祝福を継ぐもの【完結】   作:李座空

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第四章 餓鬼

 精神力――。

 走力や経験値では勝てないので、

 精神力で勝る必要があります。

 それには徹底的に自分と向き合うため、

 一人になろうと。

 精神は肉体を超越すると思います。

 

 かつて私はこう言った。マックイーンさんの春の天皇賞三連覇が懸かったレースの直前、自らを追い込むトレーニングを課した際の言葉だ。この言葉を胸に私は決死のトレーニングに臨んだ。普段の練習ペースを遥かに超えるオーバーワーク。レース前に身体が潰れるかと思うほど徹底的に、激しく自身を追い込んだ。極限まで削ぎ落した。

 そうして私は肉体を超越する精神、『鬼』を得た。その力は絶大だった。それまで勝算のなかったマックイーンさんを相手に本番のレースで食らいついた。無尽蔵のスタミナを誇り最強のステイヤーと呼ばれる彼女の走りに完全に追従できた。最後の直線では限界を超えた自分の走りで、彼女を追い越すように差し切れた――。

 精神力。その偉大さを私は実感した。歓喜も祝福もない苦い勝利とともに噛み締めた。これこそがライスシャワーの、ウマ娘としての私の最大の武器なのだと信じて疑わなかった。

 しかし。

 今やその『精神』は勝利を遠ざけ、阻害し、足を引っ張るだけの荷物と成り下がった。一向に得られない、訪れない歓喜と祝福。低迷を続ける走り。功を焦った矢先の右管骨の故障。走れない焦り。そして見始めたあの『悪夢』。怪我からの復帰後も振るわない。ブルボンさんとマックイーンさんにも辛く当たってしまった。あれだけ私の事を支え寄り添ってくれた二人に、私は――。

 そう、全て心の弱さ――精神の弱さが招いた結果だった。私は大きな勘違いをしていた。元来、気が弱く優柔不断で臆病だった私が、ほんの一時の成功で精神は肉体を超えられるなどと驕っていたのが、そもそもの間違いだったのだ。

 今ならはっきりと分かる。肉体を超越出来ない脆弱な精神など足枷に過ぎない。ならば私が取るべき道も分かり切った事だった。

 

 そうだ。

 『精神』を――切り捨ててしまおう。

 そして残された『肉体』だけに全ての力を注げばいい。

 勝利を得るため、歓喜と祝福を得るために。

 ブルボンさん、マックイーンさん。

 ごめんなさい、でも。

 分かってくれるよね――。

 

 

***

 

 

 パドックでのお披露目から感じていた。観衆の私を見る目線。まるで腫れ物や、異物を見るような目。同じく出走するウマ娘達もそう。皆が私を好奇と不審の入り混じった目で見ていた。

 だからといってどうということはなかった。何も思いはしなかった。周りからどう思われようと気にも留めなかった。これこそが成果なのだろうとも得心した。私がここへ戻ってきたのは勝利を得るため、その為だけにやってきたのだから。

『……京都レース場、天皇賞出走の十八人の本バ場入場。フルゲートです、今姿を現しました。一番のエールブリテン、十一戦五勝、名うてのステイヤー。場内では手拍子が湧き上がって……』

 本バ場入場が始まる。ターフに入った私はゲートまで脚を奔らせる。自分でも意外な程に前へと動ける。軽い、とても足が軽い。苛み続けた錘が取れたように感じる。

『続いて二枠三番ライスシャワーです。マックイーンも、そしてミホノブルボンも応援しているのではないかと思いますが、果たして闘志に火が付くか』

 闘志?それもいいかもしれない。だけど今のこの私には似つかわしくないものだろう。所詮、不要なもの。頭の天辺が冷めるのを感じながら、ゲート前に辿り着いた私はスタンドを振り返る。

 今日もスタンドには一杯の観衆。第百十一回天皇賞(春)とあって満員御礼の様相。そこではいつものように私へのブーイングを飛ばす人も沢山いるのだろう。今日も期待を裏切るのだと見下す人達が多くいるのだろう。

