ちらりと腕時計に目を遣りながら、シンボリルドルフは足取りを心持ち速めた。時間が押している。やはりスケジュールには余裕を持たせねばという自戒が浮かぶ。
トレセン学園上階の生徒会室を目指し、彼女は廊下を足早に進んでいた。すれ違う生徒達への挨拶もそこそこに、大食堂の脇を通りかかった時だった。食堂内がやけに騒がしいことに気が付く。
見ると、大勢のウマ娘が人だかりを作っている。時間的に昼食のピークというわけではない。集まった生徒達は、食堂内に設置された大型テレビジョンの前に陣取っているらしい。それはトゥインクルシリーズの大レースが中継される際に、度々見られる光景だった。
「そういえば、今日だったか」
食堂の喧噪を尻目に、ルドルフはすぐにまた歩き出した。忙しさにかまけて、世間的に注目されるレースの日程把握も曖昧になっている自身に若干の嫌悪も噛み締めながら。
あれから一年が経過した。毎年そうであるように、丁度この時期は春のレースシーズンに当たる。中央・地方も含めれば毎日のように各地でレースが開催され、世間を大いに賑わせている。
中央の生徒会長という立場上、ルドルフもこの時期はやる事が多い。一選手としては既に一線を退いた彼女は、今は学園やレースの管理・運営、URAとの調整・陪席といった仕事が主であったが、これらはしがらみも多く政治的色合いが強いものだった。一人のウマ娘としてターフを駆けた現役時に比べれば、果たすべき役割も、求められる能力も、背負うものも大きく変わった。決して他人へ漏らすことはないが、時折彼女はあの頃に戻り、頭を空にして心行くまで走りたいと思うこともある。
この日も界隈の重鎮達との会合が長引き、学園に戻る時間が予定より大きく遅れた。しかし間が悪いことに、さらなる用事が重なっていた。次は生徒会室でURAとの打合せが控えている。今は他の生徒会面子も出払っており、これもルドルフがこなす段取りだったのだ。
彼女がようやく生徒会室に辿り着いた時には、時計は予定時刻きっかりを指していた。遅刻ではない、が、余裕を持って物事に取り組みたいルドルフにしてみれば本意ではない。第一、相手を待たせてしまっているかもしれない。取り急ぎ彼女は生徒会室へと入室した。果たして部屋の中には、既にURAからの来客達が到着し、応接間で着座していた。
やはりこうなったか、とルドルフは忸怩たる思いだったが、それは一瞬だけだった。来客達に向かい合って座る、一人のウマ娘の姿が目に入ったからだ。
「あ、カイチョー。お帰りなさい」
「テイオー。どうして……」
ルドルフは目を丸くした。来客応対をしていたのはトウカイテイオーだった。しかも客間のテーブルには、応接用のティーセットや、打合せの為に予め用意しておいた資料が既に広げられている。その状況から察するに、ルドルフが戻らぬうちに訪れた来客をテイオーが代わりに応接し、そのうえ予定していた打合せも開始している様子であった。
来客を待たせることなく済んだと安堵する反面、ルドルフは内心面食らった。テイオーが生徒会の手伝いをしているのは勿論承知している。これまでも生徒会室を空ける時、彼女に一時的に留守を任せたことがあった。今日もおそらく授業やトレーニングの合間の時間を持て余し、生徒会室に用事を求めて在室していた最中に、ちょうど来客が訪れたのだろう。だが明確な役職を持たない彼女に本格的な対外活動を任せたことは、未だない。にもかかわらず打合せを開始されたのが気掛かりだった。
だがそんなルドルフの懸念を汲み取ったかのように、テイオーは片目を瞑り、ルドルフにだけ分かるようにウインクをしてみせた。いいから任せてよ、そう言っているように思えた。このまま続けさせてほしいという意思表示のようだった。
ルドルフは苦笑いを浮かべた。この用事はさほど重要な案件でもないが、仮にも生徒会を代表しての応対だ。大丈夫なのか。どうすべきか考える間も無く、テイオーは目線を戻し来客との対話を再開していく。
しかしそこからのテイオーの仕事ぶりにルドルフは目を見張った。当初の不安をよそに、終始丁寧な口調でテイオーは打合せを進め、角を立たせることもなく和やかな雰囲気で、応対を遅滞なく完遂させた。相手から適宜挿まれる質問への返答や解説にも澱みは無く、それら受け答えもルドルフが自分ならこう答えるだろうと頭に浮かべたものとおおむね似通う、模範的にまとまったものだった。いざとなれば助け舟を出そうと思っていたが杞憂に終わり、ルドルフは胸を撫で下ろしていた。
