アジア系のアメリカ人として生まれた私には、前世の記憶があった。
その
原因がなんだったのかは今から思い出してもよくわからないが、ざっくり分類すれば私怨の類になるのだろう。
割に、私を殺したのはそれほど話したことのない相手だったように思うが——まあ、前世の私はもう死んでしまったのだから、取り返しのつかないことだ。
取り返しがつくのはこれからの人生で、だから私は人を生かすために生きようと思った。
殺された記憶があるからだ。死んだ時、死ぬほど怖かった。実際死んだ。
誰もが殺されないように努力しよう。
自分も殺されないように努力しよう。
赤子の頃から勉強して、前より頭が良くなって、心理学で人の心さえ学んで。
あらゆる本を読んで知識を得て、あらゆる人と話して経験則を聞き、学んで学んで学んで。
そうしたら、いつのまにかスパイになっていた。
そんなことある? と思うが、転生とかいう、スパイになるより『ありえない』を体現したようなことが私の身に起きているので何も言えない。
それなりに楽しい職場です。
上司も同僚も、いまいち誰なのかわからないのがとても問題かもしれません。
そんなよくわからないまま、それなりに充実した生活を送っていた私だったが——たまたま任務で日本に来ていたところで、不思議な光線を浴びることになった。
光の方向に向かい、伸ばした手の先から……石になっていく。
な、なんじゃこりゃ。
一瞬にしてすっかり固まり、指一本動かせなくなってしまう。
動かせるのは脳みそだけというわけか。
普通に現代に転生したと思っていたのだが、異能力バトルものだったのか。
生まれつきに与えられた優秀な脳みそを、ちょっとばかし転生チート的にも捉えていたのだが、異能力バトルものだったなら……普通に異能力が欲しかったな……。
とにかく暇だ。石になってしまっては何もできない。
何も見えやしないので、できることといえば何かを考え続けることくらい。
だがまあ、考え事は前世から得意とするところだった。
それからどれほどたったのだろう。バキ、という音を聞く。
体表が割れて、動けるようになった。
動かせるようになった眼球で拾える視界情報の中に、生きた男がいた。問われる。
「君は誰だ」
回答を誤ったら死ぬ。直感した。
目の前の男は人を殺せる人間だ。多くの種類の人間を、スパイとして見て来た私にはわかる。
——そもそも、彼を知っている。霊長類最強の高校生、獅子王司。
「まずは、はじめまして」
名前と職業を言った。
もちろん嘘だ。日本で活動するにあたり、偽造した身分。
「はじめまして。そして、それは嘘だな。うん、その身分の割に、君が石になっていた『姿勢』は、戦い慣れた人間のものだったから」
なるほど。動けず、私側から周囲を確認できない間、彼から観察されていたか。
異変を感じ取ってすぐ、臨戦態勢をとったのがアダとなった。
そのままの姿勢で固まってしまったものだから、失態を晒し続けることになってしまった。
スパイとしては失格か。
だが何も、そんなちょっとした失敗を永遠に切り取り続けなくとも……としょんぼりもする。
「君が名乗った情報と、
向こうには情報通の仲間もいるらしい。
油断を誘うことはもう難しいし、戦闘力に関して、この男を上回ることは不可能だろう。
であるならば、
「実のところ嘘だ。どんな拷問をされても真実を吐かない自信はあるが——しかし、そうまでして秘密を守る理由は、もうなくなってしまっているのかもしれないな」
ゆっくりと、辺りを見渡した。植物が鬱蒼と生い茂り、ジャングルじみている。
意識を失った瞬間にいたはずの、都会の町並みとはかけ離れていた。
私の服装はいつの間にやら、原始人のようなものになっている。
着替えさせたのか。いや、わざわざ、私に服を着せてくれたのだろう。
「さっきまで、私は脳内で朗読をしていた。好きな本は全部暗記していてね。脳内貯蔵本36921冊——朗読をループした回数から概算して、私が石化してから3000年以上経っているはずだ。文明は滅びてしまったのかな」
「素晴らしい」
単純な賛辞だった。そこにそれ以外の意図はなかった。
