―もう少しだけ、私を見てほしい―
紫様が死んだ。
私が殺した訳ではない。いつも通り怠惰にテレビを見ているな、と思っていた。昼飯に呼んでも反応がないので、触れてみたら、死んでいた。うむ。状況を整理しよう。紫様は呼吸をしていない。脈もない。明らかに死んでいる。すわ冬眠かとも思ったが、生憎と今は夏だ。汗が肌を流れる。
参ったな。それしか思い浮かばない。どうせ悪戯の死んだふりだろう、と思ってしばらく眺めていたが、やはり起き上がりはしない。フライパンとおたまをガンガン叩いても起きない。ニワトリを連れてきても起きない。頬を張っても起きない。そりゃあそうだ。紫様は死んでいるのだ。
とりあえず私は掃除を再開する事にした。如何にも現実逃避だ。ついでに手を付けていない昼食を冷蔵庫にしまって、紫様を避けるように掃除機をかけた。この騒音でも目を覚まさない。参った。何度目かの困り。私は頭を掻いた。……ふと気付くと、壁のあるべき所に、扉があった。
「ハロー! 八雲の!!」扉からニュッ、と右手が伸びた。まずい。あの摩多羅様に死体を見られたら、何を言われるか、何をされるかわかったものではない。私は咄嗟に死体を座卓の下にねじ込んだ。「摩多羅様、紫様はただいま外出中で……」「なんだ、そうか。このクソ暑いのにご苦労だな」
そう言いながら摩多羅様は椅子から下り、二童子に脇を抱えられながら座卓に座った。……ひやりとする。下には紫様の死体があるのだ。「八雲の狐や、何か出してくれ」「――は、はい」気が気ではない。とりあえず、冷蔵庫から冷えた麦茶を出した。これを飲ませてお帰り頂こう。
そして、死体は何処かに――どうしようか。何処に放り投げても私が疑われる気がする。いっそ荼毘に伏すか。いやいや、それはそれで見つかった時が怖い。いっその事、巫女に相談するか? ――最悪手ではないだろうか。激昂した巫女に叩き割られて終わりだろう。確信がある。
私は麦茶を三つ出した。……摩多羅様はそれを全部奪い去って一息に飲むと、肘をついて顎につけた。「八雲の狐よ、もうちょっといいもの出せよー?」口にはしないが、摩多羅様は中々にうざったい。紫様が二人に増え――いや、紫様は死んでしまったのだった。増えて減った。
応えねば何を言われるかわからない。私は冷蔵庫からアイスを出し、メロンソーダの上に浮かべた。これは紫様のものだが、もう死んでしまったのだ。構いやしないだろう。私はそれを三つ出した。……摩多羅様はそれを全部奪い取って一息に飲むと、頭を抱えた。欲張るからそうなる。
「――キーンときた。キーンと」二童子が摩多羅様をどす黒い目で見ている。後で何か出してやるから待っていなさい。「ところで八雲の狐、紫は何処に言ったんだ? いつ帰ってくる?」「何か御用がおありですか」摩多羅様は指でテーブルを掻いた。「久しぶりにこう、わかるだろ」
「その、なんだ、デェトにだな」紫様は正直、迷惑がっていると思いますよ。「今日は帰ってこないと思います」「そうか。それじゃあここに泊る」「――はい?」二童子に抱き上げられながら、摩多羅様が扉を探ると――「お泊りセットだ」替えの服、日用品、桶にアヒルちゃん――
「正気ですか」「そういう言い方はないと思うぞ」ぶっちゃけあなたはすぐに来られるではないですか。「こういう時を待っていたんだ」二童子は肩をすくめた。洗脳されている割には主の扱いがぞんざいだな。無理もないが。「そういう訳で、おやつを所望する」……あの、さっきのは?