打合せが終わると、URAの来客は生徒会室を後にした。彼らにとっても満足のいくものだったのか、去り際に交わした挨拶も好感触なものだった。
「すまなかったなテイオー、留守中に助かった。それにしても驚いたな、まさか応対までこなしてくれるとは」
二人だけになった生徒会室で、ルドルフは手放しでテイオーを称賛した。知らず知らずのうちに、生徒会の一員としても成長してきたのだな、と言うのが率直な気持ちだった。
「皆忙しそうだったからね。ちゃんと喋れてるか不安だったけど、どうだった?ボク、上手くできてたかな」
照れくさそうに頬を掻きながらテイオーは助言を求めた。場数を踏んでないがゆえ、重箱の隅を突けば改善点は幾つかあったが、取り立てて指摘するほどのものは無い。
「ああ。しっかりと、生徒会の役目を果たせていたよ」本当によくやってくれた、とルドルフはテイオーの頭をぽんと叩いた。
「恥ずかしいってば、カイチョー」
頬を紅潮させ、テイオーはまんざらでもない表情ではにかんだ。が、すぐさま首をやんわり振ってルドルフの手を払った。
ルドルフは、ほんのちょっぴりショックを味わっていた。少し前までは同じようにしてもされるがままだったのが、最近は精神的に大人びたのだろうか。現役時、ダービーを獲った記者会見場でテイオーと初めて会った時にも頭を撫でてやった。あれから随分と時は流れ、テイオーは心身ともに大きく育った。成長期を迎える子を持つ親の気持ち、という言葉が浮かんだ。
同時に、一年前の宝塚記念直前のやりとりが蘇った。
緊急措置により京都レース場で宝塚記念を開催する。URAからなされたその発表を知った時は、さすがのルドルフも狼狽した。もはや形振りなど構っていられない。自らの立場や責務をなげうってでも止めなくては――そんな破れかぶれな考えに至りそうになった時、テイオーが現れた。平静を失いかけていたルドルフを諭すように、その時テイオーはただ一言こう告げた。
「信じよう、あの三人を。きっと大丈夫だよ」
その時のテイオーの目は、今でもルドルフの脳裏に焼き付いている。いつもの見馴れたあどけない目ではなかった。遥か彼方を見通すような、まるで何かを悟ったような澄みきった目。それに心を真っ直ぐ突かれるような思いを味わったのだ。
ルドルフはその後、思い止まった。何故かは分からないが、テイオーの言う通りに従おうと思った。不思議と、自分も信じてみようと思えたのだ。その結果が如何なものとなったかは、もはや語るまい。
しかしはっきりと分かることがあった。ルドルフも認めざるを得ない事実だ。一年前の事件で、テイオーの判断はルドルフを越えていた。出場差し止めという安直な方法しか提示できなかったのに対し、テイオーの三人を純粋に信じるという案は、一見無謀にみえたが、見事に実を結んだのだ。
テイオーはライスシャワーが運命を乗り越えられると信じていた。そしてそれは現実に果たされた。あの宝塚記念後、ライスの怪我をおしての完走劇は、奇跡のゴールインとして語り草になっている。
奇跡。まさにその通り、奇跡だ――ルドルフも最初はそう思っていた。
だが、本当はそうではないのかもしれない。奇跡などという言葉で括るのは誤りなのかもしれない。テイオーにとってはあの有馬記念の復活劇も、ライスの完走劇も、奇跡でも何でもない、ウマ娘として為そうとした努力や寛容、融和の必然的結果なのかもしれない。それを前にしては『運命』などというものは、所詮何ら意味を持たない、自らの可能性を縛る暗示に過ぎないのかもしれない。
テイオーはあの時、自分には見えない“何か”が見えていたのだろうか、とルドルフは考える。『何か』とは、一言で言い表すならば、いわば自分達ウマ娘の秘めたる可能性。走るために生まれてきた総てのウマ娘が最後に帰結するという、気高き真理のことだ。
それはルドルフも生徒会長として模索し、今なお追求し続けている理想の形だ。『ウマ娘の誰もが幸福を得られる時代を目指す』という、歴代のトレセン学園生徒会長が果たせずして受け継がれてきた宿願。だが日々の職務に忙殺され、真理を見極める目を曇らせつつある自分はもう、理想を追い求めるには時機が過ぎたのかもしれない。
かつてどこかで聞いたことがある。『帝王は皇帝を超えたかもしれない』という言葉。それが今、ルドルフの身にどこか温かく沁みた。