 それがどうした?何も動じない、何も聞こえない。今の私には何ら響くことはない。弱点である精神は今の私からは切り離されているのだから。

『さぁスターターが台に上がりまして、第百十一回天皇賞のファンファーレです』

 ゲート前に一堂に会する出走ウマ娘たち。私の周囲に穴が開く。というより、周りの皆が避けていく。私が移動するとそれにあわせ距離を取ろうとする。皆、何か半信半疑な、怪訝な表情で私を見る。すっかり同業からもヒール扱いということだろうか。それさえも無味に思えた。

『雨が上がって観客の気合いも高まってきた、京都レース場、雨が上がりました。さぁ十八人のウマ娘、ゲートインが終わりました。いよいよスタートです』

 ゲートに入る。緊張も高揚感もないスタート前のひと時。これが本来あるべき姿だったのではないかとも思えてくる。この境地に至らねば得られなかったものとも。

 でも本当にこれで良かったのか、精神を切り捨て、心を切り捨て、周囲や仲間をも切り捨ててきて今このターフに立つ意味は?……そんな事は後で考えればいい。そんな事は勝ってから考えればいい。今私が欲しいものはただ一つ。

『さぁ行こう、第百十一回の天皇賞、今スタート!』

 勢いよくゲートが開いた。足を踏み出す。天皇賞(春)。最後の勝利から二年越しとなるターフ。感慨は湧かない。ただ走って勝利する、それしかない。

『ご覧のように三二〇〇メートルから、十八人が一斉に飛び出した。京都レース場、芝コースは重。シナノゴールデン、アウターレイサー、そしてクリスティアレイ、これは意外なウマ娘が先行争いを繰り広げている』

 私は中段につけた。先行勢は序盤から前に前に押し上げる。焦り気味なペースだな――手に取るようにそう感じられた。まるで私から逃げようと必死なようにも見える。滑稽だとも思えた。

『外に三番のライスシャワーがいた、不気味な黒い帽子。一番エールブリテン、そしてファストジョナサン、人気どころが前の前へと差を広げていく』

 冷めた思いだった。とても冷めた思いで私はレースを見つめていた。今まであんなに苦しみながらしていたレース。どうしてあんなに苦しんでいたのか。何故あんな取り越し苦労をしていたのだったか。それが遠い昔のように思えていた。

『緑一色になった京都レース場、一週目のホームストレッチで大歓声が上がります。ライスシャワー、すーっといい所へ上がってきている』

 ホームストレッチで前を走る数人が掛かっているのが分かった。スタンドの大歓声で足並みが乱れていた。

 私はただ一人音も声も聞こえないままスタンド前を過ぎる。集中できているということなのだろうか。きっとそうなんだろう、そういうことなんだろう。位置をキープしたまま次のカーブが迫る。

『十八人が殆ど一団で第一コーナー、右へカーブを取ります。クリスティアレイが依然先頭、エールブリテンが二番手に上がろうという勢い。アウターレイサーも外を通って上がって行った。間も無く半分の一六〇〇メートル』

 天皇賞の距離は三二〇〇。中間地点を過ぎ、あらためて私は自分のスタミナを確認する。はっきりいって疲れは全く感じなかった。ここまで中段について温存してきたからだ。脚もまだまだ動く、心肺も何ら問題ない。

 それに引き換え周囲はどうだ。掛かり気味に上げすぎた先頭の集団。中段の私の周りも気圧されたのか走りに覇気は見られない。後続も言うに及ばず。

 他愛ない。そんな言葉すら浮かべながら、向こう正面に入った私は大きく脚を踏み出した。

『場内大歓声。おおっと行った、ライスシャワー黒い帽子が行く!内から一番のエールブリテン、アウターレイサー、人気の三人が先行集団を形成、し、しかし』

 バックストレッチに入ると同時の、立ち上がりから思い切りいく。もう中段に甘んじる必要性を感じなかった。ここから勝ちにいく。私が勝つんだ。

 ビリビリと全身に滾る電撃のような衝動。内なる声が叫ぶ、ここから行けと、勝利を得よと。淀の上り坂を前にして、私は向こう正面から超ロングスパートに入った。それは常識外れの暴挙であり常識的な戦術じゃなかった。普通に考えてそんな位置からゴール板までスタミナが持つ筈が無いのだ。

