思いましたよ」と述べている。担当厩務員となった川島文夫は、体の小ささが目について期待よりも不安の方が大きかったという。
日本中央競馬会が発行したポスター「ヒーロー列伝」のキャッチコピーが「淀を愛した、孤高のステイヤー」とされているように、ライスシャワーは京都競馬場を得意とする馬と見られていた。その優位性について、主戦騎手の的場氏は次のように述べている。
『京都競馬場はライスシャワーに合っていたというより、他の馬だと御すだけで苦労するところを、この馬は問題を起こさないぶん有利になるという感じだった。京都の場合、上り、下りやアンジュレーションをどうこなすのかが全体的な問題になってくる。普通の馬の場合は、上りや下りになると力んでしまうので、ここでは力んじゃいけないんだぞ、と手綱を通じてなだめてやらなくてはならない。でも、ライスシャワーの場合はそうした必要がまったくない。こちらが指示しないことは、絶対にやらないのだ。要らないところで力んだりしないし、騎手がここではこれだけ走ってくれと伝えた分だけしか走らないという、まったくもって器用な芸当を難なくこなしてみせるのだ。余計なことは一切しない。それこそ、手綱で指示しなくてもこちらが思うだけで通じる、すばらしく賢い馬だった』