―億千万の恋―
「――!!」
私の足元が、音を立てて崩れた。落とし穴…いや、バンジステーク。落ち葉がクッションとなっていて、設置された竹も斜めに切られてはいない。殺傷を目的としていないのは明白だった。つまりこれは――いたずらだ。あの悪ガキ兎の。
「おや、珍しいものが捕れた」下手人の顔が、ひょっこりと現れる。「これが本気だったら死んでるぞ?」「…むっ」私とて元は軍人の端くれだ。この罠が極めて危険なのは承知している。…そもそも、こんなものを敷地内に設置するのが悪いのだ。私は叱ろうとして――やめた。時間の無駄だ。
「…いつもいつもいたずらばかりして、世間に対して申し訳ないと思わないの?」てゐはそれを聞いて、嬉しそうに答えた。「世界の為に私がいるんじゃない。私の為に世界があるのさ」そこまで言い切るか。私に腕を差し伸べてきた。それを無視して、私は飛んだ。顔は見ない。どうせにやけ顔だ。
―――
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――私達は竹藪を抜け、外に近い辺りを見回っていた。タケノコが随分と少ない。伐採した跡、火を焚かれた後もあった。あまつさえ、タケノコを直接炙った形跡もある。むやみやたらに火気を持ち込むなんて、正気ではない。或いは、わかっていても構わずに荒らし回っているのか。
「余所者が無思慮に竹藪に踏み込んでくるどころか、ロクでもない罠まで作り始めたから…私達はそれを真似て、あの落とし穴を作っているの。殺しはしない。ただの警告としてね」てゐはシャベルを立て、私に語った。…いつも穴を掘っているのは、あながち無意味でもなかったのか。
「それにしても、竹藪に入ってくるなんて命知らずね。人間なんてそんなものかもしれないけど」私は光るタケノコを見ながら歩いていた。…それが、良くなかった。「そっちは駄目よ、鈴仙!!」――警告が聞こえたのは、私がヘマをした後だった。
「――!!」
私の足元が、音を立てて崩れた。落とし穴…いや、バンジステーク。クッションなどない。斜めに切られた竹。幾重にも張り巡らされた有刺鉄線。頭上には――金属ネット。殺意。そう、殺意だ。――獲物を、確実に殺さんとする、デストラップ。
「いやだーっ!!」私の叫びは、僅か数秒後には途絶えてしまう。…はずだった。「…いやはや、私としたことが」頭の上から、声がした。私の手首が掴まれていた。それがてゐのものだと理解するのに、少しだけ時間がかかった。「ちょいと待ってな、これには解除法がある。そこにいて」
浮遊する私から手を放し、てゐは死の中へと降りていく。死の隙間をすいすいと通り抜け、遂には底まで辿り着いた。「…ここを蹴り倒せば、片付くはずさ」てゐは竹を蹴った。――てゐの言う事は本当だった。まるで将棋倒しのようにトラップが自壊していく。
…終いにはすべてのトラップが倒れ去り、単なる竹の床板と貸してしまった。「後片付けの為に、わざとこうしてあるのよ。罠は沢山見てきたから、見ればわかる。…いけね、もう一つ残ってた」てゐの視線の先には、金属ネット。先ほどてゐの身体を支えたそれは、今や私達を阻む障害と化していた。
「…こいつもはずれる予定だったけど、たぶん壊れてるわ。これ」「…えっ?」「壊せる?」――駄目だ。私の弾丸は通じなかった。元々は狂気を操る為のものだ。意志を持たない無機物に対する、物理的な破壊力は限られる。「当分はこのままだねぇ」「…いや、どうにかならないの?」
「私の頭脳でも、ちょっと無理ね」てゐは手を広げ、お手上げのポーズを取って見せた。「兎達が気付いて私達を見つけるまで…まあ、最低でも三日ははかかるね」「…冗談じゃない。あんたとこの場で一緒なんて」「そんなに嫌わなくてもいいでしょうや。折角だから少し、お話しよう」
憮然とする私の前で、てゐはとりとめもない話を続けていた。カラー兎の闇取引で種の保存に貢献した事、M&Aでにごっそり儲けてやった事、その金をつぎ込んだ事業がコケて無一文になった事、今は幸福売りのおてゐとしてマッチを灯すような生活――生活費入れてたっけ?――をしている事…
