新緑の時期になり青々とした葉をつけた並木を掠め、一団が往く。トレーニングコースの土が踏まれ、確かな手応えで蹴り出されたウッドチップが弾む。コースの外側、柵の外縁には学園の生徒たちがまばらに居並び、コース内を走る一人のウマ娘を注視しながら口々に会話を踊らせていた。
いよいよ今日からなのね――、よくあんな大怪我から――注目の声がそこかしこで上がる。
持て囃す外野を他所に、コースを走る一団はカーブを抜けて正面側ストレートに戻ってきた。非凡なハイペース。いの一番に駆け抜けてきたのは逃げの脚質を有するサイレンススズカ。それに牽引されるように、二番手スペシャルウィーク、三番手にウオッカとダイワスカーレットが並行して続く。そして最後尾に注目されている当人、メジロマックイーンが続いた。
今や学園でも一、二を争う実力派揃いとなったチーム『スピカ』。その並走トレーニングが今まさに行われていた。それだけならば日常的な光景なのだが、この日はマックイーンの復帰後初のトレーニング参加だった。そのことはかねてより学園内で話題となっており、彼女の久し振りの勇姿を一目見ようと練習コースに数多くのギャラリーが集っていた。
最後の直線で差が詰まるも「スピカ」の面々は先述した順位のまま続々とゴールに入線し、数秒の遅れでマックイーンもゴールインした。直後にギャラリーからは拍手や喝采が上がった。第一線で走る他のメンバーに遅れは取ったものの、実に約一年半ぶりに走りの世界へ舞い戻ってきた名優の姿を見た者達は心躍らせていた。
しかしそれはコースの外側にいる者達だけだった。ゴールを切ったスピカの面々は汗を拭い飲料片手に各々クールダウンを開始したが、一様に懸念の表情を浮かべている。その目線を向けるのは最後にゴールしたマックイーンに対してだった。
「どう思います、スズカさん」
スペシャルウィークがスズカにボトルを手渡しながら訊く。
「彼女の走り、あんなものじゃ無かったと思う。やっぱり集中できていないみたい」
「ライスシャワーさんのこと、でしょうか」
「……そうね」
スズカの神妙な言葉に、皆が共感していた。その理由も既に一同には察しがついていた。
以前の第百十一回天皇賞(春)。あのライスシャワーが二年振りの勝利を掴み世間を賑わせたレース。その観戦に――ひいてはライスに会うため現地へ向かったマックイーン。だが、そこから帰ってからの彼女の様子がおかしい。件のライスも学園には戻らぬまま。何かがあった。マックイーンの心を曇らせる何らかの事象が起きた。そう考えるのが自然だった。
当初、スピカの面々は話を聞こうとした。マックイーンの憂慮の理由、ライスに何があったのか。だが彼女は多くを語ろうとしなかった。「私にも分からない」そうしきりに口にして、明言することは避けていた。
「……もう一本、走ってきます」
間を置かず、水分を摂ったマックイーンは単身立ち上がるとコースを走り出した。
「初日から飛ばしすぎだぜ」「そうよ」ウオッカとスカーレットが止める声も聞かず、マックイーンはあっという間に前を過ぎ去りコーナーに消えた。心なしか、駆け抜ける表情は八方かぶれだった。
ギャラリーからは再度喝采が舞う。事情も知らぬ外野は、ただ能天気に声を張り上げる。
そんな様子をコース横の学園校舎内から見下ろす者がいた。上層階に位置する生徒会室のカーテンの隙間から、単身コースを駆けるマックイーンを峻厳たる面持ちで俯瞰する一人のウマ娘。生徒会長、シンボリルドルフ。皇帝と称され学園内外問わず多くの者から崇められる彼女もまた、重苦しい表情を浮かべていた。間も無く訪れる嵐の到来を予期するかのように。
***
チャイムが鳴る。学園全体に共通放送として決まりきった時間に流れる予鈴。十五時ちょうどを告げるもの。それを聞き流しながらミホノブルボンは遅い昼食をぼうっとした面持ちで口に運んでいた。場所は学園内の食堂。一人でテーブルに座してはや三〇分、彼女の箸は一向に進まない。時間が時間なので周りを見渡しても他の生徒の姿は少なく、食堂内は閑散としている。
『次のニュースです。先日可決された耐震改修促進法の今冬からの施行に先立ち、兵庫県では県独自の調査を実施したところ、県内の大規模集客施設の……』
壁に吊るされた大型テレビジョンでは、十五時のニュースが始まっている。他愛もない話題を意に介さず、ブルボンはようやく最後の一口を食べ終えた。机の上には中身の空っぽになった食器だけが残る。何だか今の自分の心境のようだ、と彼女は思う。
いつもならば授業も終わったこの時間はチームでのトレーニングに充てる時間だったが、今のブルボンはすることが無かった。厳密に云うと、彼女はトレーナーの黒沼から当面の休暇が言い渡されていた。
「そんな腑抜けた状態で走れると思っているのか。当面休んでろ」つい先日のトレーニング中に大声で叱責された時の言葉だ。周りのチームメイトはその剣幕に震撼し、後でそこまで怒らなくてもと同情もされた。
ブルボン自身も最初は驚きもしたが、すぐにトレーナーの本心は察した。あの天皇賞での一件以来の心の痞え。それをすっかり見抜かれていた。それがトレーニングに身が入らない要因となっていること、ブルボンの心中に翳りを及ぼしていることも。黒沼の言う休んでいろ、とはその心の痞え――ライスを取り巻く問題を解決してこいという暗黙の了解だと、ブルボンは心得ていた。かつて過剰なトレーニングにより故障を誘引させたこともあって、黒沼は今の彼女に無理をさせたくなかったのだ。トレーニングから一時離れることにはなったがブルボンはその配慮に感謝もしていた。
だが――、一体何から手を付ければいいのか。
布団の中でも、朝食の時も、授業の間も、昼食のタイミングを逸するほどずっと思い悩み考え続けても、見通しは立たないままだった。ライスを“元に戻す”方法が。
「お隣、失礼します」
ようやく食器を返却しようかと思いだした時、ブルボンのテーブルに来訪者が現れた。マックイーンだった。彼女もちょうど授業終わりであったらしく、学園の制式鞄を肩から降ろし向かいの席に座った。その表情はブルボンと似たり寄ったりな浮かない面持ちだった。
