祝福を継ぐもの【完結】   作:李座空

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第六章 祝福

 私は――ライスシャワーはどうして生まれてきたのだろう?

 祝福の意味を持つ名を受け、

 ウマ娘としての道を歩み出した私に、

 待っていたのは茨の道だった。

 勝利することで得られると思っていた、

 歓喜と祝福はそこにはなかった。

 かわりに待っていたのは落胆と呪詛の声。

 ヒーローではなくヒールとしての扱いだった。

 

『……ああ、ライスシャワー先頭に立った!ミホノブルボンは三冠にならず!ライスシャワーです、ライスシャワーです!あっという悲鳴に変わりましたゴール前!……』

 ――あなたさえ、あなたさえいなければ。無敗の三冠に私は――。

 あの菊花賞の舞台。ゴールした私をブルボンさんが睨みつけてくる。深い恨みのこもった目で。あのレースで私はブルボンさんを不幸にした。紛れも無く彼女の夢を奪った。

 

『……ライスシャワー完全に先頭!ライスシャワーだ、ライスシャワー一着!マックイーンは二着!黒い刺客、天皇賞でもメジロマックイーンの大記録を打ち砕きました!……』

 ――あなたが、あなたがいなければ。三連覇は私のものでしたのに――。

 あの春の天皇賞。マックイーンさんが涙を流しながら言う。深い憎しみを滲ませた声で。あのレースで私はマックイーンさんも不幸にした。間違いなく彼女の夢を踏み躙った。

 どうして私は走るのだろう。走れば走るほど、周りに不幸を振り撒くばかりではなかったか。思えば私が望んだものは何一つ叶わなかった。自らの走りで、それを見てくれる皆に与えたのは不幸ばかりだった。所詮は叶わぬ運命だと初めから決まっていたのだろうか、走り続ける果てに辿るべき末路はもう決まっていたのだろうか。

 どうして今更こんなことを考えるんだろう。私にはもう何も無いのに。あるのはただ精神を――心を失くした、操り人形のように衝き動かされる肉体だけ。何ら意味も無くなった勝利だけを求める餓鬼としての身体だけだ。

 今も聞こえる。声にならない声が、淀の坂から私を呼ぶ声が聞こえてくる。あそこには何が待っているのだろう。私が欲するもの、望むものがあの坂の向こうにはあるのだろうか。

 そんなものはない。私の夢を叶えるものなど何も待っていない。あるのはただ運命のみ、運命の終着点が待つのみ。何かが私の中でそう告げる。この痛む左脚を引き摺ってでも、そこへ向かえと意思を統べる。

 私は行かなくちゃならない。運命に従って。

 もう私は――ライスは、走り疲れたよ。

 だから行こう、あの最期のターフに。

 

 

***

 

 

『……三十六回目を迎えました、宝塚記念。本年は諸般の事情あって京都レース場で行われます。本バ場入場、それではあらためて十七人の出走ウマ娘をご紹介しましょう』

 渇く。喉が渇く。いや、違う。渇いているのは喉じゃない。渇いているのは私の心だ。その渇きを満たすため、失くした心の器を埋めるため、私はいまだに走ろうとする。

 身体の赴くままに訪れた京都レース場。第三十六回宝塚記念。大勢の観客も、色とりどりの勝負服の出走ウマ娘達も、青々とした空もターフも。全てが灰色がかって、乾燥して見える。そこまで意味の無いものに見える。私にとって意味あるものは勝利。際限ない渇きをほんの一時でも誤魔化し、仮初めの安息をもたらしてくれる勝利のみ。

『続いて八枠十六番ライスシャワー、春の天皇賞ウマ娘です。二年ぶりに復活した彼女はこの宝塚記念にファン投票最多得票で選出、レース前から大歓声を受けています!』

 本バ場入場、返し走行。どうでもいい、何もかもがどうでもいい。こんなことをしている場合じゃない。私は早く走って勝利を得たい、勝利の為だけにここに来た。いち早くゲート前に辿り着き枠入りの準備を待つことにする。

「タイシン、頑張ってね」「一年ぶりのレースだ、無理はしないようにな」隣で他のウマ娘が会話をしている。観客席にいる応援者達と喋っているらしい。その光景に既視感を覚える。私にもかつて同じようにレース前に声を掛けてくれる人がいた。もう会うことはないであろう、私が不幸にしてしまった人達。今頃は私のことなど忘れてあるべき日々へと戻っていった筈だ。私にとっても彼女たちにとっても、それで良かったんだ――と思う。

『これからスターターが台に上がりまして、第三十六回宝塚記念GⅠのファンファーレ。京都レース場、大歓声が上がる。今年上半期を締め括る大一番、間も無く始まります』

 何も聞こえない、何も耳にする必要もない。ゲート入りが始まりウマ娘達が続々と入っていく。私も造作も無く歩み寄り、狭いゲート内へ収められる。背後で音が鳴りゲートが閉じられる。

 不意に頭の隅が騒めく。思わず振り向く。ゲートを閉めた係員と目が合った。不思議そうに見返してくる。もう後ろには引けない、戻ることはできない。閉められたゲートを見つめて私は予感する、が、それさえもすぐにどうでもよく思えた。

『さあ今年もウマ娘の、そして私達の夢を乗せて走る宝塚記念。ゲートが開いて一七人が一斉に飛び出した!』

 呆気なくゲートは開かれた。その向こうには清々しいまでの白い空。眩しい、と感じる。周囲が駆け出す。総勢十七人のウマ娘の足取りが地面を揺らす。ターフが揺れている。思わず足を取られるような錯覚に陥る。

 これしきのことで。直ぐに無心を取り戻し、進路を得ようと身体を軋らせる。十六番という外枠からの発走だ、最初のホームストレッチを終えて内についた頃には、バ群の最後方に着く形となる。スタートは好ましいとは言い難いものだった。宝塚記念の走行距離は二二〇〇メートル、芝は稍重。長距離戦を本分とする私にとっては比較的短期戦となる。思い描く一着への布石の為には出遅れたと言わざるを得ない。

