マギのアラジンと雁夜おじさん行く聖杯戦争   作:ロマニ

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ここで追いついたので終わり、本当に申し訳ございませんでしたぁ!!



第五夜

 暗い、昏い、黯い——そんな闇の中に少女がいた。

 流す涙も枯れ果てて、吐き出す嗚咽も枯れ果てた。

 希望という二文字は存在しない。この中にあるのは、延々とつづく苦痛のみ。

 慟哭もしない。憤怒もしない。抵抗もしない。あるのは諦観という現実逃避だけ。

 人心から乖離した感情と理性だけが共存している。

 ——こんなことが、これからさき一生続くのだろう。

 少女はそう思いながら、体内に侵入する物体を受け入れた。拒否するという行動は二ヶ月前に捨てている。足掻いたって、喚いたって、周りにいる蟲たちは嬉しそうにキィキィ鳴くだけだ。ならば、もういっそこれらの好きにさせて方がいい。

 少女にとって生は苦痛だった。生きているから苦痛を味わうのだと悟っていた。温かな生活も今では嘘のように思い出せない。遠坂で育った記憶が、まるで幻であったかのように錯覚する。自分には父も、母も、姉も存在しなかった。そう思えば楽になれた。そう思うことでしか少女は自己防衛を図れなかった。

 ずぶり。

 また何かが胎中に侵入した。気持ちいいとも思わないし、気持ち悪いとも思えない。己の体がまるで自分のものでは無いような気さえする。いや、そう思うことで彼女は人並みの感情に蓋をしている。

 ——今日はあと何時間続くのかな。

 誰も答えてくれない質問を少女は頭で思い浮かべる。もしかしたらこのまま一生、この汚い部屋から出られないのかもしれない。そう考えれば、なんとなくそんな気がしてくる。本当にここから出されずに、一生を終えるのかもしれない。

 少女はそこまで考えて目を閉じる。

 この部屋の中で視界を塞ぐのは、それだけで得難い気持ち悪さがあった。視覚をシャットダウンしたことで、蟲たちの息遣いがはっきりと聞こえてくる。肉体を犯される音が、骨と肉を通じて脳に伝えてくる。

 だが、今はそれでいいと少女は思えた。無駄な思考を省くために、生理的嫌悪を利用しただけだ。どうせ逃げられないのなら、それすらも己の糧にしようと少女は考える。

 そんな時だった——ふんわりと少女の体へ浮遊感が襲う。

 

「あっ」

 

 今まで出なかった声が自然と溢れた。

 少女がこれまで感じたことのない体感。穴という穴を潜られる感触ではなく、体が何者かに引っ張り上げられる感じ。それは二ヶ月前に捨てた、誰かに救い出される希望に似ていた。

 それ故に少女は閉じていた目を開ける。

 これが希望なのか、または新たな絶望なのか確かめるため。自身の目に焼き付けようと目を凝らす。

 少女の開けた視界に現れたのは、一人の少年だった。青い髪に、三つ編みに結われた長髪。白いターバンを宙に浮かせ、少女の体を引っ張り上げたその少年は、自分と同じくらいの年齢であることを鑑みても、妙に中性的な顔立ちをしている。

 

「君が桜さんかい?」

 

 太陽に似た笑顔で少年がそう問いかけた。

 少女は息を呑み、混乱した表情で少年の顔を見つめる。

 分からない。こんな状況は少女ですら想像していなかったため、思考が追いつかない。

 それ故に少女は、咄嗟に質問を質問で上書きしてしまった。

 

「あなたは……誰?」

 

 その言葉に、問われた少年は一瞬目を丸くするも、すぐに笑顔へ戻して、

 

「僕かい? 僕はアラジン。旅をしていた者さ!」

 

 少女の肩を優しく叩いたのだった。

 

 

 

§

 

 

 

 ——ひどいことをする。

 それが桜を見たアラジンの感想だった。

 臓硯から桜について聞かされていたものの、ここまでされているとは想像していなかった。下を見つめれば、無数の形容し難い蟲たちがひしめき合っている。見る人が見れば卒倒してしまいそうな光景だ。10年も生きていない少女からすれば、それこそ地獄と表現するにも生温い環境であったことだろう。

 裸一貫の桜を自分の乗っていたターバンで包むと、アラジンは近くで待機していたウーゴくんの肩へ飛び移った。

 

「おい、アラジン! 蟲どもをどうにかした方がいい!」

 

 先にウーゴくんの肩にいた雁夜がアラジンに向かって叫んだ。彼も桜をこんな目に合わせた蟲どもが許せないのだろう。アラジンから見ても、雁夜の瞳には怒りの炎が灯っているように見えた。