「甘いものがいい」超がつく甘党なのは存じております。紫様が辟易しておりました。「こしあんの饅頭ならございますが」「ウーン、それでいいや」希望ではなく要求だな、これは。棚を漁る。紫様がつまみ食いしていなければここに――あった。これなら分けてもわからないだろう。
私は二童子に手招きすると、台所で饅頭を食べさせようとした――のだが、やにわに現れた扉、そして手がそれをスイスイとさらってしまった。「うめぇな」……呆れた人だ。口にはしないが。戻っていく二童子に哀れみを覚えながら――まあ、私も扱いとしては近いかもしれないが。
それからは、まあ、特に何もない時間が過ぎていった。摩多羅様はしきりに外を気にしていたが、例え飛んで戻ったとしても、もうそこからは帰ってこないのだ。二童子はその後ろに控えている。特に意味もなく。従者というものは大変だ。主人のきまぐれに、いつも振り回されるのだから。
「帰ってこないなー」肘をつき、顎に手を当てる。待ちくたびれたと言った様子だ。……探し人が足元にいると知ったら、どれだけ驚くだろうか。冷や汗が止まらなかった。「ウノでもやるか」扉の奥から絵札が取り出される。「そうだな、お前も入れ」構いませんが、と傍に座った。
私に勝負をかけた事を後悔させてやりましょう。……端折って言えば、私の独り勝ちだった。後から考えれば少し接待するべきだった気もするが。摩多羅様はいつも最下位。二童子も容赦がない。今回もドロー4を数枚直撃させ――加算するのはローカルルールらしいが――て、やってやった。
「うぬぬぬ」摩多羅様はそれでも止めようとはしない。すぐに投げ出す誰かさん――はもう死んだが――に教えてやりたい所だ。今回は首尾よく摩多羅様が一位になった。「――ど、どうだ」私達は誰がともなく拍手していた。取り方次第では嫌味になるだろうが、まんざらでもなさそうだ。
――さて、気が付けば夕方になっていた。「紫よォー、帰ってこいよォー」摩多羅様は夕日に向かって嘆いていた。そうはいっても、帰ってくるはずがないのだ。私は未だに死体の処遇を決めかねていた。少なくとも今は駄目だ。摩多羅様が帰らない限り、紫様の死体を動かしようがない。
「――そうだな、風呂を借りるぞ」「はあ」返してくださいよ、とは思うが、口には出さない。本当に露天風呂一式を投げ込まれたら、その、困る。賢者というものは往々にしてそういう児戯染みた事をやる。紫様も例外ではない。迷惑をかけた時に謝るのはいつも私なのだ。頭が痛い。
二童子を伴って、摩多羅様は風呂場に消えた。うちの風呂に段差はない。何処にも引っかかるようなものはない。手すりもあちこちにある。バリアフリーという奴だ。紫様がそこらにモノを放っておかない限り、車椅子だって余裕で通るだろう。どうしてそうなっているのかは、わからないが。
確か――幾度目かの改築の時に、こうなったはずだ。まあ、いい。邪魔者は消えた。夕食の支度をする。泊っていくと言っているものに、食べさせない訳にはいかないだろう。昨日の煮物がまだ――ああ駄目だわコレ腐ってる。夏場だからな。仕方がない。その辺にあるもので誤魔化すか。
「ほほ、いい匂いがするじゃないか」寝間着を羽織った三人が上がってきた。そういえば、大小三枚ほど棚の奥に入っていた気がする。勝手に使うなよ。「勝手に使うなって顔をしてるな」――読まれた?「まあ確かに、勝手に使ったんだが。許せ」別にいいですよ。汚さないなら。
「――おっ、私の食べたいものを予測するとは。中々わかっているじゃないかキミィ」ウィンナーとニラ卵焼き、後はおにぎりに汁物だが。割とこういうものが好きなのか。二童子も美味しそうに食べている。ううむ、自分の料理観が行方不明になりそうだ。肉と油、そして卵か……。
私が片付けている中、摩多羅様は二童子に抱えさせ、安楽椅子に座った。部屋の片隅に置かれた、何の変哲もない椅子。それは、恐らく私が覚えている以上の前から、そこにあったのではないかと思う。紫様が座っているのは見た事がない。まさか私に使え、という訳でもあるまい。
その主は誰なのだろうか。或いは、それは摩多羅様の為に用意されたものなのか?「おーい、団扇をくれ。三枚」「はい、ただいま」どうせ仰がせるのだろうが。私がそれを渡すと、あんのじょう三人がかりで摩多羅様を冷やしにかかった。実際、日が暮れて外の気温は大分下がってきた。