『第一コーナーへ殺到する十七人ですが、ご覧のように緑のシャドーロールが揺れていますタリキバンガード、内を掬ってセイヨーラファールが先頭に立ちました』

 先頭までは固まったバ群が連なっていた。位置取りも思いの外、苦しいポジションを掴まされた。

 これでは勝利が――私の勝利が手に出来ない、掴めない。

 どいて――邪魔だ、退け。

 私を妨げるな――。

「……ハァアアアアア――――ッ!!」

 足を思い切り跳ね上げ、地面に大穴を穿つように蹴り出す。肉体に秘めたる力の発現。精神を捨てて得た餓鬼の力で私は蹴散らそうとした。勝利を邪魔する周囲の万物を、圧し拉げるように。後方から一気に先頭集団にまで躍り出ようと最初の第一コーナーから仕掛けた。

(――仕掛ける?何の為に?)

 決まっている、勝つ為、勝利する為。常に私はそのため走り続けてきた。

(本当にそうだったの?)

 今の私には勝利こそが全て。勝たなくては、勝ち続けなくては、歓喜も祝福も絶えずこの手から零れ落ちていく。ほんの一時のまやかしに過ぎない。だから勝つ、この宝塚記念も、次のレースも――。

 ――次?

 次って、いつだろう。私にこの次なんてあるんだろうか?

『ご覧のように各ウマ娘、まだ一団十七人。第二コーナーに向かいます。四番のセイヨーラファール依然トップをひた走る、ダンシントアロの姿も見えた。距離二二〇〇にどう対応するか、ライスシャワーはまだ後方!』

 そして、最初のコーナーを回った時点で私は気が付いた。様子がおかしい。身体がついてこない、前方との差が縮まらない。以前の天皇賞のような、精神を切り捨て極限まで削ぎ落した体に宿った餓鬼。限界以上を発揮できる筈の走力が、今は十分に解放出来ず、殆ど本領を発現出来ない。

 なんで――?どうして?バ群がこじ開けられない。先頭まで連なる他の出走ウマ娘達の中に、勝利の二文字は埋もれていく。

 困惑する私の脳裏を、忘れた筈の言葉がよぎっていく。

(――ライスが走ってくれないと、私達が困るのです。あなたは私達のヒーローであり、私達にとっての目標。たとえ世界中があなたをヒールと呼んでもこれだけは覆らない。だから……)

 分かっている――分かっている!私は一番に駆け抜けねばならない。でないと、でないと。

(引退は、まだ出来ますまい。中距離での勝利実績が乏しい)

(それにこの小さな馬体では、種牡馬として価値は知れている)

(無茶だ、コイツの疲労を考えてやってくれ!)

(引退するまでに、まだ実績が必要なんだ)

 私には何も、なくなってしまう。精神を失くし、心の道標失き肉の人形と化した私が、勝つことも出来なくなったら。存在している意味なんかない。ただの不必要な生物になってしまう――。

『……後方集団も動きはまだないが、内を通って、ナリタタイシンの元気な姿も見えました、八番はナリタタイシン。それから十六番、春の天皇賞を制したライスシャワー、虎視眈々と機会を窺っているのか?』

 まだだ、まだ向こう正面に入っただけ。この位置からでもスパートは出来る。ここから全速を出せればごぼう抜きに出来る、先頭まで躍り出れる。

(――ブルボンさんのように粋な言葉は言えませんけれど。放っておけませんのよ、諦めそうになっている方の背を。かつての誰かを、見ているようで――)

 分かっている――分かっている!こんなところで終わりたくない、終わるわけにはいかない。でないと私は一体何のために生まれてきたのか、それすらも分からないままじゃないか。だから勝つ、勝つ!勝つ!このレースに、宝塚記念に勝って見つけるんだ、証明するんだ!

(何を見つけるの?何を証明するの?)

 それは、それは……ライス自身の証明。勝利する。勝利することで歓喜と祝福を――。

 ――?

 私は何の為に走ってきたのだろう?勝利の為?歓喜と祝福の為?勝利は祝福を得るための手段に過ぎない?祝福は勝利に付随する添え物でしかない?

 分からなくなる。私は一体今まで何をしてきたんだろう。苦しみ藻掻き走り続けてきた目的が今になって分からなくなる。それともそれ以外にも答えがあったのだろうか。遠い彼方に置き去りにしてきた、一番大切な答えは何だったろう。分かるのだろうか?この宝塚のゴールに辿り着けば、その答えが。

(ゴールなんてない。終わるんだよ、ここで)

 運命を受容した心が囁きかける。その瞬間私は戦慄した。

 先刻より、意識外から聞こえてくる数多の声。この現象はかつて散々私を苦しめ続けてきたあの『悪夢』と似ていた。しかし今聞こえるこの声はまるで、すぐ傍から直接語りかけてくるような生々しさがある。それでいて似ているのだ、他ならぬ私の声に。

 そう悟ったと同時に景色が歪む。青々とした淀のターフがぐずぐずに溶け、それにとって代わるように真っ暗で煤けた芝が続いた。荒れた廃道の如く変貌したコースの両岸には、不気味な紅を放つ彼岸花が咲き並ぶ。一緒に走っていた筈のウマ娘達の姿も掻き消えた。

 いや、一人いる。私の陰に隠れるように、ぴったりマークするように並走してくる。それが何かはすぐに分かった。横目で見る。漆黒の勝負服に黒い髪を靡かせる、黒ずくめのウマ娘。それは他ならぬ私自身だった。もう一人の私は、頬に涙を伝わせながら私を外から抜きに掛かる。その口元が動いている、私に囁きかけてくる。

(ゴールまでは辿り着けない。それが運命なんだよ)悲痛に訴えかけるようにもう一人の私が言う。

 涙に腫らしたその眼から、私は目を逸らせない。私にはもう流せない涙を彼女は見せつけるように真横を並走してくる。その姿から感情的な波をひしひしと感じる。底なしの悲しみ、深い恨み、悔いきれぬ後悔、身を切る絶望。もう一人の私からありとあらゆる負の感情が流れ込んでくる。かつて私も味わったことのあるものが。