あまねくウマ娘を導いていくに相応しい、若き彗眼を持つ者。今後そんな者が現れたならば、いつでも生徒会長の座は明け渡しても構わない。なぜならそれは、ウマ娘の未来に資するものだから。これはルドルフが常々考えていたことだ。
案外その時は、遠からず訪れるのかもしれない。
テイオー。あの時お前が見せた澄んだ目は、その証左なのではないか――。
その小さな呟きは、テイオーの耳には入らなかったらしい。見た目相応の少女に戻った彼女は、ふと目を向けると生徒会室の部屋中を慌ただしく物色している。
「もうこんな時間だよ。早くしないと始まっちゃう。ええっと、ええっと」
何かを探しているらしい。ルドルフには何を探し求めているかすぐに分かった。応接用のソファの隙間にあったそれを拾い上げると、まあ慌てるな、とそのボタンを押す。生徒会室に備え付けてあるテレビのリモコンだった。
黒一色だった大型スクリーンの電源が入ると、テイオーは真っ先にその真ん前に陣取った。今日行われる一大イベントを、彼女も注目しているらしい。
無理もないな、とルドルフは表情を綻ばせた。
画面上には、京都レース場のパドックが映し出されていた。
***
先客がいる。この場所で彼女は初めて人に会った。比較的小柄な身をカジュアルスーツに包み、古ぼけたハンチング帽を目深に被った壮年の男だった。レース場の職員とは異なる雰囲気に感じられる。男はじっとその場所で立ち尽くしていた。
京都レース場の片隅、ほとんど人の訪れることのないパドック裏手の閑寂な外苑にそれはあった。手入れの行き届いている庭園の端にぽつんと佇む、苔生した石碑。京都レース場が設立された当初は無かった筈のそれは、気が付けばいつの間にかそこにあったのだという。誰が何の目的で設置したのかも判らず、安易に撤去することも出来ぬまま月日が流れ、今では知る人ぞ知るレース場の隠れスポットと化しているのだという。
随分と長い間雨風に晒されてきたのだろう、人の背丈の半分にも満たない大きさの碑はすっかり風化して苔生し、表面に文字らしきものが彫られているのは分かるがとても判読できたものではない。
男はその碑を前にしゃがみ込んでそっと小さな花束を供えた。菊、ユリ、カーネーション等、献花に用いられる種のものだ。そのまま地に膝をつけ両手を合わせ黙祷する。その背中に得も言われぬ寂寥を感じ、すぐ後ろで見ていた少女は小さく息を呑む。
意を決した少女は遠慮がちに男の横へ並び、一緒になって黙祷する。来訪者がもう一人いたと気付いていなかった男は少し驚いた様子だったが、すぐにまた黙祷を再開した。
そのまま静かに時が流れる。風の音だけがその場に流れていた。やがてその風に乗って、微かに群衆の騒めく声が聞こえてきた。レース場の方からだ。この日も淀のターフではいつもと変わることなくレースが催されている。
数分が経過し、男はおもむろに立ち上がった。あらためて石碑を見下ろし立ち尽くす姿には哀悼と悔恨の念が滲み出ている。
「あの。ここのこと、ご存じなんですか」
顔を上げて少女が躊躇いがちに問う。彼女はこの石碑をあの日以来何度か訪れている。彼女もまたこの場所の存在をそれまで知る由も無かった。そこで思いがけず邂逅したその男が不思議と見知らぬ人物には思えなかった。
男は空を仰ぎ少し何かを考える様子を見せたのち、ぽつぽつと口を開き答える。
「昔、友がいた。彼は僕達にとって大切な相棒だった」
過去を振り返るように男は語り始める。温和で懇ろな印象を与える声だった。目深に帽を被っているためその表情ははっきりとは窺えない。
少女はしきりに相槌を打ち、その話に聞き入る。
「僕達は一緒に戦った。勝っても負けても、苦しくとも辛くとも、来る日も来る日も命懸けで戦った。でもね、ある日彼は死んでしまったんだ」
「うん……」
「そして僕達だけが生き残った。残された者に出来るのは、こうして花を手向けることぐらいだ」
目線を碑に落とし、男がトーンの落ちた声で云う。風に煽られた献花が揺れ、頭上の樹の枝から小鳥が慌ただしく飛び立っていった。
「彼は無理をし過ぎた。いや、僕達がそうさせてしまったというべきだ。きっと彼は恨んでいるだろう」
自嘲気味に男は云い、帽子のつばを下に引いた。表情を悟られまいとしたのだろうか。肩が細かく震えている。先程から感じられた哀悼と悔恨の気配が一際大きく膨れ上がったようだった。
「そんなことないよ」
それに対し少女はきっぱりとそう告げる。確信を込めた眼で男の横顔を見上げる。毅然とした、芯の強さを感じさせる姿に男は「どうしてだい」と問い返した。