 雁夜の怒りに呼応するかの如く、下に群がる蟲がキィキィと喚く。まるで玩具を取り上げられた時の子供のようだ。横の壁からは、そんな仲間の鳴き声を聞いた蟲どもが、ぞろぞろと湧き出てきた。それらに不快感を覚えたアラジンと雁夜は、すっと目を細めて蟲たちを見下ろす。

 

「そうだね。よし、ウーゴくん! 奥の手を使おっか!」

「奥の手?」

 

 雁夜の声も気にせずに、アラジンはウーゴくんの頭部に生えた笛に力を吹き込んだ。

 途端、光も差さないはずの蟲蔵に明かりが出現する。よくよく見てみれば、その光は小さな鳥を象っていた。それら光の群衆がウーゴくんの拳に集まると、ぼお、と赤いエネルギーが点る。肩に捕まっているアラジンにすら、そのエネルギーの熱量が体を刺した。

 

灼熱の双掌(ハルハール・インフィガール)!!」

 

 その言葉を合図に、ウーゴくんの拳が地面に着弾する。大きな爆発音と、感じたことのない衝撃がアラジンと雁夜へと襲った。

 ウーゴくんが殴った場所を見てみれば、蟲どもは9割ほど死滅している。蟲蔵の地面は大きく穿たれ、あたり一体は先程の熱によって焼き焦がされていた。

 

「す、すごい……」

 

 雁夜は無意識にそう漏らした。

 ウーゴくんの体躯からして、人間なぞ軽く凌駕する存在だとは思っていた。しかし、ここまでの力を持っているとは想像できなかった。何より、アラジンのような小さい子供が、これを付き従えていることが信じられなかった。

 

「フフフ、ウーゴくんは強いでしょ?」

 

 アラジンが誇らしげな笑みを浮かべる。

 雁夜はその笑みに、乾いた笑みで返すと同時、一抹の不安を覚えた。

 

「でも、さっきの光はなんだったんだ? 白い鳥に見えたが?」

「んー、僕にもそれは分からないんだ。ウーゴくんなら知ってるかな?」

「だったら、桜ちゃんを救った後に聞いてみよう」

「うん! ウーゴくんは博識だからね。きっと教えてくれるさ!」

 

 アラジンと雁夜がそのような会話を交わしていると、上から声が響く。

 

「——馬鹿な」

 

 それに釣られてアラジンたちが見上げれば、そこには驚愕の表情を浮かべた臓硯が立っていた。

 自身の使い魔である蟲どもを殺されたことに驚きが隠せないのだろうか。それにしては、幾分か怒りなどが見受けられないように見える。

 

「おい、小童。さっきの光はルフか?」

「? お爺ちゃんはこの鳥みたいなものを知っているのかい?」

 

 ウーゴくん聞こうとしていた答えを、どうやら既に臓硯が持っていたらしい。アラジンの疑問に、臓硯は信じられないと言った様子で頭を横に振った。

 

「……ルフとは命の流動。魂の最小単位。生命の鳥。呼び名はそれぞれなれど、普通の魔術師にまず見えるものではない」

 

 臓硯はそう言って、杖の石突で地面を叩いた。

 

「ククク、よもやこれほどの者を持ち帰るとはのう。中々どうして、落伍者も捨てたものではない」

 

 人の笑顔とは言えぬほど醜く歪められた口角に、雁夜は唾棄し、アラジンは眉を下げる。

 アラジンからすれば、臓硯という人物とは今日で初対面の相手だ。それ故に、彼の残虐性や嗜好を完全に知っているわけではない。桜の一件も、許せないとは思うものの、雁夜ほどの嫌悪感を老人に向けることは無かった。

 そんなアラジンのフラットさが、臓硯の根本的な部分に疑問を覚える。憎々しいであるはずの雁夜を野放しにしていた優しさと、桜を犯し虐げてきたその残忍な心。果たしてどちらが、本当の間桐臓硯なのだろうか、と。

 だが、アラジンは知らない。臓硯が雁夜を見逃していたのは優しさなどではなく、己が払う対価と利益が釣り合わないためだということを。さらに言えば、間桐の家に恐れながら惨めに生きる雁夜を、臓硯が楽しんでいたに過ぎないことを。

 

「お爺ちゃん。一つだけ質問いいかい?」

 

 アラジンが顔を持ち上げて、臓硯の眼差しに合わせた。

 

「なんじゃ」

「お爺ちゃんはどうして不老不死なんかを目指すんだい? 不老不死になって何をするんのか、僕にはそれが気になって仕方がないんだ」

 

 質問の内容は非常にシンプルなものだ。

 不老不死というのは、結局のところ一つの手段に他ならないとアラジンは考えている。不老不死がゴールであるのなら、それこそ不老不死を目指す理由がない。死にたくないというのが目的であるはずならば、それこそ命の定義を取り除けばいいだけだ。決して、不老や不死などというものにこだわる必要はない。