 でも関係ない。蹴散らす。私が立つ、先頭に立つ。何かが解放されたような清々しささえ感じる。

『なんとライスシャワー行く!早仕掛けだ、マックイーンも、ミホノブルボンもおそらく応援しているのではないか!そのライスシャワーが京都の坂の上りで先頭に立つ勢い!エールブリテンが内で四番手、十三番はアウターレイサー、スタークジェンヌもいる、有力どころが先頭集団へ上がっていく!』

 第三コーナー。淀の第三コーナー。呼んでいる、あの坂を上り切りコーナーを曲がった先で、勝利が私を呼んでいる。渡すものか。それは私のもの、ライスのものなんだ。

 思わず慟哭が漏れる。「ウゥゥアアアァァ――――ッ!!」それだけで周りのウマ娘達がヨレる。私を振り返り、顔面を蒼白にしている。邪魔をするな、退け、私の勝利の邪魔をするな。

『第三コーナー、完全にこの辺りでライスシャワーが先頭に立っている!後ろから有力者が差を詰める、しかしライスシャワーが先頭に立っている!』

 精神を徹底的に排した純粋な肉体だけの走り。目では見えない透明な、それでいてとても大きな障壁が引き裂けるような感覚。バキバキと弾け飛んだその先の空白に踏み出した瞬間、私は至高の領域〈ゾーン〉へ達した。限界の先、そこにようやく見出した極限。そうこれが。日経賞を敗北し、出奔した私が得た新たなる力。

 学園を離れた私はかつての特訓以上に自分を追い込んだ。全ては不要となる精神を切り捨てるための、筆舌に尽くしがたい生き地獄のような鍛錬を重ねた。あの日以来、このターフに立つまで過ごした極限の日々の記憶は殆どない。分かることはただ一つ。極限まで削ぎ落した心と体に今、『鬼を超えた鬼』が宿ったということだけだ。

「……グウウゥオォアアアァァアァアア―――――――――――――――アアアアアアアアァァッッッッ!!!!」

『ひ……っ!?す、凄い気迫だライスシャワー!間も無く第四コーナー、スタークジェンヌ、ファストジョナサン、この辺りが差を詰める!しかしライスシャワー先頭だ!いやあやはりこのウマ娘は強いのか――!!』

 ついていく?このレースにそんな戦略など必要なかった。敵など無かった。最大の敵、それは私自身だったのだから。脆弱な精神で自らの首を絞め続けてきた脆弱なライス。今の私は違う。今の私は鬼を超えた鬼と成し得たライスシャワー。

 これが正解だったんだ。生まれてから私はどれだけ悩み、苦しみ、無為な時間を送ってきただろう?軟弱で、優柔不断で、いつも周りの目を覗う臆病な日々を送ってきた。ブルボンさんを菊花賞で破った時も、マックイーンさんを天皇賞で破った時も、私は自分の勝利を素直に喜ぼうともしなかった。周囲の声や評価、そんな有象無象に足を取られた私は、無様にも自分で自分を否定していたのだ。

 それでもそんな不甲斐無い私をブルボンさん、マックイーンさんは――支えようとしてくれた。精神の弱さを補おうとするように、言葉を掛け、手を差し伸べ、心を通わせようとしてくれた。『ヒーロー』であり『ライバル』だと。私はそれに甘えていた、愚劣なまでに二人に甘え切っていた。自分の精神の弱さを棚に上げ、本当に強くなる道をいつか、またいつかと先延ばしにし続けた。二人の期待を、思いを、何度も何度も裏切り踏み躙ったんだ。

 私が強くなる選択はやはりこれしかなかった。脆弱な精神を捨て去り、心身ともに正真正銘の鬼となることこそ、私が目指すべき最終到達点だった。それは間も無く証明される。このレースに勝って、勝利を掴んで証明する。この選択が正しかったのだと、私は間違っていないと――!