如何にも金の話が続く。…地上の兎とはみんなこんなものなのかしら。或いは地上に生まれてしまっては、こうなるのも致し方ないのかもしれない。私が軽蔑とも哀れみとも知れぬ顔をしているのに気付いたのか、てゐはこちらを見た。じっと見つめてきた。…どうにも、恥ずかしくなるくらいに。
「金の話ばかりって思ったでしょ」「…まあね」わかっているなら他の話はないのか。「金銭ってものが発明されてからこの先、幸運と不幸が安売りされている気がするのよね」「…安売り?」「昔は…迷い込んだ人間を無事に返すくらいだったけれど、今やどいつも一攫千金。幸運を奪い合ってる」
「幸運は相対的なものだと誰かさんは言ってたけど、それを言うなら不幸だってそうじゃないか。みんなで不幸になろうなんて、馬鹿げてる」てゐは膝を叩いた。「だから私は、幸運を分けてやろうって訳さ。誰かがかき混ぜてやらないといけない。そういうイタズラなら、私は得意だからね」
…私は呆然としていたかもしれない。この兎はそれなりに物事を考えているのか。「今、意外って思ったでしょ」てゐの言葉が、私を突く。「まあ、こうしていても仕方がない。その辺で寝てなよ、鈴仙」「…あんたは?」私の言葉に、てゐは答えなかった。ただ、しししと笑っただけだ。
――私がうとうとしていた間、てゐはずっとネットと格闘していたようだった。夜は過ぎて、朝が来た。私は目覚めた時、ネットは一部が剥がれ、てゐが私を揺り起こそうとしていた。
「…外れたんだ」「どうよ」てゐは、私の反応を待っているようだった。「あんた…意外とすごいのね」「もっと褒めてもいいのよ?」「よっ、大統領!」「エヘン」意味もわからない賛辞を送りながら、私は内心てゐの事を見直していた。とても。命を助けられたのだと、今更実感を覚えた。
「まぁ、あんたが私をどう思っているかは知らないけれど」ネットを退けながら、てゐは言った。「私ぁあんたが好きだよ。鈴仙ちゃん」――私の瞳に、あなたが映り込んだ。異常な波形。壊れた波長。私の中に生まれる複雑な狂気。それは私の中を一瞬で貫いて、不可逆な変化を起こした。
私の瞳が、あなたに恋をしてしまった。
―――
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それからの私は、可能な限りあなたと顔を合わせないようにしていた。あの顔を見たら、おかしくなってしまう。そんな確信があった。時に波長をずらして半不可視になり、時に天井に張り付き、時には竹に紛れ、或いは床板の下にまで隠れた。我ながらニンジャみたいだ。自嘲すらも空回り。
あなたの顔を想う。本当は逃げたくなんかないのだ。あの悪い笑顔を、いたずらに成功した顔を、私を出し抜いた時の顔を――あれ、結局悪い顔ばかりだな――近くで何度だって見たい。それをするのは簡単で、しかしどうしようもなく難しい。準備ができていない。今はまだ、その時じゃない…
「!」あなたの軽快な足音が不意に近づいてくる。こちらに気付かれたのか。私は竹に偽装したネットを放棄し、竹林を走った。逃げ出す必要なんてないのに。それでも私の脚は、竹藪を奥へ奥へと連れて行ってしまうのだ。あなたを見るのが怖い。あなたに見られるのは、いやだ。
「――!!」
私の足元が、音を立てて崩れた。落とし穴…いや、バンジステーク。落ち葉がクッションとなっていて、設置された竹も斜めに切られてはいない。殺傷を目的としていないのは明白だった。つまりこれは――いたずらだ。そう、あの人の。
「私の事、嫌いになっちゃったかい?」下手人の顔が、ひょっこりと現れる。「本気だったら…どうかな。死んでたかも」「…そうね」私は慌てて顔を伏せた。だめだ。今は駄目なのだ。…今は? じゃあ、いつになったら合わせられる? 狂った波長を、いつまで引き延ばしていられるのか?