お世辞だとか、私を褒めていい気にさせて、それから油断させようだとか、そんな幼稚なものではない。
「記憶力と継続力、そして状況判断力。全てに優れているね。そして戦闘力も」
スパイとしての人生をかけてもいい。私にはわかった。
素直な青年だ。だからこそ恐ろしくもある。
彼は真実しか述べないだろう。
そして、これから彼が述べる真実こそが、なんであるか恐ろしい——。
「文明は滅びた。だがこれは人類を浄化するチャンスでもある。純粋な若者だけを復活させて、このまま誰のものでもない自然と共に生きていく——俺が掲げているのはそういう思想だ」
「ふむ。まだ誰のものでもないから、君が……君たちが、武力で支配しようというのかな」
後ろを振り返り、大量の石像たちを眺める。
おそらくさっきまでの私と同じ状況だ。なるほど若者しか並べられていない。
そうでないものは集めていないか、すでに砕かれているか、といったところか。
私自身が『若者』に分類されるかは正直微妙なところだと思うのだが、まあいいだろう。
「悪くない考えだ。君にはカリスマ、求心力がある。首長としては遜色ない。新国家の大統領にはふさわしいだろう——アメリカの大統領から直に指令を受けたことのある私が、保証して差し上げる」
「——君は」
「私はアメリカ合衆国のスパイをやっていた。今アメリカが存在しないのであれば、もう無職で、守秘義務もないだろう」
自分の体表から落ちた、石の破片を見る。
皆、あの時に石になったのだろう。動けなくなったのだろう。
あれは異能力者バトル、なんていう
もっとSF的な、言ってしまえば宇宙からの侵略と言った方が近いものだった、はずだ。
あの時石になったのは私だけでなく、全人類。それから3000年以上の時が経ち、地球から人間はいなくなった——全ては推測に過ぎないが。
で、あるならば自然はそのまま脅威となる。
誰もいない建造物はすぐに朽ち果て、誰も管理しない田畑はすぐに枯れたろう。
もう元の地球ではないと考えた方がいい。
どうやって私を元に戻したのか――青年の落ち着きようからいって、たまたま石から戻るところを発見したのではない。意図的なものだ。
そして、私が現在立っている地面が所々濡れていることから、かければ石化を解ける液体があることが推測できる。
彼自身はそれを偶然浴びたのか?
それとも、それを発見、あるいは開発しただれかに掛けてもらったのか。
それを知るにはどちらにせよ、彼と敵対するという選択肢はない。
「秩序がなければ人は争う。そこにいる人間がたった一人にでもならない限り、誰かがリーダーにならなければならない。君には素質があると、私は思う。君に従おう」
言葉自体は本音だった。何人人類が石から蘇ったのか、私には未だ知り得ない。
しかしその中でもトップクラスで、彼にリーダーの気質があるのは間違いない。
石化から戻って、まだ生きた人間は彼一人しか確認していなくとも、おそらく彼以上の適任はいなかろうと確信できる。
なにしろ、獅子王司は、まだ文明があった頃からそのカリスマを世間に轟かせていたのだから。
「さて、獅子王司。君は私に何を望む」
「まずは名を。うん、君の名前を教えてくれ」
「名前はない。故に、呼び名に困るのであれば、ノーネームと」
彼らの現在拠点に行けば、なるほどそれなりの戦闘力が揃っている。
いくら司が単独で強いとはいえ、一人しかいないのであれば、スパイでなくとも簡単に穴は見つけられるのだ。
現状の人数ならば、国家として統べるのには問題なかろう。
狩猟、採集、裁縫、様々な『生きるため』という単純な理由による労働をこなしつつ、時たま……いや時たまではないな、それより高い頻度で司から相談を受けていた。
「南が目星をつけた石像、その戦闘能力を推し量る程度のことであれば、司と氷月がいれば問題ないと思うのだがね」
「ノーネーム、君の視点も聞きたい。おそらくこの中で、もっとも人間を見てきているだろう。石像を見てわかることは、俺らには筋肉量くらいしかない。石化した瞬間の表情、姿勢、あるいは石化前に得た知識から、なんでも推測できることを教えてくれ」
「アイアイサー。リーダーの言うことに否やはない」
「あなたはちゃんとしていますね」
