青薔薇を照らす星明かり   作:椎名洋介

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第七章 寄り添う者:前編

       

 

 

 作業が一段落したのは、つい今朝のことだ。

 白金燐子(しろかねりんこ)は時計台を正面に、街路樹を囲むように配置されたベンチの一つに腰を降ろす。

 それから、目の前を行き交う人々を、彼女はぼんやりと眺めた。

 CiRCLE(サークル)からほど近い、NR線の駅前広場である。

 天気のいい休日ということもあってか、家族連れや若者が多い。座れる場所を探したのは、雑踏の中から抜け出したかったからだ。

 だが。

 背負っていたソフトケースを前に抱えて腰かけた時、ふいに自分の中に生じた違和感に気がついた。

 人込みは、昔から苦手だ。ところがソフトケースを……その中に入っているキーボードを抱きしめていると、以前のように我を忘れて取り乱さないことに気づいたのだ。

 

「お待たせ、りんりんっ!」

 

 改札から宇田川(うだがわ)あこが飛び出して来たのはそれから少し経ってからだったが、それでも待ち合わせの時間よりも一〇分は早かった。

 

「人多いねぇ。今度から待ち合わせ、別の場所にしようかなあ」

 

 周囲を見まわしながら歩く、あこのその言葉は燐子への気遣いだろう。

 

「あ……だ、大丈夫だよ……」

 

 それより、と燐子は手に下げていた紙袋を掲げて見せる。

 

「衣装、あこちゃんのだけ、先に作ってみたから……」

「えっ、ほんと!? やったー!」

 

 袋の中を覗き込んで、あこが声をあげる。

 先日のお茶会でRoseliaの衣装を作ることになった燐子は、手始めに一着、作ってみることにしたのだ。あこ用なのは、単にあらかじめサイズを把握している唯一のメンバーだからという理由である。今あこが着ている私服も、燐子の手製だ。

 

「じゃあ早くスタジオに行って、みんなにも見てもらおっ」

「うん。気に入って……もらえると、いいな……」

「りんりんのデザインなら間違いなしだよ!」

 

 衣装の方向性が決まれば、あとはメンバー全員分の採寸をして、それぞれのイメージに合わせて微妙にニュアンスを変えてゆく作業に入る。

 

「手伝えることがあったら言ってね! あこ、何でもやるから!」

 

 どん、と力強く拳で胸を叩く親友に、自然と燐子も口元が笑みに緩む。 

 

「ありがとう、あこちゃん……」

「うん! よーし、ついにバンド衣装だあ! 燃えちゃうなあーっ!」

 

 目を輝かせて踏み出すあこの足が、

 

「……って、ん?」

 

 ふいに止まった。

 

「あこちゃん……どうか、したの……?」

「ねえりんりん、あれ……」

 

 振り向くことなく燐子の肩を叩きながら、あこは前方を指す。広場を抜けて、ちょっとした喫茶店やアクセサリー・ショップが並ぶ通りの奥に、人影が見えた。

 ざっと五〇メートルほどは離れているだろうか。だが、太陽の光を照り返す鮮やかな銀髪に、燐子は見覚えがあった。

 

友希那(ゆきな)さん……?」

 

 こちらに背を向けた格好のため顔までは判らないが、白いブラウスも裾にフリルのあしらわれた濃紺のスカートも、記憶の中の(みなと)友希那と一致する。

 異変に気づいたのは、あこの方だった。

 

「あの人、誰だろう?」

「え……?」

「ほら、あそこの、友希那さんの(そば)にいる人だよ」

 

 赤毛を低くお団子にまとめた、地味なスーツの女性である。

 だが、燐子はもちろん、あこも知らない人物だ。

 そんな彼女に先導されて、友希那は歩き始めてしまう。その足取りが心なしか重く感じられたのは、燐子の気のせいだろうか。

 一つだけ確実なのは、彼女達が歩いて行った先は、スタジオとは違う方向ということだ。

 その時だ。

 しゅばっ、と効果音がつきそうな勢いで、あこの姿が消える。次の瞬間、彼女は路地の植え込みと自販機の間に隠れるように身をかがめていた。

 

「あ……あこちゃん?」

 

 困惑する燐子に、振り向いたあこは唇に人差し指をあてて顔をしかめて見せた。

 静かに、の合図である。

 