しばらく、そうしていた。私が粗方を片付けて戻ると、何故か二童子がいなくなっていた。「あいつらは隣の部屋にやった。いいだろ」「はい。それは構いませんが」要するに、自由にさせてやろうと言うのか。どういう風の吹き回しだろう。「世話をさせっぱなしでも可哀相だろう」
摩多羅様は背を伸ばし、手脚を伸ばした。その動きは、若干ぎこちない。四肢、特に脚が上手く動かせないのだ。他にも不具はあるそうだが、私にはそれを聞き出すつもりも、必要もなかった。要求があれば、応えるだけ。そうでないなら、敢えて踏み込んではならない領域というものだ。
「八雲の狐。――思うに、私は道化か?」摩多羅様は言い聞かせるように呟いた。「この幻想郷を――一人で、とは言わんが――作ってやった私が、紫一人繋ぎ留められない。おかしな話だ」摩多羅様が天を仰いだ。「道化などと」「この世に道化は必要だぞ」肘をつき、こちらを向いた。
「だがな、自ら踊るのと、踊らされるのは別物だ」それに関してはあまり言えた義理でもないが、と呟き、摩多羅様は再び天を仰いだ。「踊らされているつもりはないが、紫は私を――そうだな。拒み続けているようで、脈があるように振る舞う」摩多羅様はゆっくりと自分の脚をさすった。
「迷惑がられているのは承知の上だ」摩多羅様はさすり続けている。自由には動かぬ脚だ。思う所はあるのかもしれない。「強引に振る舞わねば、紫のような奴は掴めん。そう思っている」「紫様は仰っておりました。摩多羅様は強引すぎると」「加減がな――中々、上手くいかんのだ」
「或いは、紫は今の関係を愉しんでいるのかもしれん。付かず離れず、本音も言い合える仲だ。そうそうは得られぬ縁だろう」摩多羅様は安楽椅子を揺らした。「私はもう少しばかり、近い方がいい。そこが意見の相違だな」手の甲を顎に当てた。「紫がどう考えているかはわからんが」
「――八雲の狐よ、お前はどう思う」「どう、と言われましても」何の話を振られたのか、私には理解できない。「この恋は成熟するのか、って話だ。無理なら無理で、私は他を当たるさ。紫とは、縁が切れるまで友人でいよう」「そういった事は、私にはわかりかねます」「だろうな」
「計算で弾けぬものもある。触れあってすらわからぬものも、だ」摩多羅様は私をじっと見た。「お前も、紫を好いているのだろう?」違います、と即答しそうになったが、思い留まった。あれほどこき使われる身で馬鹿らしいとも思うが、無下に斬り捨てる事は、私にはできない。
確かに私は、紫様に対して好意を抱いているかもしれない。いくらだらしなく、いい加減な所を見ても、だ。むしろその姿は、私にしか見せない、ある種特別なそれなのではないか。計算機である私は、そういった機微を理解しない。けれど、推測する事はできる。私は――どうなのだ?
「――確かに、そうかもしれません」「だろ?」摩多羅様は笑った。「あいつはそうやって、誰にでも脈ありと思わせるように振る舞っているのかもしれん」よくよく考えれば、どれだけ胡散臭がられても、煙たがられても、絶対的に嫌われている相手はいないように思える。
「あいつのそういう所を、私は好きになったんだろう」摩多羅様を、私は見た。「ただ、もう少しだけ、私を見てほしい。……贅沢だろうかな?」「そんな事は――ないと思います」世辞ではない。哀れみでは無論、ない。摩多羅様の内面に、私も少しばかり踏み込んだのかもしれない。
「――シケた話になってしまったな」摩多羅様は安楽椅子に、深く座り直した。「紫、帰ってこないな」もう、夜も深い。夜と言えば一般に妖怪の時間だが、私達のように夜昼逆転している妖怪にとっては、夜の闇自体は特に意味のあるものではない。――ただ少し、感傷を誘うだろうか。
「そうですね」――何が、そうですね、だ。私は自分がどのような顔でそう呟いたのかを見てみたいと思った。外を見る摩多羅様の姿は、どうしようもなく空しい。帰っては来ない。二度と、帰っては。……今や紫様は、物言わぬ死体になってしまったなんて、打ち明けられるものか。
私の中に葛藤があった。もし明るみになれば、この世の人妖は私を許すまい。私は処断されるだろう。橙にもその咎は行くかもしれない。しかし、このまま隠し通せるとも思えない。例え隠しきれたとしても、結界のほころびを完全に直せるのは紫様くらいなのだ。私にはとても、無理だ。
摩多羅様は外を見ている。私はどうすればいい。計算機は私に何も言ってくれない。己が命と天秤にかけるものは、何だ。死後の名誉。従者として当然の行ない。或いは、摩多羅様への義理立て。――おかしな話だ。紫様の死を打ち明けるのが、義理などと思いたくはない。しかし、しかし。