氷月は開いているのかよくわからない目で私を見た。
「他の組織を見つけたら、スパイとしてもちゃんとしますか?」
「そう望まれるなら、否やはない」
「いいですね。返事にためらいがない」
「職業病だ」
そういう訓練も積んでいる。優柔不断は死ぬ職だ。
だが、スパイとしての真価を発揮する前に、私は彼らに別れを告げることになる。
私は前後の脈略なく、その日の司に言った。
「司。君とはここでお別れだ。私は君の思想にはついていけないと思い直した。だが、君の理想とする国家の邪魔はしないし、君たちの敵とならないことは約束しよう。だから出て行く私を、どうか追わないでくれ」
「わかった。それで構わないよ。——うん、どうか元気で」
その言葉に、微笑みの表情を浮かべる。
察しのいい彼のことだ、大方事情はわかっているだろうに、それでそのセリフとは。
彼らの行く末が見守れないのが残念だ。
手を差し出した。司はためらいなく私の手を掴んで、握手してくれた。
---
気球に乗り、上空から相良油田を探す——そんなミッションを千空、龍水、そして地上を行く別働隊のクロムと羽京と共に遂行していたコハクは、自分の視界に信じ難いものを発見し、指をさして確認した。
「おい千空……あれはなんだ?」
「あ? なんだって聞かれてもお前ほど目よくねえぞこっちは。……!」
コハクほど目が良くない千空にも、見えたらしい。
「フゥン。ログハウスのように見えるな! 別荘としては悪くない、サイズは足りないが!」
コハクの幻覚ではなかった。
地上にいる2人からも、「人の足跡がある!」と通信が入る。
山肌に、明らかに
「おーおー、昔ながらの丸太組み工法で作られてんな。生きたヤギが入れられてる家畜小屋まであるし、今まさに生きた人間が住んでんのは確実だろ」
「どういうことだ? 私たちと同じ、千空の何千年越しの子孫か!?」
「んなわけあるか」
千空は一刀両断した。
「生き残りの子孫だとすりゃ
「……! つまり、相手は一人……!?」
「その一人に、僕は心当たりがある」
地上探索チームの一人、羽京から通信が入る。
「ノーネーム?」
「うん。初期の頃、司帝国にいたメンバーでね。本当の名前は誰にも教えなかったから、そう呼ばれていたんだ。詳しい理由は知らないが司と離別して、どこかに去ったと聞いている。ここまでくらいなら、徒歩での移動も不可能ではないと思って」
「ま、俺と同じくたまったま運よく別の場所で復活した現代人って考えるよか、所在不明の復活者の一人だって考える方が合理的だな」
コハクの目から見て、石神村に建てられていた家よりも、千空の言うログハウスは断然しっかりしているように思える。
数千年前から、石神村よりもしっかりと、そういった建築技術を受け継いできた一族、その中の外れものがここにいた……そう考えるよりは、ほんの少し前に石から復活した現代人が一人、ここにいると考えた方が辻褄は合う。
「もともとアジア系らしいから顔つきは日本人なんだけど、国籍はアメリカ。そして就いていた職業は——スパイ」
「スパイだあ? ジェームズ・ボンドかよ」
「うんまあ、笑いたくなるのもわかるけど。
「峰不二子の方じゃねえか」
「はっはー! つまり、美女か!」
龍水が指を鳴らした。
「欲しい!!!」
「言うと思ったぞ、龍水」
「俺も同意見だぜ」
「千空!? でも彼女はかなり……危険だよ。戦闘能力も高いけど、それだけじゃない。ゲンと同じか、それ以上に厄介だと思った方がいい」
「な〜るほど。ゲンくれえ頭のキレる、コハクみてえな女ってことだな」
「厄介さが具体的に想像できて嫌だなそのたとえ……」
通信の先で呟いたクロムはあとで殴る、とコハクは握りこぶしを作った。
千空は「おありがてえじゃねえか!」と笑った。
「司も認めた有能なのを、復活液の消費なしに獲得できるチャンスだ。唆るぜ、これは」
---
「そこで止まれ」
ロッキングチェアに座り、手元のナイフで木彫りをしながら私は言った。
「それ以上進むのであれば侵入者、話し合いができぬ敵対者とみなし攻撃を開始する」
私の終の住処に、珍客だ。
何しろ空から来たもので、笑ってしまう。