「りんりん、しーっ。友希那さんに気づかれちゃうよ」

「でも、あこちゃん……やめようよ……あっ!?」

 

 突き当たりを曲がった友希那達を追いかけるように小走りで行ってしまうあこを、慌てて燐子も追いかける。

 電柱の陰に身をひそめるあこに追いついた燐子は、最後の抵抗とばかりに続けた。

 

「よくないよ……勝手に、あとを()けるなんて……」

「だって、もうすぐ練習始まる時間だよ?」

「……それは、そうだけど……」

「あの友希那さんが、練習に遅れてまで会うあの女の人……何か(おど)されてるとしか思えないっ」

 

 そして、

 

「友希那さんをしつこくつけまわすストーカーかもっ!」

 

 言うと、そそくさと次の物陰へと隠れに行ってしまう。

 だがある意味で、あこの言葉は正しいとも言えた。決して長い付き合いではないが、こと『音楽』に対する友希那のストイックな姿勢は、これまで何度も目にしてきている。

 そんな彼女が、バンド練習よりも優先するような用事なのだ。

 女性の風貌からしてあこが想像するような人物ではないだろうが、なぜだか只事ではないという予感が、燐子の頭をよぎった。

 そしてたった一人の親友は、そんな歌姫の後を尾けに行ってしまったのだ。

 

「あこちゃん、待って……!」

 

 放っておけるわけがなかった。

 息も切れ切れにやっとのことであこに追いつくと、彼女に(なら)って身をかがめる。路地から大通りに出る手前の、電柱の陰である。

 あことともに顔だけ出して、友希那達の同行を探る。

 横断歩道を向う側へ渡った二人はそのまま歩道に沿って歩いて行く。見つからないように、燐子達も後に続いた。

 片側二車線の大通りの両脇にはどれもビルが立ち並んでいて、その中でもひときわ大きな建物へと、友希那達は向かったようだ。

 二〇階近くはありそうな、高層ホテルである。

 

「あこ達も入ってみよう!」

「わたし達……入れないん、じゃ……」

 

 しかし以外にも、すんなりと建物の中へ入ることが出来た。風除室が設けられた二重構造のドアを抜けて、広いロビーに出る。見失ったのかきょろきょろと見まわすあこに、しかし今度は燐子の方が早く気がついた。一瞬、見慣れた銀髪が視界の端に映ったのだ。

 友希那と女性は、喫茶店のテーブルを囲んでいた。チェックイン・カウンターの見える開放型の喫茶店で、天井は二階までの吹き抜けである。丸いテーブルが一見無造作に、けれど絶妙のバランスで配置されている。

 二人は何やら話しているようだが、当然、ロビーからではその内容までは判らない。

 見つからないように細心の注意を払って移動するあこに、渋々燐子も続く。友希那達の視線の先に入らない位置の太い柱の後ろに隠れて、燐子達はそれぞれ顔だけを覗かせた。

 近くで見るとよく判る。ウェイターが持ってきた紅茶を飲んで何やら言っているスーツの女性の方は、やはり、とてもストーカーという感じには見えなかった。

 

「今日はもう練習があるの」

 

 出された紅茶にあまり手をつけず、友希那はテーブルに視線を落としている。

 

「もう少し、時間を……」

 

 俯いたままの友希那の言葉を、

 

「申し訳ありません」

 

 スーツの女性が遮る。

 

「依然うかがった弊社(へいしゃ)の者が熱烈なファンで、軽々しく、いくらでも待つ、などと。しかし、こちらとしてはビジネスですので」

「いえ……私も、目的は……」

「……え?」

 

 思わず、声が漏れる。

 ビジネス?

 目的?

 いったい何のこと?

