―私さえいなければ―
いつも彼方から灯火を見ていた。
渡る者も絶えた真夜中の橋。
川向いに居並ぶ古びた家々に灯る明かりは、どうしてあんなにも眩しいのだろう。
昼夜のない地底にも、星は輝くのだ。
例えそれが、紛い物の光であったとしても。
感傷的な私の頬を、白い光がさらりと撫でる。
季節は冬。今宵も旧都は、その身に厚い雪化粧を纏う。
「何してるんだい、こんな所で」
始めはそれが、私へ向けられた言葉とは気付かなかった。
他人と口を利く機会など、絶えて久しかったから。
私の出自を知るものであれば、敢えて関わり合おうとは考えない。
「おーい。
そこの、橋の上のお嬢さんやい」
しかし、この執拗な呼び声は――
確かに私に向けられたものではないだろうか。
訝しみながらも、声繰る先に視線を向け――見慣れぬ何者かと丁度目が合ってしまった。
金色の髪。真紅の瞳。均整の取れた逞しい肉体を包む、華美な衣装。
しゃらしゃらと音色を奏でる、鎖の切れた手枷足枷。
そして何よりも目を引く、真紅の一本角。
――鬼、か。
「や、てっきり聞こえてないかと思った」
僅かな反応を認めるや否や、ずかずかと私の橋に乗り込んでくる鬼。
乾いた空気を通じ、仄かに帯びた酒の香が鼻についた。
「人気がないね、この辺りは。
こんな時間に出歩いてちゃ、悪い鬼に誑かされちまうよ?」
生憎と、気の利いた台詞を投げ返せるような語彙の持ち合わせはない。
険悪な視線に気付いているのかいないのか。情緒をぶち壊す邪魔者は鼻歌交じりの笑みを浮かべている。
今一度無視しようかとも考えたが、何しろ相手は鬼である。私如きが邪険に扱えるものではない。
「――人をね、待っているのよ」
「ふむ。誰を?」
「忘れてしまったわ。
――随分、昔のことだから」
これ、といった意味のある行動ではなかった。
習慣、癖、或いは強迫観念。傍から見れば、奇妙とも取れる事柄に縛られる。
妖怪とはえてして、そういうものだ。
一瞬首を傾げた鬼も事情を察したのか、それ以上の追求はされなかった。
「――それが、何か?」
「いやね、えらく深刻な顔してたからさ。
私はてっきり、世を儚んで身投げでもする気かと」
「…………」
そんなに酷い顔をしていただろうか。自覚はないけれど。
「違うならいいんだ。ごめんよ」
何がどう、いいのだろう。鬼の意図は量りかねる。
ただそれを確認したいが為に、わざわざ声をかけてきたのなら――随分なお節介焼きである。
赤の他人がどうなろうと、知ったことではないだろうに。
「それじゃあ、ね」
頭を掻き掻き、苦笑いを浮かべる鬼を横目に、闇を湛える川へと視線を戻す。
背中の向こう側で、枷の鎖がじゃらりと鳴いた。
去るは鬼。戻るは日常。静かで、無為で、代わり映えのない深夜の橋。
――もしもこの日、寂しげな雪が降っていなかったら。
或いは私の命運も、また違うものになっていたのかもしれない。
「――水橋」
「ん?」
独り言、だったと思う。
それはほんの気紛れ――否、気の迷いに過ぎなかったが、しかし彼女の耳へと、確かに届いてしまったのだ。
「水橋パルスィ」
誰に名付けられたでもなく。
いつ頃からか私は、私をそう呼ぶことで自他を区別した。
「星熊勇儀! 勇儀でいいよ」
朗々とした声が、周囲に響き渡る。
僅かに視線を向けた先で、橋から降りた彼女がさも嬉しそうにこちらへ手を振っていた。
名を知るということは、互いの間に見えざる縁を作るということである。
それが如何にか細く、二度と思い起こされない線であったとしても、だ。
――放っておけばいつまでもそうしていそうだったので、早々に彼女の姿を視界から追いやる。
最後まで馴れ馴れしい、とは思いながらも、それほど煩わしい気分にはならなかった。
その身に纏う雰囲気、オーラとでも言い表すべきそれは、彼女の気性を現すものか。
さぞかし人好きのする鬼なのだろう。妬ましいことである。
「――星熊勇儀、ね」
ふと、その名に聞き覚えがあるような気がしたが、終ぞ思い出すことはできなかった。
降って沸いた興味も時と共に薄れ、宵凪と静寂の内に没する。
変わらぬ世。変わらぬ橋。
待ち人は今宵も現れず。
―――
―――
地底に棲む妖怪の出自、理由は様々だ。
地上を見限り、鬼と共に移り住んだ者。迫害の末に流れ着いた者。
その身を地底に封ぜられた者。浮世の沙汰を厭い、好き好んでその身を封じた者――
多くは地上で居場所のない、所謂『爪弾き者』達であった。
秩序とは分別である。臭い物には蓋が必要だ。
彼らを排斥した地上の者達を、責める権利が誰にあるものか。
ただそこに在るだけで、害を為す。