現代から数千年後、文明が滅びたこの場所で、熱気球などというものを再び目にすることになろうとは。
さて、彼らの用事はなんだろう。
「欲しい!!!!!!」
気球から降りてすぐに口火を切ったその男を、私は以前から知っている。
七海財閥の御曹司にして問題児、七海龍水。
資本主義経済の全てを詰め込んだような男だ。
司であれば絶対に、石のまま砕くか、すでに蘇っていても殺していただろう。
はあ、とため息をつく。
血なまぐさいのは狩りくらいで十分だ。吊るして干していた鹿の皮にちらりと目線を送る。
「たった一人でこの優雅なログハウスを作り上げ、素朴で豊かな生活環境を整えるスキルは優秀の一言だ! そして能力はそれだけではないようだな!」
「ああ、そうだな……木彫りもうまいようだ!!」
「そこ!?」
ド天然を大声でかました青年は、司帝国にいた頃に、見たことがある。
何度か、言葉も交わしたこともあったか。
性根がまっすぐで、嘘のつけない好青年だった……名は大樹と言ったか。
それから間髪を容れずにツッコミを入れた方の男も、当然覚えている。
あさぎりゲン。自称メンタリストのマジシャン。
かなりの食わせ者にして、私が司の元を離れても、私の代わりが彼になら務まるだろうとある種信頼した男だ。
「正直積載量超えのギリギリ飛行だったが、無理矢理来たぜ、4人でな」
それを言ったのが、唯一、私の知らない人間だった。
だが、思い当たる人物ならば存在する。
石神千空。
司が言っていた……「もし俺の思想を退けることができるとしたら、科学に生きる彼だけだ。彼をこの手にかけたのは俺だが、もし生きているとすれば……間違いなく、俺は千空と戦争をすることになる」と。
石神千空は生きていた。そして行われたのだろう、石神千空と獅子王司との間で、戦争が。
そして私の知らぬ間に戦争は終結し、石神千空が私の前に現れたのならば——負けたのだろう、司の方が。
自作のテーブルに、たったさっきまで彫っていて、今ようやく完成した細工を置く。
その形は、獅子王司。最後に会った、彼の木彫りのフィギュアだ。
「あっそうそ〜う! その今君がバイヤーなくらい再現度たか〜く作ってた獅子王ちゃんのことでお話があるんだけど〜」
ふら〜と体幹をゆらゆらさせながら近寄ってきた男に、私は言葉を続ける。
「私は手先が器用で、根気強いのが生来の性質でね。だがそれだけだよ」
持っていた小さなナイフを投擲する。
見えにくいように隠して設置しておいたロープを切るために——それでトラップが作動する。
タタタタタッ!
「うおおおお!?」
数十本の自作の矢が彼ら目掛けて飛んでいく。
ああよかった、当たらなかったようで。
ひとまず威嚇用として作っておいたものなので、その動作で成功だ。
「手先が器用で、根気強い——それだけだ。でもここは私の
「ありゃりゃ……警戒度MAXってワケね……バイヤーだわ〜」
手元でナイフをくるりと回す。
「いつのまにナイフをもう1本……!?」
「ハッ、マジックまで出来んのかよ」
「もう一度言う。それ以上進むのであれば侵入者、話し合いができぬ敵対者とみなし攻撃を開始する。次は威嚇ですまないよ」
私はゆっくり立ち上がった。
「スパイはね、なんでもできるものなんだ」
「手先が器用で根気強いだけじゃなかったんかよ。速攻で矛盾すんな」
「できた矛盾の帳尻を、合わせるのもスパイの仕事だよ。だがその仕事はもうやめたのでね、矛盾はそのままにしよう。改めて、なんの用事できたのかな。勧誘だったら、あらゆるものをお断りさせていただくよ」
龍水が両手を大きく広げ、叫ぶ。
「全ての美女をこの手元に置いておきたい! そう思って何が悪い!!」
「急に最低なことでかい声で言いだした!」
「ハハハハハハハハハハハハハハハ!」
私は高笑いをしながら、私は彼らに背を向けた。
「失敬」
単語だけを短く呟く。
「急に冷静……感情の落差すご……」
「いやまだ肩震えてるぞアイツ」
確かに、未だ私の肩は震えていた。そのまま話す。
「君には同意だ、七海龍水。見目麗しいものは人の心を癒すからね」
「美女は否定しないんだ。いやうん、美女だと思うけどね俺も」