 

「他社からも話が来ているんでしょうか? 我々より他社が用意した条件が魅力的だと言うのなら、(いさぎよ)く諦めますが」

「他からは……まだ、来てないわ……」

「でしたら、Roseliaとして生真面目(きまじめ)にコンテストに出場するのか、我々といっしょに本番のメイン・ステージに立つのか……考えるまでもないはずです」

 

 友希那の(こた)えは、沈黙、である。

 それよりも……、

 

「……ねぇ、りんりん」

 

 柱の陰で、あこが燐子の服の裾を引っ張った。

 

「これ、どういうこと?」

「……(わか)らない……」

 

 意外ですね、と言ったのはスーツの女性だ。

 

「『孤高のヴォーカリスト』として名高いあなたが、バンドが友達になってしまったのですか?」

「違うわ!」

 

 ここに来て、初めて友希那が顔を上げた。

 

「私は、フェスに出るためなら何でもする! ……ただ、今日は練習が……」

「……では、あと一週間だけ待ちましょう。あなたが一人のアーティストとして、正しい選択をしてくださることを祈っています」

「……判ったわ」

 

 じゃあこれで、と席を立とうとする友希那に、

 

「くれぐれも、同じ(てつ)を踏まないようにお願いしますよ」

 

 スーツの女性は呼び止めるように声をかけた。

 

「どういうこと?」

「先日、あなたのバックバンドとして声をかけさせていただいた、野上さんです」

一哉(かずや)が……?」

 

 突然、この場にいないギタリストの名前が話題に上がったのを聞いて、燐子とあこは目を()いた。

 なんてこと。

 野上さんも、この話に関係しているの……?

 だが、友希那は彼女の言葉で何かを察したようだ。俯いたまま、そう、とだけ応えると、足早に喫茶店を後にする。逃げるような足取りで出入り口を目指す彼女の背中が、燐子にはどこか(かな)しそうに見えた。

 最後まで、こちらの存在には気づいていないようだった。

 

「行っちゃった……」

 

 あこである。

 

「ねえりんりん、どうする……?」

「と、とりあえず……今日は、スタジオで練習……だから……」

 

 燐子は懸命に、腹の底から声を絞り出した。

 

「わたし達も、行かないと……」

「そ、そうだっ! とにかくみんなと合流して、それから考えよっか!」

 

 着信音が鳴ったのは、その時だ。

 あこの携帯である。慌てて手に取って、あこは通知を確認した。

 

「あ……リサ姉からメッセージだ。紗夜さんしかいないけど、みんなどうしたの……って」

 

 言いながら、こちらを振り向いたあこは眉を寄せている。

 この様子だと、どうやら紗夜とリサも知らされていないようだった。

 つまり、このことを知っているのは燐子とあこ、そして当事者である友希那と……一哉だけということになる。

 

「今……見たこと、言わない方がいいよ、ね……?」

 

 燐子は必死になって言葉を探した。

 

「友希那さんが……スタジオに来るなら……本人の口から、聞ける……かも。それに今日は……一哉さんも、来るから……」

「そ、そうだよねっ。なんかきっと、変な風に聞こえただけだよねっ」

 

 言いながら、あこは燐子の手を取って歩きだした。

 

「じゃあ、スタジオに急ごっ!」

 

 つられて、燐子も足を踏み出す。

 嫌な予感が、ずっと頭を離れなかった。

 

 

 

       

 

 

 珍しいこともあるもんだなあ、と思う。

 あこと燐子が約束していた練習時間より三〇分遅れたことが、ではない。

 寝坊したと言った一哉がぎりぎり五分前に滑り込んだことが、でもない。

 友希那が事前連絡もなしに一五分も遅れたことが、だ。

 いつもの彼女なら、それはあり得ないことだった。しかもそれを棚に上げてあこ達を注意するのだから、リサとしては可笑(おか)しくってしょうがない。

 

「いいから早く準備してください」

 

 ギターを構える紗夜(さよ)の言葉は、溜め息混じりである。

 

「ロスした分を取り戻さなくては」

 

 そうは言っても、遅刻した三人を待つ間はずっと運指の練習に時間を充てていたことを、リサは知っていた。例の、オルタネイトでアルペジオを弾く練習だ。

 そして、その練習に一哉が付き添っていたことも。

 だが、あこ達は互いに顔を見合わせて、困ったように眉を寄せているだけだ。

 そんな二人へ最初に声をかけたのは、自身の機材の前で丸椅子に腰を下ろす一哉だった。

 

「どうした?」

 

 言いながら、持ち込んだペットボトルの水を一口あおる。笑みを浮かべて、しかしその声音がいくらかわざとらしいのは、彼なりにこの場の空気を換えようとしているのだろうか。

 

「二人して辛気くさい顔して」

「そうだよー」

 

 だからリサも、一哉の言葉に乗ることにした。

 