『残り三〇〇だ、そしてアウターレイサーが来る、内からエールブリテン差を詰めてきた!しかし!ライスシャワー完全に先頭だ!』

 最後の直線。あとはスパートし切るのみ。この最高の力を以て、逃げ切るだけだ。もう直ぐ近くにまで迫ってきた。永く待ち望んだ悲願、勝利がもう目の前にある。

 二〇〇の看板。ゴール板が見えてきた。思わず息を呑む。自分より前に誰も居ないまま、ゴールが遂に見えてきた。やっと、やっと私が勝てる、勝てるんだ。ずっと手を伸ばしても得られなかったものがすぐそこに。今までの苦しみからようやく解放される。欲しかったものがやっと手にはいる。

 私の勝ちだ、勝ちだ――!そう確信した。

 が、その刹那だった。

 左脚。

 左脚が、痛い。地に着ける度、まるで骨が皮膚を破って突き出て来そうなおぞましい痛みが突如私の脚を襲った。思わず足が止まりそうになる。ゴールは目前だというのに、ゴール板がもう目と鼻の先だというのに。

 ――なんで、どうして!?

 ――まだ邪魔をするの!?

 日経賞までレース中に現れたあの幻聴。左脚が疼くのはその時の現象の一つだった。しかし精神を切り捨て、鬼を超える鬼となった今、どうして左脚が疼くのか。否、疼くなんて生易しいものじゃない。それは鮮烈で生々しいはっきりと感じられる痛みだった。

『外からスタークジェンヌ!オギノレアルクィン来る!先頭はライスシャワーだが、二番手上がってきたがどうか!?』

 しかし、だからといって。だからといってなんだ。

 ゴールはもう近くなんだ。勝利は私のものだ。これは私が欲した勝利なんだ。負けは嫌だ、絶対に嫌だ、渡すもんか、誰にも渡すもんか!絶対に、絶対にッ!渡すかァッ!!

「勝利は、私のものだあああああぁぁああああああああああああああああああぁぁぁぁあぁッッ!!!!」

 私は絶叫し、ゴールへ駈け込んだ。喉が一杯で掠れるかと思うほどの叫び。真っ白に滲む視界。手が、脚が、脳が、全身が沸騰し最大に燃え上がる。

 私は譲らなかった。外から上がってきた二、三番手にも譲ること無く。私の頭が、真っ先にゴール板を割った――。

『ライスシャワ――だ――ッッ!!やった、やったッ、勝ったのはライスシャワーです!恐らくメジロマックイーンも、ミホノブルボンも喜んでいる事でしょう!ライスシャワー今日はやったッ!!』

 ウイニングランで走り続ける余力も無く、私はゴール板を過ぎてすぐ両膝に手をついた。

 勝った、勝った――?ライスが勝ったの――?

 最初は実感が湧かなかった。三二〇〇という長距離戦で常識破りの超ロングスパートをしたのだ、肩で息をするのがやっとだった。それでもやっと、ようやく、少しずつ、理解できてきた。

 私は、私はやっと得た。一着を、勝利を……。

『まだ鳴りやまない京都レース場の大歓声。第三コーナーの坂の上で先頭に立ったライスシャワー、今日は本領を見せました!最後の直線、後続が懸命に追い上げて来ましたが、それを退け僅かの差で勝利!まさしく二年越しの大復活でしたね、細江さん?』

『今日は動きが速かったですね。二周目の向こう正面から、前の前に取り付く走り。直線で差を詰められるも、最後は執念で勝ちを手にしましたね。この勝利は長い低迷を抜けた彼女本来の実力だけでなく、かつてのライバル、ミホノブルボンとメジロマックイーンの名誉をあらためて証明したと言えます』

 ようやく整ってきた息。汗を拭い、顔を上げる。眩しい陽光に目が眩む。直後に私は意図せずハッとする。思わず息を呑んだ。見上げた先、目と鼻の先にあるスタンドが揺れていた。

「す、すっげえ……」

「あんなの見せられたら、もう」

「ああ、認めるしかねえよな……」

「ライスシャワーって、あんなに凄かったのか」

「ただのヒールじゃ、なかったんだ……!」

 観客達が大きく声を上げ、うねり、巨大な一つの固まりとなって揺り動いていく。やがてそれは幾重もの『ライス』コールへと変わり、場内を震わせ続けた。

 これは――。

 今まで幾度と無く傍から指を咥えて見た。勝者たるウマ娘だけが得られた光景。私が見たいと羨み続けた景色。『奇跡の復活』を果たした時のトウカイテイオーさんや、ドキュメンタリーで復帰の意思を示した時のメジロマックイーンさん。この前のレースで圧勝し貫禄を見せつけたミホノブルボンさん。彼女達にしか得られない、もう叶わないと思っていたものが今、私の目の前にあった。

 これが私の望み続けたもの、『歓喜と祝福』……?