 ――ああ、そうか。私は理解する。幻想の只中に突如現れたもう一人の自分。彼女はかつて私が切り捨てた『精神』そのものだ。肉体を越えられない脆弱な足手纏いとして切り捨てた『精神』が、もう一人の自分という形となって再び表れたものなのだと。

(あの淀の坂で、全てが終わる)

 もう一人の私が前方を指さす。バックストレッチの終わりに、坂が見える。勾配のある京都レース場の第三コーナー、所謂淀の坂。見るとその坂の終点――坂の下りに彼岸花が溢れんばかりに乱れ咲いていた。そこから先の道は真っ暗闇に覆われ途切れている。

(ライスはあそこで、最期を迎えるんだよ)達観した口調で彼女はそう告げた。

 その言葉で私は分かった気がした。あそこが私の最期の――。意外なほどにすんなりと、私はこれから自分の身に起こることを受容していた。

 薄々分かっていたのかもしれない。本当はずっと前から悟っていた。あの『悪夢』を見始めたころから、私は私の辿る末路を。二度に渡る大記録の阻止。そこから生まれたヒールの影、祝福無き勝者。その後の長い低迷、ヒールをよりヒールたらしめた苦渋の刻。二年の刻を越えての天皇賞での大復活、ようやく初めて受けた祝福の賛辞。満を持して、ヒーローとして初めて臨むこととなった宝塚記念。そこで辿る悲惨な最期。

 何てことは無い。実に私らしい、日陰者に相応しい末路じゃないか――。もう一人の私は、いち早く運命を受容していた彼女は分かっていたんだ。だけど精神を切り捨てていた私には分かっていなかった。彼女の悲痛な声に気付くのが遅すぎた。今日ここに、来るべきでは無かったのだ。運命に呑み込まれると分かっていながら。私は結局、衝き動かされるまま来るべくしてここまで来てしまった。取り返しのつかない処まで。

 でも、それでもいい。これでもういいんだ。

 今更、あの坂を回避したとして他に何があるだろう。何も無い。私にはもう何も残っていない。精神を蔑ろにし、肉体も傷つき、最も大切なものもなげうってしまった私には、これ以上走り続ける意味も資格も無い。戻るべき場所すらも、無い。

『早くも十七人が第三コーナーをカーブして、第四コーナーへ向かう!淀の坂を下る!ここからどのウマ娘が抜け出してくるか!第三十六回宝塚記念は佳境へ――!』

 私はヒールじゃない。ヒーローになりたかったんだ。

 勝利のためじゃない。歓喜と祝福を得たかったんだ。

 そして私の走りを見てくれる人達に、幸せをあげたかった。

 でも、そんなのは夢物語だった。叶わぬ夢だった。

 それが運命だったのだから。

 私はもう――ライスはもう、走り疲れたよ。

 溢れんばかりに咲き狂う彼岸花の群れ。坂を下り始めた私の身に、その場所はどんどん近づいてくる。最期の場。行き着く処。ライスシャワーとしての運命を遂げる場所。

 暗闇に塗りつぶされていたそのコースの先に、見えたような気がした。遥かなる故郷、母なるユートピア。最期に私を迎えに来たのだろうか。

「ああ、行こう。還ろう――」

 やっと楽になれる。もう苦しまなくていい。そう思い最期の一歩を踏み出そうとした。

 その時だった。

(――ライス!)

(――諦めないで!)

 二つの声が聞こえた。暗闇の中でも明瞭に響いた。聞き覚えのある、二度と聞けないと思っていた声。

 思わず我に返る。目の前に戻ってくる元の、淀のターフの景色。淀の坂から彼方に見上げた大スタンド。私の目が満員となったその客席の一点を捉えた。ゴール前の最前席。そのあたりだけが突然光って見えた。

 その二人は深く項垂れていた。詫びるように、祈るように胸の前で両手を握り合わせていた。細かく震えている気配までもが伝わってくる。その姿を見て私は身体の奥底から熱いものが押し寄せてくるのを感じた。今日のこのレース前にも声を掛けにきてくれていた。でも私には何も聞こえず、見えてもいなかった。失くしたと思っていた最も大切なものは、いつでも一番近くにいてくれたのに。私がどんな姿になろうとも。

 そうだった。まだちゃんと謝れていない。謝らなきゃ、二人に。

 ブルボンさん――。

 マックイーンさん――。

 直後。

 何かが砕ける音がする。左脚。血と肉が抉れる感触。急速に力が抜ける。二人の方へ差し伸ばそうとした手が、空を切った。青いターフが、地面が視界一杯に迫ってくる。

『場内悲鳴が上がった!?一人転倒、一人転倒!こ、これは誰が転倒したんでありましょうか!?ライスシャワー転倒、ライスシャワーが転倒している!?』

 弾けて舞う土と芝。うねり狂うコーナー柵。真っ白な空。眩しすぎる太陽。観客一杯のスタンド。黒いターフビジョン。転倒しターフ上をのたうつ私の視界を、目まぐるしく移り変わる景色。その全てがスローモーションのように流れていく。あたかも走馬灯のように。

 身体じゅうが痛い。時速六〇キロ以上から転倒した衝撃で、全身に無数の傷が入る。ようやく慣性が収まり、投げ出された第三コーナーの上で私は突っ伏した。

 それきりだった。起き上がることも、かぶりを振ることも、足はおろか指一本動かすことも私は出来なくなった。唯一分かるのは、左脚が千切れそうな程痛い。眼球を動かすこともできず、脚の状態がどうなったかさえ確認できない。悲鳴一つさえ、上げることが出来ない。