「何か、思い浮かびましたか――」
「……いえ」
マックイーンの問い掛けに、ブルボンは小さく首を振る。会話はそれだけで途切れ、力が抜けたように両者は机上に目線を落とした。
「もう、一か月も経ちます。何も変わらないまま」
長い間を開けたのちブルボンは独り言のように宣う。自らを省みるように、苦い無力さを味わうように。
第百十一回天皇賞(春)からひと月が経過していた。ライスは、未だ戻らない。ブルボンとマックイーンは消息を得ようと動き続けていたが進展は無く、ただ徒に時間を浪費していくだけだった。
ライスシャワーの二年越しの勝利、そして二度目の春天制覇。レース後の世間はその話題に大きく沸いていた。それはテイオーの奇跡の復活と比べても遜色ない華々しい快挙に違いなかった。その華やかな舞台の裏で起こっていた驚愕の事態は、ブルボンとマックイーンしか知らない。
ライスに起こった異変。肉体を御する精神を捨て、限界を突破する驚異的な走りを実現させた『鬼を超える鬼』。彼女はその力を余すところなく解放し、勝った。二年ぶりの悲願の勝利をもぎ取り、紛れも無く歓喜と祝福を得た。だがライスはその代償として精神を――心を失くした『餓鬼』と化していた。少女のように稚く、愛くるしかった彼女はまるで人が変わったかのように、悪鬼の如き変貌を遂げてしまった。
ブルボンとマックイーンはあの日見た全てを回顧する。日経賞以降どれだけ探しても邂逅できなかったライスが天皇賞に出ると知った二人は、レース場ならば必ず会える筈だと京都レース場に赴いた。そして観客席からライスの凄まじい走りを目の当たりにした。一着でゴール板を駆け抜ける瞬間も、ようやくライスの強さを認めた観客から巻き起こる万雷の拍手も見ていた。二人もライスがようやく報われたと思った、が、同時にレース中から彼女の身に起きた変貌も鋭敏に感じ取っていた。
レース後、控え室にて待った。果たしてライスは姿を現した。二人の不安はそこで確信に変わる。よく見知ったライスの面影はそこになく、その本質は勝利を渇望する飢えた鬼に取って代わられていた。二人は再会してすぐに理解した。精神は肉体を超えられる――かつてそれを実践してみせたライスは、今度はより強靭な肉体を発揮せんが為に敢えて精神を切り捨てたのだと。そしてそれは果てしない葛藤と苦しみ、血と涙の果てに、彼女が身を切る思いで敢行した究極の選択なのだということも。
ライスの苦しみは分かっていた、分かっていたつもりだった。常に付き纏うヒールの影に苛まれ、陥った長い低迷。その矢先に負った故障。もう勝てないのでは、歓喜と祝福は得ることはないのではという復帰への不安。そして、今なお子細が謎に包まれている『悪夢』。
ブルボンとマックイーンは思う。ライスの傍に寄り添い、悩みと苦しみを自ら打ち明けてくれるまで待つ。当初二人はそう考えていた。彼女を最も苦しめる『悪夢』を無為に引き出し苦しめたくはない、せめて傍にいてあげて心の拠り所を与えたい、その上で話せると思った時に打ち明けてくれれば――そんな思いからの決意だった。だがそれは間違いだったのだろうか。ライスの立場からすればそれは、ただ放置され、見放されているだけに映ったのではないか。
自分たちがライスを追い詰めたのか。彼女の事を分かっているつもりになって、知ったふうになって接し続けた結果、彼女が離れて行ってしまう引き金となったのではないか。心を捨てた鬼となる原因だったのではないか。もしそうであれば今まで自分たちのしてきたことは何だったのだろう?ライスの為を思ってしたことは全て、かえって彼女を苦しめるだけだったのだろうか。
その正否を確かめる間も無く、ライスは再び二人の前から去った。その時の事は今でもはっきりと覚えている。近寄る者を圧し拉げる、隔絶を突きつける漆黒のオーラ。見るものを射抜き、封殺するような青白く妖しく輝く眼。鬼を超えた鬼と化したライスから二人は、底知れない絶望と拒絶を感じていた。その戦慄の姿は深々と心に刻み込まれ、以後の二人に影を落としていた。
もしもまたライスに会えたとして、自分たちはどう接することが出来るのだろう。また以前のように見守ってあげればよいのか。それとも単刀直入に『悪夢』の事を問い質せばよいのか。どちらも出来そうにない。どちらを選ぼうとライスはまた、去ってしまうのではないか。自分たちをきっぱりと拒絶し今度こそ、二度と手の届かない遥か遠くへ往ってしまうのではないか。
二人はジレンマに陥っていた。また会いたい、ライスに会いたい。だがそれが怖い、会うのが怖い。何かに憑りつかれたような恐るべき姿のライス。彼女はもう自分たちを受け容れてはくれないかもしれない。『ヒーロー』であり『ライバル』であったライス。臆病ではあったがひたむきで、純粋で素直な、大切な友人であったライス。昨日のことのように思い起こせるかつての姿が頭をよぎり、ブルボンとマックイーンはテーブル上で互いに目を逸らす。もうあの頃には戻れないのだろうか。そんな言葉が胸中を覆ってきた。
チャイムが鳴る。時刻は十六時を回っていた。この予鈴を以て学園での一日の授業時間は全て終了となる。
窓の外の空には真っ黒な積乱雲が発達していく。程なくして一雨降るだろう。トレーニングを切り上げた者、下校し寮に戻ろうとする者らが、食堂の眼下のキャンパスを足早に過ぎ去っていく。
「二人ともちょっといいだろうか」
薄暗くなった食堂に声が響いた。凛とした、それでいて荘厳なトーン。聞き覚えのある声だった。ブルボンやマックイーンのみならず、トレセン学園に関わる者ならば誰もが聞き知っている声。
「あなたは」
「ルドルフ会長……?」
突然の来訪者にブルボンとマックイーンは目を見張った。
***
生徒の往来が絶えた廊下や階段を先導されるままに歩く。窓の外からは時折閃光が差し込み、長い間を置いて鈍い遠雷が響いてくる。それに触発されたようにぽつぽつと、やがて雑多なノイズを響かせる雨音が鳴り始めた。バケツを返したようなにわか雨は、あたかも空が泣いているようだった。