 湧き上がる人々の渦。はち切れんばかりの声。皆が驚いた顔をし、そして笑っていた。とても幸せそうにみえた。私が勝ったことで、皆に幸せを運んだ。

 だが。

 どうしてだろう。

 その光景を見ていても私は……何の感慨も湧かなかった。何も感じるものが無かった。本来ならば手の一つでも振って、礼の一つでもして応えるべきなのだろう。そんな気は起こらなかった。無味で乾燥した、何ら味気の無いものにしか見えなかった。

 勝ったのは、一着を取ったのは私だった。その結果、歓喜と祝福を一身に得た。それは間違いない、間違いない筈だった。

 なのに、それなのに何故こんなにも『渇く』んだろう。

 あれだけの反響を一身に受けたというのに何も満たされない。心にはぽっかりと穴が開いたまま。嬉しさも、悲しさもどちらもない。ただひたすらに渇く。心が渇く――。

 自問自答し、鬱屈とした思いを持て余しながら私はターフを後にする。地下バ道をくぐり、スクープのため我先にと近寄ってくる記者達をかわしながら、一旦選手控え室に戻ろうとした。一人きりになりたい気分だった。

 ところがその控え室で待っていた。誰も居ない筈の部屋に入った瞬間、中に気配がした。二人。私がそこに戻るのを狙い澄ましていたかのように部屋の中にその二人は居た。言うまでもない。

「ブルボンさん……マックイーンさん……」

 二人は言葉も無く、神妙な面持ちで私を見ていた。様々な、複雑な思いの絡んだ目で私を見ていた。それは数十秒間続いた、まるで睨み合いのように思えた。

「……ライス。優勝、おめでとう」

「おめでとうございます。でも……心配、していましたのよ」

 沈黙を経たのち、二人が静かな口調で云う。言葉とは裏腹に表情は依然として硬く声にもトーンが無い。怒っているのだろうと私は思った。当然だ。あの日経賞の敗北後、自棄になった意思のままに二人を拒絶しその許を離れた。何も言わず、それまでの長い付き合いへの礼すら無く一切の連絡を絶ったのだ。それ以来の恩讐の再会。怒って当然、見放されて当然だった。薄情者と、恩知らずと思われても仕方がない。

「…………」

 私は無論返す言葉も無い。あるとすれば、せめて謝罪することぐらいだろうか。ごめんなさい、という安易な謝意を述べることぐらいか。そう思った私は脳内で言葉をしたためおもむろに口を開こうとする。

 でもそれよりも早く、二人が近寄ってくる。私の方へと迫ってくる。引っ叩かれるのだろうか。否、違う。二人の目は潤んでいて、揺れ動いていて、そして。

「本当に、すみません。ライスの本当に辛い気持ちを分かってあげられずに、私達は――」

「親身になれていなかった、支えているつもりでいただけでした。私達はライスさんに何もしてあげれていなかったのです――」

 私を抱き寄せ、縋る様な面持ちで二人は言った。言葉を絞り出しながら、泣いているのが分かった。

 私は胸の奥底を叩かれるような衝撃を味わっていた。大きく空いた心に込み上げてくるものがあった。二人のもとを出奔したのはとても薄情な行為だったと自分でも思っている。さぞかし二人は不満なことだろうと想像もしていた。だけど二人の思いは予想とは違っていたのだ。

 違う――違うよ。二人は何も悪くないんだよ。ライスが自分の意思で飛び出した、いや、逃げ出したんだ。そして精神を切り捨てた。これ以上二人に迷惑を掛けたくなかったから――。