「紗夜せんせいが怒るのなんて、いつものことじゃーん」

「野上さん、今井さん! まじめにやってください。コンテストは刻一刻と近づいてるのよ」

「はいよ」

「はーい」

 

 紗夜から向けられた鋭い視線に、リサは一哉と顔を見合わせて、それから肩をすくめて見せた。

 重い足取りでそれぞれの楽器に陣取るあこ達を眺めて苦笑する彼の姿に、そういえば、とリサは思い出す。

 この前言ってたバックバンドのスカウトって、結局どうしたんだろう。

 耐えかねた友希那が顔をしかめたのは、その時だった。

 

「……あこ、燐子。早くして」

 

 二人はあくまで位置に着いただけで、ろくに準備も始めようとしないのである。

 

「え、ちょっとなに? どうしちゃったの、二人とも」

 

 見ると、あこ達はしきりに友希那へ視線を投げている。

 思えば、リサが友希那へその理由を(たず)ねた時も、帰ってきた答えは、ちょっとね、であった。

 遅れてきた友希那の様子がいつもと違っていることくらい、リサにはすぐに判った。

 そして最初に違和感を覚えたのは、お茶会のあった日……練習終わりにスカウトを受けたと一哉が告白した、あの夜だ。

 まさか、とは思う。

 

「宇田川さん、やる気がないならかえ……」

 

 言いかける紗夜を、

 

「あ……あのっ……」

 

 遮るように、立ち上がったあこが声をあげた。

 

「あ、あこちゃん……」

「ごめん、りんりん。……あこ、見ちゃったの」

 

 何をですか、と訊ねるのは紗夜だ。

 俯いたままのあこの目は、見上げるように向き合った友希那を捉えていた。

 

「友希那さんが……スーツの女の人と、ホテルで……話してて……」

「それがどうしたって言うの。湊さんにだってプライベートはあるでしょう」

「で、でも……」

「あこちゃん……」

 

 口を挟むのは、燐子だ。

 

「い、今は練習を……」

「そうだけど……でも、でも……気になるんだもん!」

 

 おかしい。

 明らかにおかしい。

 確実に、何かがあったのだ。

 

「あ、あこだって、Roseliaっていう、この六人だけの……『自分だけのカッコイイ』のために頑張ってきたし」

 

 スカートに置かれた彼女の手は、ぎゅっ、と握りしめられている。

 ぞくり、とした。

 なに、この感じ。

 お腹の底に冷たいものが広がってゆく、あの感じだ。

 

「だから……」

 

 その予感は、

 

「コンテストに出られないなんて、絶対イヤなんだもん!」

 

 感情のままに叫ぶあこの言葉で、確信に変わった。

 思わず、リサは友希那の方を向く。びくり、と彼女の肩が動いたのが視界に入ったからだ。

 彼女はあこの方を見ようともせず、その目を逸らしていた。

 

「どういうこと?」

 

 ギターを握る紗夜の手から、力が抜ける。あこの方を向いたそれは、続けて、という意思表示だろうか。

 顔を上げることなく、あこはぽつりぽつりと話し始める。

 

「今日……りんりんと待ち合わせしてて。そしたら……友希那さんを見かけて」

 

 そして、

 

「友希那さん、フェスのメイン・ステージに出ないかって言われてて……Roseliaで生真面目にコンテストに出る必要なんてないって……!」

 

 え?

 

「一哉さんも……そのバックバンドに声かけられてて」

 

 誰かが息を()む気配があった。

 一哉だった。

 

「……宇田川さんの言い分は判ったわ」

 

 紗夜である。その目は、友希那を(にらみ)みつけていた。

 

「湊さん、認識に相違(そうい)はないんですか」

 

 だが、応えは、ない。

 

「私達とコンテストになんか出場せずに、自分一人本番のステージに立てればいい、そういうことですか?」

 

 応えは、ない。

 

「……否定しないんですね。だったら……」

 

 ストラップを外してギターをスタンドにかける紗夜に、たまらずリサは声をかけた。

 

「ちょ、ちょっと待って! そう言ったわけじゃないじゃん! 友希那の言い分だって、ちゃんと聞こうよ!」

 

 言いながら、しかし友希那の前に立って見せても、彼女は何も言ってはくれなかった。

 

「友希那……ねえちょっと……!」

「無駄ですよ、今井さん。何を聞いても、その人は何も答えてくれない」

 