ブルボンとマックイーンは学園内のある一室へ案内された。トレセン学園生徒会長、シンボリルドルフの直々の招致によって。部屋の名は生徒会室。文字通りルドルフを筆頭とした生徒会の面々がその活動拠点としている執務の間だ。
「座ってくれ」
生徒会室の応接間に通された二人はこわごわと言われるがままソファに腰掛ける。部屋にはブルボンとマックイーン、そしてルドルフの三人のみ。他の生徒会メンバーは見当たらない。
放課後のこんな時間に会長が直々に自分たちを呼び出す用事とは。ブルボンとマックイーンは薄々、今後の展開を察しだす。
そこへ。「失礼します」三人しか居なかった応接間の戸がノックされてもう一人、おもむろに入室してくる。小柄なウマ娘だった。給仕用トレーを片手に、ソファに座る三者に飲み物を粛々と配ると颯爽と身を翻し戻っていく。落ち着いた所作に、その人物をよく知るマックイーンは思わず目を丸くする。まるで彼女の実家の給仕係のような自然な動きに少なからず感心したのだ。
トウカイテイオー。かつての奇跡の立役者は生徒会室への来賓対応を貞淑にこなすと、小さく一礼して後ろへ下がった。
「ありがとうテイオー、あとのことは私が。今日はもう上がってくれ」
「うん。マックイーンもブルボンも、久しぶりだね。ごゆっくりどうぞ」
ルドルフにそう言われたテイオーは静かに笑みを浮かべ、応接間を後にした。普段の学園生活での振舞いや『スピカ』にいる時の彼女とうって変わって物柔らかな様子に、ブルボンもマックイーンも意外な驚きを感じていた。
テイオーはあの有馬記念の後、競走活動の傍らであることを始めた。それは生徒会活動への従事だ。浮沈を繰り返す波瀾な競走生活を送ってきた彼女はその中で何かしら思うところがあったのか、敬愛するルドルフに倣い生徒会活動の補佐をするようになっていた。明確な役職はまだ無く、あくまで手伝いや雑務をするだけの立場だったが、先程の振舞いといい生徒会内では既に様々な手ほどきを受けているのかもしれない。一言でいえば、どこか垢抜け大人びたという印象をブルボンとマックイーンは抱いた。
「いきなりで済まない、ここまでご足労頂き恐れ入る。実は二人に話があってな」
それはよそに、再び三人だけとなった応接間でルドルフは早くも本題を切り出そうとする。表情も険しいものになり、ぴりっと部屋の空気が張り詰めた。
「話というのは君達の友人、ライスシャワーのことなんだが」
やはりその話か――ブルボンとマックイーンは互いに顔を見合わせた。生徒会室に先導されている時から二人には予想し得たことだった。
「一か月前の天皇賞、彼女の走りは見事だったな。低迷を乗り越えた二年越しの復活勝利、素晴らしかった。親交が深い君達にとっても喜ばしい事だろう」
二人は内心で溜め息をついた。ライスと親交が深いのなら喜ばしいだろう――ルドルフの科白は既に様々な相手から言われたものだ。
故障からの復帰以降、ライスが二人と三人四脚で走りに取り組んできた事実は多くの者が認識している。そのライスが天皇賞という舞台で二年越しの復活を遂げた。結果だけを見れば確かに喜ばしいことだろう。だがそれは上辺しか知らない者の言葉に過ぎない。裏で今、ライスがどういう状況に直面しているのか世間は知らない、何も分かっていないのだ。
「だが、当のライスシャワーは近頃どうも姿を現さないようだ。見たところ学園での就学状況やトレーニング参加も、ここ数か月間途絶えている。所属寮長のヒシアマゾンからは自主トレという名目で外に出たきりと聞いているが」
ルドルフは鋭い声色で続けた。事情聴取を執り行う刑事よろしく、さらに事情を追及しようとしているのが二人には分かった。
「仮にも生徒会長という立場上、レースで結果を出したとはいえ学園生活を蔑ろにする生徒を看過するわけにもいかなくてな。そこで彼女と親密な君達に話を聞きたい」
そういう話かと二人は合点がいく。ルドルフは生徒会長として、生徒であるライスが学園にも姿を見せない現状を気に懸けているのだろう。ゆえにライスと親交のあるブルボンとマックイーンから事情を聴くために呼んだのだ。
二人は反応に窮した。何と答えたものか。この数か月の間にライスの身に起こったことは、今に至るまで誰にも口外していない。信を置く者へ相談すべきかと考えたこともあったが、話したところで十分な理解を得られるとも思えないし、世間的には二年越しの復活を囃されているライスの評価に水を差すのではとも思えた。
そして何よりも、誰かに話すことで、今自分たちはライスを怖れているのだと認めてしまうようで。これまで築いてきた三人の関係が決定的に崩れてしまうではないかと思え、安易に口に出来なかった。
「どうだろう。彼女の最近の動向に関して何か知っている事があれば、教えて欲しいのだが」
ルドルフの問いに二人は目を伏せた。何と返答すればよいかと思いあぐねる。
「じ、実家に帰省しているのでは」冷や汗を流してブルボンが言う。
「多分、スイーツの食べ過ぎで減量のために」目線を泳がせながらマックイーンが呟く。
沈黙は不味い、何か言わねば、とちぐはぐな回答をした両者を射すくめ、ルドルフは息を小さく吐いた。そして柳眉を逆立て、「では質問を変えよう。あの天皇賞のレースで彼女の身に起きていた異変について話してもらおうか」こう問うた。
ブルボンもマックイーンもたまらず泡を食った。あまりにも直球な問い方からして、既にルドルフがおおよその当たりを付けているのは明らかだった。
どうしてその事を、世間が全く触れてもいない事実をどうして。動揺を顕わにする二人の顔を見、ルドルフは嘆息しながらこう宣う。
「仮にも皇帝を自負する私の目を、節穴と侮ってもらっては困るな」
学園の全生徒の頂点に立つ生徒会長シンボリルドルフ。ウマ娘としての実績や周囲を惹きつけるカリスマ性もさることながら、その洞察力、本質を見抜く力は長年培った経験値と相俟って並大抵のものではない。それを以てして、あのレースを見ただけで二人と同様にルドルフもライスの異変を鋭くキャッチしたのだろう。神懸かり的だ、とさえ二人には思えた。
今までひた隠してきた図星をあっさりと指され、すっかり萎縮気味になってしまった二人。それを流石に見かねたのか、ルドルフは努めて穏やかな口調に戻り、言い諭した。