『だ、大波乱。第三コーナーの下りで、あの、天皇賞では先行で渡ったライスシャワーが転倒!第三コーナーで大アクシデント、なんと十六番のライスシャワー故障……!』

 会場が騒然としているのが伝わってくる。その一方で私は状況をおぼろげに理解してきた。淀の坂で、あの第三コーナーで私は転倒した。左脚を故障したことによって。

 そういうことだったんだ――これが私の運命。此処に至りようやく私は全てを理解し得た。

 精神を切り捨て極限まで肉体を突き詰めた。その果てに鬼を超えた力を体現した。しかしそれはウマ娘としての肉体の限度を超えた酷使に次ぐ酷使を重ねて得たもの。身体の悲鳴すら聞き取ることを放棄していた私は、自身の脚が限界を迎えることさえ気付いていなかった。その末のレース中の故障発生。それは起こるべくして起こったもの、私自身が招いた結果だった。

 運命は私を逃さなかった。最期の最期、私の身体に戻ってきそうになった心。そのささやかな熱意の芽を完全に摘む様に、完膚なきまでに私をこの淀の坂へと叩き伏せた。

 視界が徐々に暗くなる。コーナー柵の向こうから、係員や救急要員が駆けつけてくるのが見える。でももう手遅れだろう、既に命運は決したのだから。故障した左脚から全身の力が――魂さえも抜けていくように感じられる。心も身体も、ライスシャワーという存在が見えないものに吸い取られ薄れていく。こんな時なのに、否、こんな時だからかとても眠い。瞼が重くなる。このまま目を閉じれば二度と目覚めることもないのだろう。

 矢は放たれ、たった今射抜いた。元から分かりきった結末、自ら承知で進んだ末路だ。受け入れる他無い。運命の終着点、ライスの最期を。

 唯一つの心残りは、謝れないまま。ブルボンさんとマックイーンさんに最期まで謝れないままだ。二人はきっと転倒の瞬間を目の当たりにしただろう。そしてこのまま私の末路を見届けることとなるのだろう。最期の最期まで私は、不幸な思いを二人に味わわせるのだ。そんな二人の心境を慮ると胸がこの上なく痛んだ。

 ――ごめんなさい。ブルボンさん。マックイーンさん。ごめんね――。

 せめてもと私は心中で二人に合掌する。永劫届くことの無い思いを独白した。心の底から申し訳なく思った。情けなくて、惨めで、消え入ってしまいたかった。

 瞼が閉じられる。もう何も見えない。黒一色の漆黒の世界。これから私が逝く世界。冷たくて、無機質な、渇ききった永遠の無。私はその瞬間、静止した。ウマ娘としての生命活動を停止し、身も心も役割を終えた。ライスシャワーという存在が終わりを迎えた。

 

 

 やがて『あの足音』が聞こえてくる。

 悪夢の中で幾度となく自分を追いかけてきた怪物の足音。地面を蹴る音は異様に大きく、幾重にも折り重なった、人ならぬ重々しい足音。それが徐々に近づいてくる。倒れ伏した私の元へと迫り来る。死神の足音だ、と感じた。

 思えばこの足音の主はいつも、夢の中で私を追い立ててきた。まるで私を運命の末路へ駆り立てるように。故に、死神が来たのだと思った。だが運命を完全に受容したいま、嘗てのような恐怖はもうない。連れていかれることに、多少の未練はあれども後悔はもはやない。迎えに来たというのならばかえって好都合。連れて行って欲しい。この魂の還るべき場所に、懐かしきユートピアに――。

 そう考え私は観念した。無の世界に突っ伏したまま。果たして足音は間近にまでやって来た。どす、どす、という重厚で鋭い音が耳元のすぐ近くで響いて止まる。死神がいま自分を見下ろしている。審判が下される刻を私は黙して待った。

 ――――。

 その瞬間はなかなか訪れなかった。

 代わりに息遣いが聞こえた。空を震わす静かに嘶く声も。何かが私の頬をくすぐってくる。とても大きくて、確かな熱を持った何かが。

 温かい。これは――なんだろう。

 恐る恐る、私は目を開けてみる。滲む視界の中にぼんやりとそのシルエットが浮かび上がってくる。真っ先に目に入ったのは四本の細く長い脚。一見すると華奢に見えるが、その四肢には絞り込まれ集束された強靭な筋が浮かび上がる。その脚が支える、漆黒の美しい艶がかった毛並みを持つ胴部。屈強さと美しさを兼ね備えた、芸術的にも思える肉体はとても大きく、私の五倍以上はあるのではないか。そしてその胴から緩やかに伸びた頸と鬣、精悍な風格を感じさせる面長の顔。私の頬に触れていた鼻端を離すと、死神だと思っていた“それ”は私の前で泰然とした様子で甲高く嘶いた。

 見たことの無い生き物だった。私の知らない、名も知らぬ生き物。でも何故だか知っている。知らない筈なのに知っている。私は『あなた』のことを知っている――。

 自然と手が伸びた。もう動かないと思っていた手が、その生き物の額へ吸い寄せられるように。つぶらな瞳を閉じた『あなた』も、まるで何かを伝えようとするように自ずから頭を寄せ、額を私の手の平にそっと添えた。

 互いが触れ合った瞬間、目の前が微かに煌いた。そして私の脳裏に、幾多の光景が流れ込んでくる。

 

 

『ぽっと出の脇役に、ブルボンもマックイーンも偉業を阻止されるなんて』

『この悪役!どの面下げて出走する気だ』

『無敗の三冠が見たかったんだ』

『春の天皇賞三連覇が、消えちまったよ』

 遥か彼方の別世界の京都、淀のターフ。スタンドにすし詰めになった何万もの群衆が罵詈雑言を叫ぶ。私がかつて受けた心無い声の数々、誰にも報われぬ勝利の味。あなたも同じ光景を見ていた、同じ思いをしていた。私よりもずっとずっと、前に。

 私が見聞きしたものと同じものをあなたは見ていた。

 あなたが見聞きしたものと同じものを私は見てきた。

 

 