 友希那に対する彼女の呼び方が変わっていることに、振り向いたリサはようやく気がついた。

 紗夜の目に宿るのは、あこのような不安ではない。

 明確な呆れと怒り……そして軽蔑だ。

 

「私達なら音楽の頂点を目指せる、なんて言って……自分達の音楽を、なんてメンバーを()きつけて……」

 

 自分の機材を手際よく片づけてゆきながら、紗夜は続ける。

 

「フェスに出られれば、何でも……誰でもよかった。そういうことじゃないですか……!」

「え……それじゃあ、あこ達……そのためだけに、集められたってこと?」

 

 呆然と声を漏らすあこに、それは違うよ、と真っ先に否定したかった。

 

「あこ達の技術を認めてくれてたのも……Roseliaに全部賭けるって話も……みんな、嘘だったの……?」

 

 友希那のことをずっと(そば)で見てきたからこそ、言いたかった。

 だが、いくらリサがわめいたところで、何の解決にもなりはしない。

 きちんと友希那が、自分から言ってくれなければ意味がないのだ。

 だが、幼なじみは応えなかった。

 何も言わなかった。

 

「……友希那さんひどいよ……っ!!」

「あこちゃん……待って、どこに……!?」

「ちょっ、二人とも……!」

 

 スタジオを飛び出して行くあこ達に追いすがるように声をあげても、二人に届くことはなかった。 

 紗夜の軽蔑の眼差しは、そのまま滑るように一哉に向けられる。

 

「あなたは、当然このことを知っていたんですよね? あなたもスカウトを受けていたのだから」

「ああ」

 

 即答だった。

 友希那を除いた全員の視線が、一哉に集中する。目深にかぶったキャップのツバに隠れて、だからリサには一哉が今どんな顔をしているのか判らない。

 それが余計に、怖い。

 そして同時に、理解してしまった。

 これが、一哉の隠し事だったんだ。

 

「知ってた」

「知ってて黙っていたんですか?」

「そうなるな」

「私達に何も言わずに」

「ああ」

「なぜです?」

「それを話したところで、氷川さんは納得するのか?」

「質問を質問で返すのは、失礼ではないでしょうか」

 

 それもそうか、と彼は笑った。

 底冷えするような声だった。

 知らない。

 アタシ、こんな一哉、知らない……。

 

「では質問を変えましょう」

「どうぞ」

「あなたは、このスカウトを受けたんですか?」

「さあ、どうだろうな」

「はぐらかさないでください!」

 

 ここにきて初めて、紗夜が声を荒げた。固く拳を握り、肩をいからせて、形のいい眉は吊り上がっている。

 

「私は本気で()いているんです……」

「友希那が受ける、ってんなら、俺も受けるだろうよ」

 

 言い換えればそれは、友希那が断れば一哉も断る、ということになる。

 つまり、全ては友希那の判断によって決まってしまうのだ。

 

「……判りました」

 

 紗夜の言葉は、()(いき)混じりである。

 無論、落胆の、だ。

 

「結局、あなたも湊さんと同じというわけですね」

 

 それが、氷川紗夜の出した結論だった。

 

「やるからには全力で、手は抜かない」

 

 唐突に紗夜が呟く、それはリサが再びベースを手に取る決断をしたあの日、同じく友希那と組むことを決断した一哉が友希那へ告げたものだ。

 

「あの言葉も嘘だったということですか」

 

 当然ですよね、と紗夜は続けた。

 

「あなたにとって大事なのは、Roseliaじゃない。あくまで湊さんと……ろくな目標もなく続けているだけの、お遊びのバンドなんですから」

「紗夜!」

 

 反射的に、リサは鋭い声をあげた。

 お遊び?

 ORIONがお遊び?

 お遊びって言った!?