「どうか、話してはくれないか。これはライスシャワーのためでもある。頼む」
生徒会長の真摯な表情に、迷いはまだあったが、ブルボンとマックイーンは意を決した。
二人は包み隠さず打ち明けることにした。ライスの身に起きた分かり得る子細の全てを。彼女が抱いていた精神的な弱点、日経賞後の出奔、精神を切り捨てた天皇賞での変貌、そして例の『悪夢』のことまで、これまで内に秘め続けた苦い心境ごと吐露した。ライスに対して後ろめたさはあったが、ルドルフはその事を不用意に周囲へ広めるような真似はしないと思ったし、信を置けるとも思えた。話をする間も、ルドルフは終始落ち着いた様子で二人の話を聞き入っていた。ただその表情は話の深度に合わせるようにどんどん、より険しくなっていった。
「……なるほど、事情は分かった」
長い時間を掛け二人が説明を終えるとルドルフは目を瞑り、考え込む。再び沈黙が室内を支配し、ブルボンとマックイーンは困惑する。
そしてここから更に、思わぬ方向へと話題の舵が切られていく。
「これから私がする話は到底受け入れられない……というより、とても馬鹿げたものに聞こえるだろう。それを念頭に置いて聞いて欲しい」
普段は直入に物申す、ルドルフらしからぬ前置きの口上を告げられ二人は身を固くした。一体何の話をしようというのか。
ソファを立ったルドルフは部屋の奥の執務机から古めかしい書籍を抱えてきてそれを脇に置く。『ウマ娘の歴史』、『ウマ娘行動心理学』、『精神分析学~ウマ娘の場合~』等々、古くから存在するウマ娘に関する専門書を捲りながら、ぽつぽつと言葉を投げかけてくる。
「ウマ娘は、別世界の魂が乗り移った存在、というのを聞いたことはあるな?」
「は、はい。確かその魂の名を受け継ぎ走る」
「それが私達の運命、と習いましたわ」
二人はかつて履修した授業を思い返しながら答えた。トレセン学園のカリキュラムには自分達ウマ娘に関する基礎知識を学ぶ授業が幾つかある。社会・経済、生物学、心理学等、あらゆる側面からウマ娘を考察しその何たるかの理解を図るものなのだが、その教導基本理念には以下の一文がある。
『ウマ娘とは、走るために生まれてきた。ときに数奇で、ときに輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る。それが、彼女たちの運命』と。
「これは以前ウマ娘に関する古い文献で目にした、オカルトじみた話だが」捲っていた本をぱたりと閉じながらルドルフは言葉を紡ぐ。「別世界での魂が歩んだ運命。私達ウマ娘の人生はその再現を為している、という説があるんだ」
二人にはその言葉の意味がすぐには解せない。怪訝な表情を浮かべながらルドルフを凝視する。
「例えばテイオーが有馬で復活を果たしたのは、別世界の魂がかつて果たした偉業が……“ただそのまま再現された”とする仮説がある。勿論単なる仮説だ、テイオーが自身の力で掴み取った結果だと私は思っているが」
何だって――。二人は思わず呆気に取られた。
つまりは、自分達ウマ娘が切磋琢磨し合う日常や、各地で開催されている数多くのレース結果は全て、別世界の魂とやらが歩んだ運命をそのまま再現しているというのか。ブルボンが無敗で二冠を達成したのも、マックイーンが天皇賞(春)を二連覇したのも、ライスが二人の前に立ちはだかり更なる偉業達成を打ち砕いたのも、全て元から運命により決まっていた予定調和だとでもいうのか。
ルドルフが馬鹿げた話、と前置きした意味が理解できた。とても簡単に受け入れられる話ではなかった。その意味の解釈次第では、下手をすれば自分達ウマ娘の存在が根底から覆されるようにも思えた。
「しかしだ、仮にその仮説を信じるとするならば。もしその運命とやらが負の方向にも作用することがあるとしたら」
二人の反応を窺いつつもルドルフは話をどんどん進めていく。語るべき、予期し得る核心へと着実に迫っていく。
「覚えているか、サイレンススズカが故障した秋の天皇賞を」
ブルボンもマックイーンもその言葉に身を震わせた。その時点でルドルフの語ろうとしている結論が垣間見えた気がした。
挙げられたのはトレセン学園に属するものならば誰でも知っている事件だった。所謂“沈黙の日曜日”。当時名実共に最盛期を迎えていたサイレンススズカが、天皇賞(秋)のレース中に故障、競走中止となった大事件だ。
「あの時スズカは心身共に最高潮だった。にも関わらずレース中に突如左脚に故障をきたした。当時治療に当たった医師団曰く、故障原因は今なお不明のままだそうだ。というよりも原因が分からないのではなく、無い……予兆も前触れもなく、まるで運命の悪戯のように発生したとの事らしい」
この一件が競走界に与えた衝撃は大きく、重度の怪我を負ったスズカは一時、競走引退間近に追い込まれ、当該レースを目にした者の中にはトラウマとなった者もいたほどだった。
運命の悪戯、というにはあまりにも残酷な出来事である。
「……それがライスさんと、どう関係あるというんですの」
堪りかねたマックイーンが口を挟んだ。だがそう口にしながらも直感していた。隣にいるブルボンも同様だった。
まさか――それと似通う出来事が、これからライスの身にも起きるというのか。二人の表情が徐々に青ざめていく。
「君達は言ったな、ライスは悪夢に魘されていると。根拠もない想像だが、その悪夢とは彼女が辿る運命を、意図せず予知夢として見ているのではないだろうか」
馬鹿な。受け入れられない。オカルティックな本当に馬鹿げた話だ。だが聞き流すことも、一笑に付すことも出来ない。これまでのライスの移りゆく姿をずっと見てきているからこそ、ルドルフの話は奇妙な真実性を以て二人に突き刺さる。
「同じウマ娘とは思えない、天皇賞での真正の鬼が憑りついたような姿、かつての彼女とは思えない変貌。予知夢によって自らの辿る運命を悟った彼女が、自らその変容を受容しているのだとしたら」
「そんな、こと」ブルボンが反駁しようとする。が、続く言葉が紡げない。あの悪夢を思い出そうとした際のライスの怯える姿が脳裏をよぎる。怖れ慄き、震えて苦しんでいたライスの姿が。ルドルフの仮説を聞いた今ならば納得がいく、いってしまう。