 間桐臓硯は何を持って不老不死を目指し、そのさきに何を目標として掲げているのか。

 老人の周りを彷徨する悲しげなルフ。それが見えているアラジンにとってしてみれば、そこに原因があると思えた。

 しかし——、

 

「フッ……そんなもの疾うの昔に忘れたわ」

 

 臓硯からの返答も、またシンプルなものであった。

 アラジンはその回答を、憐憫の情で見上げ続ける。一人の少女を犠牲にしてでも、血の繋がった家族を敵に回してでも、間桐臓硯は不老不死を目指し続けた。そこには必ず、並々ならぬ感情があったはずだ。誰にも譲れない信念があったはずなのだ。

 そんなものすら忘れて、今をただ無作為に貪って生きている。

 アラジンはそれが悲しくて、可哀想で、何より不甲斐なくて仕方がなかった。小さい少年からすれば、臓硯のような人種は初めてみるタイプだ。どんなものにしろ、長く求めていたはずのモノが消え、手段と目的が入れ替わってしまった敗北者だ。

 これ以上、この老人を放っておくわけにはいかない。

 アラジンがそう心に決めた時、臓硯もまた違う事を心に決めていた。

 

「気が変わった。雁夜、そんな遠坂の次女なぞくれてやる。しかし、ワシは代わりにそこの小童の身体を貰い受けるぞ」

「っ、ふざけるな化け物! お前に差し出すものなんて一つもない!」

 

 雁夜の言葉など聞く耳を持たない臓硯は、ウーゴくんの肩に乗るアラジンへと飛びかかった。

 最早、人間の体に擬態していた臓硯の姿はなく、どろりと溶けた腕から無数の蟲がアラジンに殺到する。アラジンもそれに抵抗するべく、ウーゴくんに力を与えようとするが、先程の大技でお腹の力の大半が持っていかれてしまった。

 

「鈍いわ!」

 

 疲れを拭いきれないアラジンの行動に、臓硯は卑しい笑みを浮かべた。

 あと数秒もすれば、虫にアラジンは食いちぎられ自由を奪われる。その後は、刻印虫でも放り込みアラジンの魔力を枯渇させれば万事解決だ。アラジンの魔力を持って動いているウーゴくんですら、それで無効化できる。それが臓硯の狙いだった。

 しかし、そうはならない。

 臓硯の虫がアラジンに届くよりも早く、それらを蹴散らした存在がいたからだ。

 青い体躯をした魔神——ウーゴである。

 

「ウーゴくんっ!?」

 

 アラジンの指示なしにウーゴは勝手に臓硯の蟲を蹴散らした。片腕を横一線に薙ぎ払い、それらの命を須らく刈り取ったのである。

 その光景に驚いたのは、アラジンだけではない。アラジンの使い魔として縛られていると思っていた臓硯ですら、口をぱかりと開け、その光景を見張った。

 

「ぐぬぅ!!」

 

 アラジンと雁夜を肩に乗せたまま、ウーゴが臓硯を両手で圧縮しようとした。萎びれた老人の体がウーゴの巨体に敵うはずもなく、臓硯は必死に蟲で形成した壁を使って防御壁を作る。

 だが、そんなものは時間の問題だ。ウーゴの力は圧倒的に臓硯の蟲を上回っている。あと数十秒もすれば臓硯の体は木っ端微塵に消滅することであろう。それだけの威圧感が、ウーゴから発せられていた。

 

「たかだか精霊風情が、このワシを殺せると思うておるのか!?」

 

 臓硯は口端から泡を飛ばし、怒号をあげた。

 それが負け犬の遠吠えなのか、それとも本当に殺されない自信があるのかは分からない。ただ、そんな言葉を掛けられたウーゴは、力を一切緩めようとはしなかった。それどころか、先ほどよりも込める力が増大したようみ見受けられる。

 そんな状況にアラジンは困惑した表情を浮かべることしかできなかった。

 

「おい、アラジン! ウーゴくんは何をしているんだ!?」

「分からない。僕もこんなの初めてだ……。ウーゴくんは僕の力を使わずに動いてる……」

 

 雁夜とアラジンにできることはもうない。

 ウーゴが勝手に動いているこの状況。アラジンの管理下を離れた彼を止める術など、この場にいる誰も持ち合わせていなかった。

 雁夜とアラジンが息を呑んで、この行き先を見守る中、臓硯がとうとう押しつぶされそうなったその時、光の筋が天に伸びた。

 

「なんじゃ、これは!」

 

 思わず必死に抵抗していた臓硯も声をあげる。

 上を見つめれば、ルフの大群が臓硯を取り囲んでいた。アラジンだけではない、臓硯にも雁夜にも見えるほどの密度。それがまるでノアの方舟のように、何かを上へ上へと運んでいる。