「おっ。なんだお前、いい男に興味があるのか? 目の前にいるぜジャンル違いのイケメンが。どれでも選べよ」
「千空ちゃんよく自分で言えんね!?」
「バカ、んなの方便に決まってんだろ」
「言った瞬間方便じゃなくなるからやめよ!?」
ふっふ、と未だに荒い呼吸を整えて、背中を向けたまま会話を続けた。
「確かに君たちはいい男のようだ。だが私はレズビアンなので、連れてくるならいい女の方だったな」
「美女が好きか! 気が合いそうだ!!」
パチンと指が鳴る音がする。
なるほど、噂通り実に豪胆だ。何を言ってもひるまない。
「おーおー居住区の方にはいい女が山ほどいんぜ。勝手に見繕えばいいんじゃねえの」
「千空ちゃん雑すぎ! そういう交渉俺に任せてって言ってるでしょ!? なんのために積載量超えて俺連れて来たの!? もういっそ要らなかったんじゃない!?」
「いいやゲンは必要だぞ!!! この中で唯一女装が通用しそうだ!!!!」
「それ大声で言ったら意味ないやつだからね大樹ちゃん!! ハニートラップの相談仕掛けようとする本人の目の前でしないでよ! いやハニートラップもしないけど、モロバレだから! ……ねえ千空ちゃん、俺よかなんで大樹ちゃん連れて来たのかの方が不思議かもしれないな!?」
「なんか勘」
「千空ちゃんの合理主義どこ行ったの!?」
記憶の中のあさぎりゲンはこんなに声を張る人間ではなかったが、別陣営についてから
彼は必要に応じて、様々な顔を使い分けられる私のような人間のはずだから。
「俺が連れて来てくれと頼んだのだ! 彼女とは知り合いだ! 別れの言葉が言えなかったので、元気にしていたか聞きたくてな! ノーネームさん、お元気でしたか!!」
「うん、ありがとう。大変そうだね、ゲン。いっそ君と2人きりで話そうか?」
「お気遣いありがとうノーネーム……でもいいよこのままで……もう色々取り返しつかないしね……」
取り返しがつかないのはなんだろう。
シリアスな雰囲気だろうか。ああだがそれに関しては、私がいくらでも補充してやろう。
コミカルさでもって、交渉を有利にされても困るのだ。
「我々は今、科学王国を築き平和に暮らしている! あなたにもぜひその一員になってほしい!!」
大樹が言った。
「それに関しても、もう一度言わせてもらおう。勧誘だったら、あらゆるものをお断りさせていただく、と。私は人付き合いにはもう疲れてね。もともと争いは苦手なんだ。複数の人がいると争いは必ず発生する。で、あればずっと一人でいるのが最善策だ」
「そんなことはないぞ!!!!!!!」
青空を流れて行く雲を見上げる。
もう私が話しかけるのは、あの雲くらいしかいないと思っていた。
「たとえ争ったとしても! 人と人は和解できる!! 必ず!!! 俺たちは司たちと戦ったが、最後には皆で共同生活を送れている! 人は共存できる生き物だ!!」
「いいこだね、君は」
本当にいいこだ。
私がまだスパイをやっていた頃には、こういう純粋な子を守り、未来に繋げるためにと、頑張っていたのだったか。
「いいこなので殺したくない。そのまま家におかえり」
「俺たちを殺すのはお前か? それとも、お前がかかってる病か?」
問いかけは、石神千空から。
すう、と息を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。冷静に、一定のペースで。
心拍の乱れはコントロールできずとも、体の震えや発汗をごまかすのはまた別だ。
「司が最期に言ってたぜ。お前が離脱した時、お前からは嗅いだことのある臭いがしたと。アレはその臭いをこう喩えた——死臭ってな」
「!!! せ、千空、まさか、彼女は!!!!!!!」
最期、という言葉に悲しくなる。
そうか、やはり彼は逝ったか。私よりも早くに。私よりも若かったのに。
彼も私が守るべき子どもだったのに。
そんな子どもに、一度は国王という重責を負わせようとした私が何を思っても、偽善にすぎないのかもしれない。
「お前が後ろを向く直前、表情にゃ笑い以外の何にも浮かんじゃいなかったが、手足が一層白くなった。そして今……指先の色は紫になりつつあるな」
「皮膚が紫!? そんなことあるのか!?」