「ライスシャワーはもしかしたら、運命に引き込まれつつあるのではないだろうか。かつて別世界の魂が辿った悲しい運命に憑りつかれて。私はそんな気がしてならない」
そう結論付け、ルドルフは一旦話を締め括った。
雷が鳴る。稲光で白黒のストロボに晒された生徒会室の空気が、びりびりと揺れる。雨はまだ当面止みそうにはない。痛い沈黙が三人の間にしばらく流れた。
「仮に……その話が現実に起こり得るとして。会長はどうお考えですか」
やがて沈黙を破り、ブルボンが恐る恐る問う。
「繰り返しになるが、天皇賞でのライスシャワーの走り、あれは異様だ。ウマ娘としての能力を越えた、文字通り心身を削った走り。そのためのトレーニングも常用的に行っているとなれば、非常に大きな負荷が掛かっていよう。このままいけば――」
潰れる。ライスシャワーの身体は潰れてしまう。ルドルフはきっぱりそう断じた。
精神を捨てて得た限界を超えた身体。その身体までもが潰れてしまった時、ライスは一体どうなってしまうのだろう。あらぬ想像に二人は心底から粟立つ。
「どうしたら防げると思われますか。ライスさんに起きるその悲劇を」
マックイーンが食い気味にルドルフへ迫る。ルドルフは苦渋の表情を浮かべた。
「……私が提案できる解決策が一つだけある。だが君達にとっても苦しいものとなろう。方法は単純、学園の権限によってレース出場を差し止める」
そう宣うルドルフの顔には不本意、とまさしく書いてあるようだった。
解決策の具体的内容はこうだ。まず学園側からURAへライスシャワーのレース出場差し止め措置を行う。数か月もの間、学園を不在にしている就学義務不履行を主理由としてだ。この差し止め請求が受理されれば彼女は全レースの出場が不可能となる。さすればライス本人が、差し止めに対する申し立てを行うため学園に足を運ばざるを得なくなる。そこを押さえる。有無を言わさず休養をさせ、心身の自壊に歯止めをかけるというものだった。
だがレース出場を禁じられるということ――それは競走界に生きるウマ娘にとっては存在を否定されるようなものであり、ある意味死と同義であった。仮にその後再びレースに出られるようになったとしても『出場差し止めになったライスシャワー』という経歴が世間に与える影響は計り知れない。過去の実績からいまだヒール扱いを多く受ける彼女にとって、決定的なマイナスイメージとなるのは避けようがない。ルドルフが自分の案に消極的なのはそうした理由があった。
そしてそれだけではない。学園から、自身の存在を否定された――ひいてはルドルフや、親友であったブルボンやマックイーンの決定によってレースの道を断たれたと知れば、ライスはどう思うだろうか?その心境を思えば思うほど、二人は胸を引き裂かれるような思いがした。
「決められません、そんな方法……」
「そうですわ……」
二人は頭を抱えながらそう答えるので精一杯だった。
途方も無い事態になったとつくづく実感する。行方知らずとなったままのライスは、見えざる運命の手により望まぬ末路へ進もうとしている。ブルボンとマックイーンは知ってしまった、もう座視できる状況ではない、静観している猶予はないということを。
とは言え、今のところ打つ手は無い。ライスの行方や、次にどのレースに出場しようとしているのかといった動向も何ら掴めないのだ。現状はルドルフが提示しているレース出場差し止めという強硬手段しか現実的な対処法が無い。その苦肉の策も、二人に決行する覚悟は到底なかった。
「他に方法があるとすれば直接会って説得するくらいだが、行方が分からないのではな」
ルドルフもうーんと唸りながら他の方策を熟考している。強硬手段を使いたくないのは彼女も山々だ。行方を辿るにはどうしたらよいのか。「せめて、次に何処のレースに現れるのか」思い悩みつつ何の気なしに発せられたその言葉に、ブルボンは思わずはっとする。
何処のレースに――そういえば。「ライスは以前言っていました。“淀の坂が呼んでいる”と」
思い余ってブルボンは大きな声を発した。天皇賞のレース後、別れ際にライスがうわごとのように宣っていた言葉を思い起こしたのだ。
他の二人もそれを聞いて目を見開く。淀の坂。その言葉で連想されるものは。
「淀、と言えば京都レース場のことか?」
「もしやライスさんは、次も京都開催のレースに?」
ルドルフとマックイーンが口々に言った。
よもや、思わぬ処から降って湧いた仮説。一か月前の天皇賞で勝利を掴んだ京都レース場、すなわち淀のターフに再びライスは現れるのではないか?つまり次にライスが出てくるのは、京都開催のいずれかのレースなのではないか?そういう仮説へと思い至る。
しかし。
「いや待て。当面、無い。京都での開催レースは幸か不幸か、しばらくの間一切無い」
ルドルフは生徒会室の壁に貼られたレースカレンダーを即座に確認した。京都でのレースは例年四・五月に一開催十二日間開催される。三人がいま会談している五月末の時点で、既に全レース日程は終了していた。京都での次期開催は秋季の十・十一月まで待たねばならない。つまり。
「その話の通りならば、彼女は当面レースに出てこないという事になる……」
勿論、自分達の勝手な想像に過ぎない。他のレースに出てくる可能性もある――ルドルフの言葉に、ブルボンもマックイーンもそこから先の二の句が継げなかった。京都レース場をマークする策は根本的に、打開策になりえないと感じた。
***
それからも生徒会室で三人の議論は続いた。しかし他にこれといった案が出ないまま時間だけが流れその場は解散とされた。残された時間は少ないのだと、三人は予感していた。
「手は早く打たねばならない、強硬策のこと、よく考えておいてくれ」ルドルフが最後に念押しした言葉を反芻しながら、遅い夕食を摂るためブルボンとマックイーンは再び食堂へと戻った。はっきり言って食事どころでは無かった。二人の間に流れる空気は昼間より一層重苦しくなっていた。
「どうしたら、いいでしょう」
「どうすれば、よいのでしょうか」