 

「ぐぬぉぉぉぉぉ!」

 

 臓硯の叫びが蟲蔵に響いたと同時、ウーゴと臓硯はまるで糸の切れた操り人形のように行動を止めた。

 

 

 

§

 

 

 

 ——ここはっ

 

 そう発したつもりなのに、声が出なかった。

 臓硯は己の異常性にいち早く気がつき、そして自身の体を見下ろす。

 だが、そこに自分の矮躯は存在しない。ミイラのように細々と枯れた腕も、禿げた頭も存在しない。あるのは光の群衆。ルフと己が読んだ存在が、自身の意識体に群がっているだけであった。

 

「初めましてだね、現世の魔術師よ」

 

 その声が聞こえた方向へと、臓硯は目を向ける。

 当然、意識だけの存在となった臓硯に目などない。だが、その方向に視線を合わせることはできた。

 

 ——貴様は……

 

 声の出ない状況で、臓硯はそう呟く。

 目の前にいるのは頭だけが鎮座している一人の男性だった。

 優しそうな顔つきが、妙に臓硯のプライドを刺激する。きっと性根からして、自分とは相容れない存在だろうと、臓硯は本能で察した。

 

「僕はウーゴと呼ばれている者だよ。今さっき君の魂をここへ無理やり運んだ」

 

 ウーゴ。

 それはアラジンが付き従えていた精霊のような存在の名前だ。つまり、目の前にいるのが、あれの頭部ということなのだろう。アラジンの手を離れ、いきなり臓硯を殺しに来た存在が目の前にいる。それだけでも臓硯からすれば度し難いことであった。

 

「それにしても、君は一体いくつの魂を食べたんだ。ルフが混ざり合い過ぎで、自我を保てなくなっている」

 

 ウーゴが心底呆れたように、何より嫌悪したようにそう呟いた。顔だけの存在になっているため、非常に表情が読み取りやすい。

 臓硯はそんなウーゴの顔を見て、クカカ、と内心で笑い飛ばした。

 

 ——痴れたこと。貴様ほどのものであれば、質問なぞせずに分かるのじゃろ?

 

 臓硯の考えが届いているのか、届いていないのか、微妙な表情を浮かべるウーゴ。

 臓硯も会話をしようと思って返したわけではないため、これに関しての返答は元より期待していなかった。

 

「さて、僕は現世に大きく関与できない。これも一時的に貴方のルフを転写したに過ぎないんだ。直に君はアラジンの前へと戻る」

 

 ウーゴがそう言うと、奇妙な形で作られた生命体がウーゴの顔を持ち上げた。

 

 ——ならば、何故このような事をした?

 

 臓硯は意味の分からないっと言った様子でそう念じる。

 

「なのに何故このようなことをしたのか、答えは簡単だよ。君に見せたいものがある」

 ——ワシに、じゃと?

 

 ウーゴがそう言うと、それに連鎖して一つの生命体が臓硯の意識体に触手を伸ばした。

 すると、どうしたことだろう。今の臓硯に脳という器官は無いにも関わらず、雪崩のような記憶情報が臓硯に流れ込んだ。

 

「それは貴方の本来のルフだ。混ざり合いすぎて消えかかっていたけど、抽出することは簡単にできる。貴方をあのまま野放しにしていると、今のアラジンでは死んでいたかもしれないからね」

 

 ウーゴの清涼な言葉とは真逆に、臓硯は激情に駆られていた。

 自身に流れ込んでくるのは、500年も昔の記憶たち。いや、その志だ。

 マキリの限界を知った自分。聖杯戦争が始まるきっかけとなったある少女との出会い。その過程で目指すこととなった、「この世全ての悪の根絶」。

 

 ——貴様っ、貴様、貴様ぁ!! ワシに何をしたぁ!!

 

 声にもならない叫び声が臓硯の中で木霊する。

 忘れていたはずの正義感と、在りし日の思い出。アラジンに問われたその答えが、無情にも魂の擦り切れた臓硯に襲いかかった。

 

「昔の志を思い出すんだ、マキリ・ゾォルケン。その腐った魂の元となった、崇高なる理念を、思いを、志を。それをもう一度、その胸に刻め」

 

 ウーゴの声に反発するように臓硯の魂は震えた。

 昔のことを思い出してしまっては、これまで己が積み重ねてきた罪に耐え切れない。

 

 ——や、めろ……やめろぉぉぉ!