『この馬の本領はここから。次の菊花賞で、徹底マークの成果を見せてやれ!』

『倒せメジロを!お前ならやれる、三連覇を砕いてやれ!』

『誰が何と言おうとお前はヒーローだ、この厩舎にとってお前はヒーローなんだ!』

 古めかしい小屋の中に漂う寝藁の香り。入れ替わり立ち替わり現れる名も知らぬ人たちが、私の――あなたの名を呼び、語り掛けては消えていく。遠い昔、そこではあなたを家族のように思い大切にしてくれる人達がいた。ヒーローだと褒め称えてくれる人達がいた。

 

 

『引退は、まだ出来ますまい。中距離での勝利実績が乏しい』

『それにこの小さな馬体では、種牡馬として価値は知れている』

『無茶だ、コイツの疲労を考えてやってくれ!』

『引退するまでに、まだ実績が必要なんだ』

『出るしかあるまい、宝塚記念に……!』

 今度はその人たちが苦渋の表情であなたを見つめている。口々に何かを言い合いながら痛切な面持ちを浮かべ、申し訳なさそうに、労わるようにあなたの頸を撫でる。

 ああそうか。この後に、私は――。

 

 

『……一頭落馬!一頭落馬!これは何が落馬したんでしょうか!ライスシャワー落馬!ライスシャワー落馬であります!大波乱、大波乱!第三コーナーの下りであの、あの天皇賞では先行で渡ったライスシャワーが落馬しています!……』

『……ああ、無残!十六番のライスシャワー、左脚骨折……!第三コーナーの下りで大アクシデント……』

『……お知らせします。只今のレースで、十六番・ライスシャワー号は、他の馬に関係なく故障を発症し、競走を中止し……』

 淀の坂で最期を迎える、あなたが――。

 胸が張り裂けそうになる。もう助からない。駆け付けた人たちの誰もが悲痛な面持ちで、あなたをターフ上に横たえる。泣いている人もいる。その場に幔幕が張られ、白衣を着た人が注射器を取り出し、そして――。

 

 

 そこで脳裏を流れていた景色は終わった。永遠とも思える刻の狭間で私は見た。別世界の同じ名を持つ魂が歩んだ運命、その全てを。

 そう。今目の前に悠然と佇む見たことの無いこの生き物は――あなたは、他でもない私。ライスシャワーの魂そのもの。私の辿った末路はまさしく元の魂が歩んだ運命の再現だった。私が宝塚記念で、淀の坂で最期を迎えるのも必然だった。全てが繋がり、合点がいった。納得もした。やっぱりこれが運命だった、私のウマ娘として定められていた運命だった。そう独りで得心した。諦めがついた、そんな気持ちだった。

 しかしそんな私の心中を見透かしたかのように、あなたは突然私の元に再び近寄り、大きな口で私の腕を引っ張り上げる。

 何をするの――?

 不思議と痛みは無かった。これから眠りにつこうとしていたところを強い力で揺り起こされた私は、その場で立ち上がらされる。思わずよろけそうになった背中を、額と鼻梁でぐいと押し支えられた。起きなさい、と言われているようだった。

 もう眠らせてよ――起きている意味がないんだもの。

 そう訴えかける。あなたと視線がぶつかる。本当にそうかな、とつぶらな瞳が言い返してくる。

 だってもう――私は誰にも必要とされないから。

(そんなことはない)

 今度ははっきりと聞こえた。初めて聞いた、精悍なあなたの声。実際に声を発したのではない、直接心中に語り掛けてくるようなテレパシーの様な声なき声。

(聞こえないか)

 あなたは毅然と云う。長い頸を上げ暗闇の彼方を仰ぐ。するとどうだろう、見上げた先の闇がぼうっと輝き始める。暗闇の中に差してきた二つの眩い白い光芒。耳をよく澄ますとそこから微かに聞こえてくる。

「ライス、目を開けて下さい、ライス」

「お願いです、目を覚まして。ライスさん」

 ――!!ブルボンさん。マックイーンさん。

 運命はもう決したのに、二人ももう分かっている筈なのに、それでもまだ……。まだ諦めまいと向こう側から呼び続けている。枯らすことなく絶えず必死に声を上げ続けている。あんな目に遭わせたというのに、二人はまだライスを必要としてくれるの?

(あなた達がなぜその姿で魂を受け継いだのか考えてみなさい。あなたには共に歩める同胞がいる。言葉を交わし、手を取り合い、心通じ合った者達と共に、助け合って進む力がある。時代や舞台の垣根を越えて)

 隣に立つあなたが云う。私がウマ娘として在る意味。それはかけがえのない仲間を見出すためなのだと、私達は共に支え合って生きていけるのだと。

(これはかつてのわたしたちには無かったもの。何物にも代え難き尊きもの。そして、運命を乗り越えられる唯一のもの)

 光芒が徐々に大きくなっていく。私を覆う深い暗闇を打ち払い、今自分がいる場所を露わにしていく。ひゅう、と風が吹く。目の前を紅の彼岸花が散り散りに舞っていく。その花吹雪の彼方に、景色が浮かび上がる。淀の坂の先。第四コーナー。そしてホームストレッチの彼方には、ゴールが見えた。

(あなたを想う声が在る限り道は拓き続ける。運命など決まってはいない)

 そう宣うあなたの姿が徐々に薄らぎはじめた。闇が払われるのと共に、その漆黒の馬体も消え入るように光に包まれていく。待って、と反射的に手を伸ばそうとする。しかしあなたは目を閉じ、どこか満足気に頸を上げて尻尾を揺らした。

(還りなさい。あなたのあるべき処へ)

 私の視界が白一色に変わった。

 そして次に目を醒ましたとき。私の視界には二人の姿があった。

 

 

「ライス……ライス!目を醒ましましたね」

「よ、良かった。ライスさん、本当に……良かった」

 ブルボンさんとマックイーンさんに、二人に抱き起され私は目を醒ました。スタンドの観客席から駆け付けてきてくれたのだろうか。周りには他にレース場の係員や救急要員の人たちもいる。