箸も進まず、思い詰めたままテーブルについた二人は同じタイミングで質問を投げ、同じタイミングで黙りこくった。二人は焦燥感に駆られていた。強硬策に同意すれば、ルドルフは断腸の思いながらレース出場差し止めの手続きに入るだろう。そうすればライスの身に降り掛かる目下の悲劇は防げるのかもしれない。だがそれは同時に彼女のウマ娘としての本懐を奪い去ることにもなるのだ。
どちらかを選べと言われても二人には到底選べない。親友であるライスの生殺与奪を握らされたような現状に、際限なく気が滅入った。
それでも本当に時間は無い。決断の時はもう間近に来ている。その予感が二人に悲愴な覚悟を迫る。やはりルドルフの案に賭けるしかないのだろうか、レース出場を無理にでも止めて学園へ連れ戻すしか――。徐々に二人の決心は傾きつつあった。
窓の外ではまだ雨がしぶしぶと降っている。食堂の閉店時間が近づき、他のウマ娘らが一人、また一人と席を立っていく。ラストオーダーの時間も過ぎ、厨房の従業員らは積み重なった食器やワゴンを慌ただしく片付け、いそいそと閉店作業に入っていた。
『……やってきましたURAニュースのお時間です。細江さんと共に、今夜もウマ娘に関する話題のトピックを紹介して参りましょう』
壁に掛かった大型テレビジョンでは、ちょうど夜のスポーツニュース放映が始まった。実況者の赤坂氏と解説者の細江氏による、ウマ娘とそのレースに関連した話題を紹介する定期コーナーが映し出されている。
ブルボンはそれには目もくれず、ため息をついて久々に箸をつけた。人参の乗ったハンバーグはすっかり冷め切っている。
『えー、早速ですが、速報です。本日、阪神レース場運営事務局が発表した耐震工事計画を受け、つい先ほどURAから以下の発表がなされました』
今流れているニュースは、ウマ娘のレース興行に使用されている阪神レース場で施設の老朽化による耐震強度不足が発覚、問題視されているという内容だった。震度七クラスの大地震が発生した場合の施設の安全性が保証出来ないということで、急遽耐震工事が行われるのである。
ライスの事で思い煩っている二人にとって、それはさして関心を引くほどの話題でもない。聞き流しながらマックイーンも人参スープを呷った。生温くなっているのは言うまでもない。
『URAによると、本年度宝塚記念の阪神レース場開催は、当該施設の耐震検査が間に合わないとして断念するとの発表があり……』
例年、宝塚記念は阪神レース場で行われている。本年の開催は目前まで迫っていたが先述した事由による急遽の工事入りを受け、URAが開催を取り止める判断を下したというのだ。こればかりは止むを得ない事情だ。
だが。
『その救済措置として本年に限り、宝塚記念を京都レース場で臨時に代替開催することも併せて発表され……』
――京都レース場で代替開催?その文言にブルボンとマックイーンは耳を疑った。思わず席を立ち、テレビの前に陣取った。
画面上では、記者会見席でURAの責任者らがマイクを片手に経緯を語っている。画面端には『GⅠ宝塚記念、京都臨時開催』のテロップ。聞き間違いなどではない、紛れも無い事実だ。二人は心臓が跳ね上がり震撼するのを実感した。
「これは……!」
「な、なんですって!?」
驚愕のあまり、画面に向かって声を上げる二人。
京都レース場での臨時開催、そして淀の坂が呼んでいるというライスの言葉。交わらないと思われた二つの点が思いも寄らぬ形で結び付いてしまった。
何故。何故こんなことが。衝撃、という言葉でさえも足りない。
『……以上、ご覧になられましたでしょうか。一時は開催が危ぶまれましたが、六月四日、京都レース場にて第三十六回宝塚記念が臨時開催となるようです!』
六月四日、京都レース場、宝塚記念――その文字の羅列に、ブルボンとマックイーンは体の芯から戦慄くのを感じた。何故かは分からない、だがとても嫌な予感がした。二人にも宿っているであろう、別世界の同じ名を持つ魂。その魂は知っているのかも知れない。その日そこで、何が起こるのかを。その本能が二人にひしひしと危機感を告げるのだ。
『続きましてその宝塚記念。ファン投票による集計結果が締め切られたとのことで、早速見てみましょう』
畳み掛けるように更なる衝撃が二人を襲う。画面上には宝塚記念のファン投票集計表が大きく映し出された。昨今の競走界を席巻する、錚々たるウマ娘達の名が連なっている。宝塚記念は有馬記念と同様にファン投票で出走ウマ娘を決め、得票数上位者には優先出走権が与えられていた。そして今回の投票で、最多票を得たウマ娘は――。
『集計の結果、一〇五七九九票でファン投票一位を獲得したのは……ライスシャワー!天皇賞での復活劇が記憶に新しい、ライスシャワーです!』
『低迷からの大復活を評価されてのものでしょう。ヒールと言われ続けた彼女ですがこれは文句なし、納得の一番人気と言えます』
『宝塚記念、実に楽しみですね細江さん』
『そうですね。彼女をはじめ、有力なウマ娘が選出されたこのレース。白熱した展開が期待できますよ』
投票結果に沸く画面の向こう側を他所に、ブルボンとマックイーンは愕然とテレビの前で立ち尽くした。待ったなしで破局への手数が進んでいく。事態は取り返しのつかない段階へ陥っていく。ルドルフの言っていた、ウマ娘の辿るという運命。その底知れない業の深さと偏執的なまでの可逆性を一挙に見せつけられたのだ。
「だ、駄目です。ライスは、きっと出る、宝塚記念に……」
手を震わせながらブルボンが呟いた。もはや認めざるを得ない、完全に信じざるを得ない。あらゆる要素が指し示している。ライスの辿る末路を明確に示している。
「これが……運命?私達にはライスさんの運命を止められないのですか……?」
マックイーンは力なく床にへたり込んだ。思い悩み足踏みしていた二人を嘲笑うかのように、運命は先の先へと往ってしまった。修正が不可能な域へと。
もうライスは止まらない。淀のターフに移された宝塚記念へ、彼女は彼女に課された運命のままに邁進する。レース出場差し止めという強硬策も今からでは間に合いはしないだろう。ファン投票一番人気で、宝塚記念への最優先出場権が与えられたのだ。開催が直前に迫った今、レース最大の目玉となる出走者を学園からの待ったで今更止められるとは思えない。既に出来上がった大きな流れを押し留めることは到底不可能だった。