 

 ルフは正直だ。魂の最小単位だと言われるだけのことはある。臓硯の動揺は体裁もなければ、嘘偽りもありはしない。摩耗した魂に直接叩き込まれる、純情だった頃の思いが無慈悲に掘り返されていく。

 

「やめないよ。君は人の理を逸脱した。それに天罰を加えるのは、また人の理をはみ出たものにしか出来ない」

 

 ——あああああああああああああ!

 

 臓硯の中で、様々なものがぶつかり合う。

 使命感、正義感、喪失感、屈辱感、寂寥感、嫌悪感、徒労感、虚無感、欠乏感、悲哀感、絶望感、安心感、停滞感、罪悪感、虚脱感、欠落感、肯定感、倦怠感などなど……。

 それらは全て紛れもない臓硯の抱く感情だ。一つとして無駄なものはなく、一つとして他人のものはない。

 それら全ての葛藤の果てに、臓硯の魂にヒビが入る。

 

「悔いてほしい。貴方は昔、方法はどうあれ悪の根絶を目指した一人の求道者だった。僕にできるのはここまでだ。後はアラジンや、彼が心を許した者の手に返そう」

 

 ウーゴがそう告げる頃には、臓硯の頭は空っぽになっていた。

 なんのために、何がしたかったんだ。

 臓硯はそれを考えるも、すぐさまその思考を放棄する。延齢に延齢を重ねた結果が、このような醜悪なものなどと知りたくは無かった。いや、このまま知らずに生きていけたらどれだけ幸せだったことか。擦り切れた魂のまま、昔のことなど思い出さず、他人の不幸を貪っていたらどれだけ幸せだったことか。

 臓硯に抵抗する気力も、何かを行う生気も残されていない。このまま返されたとして、臓硯は自我を保っていられるかどうかも怪しい。

 ウーゴもそれを分かった上で、このような発言をしているのだろう。臓硯を物理的に死に至らしめることはなくても、彼の心を死に至らしめた。現世にいる人間に、これから臓硯が害を与えることはないはずだ。

 だが、そんな臓硯にもまだ残った希望があった。

 

 ——ユ、スティー、ツァ……

 

 何百年も昔、彼が見た麗しき姿。

 彼女を犠牲に作り上げた大聖杯。

 ともに語り合うことはそこまで多く無かったものの、臓硯の胸には確かにそれが刻まれていた。

 

 ——せめて、せめて最後に……おまえの面影を……ワシは……

 

 その時だった。

 あり得ないはずそれが臓硯の視界に映り込んだのは。

 白い外套に、白銀の長髪。血を彷彿とさせる丸い目は、いつの日か見た彼女にそっくりな麗人だった。

 

『朦朧した我が仇敵よ。もう良い、役目は終わった。果たし得なかった理想を夢見ながら、ゆっくりと眠れ』

 

 その言葉を聞いた臓硯が、どのような感情を抱いたのかは分からない。

 満足したのか、それともその言葉に憤りを覚えたのか。はたまた、そんな彼女の面影を愛おしそうに偲んだのかもしれない。

 どれにせよ、あり得るはずも無いかつての面影を最後に、マキリ・ゾォルケンの意識体は粉々に霧散したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 二人だけになった空間でウーゴは口を開いた。

 

「これで良かったのかい?」

「ええ、ありがとう」

「いや。僕もアラジンには死んでほしくないから良いよ」

 

 白い麗人は、頭部だけになったウーゴに頭を下げて感謝を述べる。

 

「君のルフもそろそろ帰らなければ。大聖杯に取り込まれた大部分のものは無理だけど、一部のルフは帰してあげられる」

「……」

「ユスティーツァ、ありがとう。短い間だったけど楽しめた。アラジンがいなくなって寂しがっていた僕に一時の平穏をくれて」

 

 ウーゴが今にも泣きそうな顔でそう呟くと、麗人はその涙を拭き取った。

 

「泣かないで、ウーゴ。最初はあれだけ怯えていたのが嘘みたい。いつか貴方も帰れるわ」

「うん、そうだね……」

 

 ウーゴは頷き、そして上を向く。そこには大きな扉があった。その先に何が広がっているのか、それは現代の言葉では表現できない。ただ、そこには『』だけが広がっている。

 麗人はそんなことを知りながら、ウーゴに導かれるまま扉を潜った。

 最後に笑みを浮かべていたような、無表情だったような。なんとも言えない顔だけがウーゴの脳裏に焼き付くのであった。

 

 

 

§

 

 

 

「クカカ……ユスティーツァ……クカカ……」

 

 棒立ちになっていた臓硯はしきりにそう呟いた。さっきまでアラジンの命を狙おうとしていた獰猛な老人には見えない。背中は小さく丸められ、眼窩からは生気が消え失せている。まるで、すっぽりと大切なモノを失ったような老人の姿に、アラジンは一人心を痛めていた。

 

「ねえ、ウーゴくん。君が何かをしたのかい?」

 