――命は惜しい。しかしそれは、自分自身の命よりも大事な気がしたのだ。正直に話そうと思った。私が疑われても、それは仕方がない。それでも、無為に隠し続けるよりはずっと良いと考えたからだ。「摩多羅様、お話したい事がございます」「――ん?」「実はその、紫様は――」
「帰ったわ」その時だった。現れたスキマからぬるりと現れたのは――紫様だ。生きている。動いている。そんな馬鹿な。私はあの時、確実に死体を確認したじゃないか。「おお!」起き上がった弾みに倒れそうになった摩多羅様を、紫様が支えた。「随分と待たせたようね。ごめんなさい」
「なに、今来たとこさ」流石にそれは言い過ぎだと思います。「藍、電気点けて」私は立ち上がると、ヒモを引っ張った。明かりの下に三人を姿が浮かんだ。「いやいや、何かあったのかと心配したじゃないか」「ありがとう」くすくす、と紫様は笑った。この胡散臭さは確かに、紫様だ。
「今日は何しに来たの?」「んああ? いやな、月並みかもしれんが、いつもの通りの誘いをだな」実際、摩多羅様のアプローチはねっとりと、しかも何度もやっている。紫様でなくとも辟易するだろう。今度もやはり、断わられるはずだ、と私は思ったが――しかし、そうはならなかった。
「いいわ」「――んん?」「いいわ、と言ったのよ」紫様はウインクして――両方つぶってます。できていませんよ――摩多羅様の肩に頭を寄せた。「何処に連れて行ってくれるのかしら」「おぅ!? その、何処だって連れてってやるとも!!」摩多羅様は顔を赤くして答えている。
「それじゃ、日取りや計画はまた今度にしましょう。それでいいわよね?」「お、おうとも。素晴らしくも最高のプランを立ててやる」摩多羅様はお泊りセットをシャッシャと直すと、二童子に抱えられて椅子に戻った。「それじゃあな、八雲の!」如何にもご機嫌に、摩多羅様は去っていった。
摩多羅様が完全に立ち去ったのを確認すると、紫様はスキマから麦茶とコップを取り出し、一息に飲み干した。「この一杯の為に生きてるわぁ」「麦茶ですよ」「今は麦茶で生き返るのよ」紫様はそれらをスキマに戻すと、私に座るよう促した。大人しく従うと、隣に紫様が座った。
「――それにしても藍。私の扱い、少しぞんざいじゃなかったかしら?」「ぞんざい――いえ、確かにそうだったやもしれませんが」死体の扱い――いや、生きていたのだが――の悪さを指摘されるのは奇妙な事だ。「しかし紫様、それではあの時は、何故死んでおられたのですか」
「ええ――実際、死ぬところだったわ」実際死んでおられましたって。「私が確認した時には、体温もなくなっておりましたが」「――理由? そうね」紫様は首を振った。「熱中症よ」「……熱中症?」私はきっと、怪訝な顔をしていただろう。紫様は扇子を取り出し、スイと開いた。
「私も油断していたのよ。気が付いたらあなたを呼べないほどに弱っていてね」「はあ」紫様は如何にも暑そうに扇子を揺らす。「涼しくなってきたから、意識が戻ったのよ」都合のいい身体をお持ちで。「そういえば一週間くらい水分摂ってないなって」普通はその時点で死ぬと思います。
「あなた達も、直射日光の当たる所を避け、なるべく涼しくして、水とミネラルをきっちり摂らないと駄目よ」「――誰に仰っておられるのです?」「誰かしらね」紫様はくすくすと笑う。まあ、考えても仕方がないのだが。紫様は稀によく、訳の分からない事を言うのだ。私は首を振った。
「それにしても藍、あなた、私のとっておきをみんな隠岐奈に食べさせたでしょう」「――いえ、それは」「『仕方がなかった』……まあ、わからなくはないわ」私の弁解を先んじて見透かした紫様は、首をすくめながら私を見た。「いいわ。今度、隠岐奈にいくらでも奢らせるから」
扇で口を隠し、紫様は笑った。実に楽し気な笑いだった。……とりあえず、私に咎が来る事はなくなった訳だ。ほっとすると同時に、実際このおおごとに私は全く関係ないじゃないか、と怒りも湧いてくる。湧くだけだが。当てつける先が、私には存在しない。こんなんではストレスも溜まる。
「ところで藍、私の分は?」唇を指差して、紫様は笑った。「私の分が残っておりますが」「じゃあそれで」こんなのでいいのだろうか、と思いながら、取っておいたそれを差し出す。「藍のごはんで一番美味しいかも」私の料理観はもうぼろぼろだ。肉と油、後は卵さえあればいいのか?
◇◆◇◆◇◆
「隠岐奈の服を着てみたんだけど、どう?」「お似合いですよ」(困ったちゃんのコラボ……)