「よっと」ドサリ。あなたは自分の掘った穴に落ちてきた。…どうしてそんな事をするのか、私にはわからなかったが…このままでは、顔を見られてしまう。「どしたの。顔見せてよ、鈴仙」あなたの手が、泥だらけの手が、わたしの顔に触れた。私は僅かに思慮を巡らせて…ゆっくりと、顔を上げた。
「随分汚れてるじゃない」「…あんたには言われたくない」あなたは泥をはたくと、私の顔を見つめた。軽く口を、開く。「――私の事、好きになっちゃったんだろ、鈴仙」ドクン。心臓が縮み上がった。…あなたの口からそんな言葉が飛び出すなんて、思ってもいなかったから。
「わかる。わかるよ。何年兎やってると思ってる。思い煩う男女の行動は、いつだってそういうものなんだ」あなたはニヤリと笑った。「押せば引かれ、引けば押される。恋の綱引きってのはそういうものさ。だったらどうすればいい? 捕まえてしまえばいいんだ。こうやってね」天を指し、地を指す。
「改めて聞くよ、鈴仙。あんた――私が好きで好きでたまらないんだろ?」ししし、とあなたが笑った。私の心臓は、再び縮み上がった。このままでは不整脈で死んでしまうのではないか。…無関係な事を考えて、気を落ち着かせる。あなたは、本気で言っているのだろうか? …それとも、冗談?
「そ、そんな事、ある訳ないじゃ――「いいや、あるね。その瞳を見ればわかる」あなたは私の瞳を覗き込んでいた。狂気の瞳。それはあなたではなく、あなたの瞳に映った私自身を狂わせていたかもしれない。「恋を燃やしてる。素敵な目だ」あなたが目を閉じたのを見て、私も目を閉じ、安堵した。
「うじうじさんには、これでどうだ」――あなたの唇が、私の唇に重なった。目を閉じた間の事だった。或いは誘っていると思われたのかもしれない。私にそんなつもりはなかった。なかったはずだ。…ほんの少しだけ、期待していたかもしれない。私は狂っていた。あなたの存在に、ただ狂っていた。
「ひゃっ!?」驚き後ずさった私。私の行動に満足したかのように、あなたはニヤニヤと笑った。悪いだなんて指先程も思っていない顔。「キスをすれば、後は駆け抜けるだけさ。それで物事は万事うまくいく。王子様だって、お姫様だって――みんなそうだった。お前もその一人になればいい」
あなたの指先が、私の下唇に触れた。「そういうもんだよ、恋なんて。焦がれている内が華なのさ。"今"は、今この時にしか味わえない」あなたの唇が、頬に触れた。「お前はどうしたい?」あなたの手が、顎を引いた。「私はいつまでも、こうしていても構わないわ」私がしたい事、したい事は…!
「…好き」「本当にかい?」「あなたが好きです」「ほうほう、それで?」「あなたが――大好きです!!」あなたの側から見れば、きっと顔を真っ赤にしていただろう。「そっか」あなたは静かに微笑み、私の身体に腕を回した。物理的な距離が、少しだけ縮まった。心の距離は、どうだろう。
「告白なんてされるのは、何年ぶりだろうねぇ」あなたの手が、背中を撫でた。…そうだ。永くを生きる白兎に経験で敵う訳もない。いわんや恋愛をや。何もかも見透かされていたのだと理解して、私は再び赤面した。今までの自分が馬鹿みたいだ。私はただ、あなたに顔を見せればよかったのに。
あなたはきっと、数多くの恋を燃やして、数多くの失恋を痕にしたのだろう。「――生憎、私はお前より先に死ぬ気はないさ。それでもいいの?」私はその一人に過ぎないのなら…それでもいい。首を縦に振った。いつかこの選択を後悔するにしても、"今"を手放すよりは、ずっといい。そう思った。
「気の迷い、では済まないわよ」見事なクライミングを見せたあなたが、私に手を伸ばした。実際の所必要はないんだけど、それを掴んだ。壁登りは私には少しばかり難しかった。あなたの手がそれを力強く支えた。私が這い出した時、あなたは悪い笑顔――ではなく、可愛い笑顔をしていたね。
「ま、とりあえず…土でも流そう。洗濯は任せる。今日からはてゐ様の天下だぞ」「…ちょっと図々しすぎない?」そうだ。私達の家に帰ろう。背に乗ってきたあなたを持ち上げ、肩に乗せた。あなたは私の頭に手を置き、ししし、と笑った。
世界があなたの為にあるのなら、その片隅に、どうか私を置いてほしい。
例え、悠久の時のまたたきに過ぎなくても。いずれは忘れ去られるとしても。
――私は、あなたを愛しています。