 一体どれだけの時間が経ったのだろうか。とても、とても長い間、夢を見ていたような気がする。怖ろしくも儚い、夢の形見が、余韻のように胸の奥にまだ微かな熱として残っている。でもきっとこの二人が呼んでくれなくては、彼岸の向こうから私を呼び留めてくれなければ還ってこれなかったと思う。

 目から熱いものがこみ上げてきて、自ずと溢れた。我慢できそうにない。涙だ。もう流すことも無い、流せはしないと思っていた涙。止まっていた精神が打ち震える。心が叫ぶ。今こそ伝えるんだ、私の意思を、と。

「ごめん、ごめん。一緒に居てくれたのに、見守ってくれていたのに。なのに私は、ライスは応えられなくて、二人に、……」

 上手く言葉が紡げない。溢れ出る、止め処なく零れる思いだけが先に行く。二人は何も言わずただ頷く。焦らなくていい、ゆっくりでいいんだよと語り掛けるように寄り添ってくれている。

「ライスはまた、また二人を不幸にしただけ……本当に、ごめんなさい。ごめんなさい」

 私に関わったばかりに二人は無敗の三冠と三連覇という夢を失った。さらには差し伸べてくれた手を打ち払うような仕打ちを加えた。私の精神の弱さの所為で、私自身の運命に二人も巻き込んだ。私以上の苦しみを味わわせた。悔やんでも悔い切れない。謝っても謝りきれるものではない。本来ならばそんな二人に私が救われていい筈が無い。

「不幸なものですか。こうしてまた、あなたと会って話が出来る」

「それが不幸の筈がありませんわ。ライスさん……!」

 なのに二人は大粒の涙を流して、言葉をくれ、手を取ってくれる。心を通わせてくれる。こんなに幸せなことはないのだろう、とあらためて胸を打たれる。ずっと忘れていた、最も近くにあったのに気付いていなかった。『あなた』の言った通りだった。これが運命を乗り越えられる唯一のものだった――。

 私達は三人で抱き合いさめざめと泣いた。今まで募ったわだかまりや恩讐をまとめて清算し洗い流すように、元のあるべき三人へと還るために。

 

 

***

 

 

 やがて会場の騒めきは収まっていった。事態のいきさつを察した観客も落ち着きを取り戻していく。レースもとうに私以外のウマ娘達がゴールして終わっていた。

 ひとしきり泣いたあと、係員の人たちが治療を促してきた。レース中の故障につき、場内の医務室で検査を行うのでそちらまで搬送したいのだという。

「さあ、ライス。肩を」

「すぐ診ていただきましょう」

 ブルボンさんとマックイーンさんが肩に腕を回し、ターフ上から私を起こしてくれる。間近に搬送用の救急車も控えていて、そこまで支えようと杖代わりになって歩いてくれた。スタンドからは僅かに拍手も起こっていた。今の私達三人の姿を見ての感嘆を込めてのものだろう。

 二人のおかげで破滅の運命は乗り越えられた。とは言え左脚に故障は負った。元に戻るまでどれくらいかかるのか、それ以前にまた走れるのかの見当も付かない。それでも確かに私は運命を乗り越えられた、何よりも大切な仲間の助けで……今はただそれだけで気持ちが一杯だった。

 だけどその時。二人に足取りを支えられ、ゆっくりと一歩ずつ歩いていたその時だった。故障して動かなくなっていた左脚が、ぴくりと動く。自分でも信じられない。強烈な痛みはあったが確かに動いた。恐る恐る、芝の上に左脚を着けてみる。

「いけませんわ、体重をかけては」左半身を支えているマックイーンさんが慌てて云う。でもその時には既に左足が地の感触を確かめた後だった。

 同時に、風が頬を掠めた。ついさっき夢の中で感じたのと同じ風だ。あの悍馬の足音が、嘶き声が聞こえた気がして振り返る。かぶりを振った先に広がる第四コーナー、ホームストレッチ。その彼方に見えるゴール。

 風はまだ、吹いている。

 そうだった。まだだ――まだ越えていない。まだ完全に乗り越えられていない。私はおもむろに二人から肩を離す。左右から不安そうに見つめ返してくる二人に私は精一杯の勇気を込めてこう告げた。

「ブルボンさん。マックイーンさん。あと一つだけ、ライスの我が儘を聞いてくれますか」

「わがまま、ですか」

「なんですの、それは?」

「ライス、行きたい。この宝塚記念だけは、あのゴールまで行きたい」

 私の発した言葉に二人は目を丸くする。そして周囲の係員の人たちも仰天し真っ先に口火を切ってきた。「なにを言うんだ」「怪我をしているんだぞ」「診てもらうのが先だ」と。それが当然の反応なのは自分でも分かっている。

 ブルボンさんとマックイーンさんも、憂いを含ませた表情でお互いに目配せをし合っている。突拍子もない発案を受け、どう諫めるべきか反応に困っているという風情だった。

 だけどそれでも。このレースだけは、この宝塚記念だけは勝ち負けに関係なく行かなくてはならない。あのゴールまで行かなくてはならないと、不意にそんな使命感が湧き上がってきたのだ。

 果たして私のその意思を読み取ったのか。しばらく黙っていたブルボンさんとマックイーンさんはおもむろに私へと向き直る。反対されるだろうかと思った矢先、二人は穏やかな表情に変わってこう続けた。

「分かりました。しかし絶対に、無理はしないで」

「悔いの残らぬよう。行って来て下さい」

 屈託のない表情で二人はそう云った。言葉足らずであったろうにまるで全部わかってくれているようだった。私の運命のこと、それをここで越えねばならないことも――。

 そうと決まればこうしてはいられない、感傷に浸るのはまだ早い。二人に深く相槌を打つと、私は踵を返す。あらためてコースに向き直る。第四コーナーが眼前に広がる。何度も走ってきた淀のコースがとても広大に感じる。