「お願いです。どうか学園に戻って下さい。皆が心配している。ライスの事を心配しているんです」

 ブルボンさんが涙で目を腫らしながら云う。いつもは表情に乏しく、時々考えている事が分からない彼女の、優しく温和な目。そこから目を逸らせない。

「だから今は、今は身体を休めて下さい。皆が待っていますのよ、ライスさんを。だから帰りましょう」

 マックイーンさんも泣いている。三連覇を砕かれた時も、毅然として振舞い涙一つ見せなかった彼女が、私の肩に顔を埋めて泣いている。

 私は思い知らされた。二人は本気で心底から心配してくれていたんだ。私が独りよがりに強くなる道を模索し、二人から逃げ出したあとも、この二人はずっと気に懸けてくれていた。学園の授業や、トレーニング、各々の用事も脇に置いて私を探してくれていたのかもしれない。二人の重荷にならないように、不幸に巻き込まないように出奔したのに、結局二人には今まで以上の迷惑を掛けていた。にもかかわらず私に戻って来て欲しいという、学園に戻って欲しいと。

 こんな私を――赦すの?臆病で独りよがりなライスに、また居場所をくれるの――?

 ブルボンさん。マックイーンさん。本当は、私は怖かったんだ。ウマ娘として輝きを取り戻していく二人が。それに引きかえ私はいつまでも弱く、愚かしく、自分を変えられないまま。いつかそんな私を二人は置き去りにして行ってしまうのではないか。そう思い込んでいた私は、ずっとずっと怖かったんだ――。

 不意に熱いものが込み上げてくる。目頭が震える。久方振りに衝いて出る、頬が濡れる感触があった。涙だ。ああ、私はいま泣いているんだ。そう自覚した時にはもう堪え切れなくなり、私は二人の腕に飛び込んでいた。一度切り捨てた筈の精神。もう流すこともないと思っていた涙がまた、私を大きく揺り動かす。

 同時に、分かった気がした。先程の勝利で歓喜と祝福を得たのに喜べなかった理由を。それは精神を切り捨て、心が抜け落ちていたから。歓喜と祝福を享受する器を失くしていたからだ。

 鬼を超えた鬼、なんて思い上がりも甚だしい。私は、心を失くした餓えと渇きに苦しむ亡者――『餓鬼』に為っていたに過ぎなかったのだ。

「ごめん、ごめんね。ライス、二人に、二人に……」

 言葉が詰まる。言いたいことが、言うべきことが続かない。押し殺した心、止まっていた情動の再始動に言葉が追い付かない。押し寄せる感情の波が枯渇していた精神を洗おうとする。体中が、心の奥底から急激に熱を帯びる。そんな私を宥めるように二人は肩や背を抱きとめてくれた。

 謝らないといけない。そしてもう一度、本当にあるべき道を――そんな考えがよぎった矢先だった。

 あの『悪夢』が。幻聴がまた、聞こえてきたのだ。

『引退は、まだ出来…すまい。中距…での勝利実績が乏し…』

『それに…の小…な馬体では、種牡馬として価値は知れている』

 頭に激痛が走る。割れるように痛い。私は思わず振り乱す。彼方から聞こえてくる言葉の明瞭さが以前より増している。その意味はやはり理解できない。

 しかしただ一つ、私は厳然たる事実を思い知る。

『価値だと、命とど……が大事なんだ!』

『無茶だ、コイツの疲…を考え…やってくれ!』

 一度切り捨てた精神、それを再び元に戻すということは。そう。それごと拭い去った筈のあの『悪夢』もまた蘇ってくる。私を決して逃すまいと、運命からは逃れられないのだと。どこまでも追い縋ってくる。この瞬間、その事実を私は骨の髄まで思い知らされたのだ。

『引退するまでに、まだ実績が必要なんだ』

『出るしかあるまい、宝塚記念に……!』

 宝塚記念――。

 その言葉が頭の中で反響し、心を粟立て震駭させる。

 一度戻りかけた精神が、心が。打ち寄せた波が引いていくように、薄っすらと掻き消えていく。心と体に灯りかけた熱が、氷水に陥れられたように瞬く間に冷め切っていく。頬を伝う涙が途切れ、干乾びるように霧散する。

 学園に戻ったところで、切り捨てた精神を元の鞘に戻したところで、同じ繰り返しをするだけなのではないのか。ならば道は一つ、既に選んだ道、自身で選択した末路。不要な精神を置き去りにせよ、心に渇きを、勝利だけを求めよ――耳元で運命の声が囁く。