「ヒールじゃなくてヒーローなんだって、大切にしてくれた人達のことを、恨んでなんかいないと思うよ……」
目を閉じながら少女はそれだけを言った。本当はもっと言うべきことが、伝えるべきことが沢山ある。しかし上手く言葉にできそうにない気がした。そんな中で思わず口を衝いて出た一言だった。
遥か遠い別世界から来た、彼女の中に眠る魂は知っている。自分を家族のように思っていてくれた者達との思い出を。共に過ごせた日々は決して長くなかったけれども、心で確かに繋がりあえていた時間の全てを。そしてその思いは今も生き続け、この先も紡がれていくのだろう。彼女の歩む新たな運命と共に。
「君の名前は」何かに気付いたかのように、ハッとした声色で男は訊ねる。
少女は美しい双眸を見開き、凛然とした面持ちでこう云った。
「私はライス、ライスシャワー」
風が鳴り止む。それを聞いた男は少女の方に振り向いたまま、固まっていた。その時初めて帽子の下の表情が露わになる。
「……そうか。いい名だ」
男はその名を噛み締めるように、深く頷く。その表情から悔恨の気が幾分か和らいでいるように思われた。
少女は――ライスシャワーはあらためて思う。『ウマ娘とは、走るために生まれてきた。ときに数奇で、ときに輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る。それが、彼女たちの運命』その言葉の本意。自分は託されたのだ。かつて存在した崇高なる魂を、この身に。
それは受け取りようによっては、呪いとも取れるのかもしれない。事実、自分はその重みに押し潰されそうになった。運命の渦に呑み込まれそうになった。だがそんな時に自分の手を取りそれを乗り越えさせてくれたものは何だったか。繋がりの大切さを、かけがえのなさをあの宝塚記念であらためて教えられた。
ウマ娘が、一着を得るため戦うのは当然のことだ。そしてウマ娘だからこそ、本気で戦い、ぶつかり合った後に、互いに手を取り合える。それこそがウマ娘として魂を継いだ所以なのだろう。自分達はその真価を常に試される戦士なのだ。その思いを胸にこの先も走り続けよう。未だ知らぬ自身の運命を見届けるために――。
「ライスさん、どこですの。そろそろ時間ですわ」
「パドックの裏手に、反応。やはりいつもの場所かと」
声が聞こえてくる。少女を待っている、大切な者達の声だ。ライスは立ち上がると声のした方を仰ぐ。二人が待っている。すぐ戻るつもりだったけれど心配で探しに来てくれたらしい。行かなきゃ。
「行って来ます」
ライスはぺこりと男に一礼した。間も無くレース場ではその日のメインレースが始まろうとしている。
「思い切り、楽しんで走ってきなさい。応援してるよ」男はそう激励し柔和な笑みを浮かべた。
「うん!」その言葉以上のものを受け取ったライスも、満面の笑みを浮かべて駆け出していった。
もう、大丈夫だな――少女の背を見つめながら、男は安堵と寂寥を人知れず噛み締めた。
かつての友の魂は運命から解き放たれ、未だ見ぬ明日へと歩んでいく。数多くの同胞たちと希望に満ち溢れる未来へ進んでいく。
もう縛るものは何もない。駆けてゆくがいい、どこまでも。その先にはお前が見られなかった世界が、果てしなく広がっているはずだから……。
直後、雲間から陽光が差す。光はその場にひとり残った男のもとへ降り注ぎ、そのシルエットが徐々に薄らいでいく。彼は消え入る寸前、もう一度石碑の前にしゃがみ込んで表面に指先を伝わせる。するとどうだろう。びっしりとこびり付いていた苔がぽろぽろと剥がれ、彫られていた文字がくっきりと浮かび上がった。
そこに書かれていたのは――。
“青嶺の魂 疾走の娘となり”
「やっと……届いたな」
天を仰ぎ男は感慨深げに呟いた。彼の姿は眩い光の中へと消えていく。遥か彼方へと還っていく。最後にレース場へと遠ざかっていく少女の背を、男は脱帽し最敬礼で見送った。
『……さあいよいよ本日のメインレース!あれからはや一年、誰もが今日という日を待ちわびました。それぞれの苦難を乗り越え、万感の思いを乗せて、遂に実現する夢の三つ巴。伝説の三人が同じターフに帰ってきた!栗毛の超特急、ミホノブルボン!名優、メジロマックイーン!そして悲劇を乗り越えたヒーロー、ライスシャワーだ!さあ全てのウマ娘が枠入り完了、ドリームマッチのゲートがいま……開いた!』