 私は深呼吸を一つし、心の準備を終えたのち一歩を踏み出した。右脚、左脚、右脚、左脚と、ターフの感触をあらためて確かめるように少しずつ進み始めた。

「待ちなさい、どこへ」「もうレースは終わっているんだぞ」「戻るんだ」背後から矢のような制止の言葉が続々と飛んできた。迷惑を掛けているのは分かっている。身勝手をしているのは分かっている。だけど今だけは、このレースだけは内から湧き出るウマ娘としての本能、走る為に生まれてきたという本能に従わなくてはならない。ゴールまで、行かなきゃいけないんだ。

「行かせてあげて下さい。このレースはライスにとって――」

「そうですわ。ここが彼女の、越えるべき場所――」

 遠ざかる淀の坂から、制止しようとする係員達を押し留める二人の声が微かに聞こえてくる。ブルボンさん、マックイーンさん。私の本当に大切な人たち。本当にありがとう。二人に今まで与えてしまった不幸の数々を変えてみせる、この淀のターフで。だから見ていてください。ライスは行きます、あのゴールまで必ず。

『えっ……これはどういう事でしょうか。故障したライスシャワーが再び走り出した、第四コーナーに差し掛かっていく。既に決着を見た宝塚記念、ここで再び思わぬ展開。十六番ライスシャワーがレースを再開した!しかしその足取りはとても重そうだが』

 驚きと困惑の入り混じった赤坂さんの実況が再び場内に響く。それに煽られたようにスタンドの観客達も再び騒めき出した。

「お、おいあれ」

「嘘だろ。レースは終わったのに、まだ走ってる」

「あのウマ娘、怪我したのにゴールまで行くつもりなのか」

「無茶だよ……もう走らない方がいいのに」

 そうかも知れない。ここで走るのを止めて治療をしてもらった方がいいのだろう。その方がきっと確実であるし、楽なのだろう。でも理屈じゃない。今の私を衝き動かしているのは理屈でも運命でもない。

 第四コーナーの半分まで差し掛かる。遠い。とても長く遠い。実況に指摘されたように足取りは重かった。レース場がこんなに広く遠大だと感じたことは無かった。転倒の影響で身体じゅうが軋んでいる。これでは歩いているも同然の速度しか出せない。

 それでも止まってはいない。少しずつでもゴールへ近付ける。

『ようやく、ようやく第四コーナーを終えますが、辛い表情だライスシャワー、苦しい足取りで長い長い最後の直線へ』

 やっとの思いで到達したホームストレッチ。ゴールはまだ遥か彼方、蜃気楼の中に揺らめいている。間近に迫ってきたスタンドの振動が身体に伝播してくる。想像していたよりもずっと辛い。左脚の痛みは依然強烈だった。地に着くたびに絶叫が漏れそうになるほど、気が遠くなるほど痛い。

 それでもまだ動く。動く限り前に進める。

『スタンド前へ、ライスシャワーようやくスタンド前を通る。故障による競争中止と思われた彼女ですが、その脚を止めるつもりはないのでしょうか。大観衆の前を一歩ずつ進む……!』

 思うように上がらない左脚がターフの窪みに蹴躓く。激痛に思わず膝をついた。間近の客席からわっと悲鳴に似た声が上がる。吹き出た脂汗が地面に零れて落ち、痛みのあまり視界はぐにゃりと歪んだ。身体はもう限界に近い。

 でも、それが、どうした。歯を食いしばって、形振り構わず立ち上がり、足取りを再開させる。

「うっ……とても見てられないよ!」

「も、もういい十分だ」

「お願い、もう無茶はやめて!」

 近くの観客席からそんな声が聞こえた。心配してくれてありがとう、でも、やめるわけにはいかない。ここでやめたら、諦めてしまったら。私に全てを託してくれた『あなた』が、安心して還れない。

 これくらいの苦しさが、痛みがなんだ。

 あなたは――ライスシャワーはひとりで戦ってきた。

 ブルボンさんと走った菊花賞も、

 マックイーンさんと争った天皇賞も、

 あの辛かった低迷期も、

 復活を果たせた二度目の天皇賞も、

 そして、この宝塚記念も。

 たとえヒールと罵られても、歓喜と祝福を得られなくとも、

 あなたは最期まで戦い抜いた。文字通り魂が燃え尽きるまで戦い抜いた。

 あなたは誰よりも熱く、強く生きた。その魂を継いでいるのは私だ、私なんだ。

 運命を乗り越えるのは私自身だ。

 仲間に助けられているだけじゃない。その手を取って、起ち上がって、私自身の足で乗り越えなくちゃいけないんだ。

 絶対に克つ、克ってみせる。

 だから私はいま走っている、本当の意味で運命を越える為に。

 運命は決まっていない。

 運命を決めるのは私なんだ!

 自らを鼓舞するように。奮い立たせるように。私は自分に強く言い聞かせる。心の底へと叫ぶ。そして、それに返事が来たかのようだった。『あなた』の勇壮な声が私の心身に響き渡る。あなたが私にくれる最後のメッセージだと直感的に分かった。

 

(わたしの為し得なかったこと、見ることの叶わなかった景色を、あなたが見届けなさい。それこそがわたしの魂を受け継いだ、あなたの運命なのだ。

志半ばで潰える無念を、あなたにまで負わせはしない。

おゆきなさい。走れ、ライスシャワー!