『もう逃れられない。疲れたよね、だから楽になろう。こっちだよ……』

 私だ、私の声だ。この先の運命を知る、最果ての地で待つ私の声。魂の履行を望む没我の甘辞に、私の意識は塗り替えられた。暗澹たる黒一色、ヒールを体現したような漆黒の意思へと。

「ライス、どうしたんです。ライス!」

「一体何が。しっかりして下さいまし!」

 二人が何かを言っている。慌てふためいた様子で、私の身体を揺すっている。

 ごめんなさい。やっぱりライスは、一緒に居られないみたい。きっとまた裏切ってしまう、呆れさせてしまう。不幸を味わうのは私だけで十分なんだ。

 二人の手を払い、私は歩き出す。為すべきことはもう決まっている。永劫渇き続ける心を満たすため、勝利を求め続ける。運命のあるがままに、来るべき宿業をこの身に受け容れるのみ――。

「行くな、ライス!」

「待って、待ってください、ライスさん!」

 もういい、もういいんだよ。

 部屋の戸を開け放とうとした私は振り向きざまに二人を射抜いた。全身を突き抜ける黒々とした衝撃、瞳から青白い妖光が迸る。それに中てられ、制止しようとした二人はその場で固まった。蛇に睨まれた蛙の如く、驚愕に目を見開いたまま動かなくなってしまった。『餓鬼』として湛えた無尽の絶望・末法を垣間見た二人は、私とはもはや別の世界に分かたれたと知ってしまったように思えた。

「呼んでるんだ。あの淀の坂が、私を――」

 それだけを言い残し私は再び、二人のもとを立ち去った。痛みの止まない、左脚を引き摺りながら。




史話(四)
 
 一九九五年四月二十三日。第百十一回天皇賞(春)では主力馬不在の中、出走馬中唯一のGⅠ馬であるライスシャワーは京都記念、日経賞を共に六着だったこともあって四番人気の評価であった。逃げ馬が不在であったことからレースはスローペースで推移。ライスシャワーは二周目の向正面で行く気を見せたことから、騎手の的場氏は「この瞬間の馬のやる気にのって、その勢いでゴールまで粘りこむという、一種の奇襲戦法をとれば、僅かだが勝つチャンスがある」と考え、第三コーナーからロングスパートを仕掛けた。最終コーナーで馬群から抜け出して先頭に立ちそのまま逃げこみを図ったが、最後は追い込んできたステージチャンプと内外馬体が重なった状態で入線。際どい勝負であったが関西テレビの実況者杉本清氏はゴール後すぐ「やったやった、ライスシャワーです!」「メジロマックイーンもミホノブルボンも喜んでいる事でしょう」とライスシャワーの勝利を伝えた。写真判定の結果、ハナ差ライスシャワーが先着しており、一九九三年の同競走以来七二八日振りの勝利で復活を果たした。着差は約一〇センチという僅差であった。
 京都競馬場の長距離戦で第三コーナーから仕掛けることはセオリーを無視した騎乗とされており、的場氏は後に「あの騎乗は、もしライスシャワーが絶好調だったら絶対に選ばなかった乗り方だ。でもあのレースにおいては、勝つ確率が少しは高くなると思われる策だった。その一点に賭けて、僕らは勝ちに行ったのだ」と述べている。
 
●着順
 1着 ライスシャワー
 2着 ステージチャンプ
 3着 ハギノリアルキング
 4着 インターライナー
 5着 エアダブリン
 6着 ゴーゴーゼット
 7着 アルゼンチンタンゴ
 8着 ダイイチジョイフル
 9着 サンライトウェイ
 10着 ワンダフルタイム
 11着 イイデライナー
 12着 ヤシマソブリン
 13着 タマモハイウェイ
 14着 クリスタルケイ
 15着 アグネスパレード
 16着 キソジゴールド
 17着 ヤマニンドリーマー
 18着 メイショウレグナム
 
 結果として出走馬中ただ一頭のGⅠ馬が勝った。ミホノブルボンのクラシック三冠を阻み、メジロマックイーンの春天三連覇を阻止したライスシャワーが意地とプライドを見せたレースだった。それはかつて悪役と呼ばれた馬がヒーローに生まれ変わった瞬間であり、奇しくも一昨年と同じ二枠三番での勝利だった。
 そしてこれが、ライスシャワーにとって最後のゴールとなった。
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