六月四日、京都レース場でのライスシャワー宝塚記念出走。もはや避けられない、疑う余地もない。そこで『何か』が起きる。ライスシャワーを破滅に導く『何か』が――。
運命のピースが全て嵌まる音を、二人ははっきり聞いた気がした。
「マックイーンさん、ともかくこの事を会長に」
「でも、ああなってはもう差し止めなんて効きませんわ」
「ならどうすれば、他に手があるのですか……!」
「そんな事、私が聞きたいくらいですわ、私が……!」
他に誰も居なくなった食堂で、二人は半ばパニックに陥った。ああでもない、こうでもないと討議しようとするが言葉は踊るのみ。打つ手を全て失い、出来ることといえば地団駄を踏むことぐらいしかなかった。
その実、二人は心底から自分を情けないと呪った。ライスを支えるどころか、彼女が悲しい道を辿ろうとしていたことに気付くこともなかった。所詮はライスを手助けしているという自己欺瞞に溺れていただけだったのではないか、そのツケが今まさに回ってきたのではないか、と。
ブルボンは思う。『ヒール』ではなく『ヒーロー』だと、かつて彼女はそう宣いライスを激励した。だがそれは勝手な押し付けだったのではないだろうか。目標が欲しかったという自分の心象や願望を彼女に投影していただけではないか。それ故にライスは長く苦しみ、喘ぎ、挙句の果てに運命の渦に身をやつす結果になったのではないか――。
マックイーンは思う。かつて自分の夢を阻んだ『ライバル』を支え、復帰の手助けをした。だがそれはライスが自分を倒しその夢を奪ったという現実から目を逸らす為――その『ライバル』と馴れ合うことで傷ついた自尊心を満たすという歪曲した渇求があったからではないか。そんな底意地が知らず知らずのうちに、彼女を追い込み、運命の渦中へ駆り立ててしまったのではないか――。
一度思い込むともはや負の螺旋だった。膨れ上がっていく消極的な思い。自分達が――私が、不甲斐無かったからライスは去っていった。その背中を止めることが出来なかった。本当は隣に立つ資格などなかった。自分達はライスを本当の意味で救うことなど出来なかった。もうやり直す事は出来ない。賽は投げられた。長い雌伏の時を終え、ファン投票一位で初めて文字通りのヒーローとして立つはずの宝塚記念。その舞台を最期に彼女は――。
あらぬ想像が脳裏を掠め、二人は絶望に言葉を失った。気が付けば二人とも互いを見合わせたまま、さめざめと涙を流していた。間も無く来る審判の刻を前に、如何ともしがたい圧倒的な見えざる力を前に、無力さを思い知りただただ嘆いた。
ライスシャワーはもう決して戻らない。帰ってはこない。私達にはもうどうしようも……。
そう思い、全てを投げ出しそうになったまさにその時だった。
「諦めちゃダメだよ」
他に誰も居ないと思われた食堂に明朗な声が突如響いた。二人は思わず振り向いた。二人の間に割って入ろうとするように、小柄な少女が一人。
いつの間にいたのか、それはトウカイテイオーだった。
「いま話してたの、ライスの事だね」
「どうしてそれを」涙を拭いながらマックイーンが問う。
テイオーはごめん、と一言添えて、「実は生徒会室で盗み聞きしちゃった。あんなにピリピリしてたカイチョー、久々に見たから」頭を掻きながら遠慮がちに答えた。
ブルボンもマックイーンも咎める気にもならず、気まずそうに目を逸らすだけだった。二人は今の状況に困惑していた。ただでさえつい先ほどまで互いにライスのことで気を揉み乱心していた。そこへ急に話に割って入って来たテイオーの意図が読めない。しかしそんな二人へ交互に目配せをしながら、テイオーは穏やかな表情を浮かべて続ける。
「正直驚いたよ。別の世界とか、魂とか、ウマ娘の運命とか、考えたこともなかった。凄く難しい話だってことしか、そのせいでライスが辛い目に遭ってることぐらいしかボクには分からない」
ぽつぽつと、純粋なテイオーらしい素直な言い分。だが続けて「でも、一つだけ分かることがある」凛とした声音で発せられた言葉に二人は顔を上げる。
「運命なんかに縛られちゃダメだ」
毅然とした表情でテイオーは宣う。二人を見据えて、一喝するような気勢でそう宣告する。それが他人事のように聞こえたのは、ブルボンにもマックイーンにも否めない。いきなり何を――テイオーは自分達がいま置かれている状況を十分に理解していないのだ、と。だがその言葉は心の奥底にまで確かな残響を残していく。不思議な引っ掛かりを二人の心中に騒めかせる。
「カイチョーは言ってたね、ボクがあの有馬記念を勝てたのは運命のおかげかもしれないって。でも自信を持って言うよ」
テイオーの表情から穏やかな笑みがふっと消える。それを目にしているブルボンとマックイーンは、知らず知らずのうちに引き込まれている。テイオーが醸す誰かと似通う語勢と覇気に。
「ボクがあそこで勝てたのは、奇跡を起こせたのは運命じゃない。一緒に走る仲間がいたから。言葉を交わし、手を取り合い、心を許し合って、助け合えた仲間がいたからだ。それに応えなきゃって思えたからだ」
言葉の途中から、テイオーは真っ直ぐにマックイーンを見据えた。その真っ直ぐな視線で心を突かれたように、マックイーンは狼狽する。仲間――。ここしばらく続いた鬱屈とした状況の中で随分久しぶりに聞いた単語のように思える。テイオーとマックイーン。一昨年の激しい競走界を駆け抜けた中心的な二人。その道程は決して順風なものではなかった。互いに栄光と挫折、勝利と敗北の狭間で藻掻き、苦しみ、時に笑い、涙した。その果てに二人が得たものは何だっただろう。
もしもテイオーがいなければ――自分は繋靭帯炎で、走りを諦めていたのだろうか。テイオーがあの時手を差し伸べてくれなければ、もう走ることは出来ない、無理をして走る意味も無いのだと、あそこで『メジロマックイーン』は終わっていたのだろうか。
仲間がいたから――自分はその運命を乗り越えられたのだろうか?テイオーもまた、自分がいたからあの有馬を乗り越えられたのだろうか?