「チアノーゼ。血液中の酸素濃度が減って、皮膚が青紫色に見える現象。違うか?」
「素晴らしい」
忌憚ない賞賛だった。
スパイになってから、そんな心からの言葉を誰かに向けたことはなかった。
見事に
「血が……!」
私の口元にはべっとりと血がついていた。もちろん私自身の血だ。
拭えば血を吐いたことがバレてしまうと、そのままにするほかなかったので当然だ。
それでもバレてしまったのは、なぜだろうか。答え合わせを、してくれるだろうか。
「喀血か。通常気道は空気しか通らない部分だが、その部分で出血すると気道が刺激されて激しく咳き込むことになる」
「!? だが、ノーネームは一度も咳など……!」
「ああ。
「肩が震えていたのはそのためか!」
「気道が血でふさがって呼吸困難、酸素不足になっているのをかけらも悟らせねえ見事な動作だったが、さすがに皮膚の色まではごまかせなかったみてえだな」
自分の指先に視線を落とす。
言われた通り青紫になっている。なるほど盲点だった。
こればかりは、そうそう
手袋を縫っておかなかった私の負けか。
「それだけの出血、貧血でふらっふらになってても何にもおかしくねーぜ。どうなってやがる」
「ただの気合いだよ。君の好きな科学的に言えば、脳内でドーパミンが大量に出ているんだろうさ。私はもともとCOMT活性が高い性質でね」
「COMT活性! なるほどval/val homozygotes型のCOMT遺伝子を持ってりゃドーパミンの代謝によるエンドルフィンの放出によって感受性が下がって痛みに耐性が……」
「待って待って待って急に言ってることが難しいよ!」
「そうだね、青空科学相談室はここまでにして話を戻そうか。私もそうながくはない」
「……!」
もう一度、ロッキングチェアに座る。
血も体調不良も、バレてしまったのだからもう誤魔化す必要はない。
指を組んで、静かに揺れる。
理想の老後はこんな感じだったが、唯一足りないとすれば、本だろうか。
頭の中にはあるのでいつでも読めるが、それでも私は紙の本が好きだった。
この悲しさの正体は、この時代ではもう新しい物語を読むことができないという、物足りなさからくるのかもしれない。
「司は妹を見舞うために、なんども病棟に足を運んでた。だから嗅ぎ慣れてるんだろうさ、いろんな病気特有の臭いってやつを。おそらくそれをまとめて死臭と呼んでんだ」
脳死状態の妹がいる。
そして、その状態を保つために、彼は様々な場所で荒稼ぎしている。
そのくらいのことは、スパイ時代から知っていた。
人類の中でも戦闘能力がトップクラスの彼にとって、いざとなればそこが弱みになるからと。
だがまさか、その点と点が線として繋がって、私の病がバレるとは。
因果とは不思議なものだ。なるほど、病の臭い——病によって人の体臭が変わることはままある。
例えば脂漏性皮膚炎にかかればあぶらっぽい臭いがするし、糖尿病になればアセトン臭がする。
腎機能が低下していれば汗からはアンモニア臭がするし——よほど鼻がよければ、もっと細かくわかることもあるのだろう。
「喀血が伴う病気は山ほどある。多いのは肺結核や気管支拡張症、そのほかに肺がん、非定型抗酸菌症、肺炎、肺アスペルギルス症、肺梗塞」
「本当に山ほどあるね!?」
「聞かせてみろ、ノーネーム。お前の症状を」
目を閉じて思い出す。
自分の体調に違和感を覚えるようになったあの日から、今までのことを。
ああただの風邪ではない、
「高熱、呼吸困難、全身倦怠感、胸の痛み」
「めっちゃ色々症状出てるー!!!」
「せ、千空! 彼女はもう助からないのか!?」
わたわた慌てる彼らに申し訳なくなる。
だから病のことは伏せたまま、追い返そうと思ったのに。
「そして、
珍しくはない病だ。
しかし現代でも、高齢者の死亡原因としてかなり多い病気だった。
よくかかり、よく死ぬ。かつ、今この時代であれば、なおさら。
「唾液などから飛沫感染する。この原始の時代では太刀打ちできない病だ。君たちを殺したくはない。だから私は一人で死ぬこととする」
「……!!!!」
「そうか。俺たちを近づけなかったのは、飛沫感染を防ぐため。わざわざ近くに鹿の皮を干しているのは、喀血の血の臭いをごまかすためか! 知恵が回る、ますます欲しい!」