 笛の中に戻ってしまった友達へ、アラジンは問いかけた。

 当然、その中から返答はない。笛は震えることもなければ、熱を帯びることもなかった。

 アラジンは目の前の壊れた老人をどうするのか苦悩する。

 

「……トドメをさそう。いつこの化け物が正気に戻るか分かったものじゃない」

 

 アラジンが頭を捻らせていると、雁夜が徐に提案した。

 

「でも、お爺ちゃんは既に壊れちゃってるよ」

「だとしてもだ。コイツは人を殺しすぎた。それに桜ちゃんも……。それを償わせるためには、命を散らすしか方法がない」

 

 雁夜はターバンで包まれている桜を一瞥し、拳を握る。

 だが、それを見たアラジンは「本当にそうなのだろうか」と疑念を抱いた。

 

「僕はそう思わないよ。命を取ることでしか償えないなんて思えない。生きてこそ罪は償えるものさ」

「壊れた老人には何も出来ないだろ」

「だったら尚更だよ。壊れた人にトドメを刺す必要があるのかい?」

 

 アラジンは臓硯の前に立ちはだかり、雁夜の瞳を貫いた。そこには絶対に臓硯を殺させないという意思が見て取れる。

 対して、雁夜はアラジンの言葉を己の脳内で反芻し考える。彼からしてみれば、臓硯は根絶されるべき悪という認識だ。アラジンと違い、小さい頃から虐げられていた身としては、臓硯は存在しているだけで許せないものである。何より、かの老人の犠牲者となった者達に申し訳が立たないとも考えていた。臓硯が壊れたにせよ、健在であるにせよ、これまで臓硯の地肉にと捧げられた人たちの事を思えば、雁夜の胸が苦しくなる。

 

「やっぱりダメだ、アラジン。臓硯はあまりに人を殺しすぎている。日本の法律で考えても死刑だ。でも、こいつは日本の法律じゃ裁けない。俺たちで裁くしかないんだ」

「それがおじさんや僕が人殺しになる理由かい?」

「っ」

 

 ——人殺し。

 そう言われた雁夜は咄嗟に目を背ける。

 アラジンは冷たい表情のまま、臓硯を背に雁夜へ近づくと、手を差し伸ばした。

 

「僕たちが本当に考えるべきなのは、お爺ちゃんを殺すかどうかじゃない。桜ちゃんが、そしておじさんがこれからどうするかさ。殺すとか、裁くとか、そういうのは少し違うはずだよ」

 

 あまりに臓硯の死を渇望しすぎていた雁夜は、大事なものを見失っていたことに気が付く。雁夜が本当にしたかったことは、臓硯を殺すことではなく桜を助け出すことだ。遠坂家の娘として戻し、またあの平穏を取り戻す事だった。

 そのため雁夜は、「そうだな」と言ってアラジンの手を取った。

 やるべき事はまだまだ山積みされている。さっきまで蟲に犯されていた桜の精神状態を確かめるのもそうだが、何より遠坂家へとどうやって戻すのかも考えなければならない。アラジンは、ようやくいつもの雁夜に戻ってくれたのを確認して笑顔を浮かべた。

 

「な、なんだこれ」

 

 そんな時、蟲蔵の入り口から声が漏れた。二人が見上げてみれば、そこには玄関先で言い争いになった間桐家現当主の鶴野が立っていた。

 

「か、雁夜! 説明しろ! これはどういう状況だ!」

 

 あまりの取り乱し様に、雁夜は面倒くさそうに頭を掻く。

 まあ、蟲蔵の蟲が全て消え失せ、さらには大地に大きな穴が穿たれていれば誰だって乱心するだろう。今まで見たこともない光景が広がっているわけなのだから、ある意味当然の反応だ。まあ、それを踏まえたとしても鶴野は少々騒ぎすぎな部分もあるが。

 

「落ち着いておくれよ、鶴野おじさん。僕たちは桜さんを助けただけなのさ。鶴野おじさんも、これからの事について相談させてくれないかい?」

「これからの事だと!?」

「うん。僕たちは桜さんを遠坂の家に返したいんだ」

 

 アラジンがそう言うと、鶴野は次第に落ち着きを取り戻したらしく、平静な態度へと戻していく。

 

「遠坂の家に戻すなんて、今更無理だ。あそこは愛娘のためと言いながら、その娘を嬉々として親父に差し出した。どうせ戻したところで、また違う魔術師の家に養子へ出すに決まってる」

「なにっ? それは本当か?」

「嘘だと思うなら、遠坂家当主に聞いてみればいい。俺と同じ回答が返ってくるはずだ」

 