 

「いくら何でもそれは言い過ぎ!」

 

 それだけは、聞き捨てならなかったからだ。

 だが。

 

「リサ」

 

 背後から、少年の声がリサを制する。

 

「一哉、でも……!」

「いいんだ。そんなことは、今は重要じゃない」

「……とにかく、私はもう帰ります」

 

 言って、紗夜はギターをケースに仕舞ってゆく。

 作業の(かたわ)ら、

 

「湊さん」

 

 彼女は語った。

 

「私は本当に、あなたの信念を尊敬していました」

 

 それは、別れの言葉である。

 

「野上さん、あなたの技術とセンスにもです。……心底から羨ましかった。だからこそ、私も……」

 

 垂らした手が拳を握っていることに、リサは初めて気がついた。

 そして、

 

「とても失望したわ」

 

 それが、合図になった。

 紗夜は立ち上がると、振り返ることなくドアの方へと歩いて行く。

 去って行く背中に向かって、リサは声をぶつけた。

 

「じゃあ……じゃあ、これから先アタシ達、どうするつもり……?」

「あなた達は『幼なじみ』……何も変わらないでしょうね」

「そういうことじゃなくて……」

「時間が惜しいの」

 

 背中を向けたままで。その左手は、ドアノブを掴んでいる。

 

「申し訳ないけれど、失礼するわ」

 

 それが、その日、紗夜の最後の言葉だった。

 重い防音ドアが滑らかに閉まると、ほんの瞬間だけ聞こえていたロビーのBGMが、また途切れた。

 六人いたはずのスタジオが、あっという間に半分になる。

 

「ねえ」

 

 声をかける相手は、残された二人の幼なじみである。

 

「今の話、本当なの……?」

「本当だったら、なに」

 

 応えたのは、友希那の方だった。

 

「なに、って……友希那はそれでいいの? 本当はメンバーに何か言いたいことがあるんじゃ……」

 

 言いかけるリサを、

 

「知らない!」

 

 友希那の上擦った絶叫が遮った。

 

「私は……っ、お父さんのためにフェスに出るの! 昔からそれだけって言ってきたでしょ!」

 

 癇癪を起こした子供のように、その声を荒らげて。

 

「……帰るわ」

「か、帰ってどうするつもり……?」

「フェスに向けた準備をするだけよ」

 

 それだけ言うと、友希那もスタジオを後にしようとする。

 

「友希那……っ!」

 

 遠ざかる幼なじみの背中に、しかしかける言葉が見つからない。

 ……いや、何を言えばいいのか判らなかった。

 スカウトはどうするの?

 アタシ達はこれからどうすればいいの?

 ……Roseliaは、どうなるの?

 ぐるぐると、思考が渦巻いてゆく。そうしている間にも、友希那はドアへと近づいていった。

 

「……ねえ、一哉!」

 

 一縷の望みをかけて、リサはもう一人の幼なじみを振り向いた。

 

「一哉も何か言ってよ! 知ってたんでしょ、友希那のスカウトのことも!!」

 

 椅子に座ったまま、相変わらず帽子のせいで表情は見えない。

 関係あるもんか。

 

「このままじゃ……このままじゃ、本当にRoseliaがなくなっちゃうよ! 一哉はそれでいいの!?」

 

 応えは、ない。

 だが友希那がノブに手をかけたところで、

 

「友希那」

 

 ようやく、彼がその口を開いた。

 ノブを回そうとする友希那の手が、止まる。

 

「事務所の人には、何て言われた?」

「……一週間」

 

 ぽそり、と呟くその声は、本当にリサの知っている友希那なのかと疑ってしまうほどに弱々しい。

 

「あと一週間だけ待つ、って」

「だったらそこが最後のチャンスだ」

 

 野上一哉は、そう言った。

 

「それまでに、お前が納得出来る答えを出せ」

 

 友希那は応えない。

 重い防音ドアの固いノブを回して、ついに彼女は一人でスタジオを出て行ってしまった。

 どうしよう。

 どうしよう。

 どうしよう……!

 

「一哉」

 

 震える声で言いながら、リサは背後を振り返る。

 幼なじみは、じっとこちらを見据えていた。

 

「どうして話してくれなかったの……」

 

 友希那のスカウトを、だ。

 

「もっと早く教えてくれたら、こんなことにならないで済んだかも知れないのに」

 

 言葉にしながら、しかし心のどこかで、違う、と何かが叫ぶ。

 もっと早く教えてくれたら?

 違う。

 もっと早く、アタシが訊いておくべきだったんじゃないの?

 友希那を支えると決めたなら。

 

「……ごめん」

 

 彼がそう言った時、ようやく、彼の顔が見えた。

 眉を寄せ、申し訳なさそうに目尻を下げた、心苦しげな表情だった。

 CiRCLEのスタッフが利用時間を告げに来るまで、二人はそれから一言も話さなかった。

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