この期に及んでまだ言うとは。
もはや死に至る病原菌の塊となっている私を、それでも欲しがる道楽息子に苦笑しか出ない。
「いいこだからそのまま家におかえり、と言ったのに。いいこの君たちは、今の話で心が苦しくなるだろう」
「……ああ!!! あなたのその人を思う心に、感動した……!!!」
滂沱の涙を流す大樹の優しさに、微笑んだ。
最期に会えてよかった。この思い出があれば、一人で死ぬことにも耐えられるだろう。
「じゃあ話は簡単だな。治してやるから仲間になれ」
「……は?」
耳を疑った。今、彼はなんと言ったか。
「千空ちゃんさすがにドイヒー……向こうさん完全に死ぬ覚悟決めちゃってんだよ?」
「あ? 知るかよ、俺が死なせねえ」
「そう言うと思った。……やっぱ俺、必要なかったね〜。だって問題は、全部千空ちゃんがすでに、解決し終わってるあとなんだもん」
耳をほじりながら言う千空と、くすくす笑うゲン。
ゲンの方はともかく、千空の視線、胸の上下からわかる呼気、推測できる心拍……全てから計算しても、嘘は言っていない。
「抗生物質ならとうの昔に作ってやったわ、サルファ剤をな」
嘘は、言っていない。
「ハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!」
先ほどのような、嘘の笑いではなかった。
久々に、腹の底からわいてきた、本当の笑いだ。
「サルファ剤! ペニシリンですらなく、サルファ剤と来たか!」
ハハハ! 止まらぬ笑いに身を任せていると、ついにドバッと口から血が出る。
「ちょ、ええー!? 死ぬ死ぬ!!」
「だから死なせねーつってんだろ」
「ガハッ、正確には抗生物質ですらないじゃないか! ハハハ!」
「そうなのか!? 千空、ルリを助けた時に作った薬はその抗生物質だと言っていなかったか!? その、サルファ剤というのは違うのか!?」
「抗生物質の定義は微生物が産生し、ほかの微生物の発育を阻害する物質のことだ。サルファ剤は生物由来じゃねーが、微生物が産生したものを化学修飾、あるいは人工的に合成された抗菌薬、腫瘍細胞みてーなほかの微生物以外の細胞の増殖や機能を阻害する物質を含めんなら広義にゃサルファ剤も抗生物質だろうがよ」
「言ってることの10割わからん!!」
「全部じゃん!!!!」
手の甲で口元を拭い、そこについた自分の血を見つめる。
「俺が聞きたいのはただ一つ! 千空、ノーネームさんは助かるのか!!」
「ああ。全くもって問題なく、100億%助けてくれてやる」
——嘘は、言っていない。
血は嫌いだ。不潔で人を病にするし、流れれば誰かが悲しむ。
司は、人を石のまま砕くことで『無血』をしていた。だからまだ良いかと、思ったのだが。
「そうか。君はこのストーンワールドで、司のように人を殺めることなく、人の病の方を殺める方法を考えていたんだな」
「考えてただけじゃねえ。実行までしてるぜ。トライアンドエラーは科学の基本だ」
秩序がなければ人は争う。
そこにいる人間がたった一人にでもならない限り、誰かがリーダーにならなければならない。
その考え自体は変わらない。
だが、ああ。だがしかし、リーダーが掲げる公約は、武力より科学——流血より無血の方が魅力的だ。
「実はアンタのことは司から聞いててな。『俺はなんともしてやれなかったが、うん、千空なら助けてやれるかもしれない――』つってたぜ」
「うーん、62点のモノマネ」
そうか。人は必ず『和解できる』と言い切った大樹は、彼らは、あの司とすらも、最期には本当に和解してみせたのか。
心は決めた。そも、私だって嫌だったのだ。たった一人で、死んでいくことは。
——だって寂しいじゃないか。
「では、石神千空。君は私に何を望む」
「獅子王司を蘇らせる! その手助けをしろ!」
私は青空を見あげて「ハハハハ!!!」と叫んだ。
そうか、そうか。
そうして死んでしまった司すら、君ならまだ取り戻せると言うんだな。ならば彼をリーダーとすることに、当然――否やはない。
「承った。私も彼には恩がある。それに、これから君にも恩ができる。それを返すことにしよう」