 鶴野の言葉に嘘は無さそうに思える。

 アラジンと雁夜のゴール設定は、あくまで凛や葵の元へ桜を返す事だった。それがあの家族の幸せになるのだと信じていたし、それが桜のためになると考えていた。

 けれど、桜を養子に出した父親自体がそれを望まぬとしたら、話は拗れる。どう足掻いても桜は凛や葵の元に帰れないという事だろう。それでは今回のことの二の舞だ。いや、もしかたら臓硯よりも酷い魔術師に預けられるかもしれない。そうなれば、桜は完全に壊れてしまう事だろう。

 

「なら、どうするのが良いんだろう」

 

 アラジンは悩みを吐露しながら腕を組んだ。

 桜の居場所が見つからない。本来の家族の場所には返せないし、かと言って自分たちが桜を養子に出すのは論外だ。せめて桜の納得する形で終わらせたいと、アラジンは思っている。

 

「馬鹿か? どうするも何も、雁夜が育てれば良いだけの話だろ?」

 

 鶴野は呆れた様子でそう言うと、雁夜を指差した。

 その言葉に便乗してアラジンも、咄嗟に雁夜へと振り向く。なぜそんな簡単なことが出てこなかったのか不思議なくらいだ。雁夜もアラジンと同じことを思っていたらしく、妙に納得した表情で顎先を撫でていた。

 

「確かに、当初の予定では俺が桜ちゃんと引き取ることになっていたし、それが一番なのか……。時臣の奴が、桜ちゃんをまた違うところへ養子に出す可能性がある今、せめて俺の子供としてでも凛ちゃんや葵さんに会わせてあげられれば……」

 

 雁夜がそう納得して頷けば、アラジンもそれに同意する。

 元の家族という体系には出来ないけれど、本当の姉や母親に会えるだけで桜も喜ぶだろう。それはきっと、凛や葵も変わらない。自分の妹や愛娘に会えるだけで、彼女達の罪悪感が少しでも軽減できればいいと二人は思った。

 

「兄さんはこれからどうするんだ」

 

 桜の件がひとまず解決したとして、次は間桐家の問題が残る。

 アラジンの後ろにはいまだに、意味の分からない戯言を浮かべる老人が立っていた。間桐臓硯という人間の心は完全に壊れたというのは、一目瞭然だ。

 そのため、長いことこの老人に縛られていた兄を雁夜は気遣ったのだろう。

 

「……来年に聖杯戦争が始まると、知っていたか?」

 

 雁夜の問いに鶴野はぽつりぽつりと語り始めた。

 

「いや、知らなかった。来年に始まるのか」

「ああ。俺は一応これでも御三家である間桐の当主に据えられている。サーヴァントがいなくても狙われる可能性があるんだ。さっさと慎二を連れて冬木から逃げるさ」

 

 そう自嘲気味に鶴野が笑うと、すっと彼は桜を見た。

 

「その子を連れてお前達もさっさと離れた方がいい。聖杯戦争中の冬木にいるなんて、命が幾つあっても足りない。蟲蔵に放り込んでいた俺が言うのもお門違いだが……俺もその子には幸せになってもらいたいからな」

 

 罪悪感に塗れた男の言葉は、アラジンや雁夜の心に浸透した。鶴野は本気で桜に申し訳ないと思っているのだろう。だからと言って許されることではないかもしれないが、それでも鶴野の人間性を垣間見れて二人は安堵する。これで鶴野が救いようのないクズだったならば、雁夜から無慈悲な鉄拳が降り注がれていたことだろう。

 

「う、うぅ……」

 

 鶴野の言動に微笑みあっていた二人の後ろで、うめき声が漏れた。

 アラジンが咄嗟に振り向いてみれば、そこには白いターバンで包まれた桜が、己の身を抱いて苦しんでいる。少女の体に触ってみると、そこからは信じられない程の高熱を発していた。

 

「おじさん! すごい熱だよ!」

「チッ、臓硯が何か仕込んでいたのか!?」

「どうしよう、このままじゃ熱に桜さんがやられてしまう!」

「病院だ! 救急車を呼んで病院に運ぼう!」

 

 パニックに陥った二人は、あたふたとその場で行動を開始した。

 臓硯を無力化したと思っていた矢先にこれである。魔術の「魔」の字も知らない二人からしてみれば、これは未知の領域だった。

 だが、そんな二人を落ち着かせる者がいた。

 鶴野である。

 

「落ち着け、もしかしたら臓硯を壊してしまった反動かもしれない」

 

 冷静な声色で鶴野がそう診察する。蟲蔵に放り込んだ張本人として、何やら確信めいたことがあるのだろう。普段は飲んだくれの男とは思えないほど、しっかりとした目つきだ。あまりにも芯のあるその声に、思わずアラジンや雁夜も冷や水を頭に掛けられた気分になった。

 