わたしの名を継ぐものよ――)

 

 その言葉で全てが吹っ切れたようだった。視界が涙で滲み、不明瞭だった頭の中が晴れ渡る。少しだけ足が軽くなったような気がして私はペースを上げた。スタンド前で微力ながらラストスパートに入った。

『これは……スタンド前、凄い歓声が上がっている!こんな光景は初めてです、ライスシャワー、少しペースが上がったのか!ゴールへと近付くぞ!』

「凄いぞあのウマ娘。何が何でもゴールする気なんだ」

「が……頑張れ!ライスシャワー」

「そ、そうだ。あとは直線だけだ」

「頑張れ、ゴールまで辿り着け!」

 皆の声が押してくれる、私の背をゴールへと押してくれるかのようだ。私はファン投票最多得票でこの宝塚記念へ選出されたのだという。声援が多いのは、それだけ多くの人がゴールを心待ちにしてくれているのだろうか。勝利を手にすることは出来なかった、その上故障をしてしまった。でもせめて、せめてこの声援に応えよう。初めて受けたヒールとしてではない声に、ささやかながら報いよう。

『残り二〇〇メートルを切った、誰も居なくなったターフをただ一人、ライスシャワーが往くぞ!ファン投票最多票、場内の誰もがエールを送っているぞ!』

 息が詰まり肺は苦しい。それでも前のめりになりながらも必死に駆ける。前傾した私の視線に映る、勝負服仕様の烏黒のパンプスシューズ。誕生日にブルボンさんとマックイーンさんがレース用に新調してくれたもの。この僅か数か月ですっかりボロボロになってしまった。特に左側のシューズは転倒の衝撃で大きく拉げて蹄鉄も欠損してしまっている。でもその毀れようはまるで、左脚へのダメージを幾分か肩代わりしてくれたようにも思えた。

 後で直そう。二人が私に贈ってくれたものだ。また履けるように、この靴でもう一度二人と走れるように。

『さあもう少しだ、頑張るぞライスシャワー!届かないと思われた宝塚のゴールまであと一〇〇メートル!』

 遂にゴールが見えてきた。二度と届かないと思われたゴール。その向こうに待っているものを予感する。

(ブルボンさん、マックイーンさん。やっと分かった、見つけたよ。ライスが望んだものが見える、あのゴールの向こうに――)

「行け――!ライスシャワー!」

「頑張れ!あと少しだ!越えろ――!」

「もうちょっとだ走り切れッ――!」

「ゴールはすぐそこだ!!」

 割れんばかりの歓声が私の身を包む。スタンドから届いてくる声の一つ一つが、私の心に際限なく熱をくれる。

 あと一〇〇メートル、九〇、八〇――。

 私に関わってくれた大切な人達へ、感謝を捧げながら。一歩一歩を踏みしめながら。

 六〇、五〇、四〇――。

 目前で私は振り返る。遥か後方に遠ざかっていく第三コーナー、淀の坂。そこでブルボンさんとマックイーンさんがこっちを見ている。表情までは窺えないが、紛れもなく見守ってくれている。

 そこにもう『あなた』は見えない。いつも夢の中で第三コーナーまで追ってきたあなたの姿はもう見えない。今ならば分かる。思えばあなたはあの悪夢の中でいつも私を追いかけてきた。私はそれを死神が追ってくると錯誤していたけれど、そうじゃなかった。あなたは運命に操られるがまま身をやつしていた私を止めようと、ずっと必死に追いかけてきてくれていたのだ。

 最後にきちんとお礼を言いたかったな――。

 そう思いかけたところで気付く。あなたはいなくなってしまったんじゃない。そうだったね。その魂は――そう、私の中にある。同じ名を持つ魂として。

「あなたの思いは、ライスが、あのゴールまで持っていくから――」

 残り三〇、二〇、一〇。

 私の視界が真っ白に染まっていく。久しく忘れていた感覚。生まれて初めてレースで勝った時と同じような感覚だった。永く望んできた歓喜と祝福。皆の喜びが、降り注ぐ。

 その瞬間、場内の声は最高潮を迎えた。

 

 この日、京都レース場にて一つの事件が起きた。あるウマ娘のレース中の転倒、故障。それは『淀の悲劇』と呼ばれ、競走界とそれに関わる人々に深い傷を残すかと思われた。

 だが受け継いだ遺志を宿し、二人の仲間に支えられた彼女の脚は挫かれることなく、永い時を経て遂に淀の決勝線を越えた。レース記録は競走中止ではなく、十七着入線――。ゴールの瞬間に大観衆から万雷の拍手を受けた姿は、紛れも無くヒーローそのものであった。

 時に、永世七年六月四日。第三十六回宝塚記念での出来事である。




史話(六)
 
 京都競馬場で一九九五年六月四日に行われた第三十六回宝塚記念。このレースには関東馬のライスシャワーがファン投票の一位に選ばれ堂々と出走していた。ライスシャワーは一九九二年の菊花賞と九三年、九五年の春の天皇賞を制するなど京都コースを得意としており、距離不適と言われながら、どういうレースをするか注目されていた。
 当日は三番人気に支持され、レースでは後方を進んだ。この日も騎手を務めた的場氏は最初のコーナーを回った時点で様子がおかしいことを感じ取り「今日は勝つどころじゃない、慎重にまわってこよう」と考えたという。しかし第三コーナーでライスシャワーは自らスピードを上げ、直後に前のめりになり、いったん身体を起こした後に転倒。実況していた杉本清氏(当時関西テレビアナウンサー)は「おっと、一頭落馬!一頭落馬!これは何が落馬したんでしょうか?ライスシャワー落馬!ライスシャワー落馬であります!」と伝えた。左第一指関節開放脱臼、粉砕骨折を発症しており、診療所まで運ぶことができずその場に幔幕が張られた中で安楽死の措置が執られた。的場氏は打撲で済んでいたことからその最期を看取り、亡骸を馬場から運ぶ馬運車に深く最敬礼をしたまま見送ったシーンが映像に残されている。担当厩務員の川島氏は、手綱を握りしめたまま泣いていたという。
 以上の事からこのレースは「ライスシャワーの最後のレース」としてよく知られている。関東馬でありながら京都競馬場に縁深かった(GⅠ三勝を挙げたのも生涯を閉じたのも京都競馬場)ライスシャワーの冥福を祈り、一九九五年の秋に同競馬場パドック奥に記念碑が建立された。碑には「疾走の馬 青嶺の魂(たま)となり」という句が刻まれている。その死から二〇年以上経た今もなお、碑を訪れて献花や供え物を捧げるファンは多く、同馬の人気をうかがい知ることができる。
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