龍水が、面白そうに眉を上げた。
「スパイというのは存外、義理人情で動くのだな」
「動かないよ。だからこそ、この時代ではもうやめたんだ。しかしスキル自体は有効に使わせてもらおう。戦闘、交渉、潜入、頭脳労働、単純作業、多少複雑な精密作業でも、なんとかしてみせる。何をすればいい?」
千空は、言い切った。
「——全部だ! 全部全部何もかも足りちゃいねえ!」
「アイアイサー。無茶にも応えよう。それが一番の得意分野だからね」
もう一度、ロッキングチェアから立ち上がる。
今度は喀血を誤魔化すためではなく、喀血から彼らに病がうつってしまうことを恐れることもなく、友好の証に握手を求めようとして——
「ぶっ倒れたーー!?!?!?!?」
ぐるりと世界が反転して、いつのまにか地面とキスしていた。
「そりゃそうだろ。どんだけ血ィ吐いてっと思ってんだ、それで死にかけてなきゃ人間じゃねえぜ」
「そりゃそうだ人間で安心した……ってなるかーい!」
まったくもって、立てる気がしない。
「ハハハ! 私が地面を舐めるなんて何年ぶりだろう!」
「笑ってるけど!? 死にかけで頭おかしくなってない!?」
「おかしいのは君たちだ。特にゲン、君は随分変わったね。ふふっ、ああそうだったな、何故最初から気づかなかったんだろう」
私が最初に見たのは、気球だ。
気球を作るまでには、何が必要だ?
熱気球が空を飛ぶ原理は単純だ。
材料としては大量の布、人が入るための籠、それからバーナー。
布と籠くらいなら、私が最後に見た司帝国の技術でも、時間をかければなんとかなったろう。
千空は『積載量超え』と言った。せいぜいが2人、3人乗りの気球。
だが、そもそも人間を搭載して飛び立てるほどの火力がでるバーナー……そんなものは、よっぽど科学の力を借りなければ製作が難しい。
そして風を読み、正確な操作を行う人間の技術は必須だ。
気球は基本風まかせで飛ぶ。気象学をかなりの高水準で学び、実践していなければ狙い通りの場所に向かうなど不可能だ。
一度気球を見かけてから再び私のところに来るまでのスパンの短さからいって、ここまでのかなり正確な上空地図まで製作しているとも考えられる、そのマッピング技術。
全部が全部、失ったと思っていた科学、人類の知恵の結晶。
——まだ、失われてはいなかった。文明は、滅び切ってはいない。
「ああ、いい気分だ。君に惚れてしまいそう、千空」
「それはまじでやめろ。レズビアンじゃなかったんかよ」
「実のところ嘘だ」
「嘘かーーい!!」
「正確にはバイセクシャルだ」
「ン結局女の子もいけんのね!?」
やはりゲンは変わった。主にツッコミの切れ味が上がっている。
彼らと付き合う中で、よほどツッコミ役をやらされたに違いない。
千空が言う。
「一人がいいって言ったくせに、男でも女でも構わねえくらいに人間が好きなんじゃねえかよ」
「そうだ。私は人が好きだよ。だから誰の血も見たくはない。そのために、大量の血が流れる戦争が、起こる前に止められるスパイという職に就いた。……もっとも、石化から戻ってからはその機会があったというのに、発揮できなかったようだけれど」
司のところから離脱してしまったのを後悔するとすればそれだ。
きっと彼らと司は戦争をして、彼らが勝ったからこうなっているのだろう。
私なら、戦いが起こる前になんとかできたかも——それは思い上がりだろうか。
だがあのままあそこにいれば、いつ誰に肺炎をうつしてしまうかもわからなかった。
居続けるわけにいかなかった。だからできるかもしれなかったことを、やる機会を逃した。
もうそんな後悔は、しなくて済むのか。
「これからは、千空。君のものがたりを見届けよう」
「見届けんな。お前も一緒に作るんだよ」
「ハハハ! 最高の口説き文句に、天にも昇る気持ちだね」
そのあと「本当に昇りそうだが!?」と突っ込んだのは誰の声だったか。
フォロワーからもらったのでDr.STONE読みました。
すげえ好みのエッチなお姉さんが出てきたと思ったらエッチなお兄さんだったことが判明し、あまりにも悔しかったので、好みのエッチなお姉さんを主人公にして書きました。