―誕生の日―
「椛ちゃん、キライ」
「――それで、今日はずっとヘナっている訳ですか」うるさい。「いい気味…とは思いますが、ここは少しばかりお話伺いたく」クソ烏は私にまとわりついている。どうせ下品な新聞のネタにするつもりだろう。つき合う気はない。右を向く。そこには烏天狗。左を向く。やはり烏天狗。
烏天狗は私の周りをヒュンヒュンと飛び回っている。「ねぇ、良いでしょう? 減るもんじゃなし」減る。何が減るとまでは思いつかないが。「あっちへ行け」遠くを指差す。烏はその指を手の平で覆うと、卑猥な瞳で見つめてきた。「多少の問題は、人に話している間に解決するものですよ、椛」
「多少なものか」つい乗せられて、相手をしてしまった。「夫婦喧嘩――まあ、そこまで発展しているとは思いませんが、犬も食わないものを、あなたは飲み込まなければならない訳です。お二人さんに課せられたちょっとした試練ですね、コレは」文はニヤニヤしながら、扇で口元を隠した。
「それで、何がはたてを"げきおこ"らせたんでしょうねェ」何を言っているのかはわからないが、意味する所はわかる。「…わからない」後からずっと考えた。今もそうだ。歩哨を放棄して、空を仰いでいたのだ。天は何も答えてはくれなかったが。「本当にわからない。今朝まではいつも通りだった」
「あなたのような石頭の主観はアテになりませんな」文が嘯いた。「大方、龍の尾の上でカラオケしているのもわからないでしょう」肩をすくめるバカを無視して、私は再び思い出そうとした。今日の朝、一体何があったのか。…思い出せない。記憶は定かだと思うが、何が悪かったのか。
「ならば、私めがカウンセリングして差し上げましょう。お代は…そうですね、あなたの吠え面」…カウンセリング? 横文字はよくわからない。…意外と、私はわからない事ばかりなのだな。世の中の広さを感じるが、今はどうでもいい。「つまり、一緒に原因を突き止めてあげるという訳ですよ」
「さて、整理致しましょう。あなたとはたては、何処で逢引きしておられた?」「いや、昨日はずっとはたてさんの部屋に…ッ!」無意識の言葉は、あまりに無思慮だった。顔が火照るのを感じる。誤魔化す言葉も出てこない。ちょっとした、二人の秘密をこんな所で取り落してしまうとは…
「…おやおや、あなた達はもうそんな関係でありましたか。ほー」手帳にペンを走らせるこいつの顔を殴ってやりたくなったが、止めた。「恐らくその時ではないでしょう。そうであるなら、いくらあなたでも原因がわかろうものです」しかしさぞお齧りでしょうね、と文は続ける。ほんとに殴るぞ。
「それで、目が覚めたら――ちょっとお待ちを。そこなエロ犬、よもやはたての部屋から直出したのですか?」何が悪い。…悪い気はしている。しかし放してくれないのだから、これは仕方がない。無理矢理逃げ出す訳にもいかない。そんな事をすれば、はたてさんを傷付けるだけだ。
「ほー、ほー…そうですかそうですか。――そうですね、まあ、そう言う事もありましょうな」それはともかく、と文は話を替えた。異存はない。私もそうしたかった。「起きます、シャワーを浴びました、はたての料理を…如何にもこの辺が、ありそうな話。ケチ付けたんでしょう、あなた」
「それはない」そう言い切れる。私は凡そ何でも食べる。ケチをつけた事など一度もない。まあ、最初の頃は消し炭を食べされられた事もあったが。「あやや、そうですか。そうですねぇ、なら次を探しましょう」相変わらず何かをメモしながら、文は答えた。こいつにとっては、結局ネタに過ぎないか。
「朝食を食べました。それから通勤の間に、何かしらイベントは?」「それからは…精々、はたてさんと話をしていたくらいで、特別な事は何も…」「…お話、お話!」突然興奮した文は、こちらをじろじろと見る。「それでしょう、原因は。不幸な行き違いは言葉の刃から生まれるものであります」
「それで、愛する二人はどのようなお話を?」「…確か、昨日行ったスイーツ店にまた行こうという話、買い物にも行こうという話、それから野山の景色の話、私の毛皮の話、それから――」「…お待ちなさい、あなたがたは何をそんなに花咲かせておられる?」「朝はこんなもんだ」夜はもっと凄い。