(だとするならば、今のライスさんは……)
「いまライスはひとりぼっちだ。とっても怖くて、寂しくて、きっと震えてる。だからこそ、ライスの一番近くにいた二人が傍に居てあげなくちゃだめだ」
テイオーは次にブルボンを見据えた。傍に居てあげなくては――その一言に、頭を強く打ったような感覚をブルボンは味わう。それはかつて彼女自身も口にしていた言葉だった。ライスを支えてあげたい。何も言わずとも、傍にいて心の拠り所になってあげたい、安心させてあげたい。その想いの由来は一体何だっただろう。
そうだ。ライスは自分にとって――、初めての目標だった。無敗の三冠を破られ、故障で離脱を余儀なくされた自分の目の前に颯爽と現れた大いなる目標。それがライスを意識するようになったきっかけ。彼女とまた走りたい、今度は負けないよう全力を尽くしたい。感情表現が希薄でサイボーグと揶揄されたブルボンにとって、初めて内から溢れた気持ちの発露。ライスがいたから、今の自分がある。その繋がりの尊さ、大切さを理解し得なければ『ミホノブルボン』は再び起動することなくそこで終わっていたのだろうか。友と歩む温もりを知らぬ冷たいサイボーグのまま。
自分はひとりぼっちではなかった。孤独なサイボーグでは無いと、ライスが教えてくれたから――運命を乗り越えられたのだろうか?
(なら、今ライスにしてあげられることは――)
「行ってあげて。次の宝塚記念、きっとライスは出る。たとえ何があっても、どんなことがあろうと、そこから目を背けちゃいけない。ライスが走る姿を、二人が寄り添って見てあげるんだ」
意を決したテイオーが一気に捲し立てる。意気消沈しそうだった二人に火を着けようと、促そうと。その目つきは普段の、あどけなく世間見ずなものではない。遠く見据えたその先に、非常に小さくも確かに起こり得る可能性――奇跡を確信した、煌きを帯びた目に違いなかった。
「で、でもテイオー」
「レースに出たら。ライスは……」
それでも。懸念はまだ尽きはしない、容易に認められるものではない。テイオーの助言を信じライスの宝塚記念を見守ったとして、果たして本当に彼女は乗り越えられるのか。過酷な旅路の終着点、悲劇が待っているであろう舞台を、最期の運命を乗り越えられるのか。二人はまだ半信半疑だった。
そんな不安を遥か彼方まで吹き飛ばすように、「四の五の言わずに行くんだ!」テイオーが大声を張り上げる。びりびりと、フロア全体に響く甲高く、突き抜けるような声。
ブルボンとマックイーンは足先から毛先まで震えた。慄いたのではない、武者震いのように感じられた。
「ライスの事を諦めないで。でないと。奇跡は起こらないよ」
最後に不敵な微笑を再び浮かべ、テイオーはそう締め括った。聞くものに、えもいわれぬ気迫を与える語勢と覇気。誰かに似ていると感じられたもの。それはテイオー自身が最も憧れる者とそっくりだった。かつてどこかで誰かが言っていた、帝王は皇帝を超えたかもしれないと。ブルボンとマックイーンはそれをまさに今実感していた。
打つ手は最早尽きたと思われた。もうライスを止められる術はないのだと絶望もした。でも、違う。まだある。自分達に出来ることがたった一つだけ。遠回りであっても、たとえどんな現実が待っていようとも、あなたにしてあげられることが。最初から、分かっていたことだ。
怖れてはならない、行くしかない、運命の舞台へ。ライスに寄り添う為に――。
二人が友を思う清廉な意志。その友の運命が佳境に差し掛かった今、間も無くその真価が問われようとしている。待っているのは悪夢か、奇跡か。
いつの間にか、雨は止んでいた。
ついに、運命の日は訪れる。
史話(五)
一九九五年一月一七日、阪神・淡路大震災が発生。阪神競馬場の一部が損壊。当年開催予定だった桜花賞や宝塚記念は京都競馬場で開催されるなど代替競馬が開催された。
ライスシャワーは天皇賞後疲れが見られたことから、放牧に出ることも考えられていた。だが宝塚記念のファン投票で一位に選出されたこと、この競走が震災の影響で得意の京都競馬場での開催となっていたこと、そして天皇賞に続いてこのレースも最有力のナリタブライアンが回避したことで出走が決定する。さらに種牡馬入りが再度検討された際、やはり中距離競走での実績が必須であると結論付けられた事情もあった。宝塚記念二日後の六月六日には、種牡馬入りへの支援を申し出たJRAの担当者がライスシャワーを見に来る予定にもなっていた。