「どうすればいい?」

「分からない。ただ、魔術は魔術師の範疇だ。俺は魔術の教導は受けてないから、その範疇外ではあるけどな」

「だったら、その魔術師に診て貰えば……!」

「それはつまり遠坂家へ戻すのか?」

 

 鶴野の言葉に雁夜は言葉を無くした。

 アラジンにもその言葉が意味することは分かる。魔術師である遠坂時臣に桜の状態を見せるという事は、つまり間桐の失墜を教えるということ。ひいては、桜を新しい魔術師の家へ養子を送らせると言うことになる。

 冬木にいる魔術師はもぐりでもいない限り、間桐と遠坂くらいであろう。ならば、桜は知らぬ所へと養子に出され、もう冬木に住めなくなり、凛や葵とは一生会えなくなる可能性が高い。

 それをよしと思わなかったために、雁夜は己の養子として育てると決めたのだ。なのに、今ここで遠坂家へ駆け込めば、その決意も無駄になる。

 桜の命か、それとも桜と家族の幸福か……。

 二つに一つではあるが、その選択があまりにも重すぎた。

 

「……どうしよう、おじさん」

 

 困り果てたアラジンが、縋り付くように雁夜へ問いかける。

 目の前には呼吸が荒く、脂汗を額に滲ませている桜が横たわっている。

 いつまでこの苦しみが続くのか、いつまで桜の体力が保つのか分からない。素人目で見ても危険そうなその状況で、誰もが予想していない人物が口を開いた。

 

「ここに……いたい……助けて、くれた……ひとたちと……、また……あの人たちに…………会いたい……」

 

 それは今にも消え入りそうな声だった。少女の声は吐息まじりで、半分はただの呼吸音にしか聞こえない。それでも、桜は必死に懇願した。助けてくれた人たちと一緒にいたいと。葵や凛、時臣といった遠坂の家族に会いたいのだと。

 きっとそれは、今まで深い絶望にいた少女の嘆きだったに違い。今までどれだけの助けを求めても、誰も少女を救おうとはしなかった。

 それなのに今日、初めて少女は虫の中から掬い上げられたのだ。温かな笑顔と、優しい手。少女がそれを知った今、簡単に手放すことなど出来はしない。

 ならば、その声に答えてやるのが助けた側の意地である。

 アラジンも雁夜も、それぞれが顔を見合わせて力強く頷いた。

 

「アラジン、俺は聖杯戦争に参加することにした……!」

 

 雁夜が拳を握りながら言うと、目を鋭く細めて言った。

 

「昔、臓硯から聞いたことがある。聖杯戦争には7つのクラスが存在して、その中にキャスターと呼ばれる魔術に秀でたクラスがあると。聖杯なんてものは欲しくないが、そのキャスターさえ召喚できれば、桜ちゃんの後遺症も全て取り除けるはずだ」

 

 雁夜の思いに、アラジンが首肯する。

 彼の善性をアラジンは悉く信じていた。時々、横道に逸れる事はあるけど、基本的に雁夜という人間は優しいのだ。そんな彼だからこそ、聖杯戦争の違った活用方法に気が付いたのかもしれない。

 

「やめだ。俺にも出来ることをやらせてくれ。これでも便宜上は間桐の当主だ。臓硯が壊れた今、これのツテは利用できないかもしれないが、何かしらの魔術師に協力を仰げないか頼んでみよう。せめて、聖杯戦争までの間は桜に生き延びてもらわないと話にならない」

 

 鶴野も桜を救い出せなかった罪悪感からか、逃げ出すことをやめた。

 彼も一応は血の通った人間という事である。今までは臓硯に恐れて歯向かうことすらできなかった小者だが、雁夜やアラジンの姿を見て感銘を受けたのだろう。自分にも出来ることはやりたいと、己の主張で鶴野は立ち上がった。

 アラジンや雁夜はそんな鶴野を見て、少しだけ頼もしく思う。

 

「なら僕は魔術について自分なりに調べるよ。ウーゴくんもいるし、もしかしたら僕の身につけた魔術とやらで救えるかもしれない」

 

 笛を握り締めながらそう言うアラジン。

 少年としても自分にできることをやり遂げるつもりなのだろう。間桐の家に来てから、アラジンの知らないことを沢山知った。どうやら自分は魔術師に近しい存在なのだろうと、アラジンも薄々気が付いている。ならば己に出来ることはそれしかないと確証に似た感覚を得ていた。

 普通であれば交わるはずのない三人が手を取り合う。

 他者から見れば、不甲斐ない個々の集まりに見えるのかもしれない。

 だが、彼らはみんな一人の少女を救うためだけに立ち上がった。そこに偽善もなければ欺瞞もない。

 そうして間桐のお家騒動は、一旦の幕を閉じるのであった。

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