文は何やら頭を掻くと、息を吐いた。ペンは止まっていた。「後は――そういえば、何かを聞かれたような」「ふむ」先の話の事で一杯一杯だったせいか、内容を思い出せない。確か、誰かの日がどうとか言っていたような…「誕生日」「そう、それだ。…誕生日?」…心が青ざめるのを感じる。
「…それはそれは…ちょいと、からかうのも悪いですなァ。おかわいそうなはたてちゃん」そうだ、はたてさんは私に誕生日、と告げたんだ。時間が迫っていたから、私はそれを邪険にして――「どうしたら」文は座った目でこちらを見ていた。「…おや、弱音を吐きなさる?」言葉に棘を感じた。
「あなたが傷付けたのだから、あなたが解決なさい――とはまあ、正論でありましょうが」手帳をしまい、文は背中を向けた。「言い訳を並べる事はできる。もので誤魔化すのもいいでしょう。けれど、最終的には――あなたが向き合わなければならない問題です。例えそれがはたてを傷付けるとしても」
「よく考える事です。二人の関係というものは、頭だけでは解決しない。けれども一助にはなりましょう。考えなさい。考えなさい。あなたは、あなたの、言葉を使いなさい。言葉は刃とも、薬ともなりましょう」文は腕を広げ、言葉を吐いた。それは僅かにかすれていた。或いは絞り出すようにも。
「…まあ、そう言う事です。精々破局ごっこに興じるがよろしい。それでは」文の足元に風が渦巻いた。翼が風を得る。
「…お節介ですね、私も」
飛び去る直前、奴はそんな事を言っていた気がした。疾風が、それをかき消した。
◇◆◇◆◇◆
交代の時間だ。私は激しい焦燥感を従えながら、店屋と飛び込んだ。昨日立ち寄ったそれだ。煌びやかな店内には、私の姿は如何にも不釣り合いだ。対のマグカップと、小皿。敢えてこれを選んだ。受け取ってくれないなら、もうそれでいい。これ以上、はたてさんの傷を広げたくない…
夜。非番の白狼に酒を押し付け、しばしの猶予を得た。しばしだ。もしもはたてさんが部屋にいなければ、もう二度と会えない気がした。はたてさんが住むのは新興集合住宅の八階。広く取られた踊り場に着地した私は、階段を昇る。811号室。灯りはついている。呼び鈴を押す。…返事は、ない。
懐から鍵を取り出した。刻印は、811。はたてさんから預かったものだ。代わりに私は、自分の鍵を作って渡した。そういう風習だというはたてさんの言葉は、嘘と本当、半々だった。…これも今日、返さなければならないかもしれない。鍵を差し込み、回す。軽い音がした。…扉を、押した。
――パン!! パパン!!
私の目の前で、小さな花火がいくつも舞った。「椛ちゃん、誕生日おめでとう!」光の主が、私に小さく手を振っていた。…一体、どういう事なんだ。はたてさんがいる。いつもと変わらずに。…ようやく飲み込めてきた。「…私の、誕生日?」「あー、やっぱり覚えてない」困り顔が、私を見る。
「前に決めたでしょ、誕生日」そうだ、そういう事があった。そういった感傷に全く興味がなかった私は、生まれ年どころか生まれ日すら忘れてしまっていた。今更知る気も、手段もない。そう伝えた時、はたてさんは言ったのだ。「じゃあ今日が、椛の誕生日」…と。
「――キライなんて、言いすぎちゃって、ごめんね」「いえ、私も――酷い事をしました。すみません」私達は、互いに謝りながら抱き合った。…手元の荷物が、すとんと落ちた。「…これ、何?」気付いたはたてさんが、袋を見る。小さなそれに、目を煌めかせたように見えた。
「…あー、その」「プレゼント?」それを拾い上げ、見上げるようにはたてさんは笑った。「実は、色々ありまして…」そうだ、あの時はたてさんの誕生日も聞いていたんだった。幸い、その数字は思い出せた。…黙っておく事にした。今更、誕生日を間違えてました、なんてのは格好が悪すぎる。
「――椛ちゃん大好き!」全体重の乗った、飛び込むような体当たりに、私はのけぞった。しかして受け止めた。受け止めたのだ。「じゃあ、プレゼント交換しよう。今からしよう!」「今から、ですか?」武装も解いていない所か、そもそも私は仕事中だ。少しばかり躊躇したが…やめた。
「いいから、早く!」こうなったらはたてさんは聞かないのだ。純真さは時に周囲を巻き込み、掻き回す。…まあ、はたてさんから命令されたと言えば、遥か大天狗すらも文句はつけられまい。私は半ば引きずられながら、彼女の居場所…或いは、二人の居場所へと連れ込まれた。
はたてさんの顔を見た。その笑顔は、眩しい。愛らしくも、気圧されるほどに。