そういう風に生まれついてしまった者達にとって、地底という隔絶された世界は嫌悪の対象であり、同時に一つの希望でもあった。
あらゆる災禍を受け止め、受け入れる『鬼』という存在は、
何物をも超越した絶対的なものとして、彼らの目に映ったのである。
内の一人、星熊勇儀。
理由は分からないが、あれから彼女は毎日のように橋の傍を通るようになった。
いつも周囲に、誰や彼やを伴って。
度々声をかけてくる彼女に、私は反応を返さない。
――返せるはずもない。
見やればきっと、その姿に嫉妬してしまうだろうから。
嫉妬心は伝播する。それは時に私の手から離れ、御することすら不可能なほどに激しく。甚だしく。
彼女は鬼。数ある妖の頂点に位置する種族。その力の強大さは誰もが知る所である。
誰や彼やが嫉妬する事柄など、苦心して見つけるまでもない。
彼女に特別『縁』がある訳ではないが、さも楽しげな輪に自ら不和を持ち込む気にはなれなかった。
ふと、この身が地裏に封じられる以前の事を思い出す。
渡る者も絶え、朽ち果てた橋の袂で待ち人を待ち続ける日々。
それは孤独で無為な時間ではあったが、そんな状況にある種の平穏を覚えていたことは否定できない。
月日経れども変わらぬ性は、己が不変性、言うなれば人有らざる精神を如実に表すものか。
いっそ、あのまま誰からも忘れ去られてしまえば、或いはここに来ることもなかったろうに――
「よ、水橋」
ああ、いつもの頃合か。
背に受けるこの声も、いつの間にやら聞き慣れてしまったように思う。
「――今日は一人なのね」
振り向いた先には、予想通りの姿が一つ。
挙げた手を大きく振りながら、私の橋に足を踏み入れる彼女。
「一人の時しか、返事してくれないからね」
原因は理解しているらしい。
ならば、声をかける意味など最初からないだろうに。
「それで、用件は」
続きを促す私に、どうしてか彼女は怪訝な顔をする。
「用がなけりゃ、来ちゃダメかい?」
「――茶化しに付き合う趣味はないわ」
何を言い出すかと思えば、これだ。
急に相手をするのがばかばかしくなり、眼下の川へ顔を逸らす。
視界の外に追いやられた彼女は、しかし私の背中に向けて弁解の言葉を並べ立てる。
「やや、きちんと用はあるよ。本当さ」
「――手短にお願いしたい所だけれど」
口ではそう吐きながら、真面目に聴くつもりは毛頭なかった。
彼女の意図は知れないが、私から見れば安穏な時間を乱す邪魔者でしかない。
素っ気無い対応に徹していれば、その内に飽きて立ち去るだろう――
「いやね、丁度この近くで宴会やろうってことになってさ。
良かったら、水橋も来ないかい」
…………
予想だにしない言葉に、己の耳を疑う。
聞き間違いでなければ今、彼女は『宴会に来い』と言いはしなかったか?
「――何か、御破算にしたい理由でも?」
我ながら下種な勘繰りに、しかし小首をかしげる彼女。
まるで意味が分からない、と言わんばかりに。
「私がどうして嫌われているか、知らないのかしら」
「知ってる」
「だったら……」
どうしてそんな、場をふいにするようなことを――
至極真っ当な疑問は、続く彼女の言葉に遮られる。
「そんな小さなことを気にする連中じゃないよ。
さ、行こう!」
有無を言わさず、ざっくりと。
戸惑う私の腕を取り、旧都の喧騒へと歩みを進める彼女。
――力で敵わないとはいえ、強い調子で断れば、彼女も無理強いはしなかっただろう。
誘惑を断りきれなかったのは、私の中にいくばくかの期待が存在していたからではなかろうか。
夜半を過ぎて尚輝く、地底の星灯り。
私には、眩し過ぎるのに。
―――
―――
右を向けど、左を向けど、知らぬ顔の並ぶ宴会場。
そう広くはない小料理屋の一室に、軽く十を超える妖怪が集まっている。
飛び交う会話。騒がしげな莫迦騒ぎ。漂う安酒と脂の香。
――輪の中心に程近い位置にありながら、私の存在は酷く場違いである。
時折向けられる好奇の視線を、正面から受け止める度胸も、器量も、私にはない。
「飲んでるかぁい」
底抜けに陽気な土蜘蛛が、縮んだ私の肩を叩く。
部屋に入るなり真っ先に名乗られたはずだが、よく覚えていない。
そういえば、顔と名前を覚えるのは昔から苦手だったか。
「――ごめんなさい、あまり強くないの」
嘘だ。特段飲めない口ではない。
只でさえ居心地の悪い場所で、自ら酒に溺れる愚は犯せない。
多種多様な妖怪が集まれば、口にできない類のものも当然出てくる。
常識的に考えれば、初対面の相手に無理な勧め方はしないだろう。
「そんなこと言わずにさぁ、ほらほら」
――前言撤回。酔っ払いにそんな気は回らない。
碗に白酒がなみなみと注がれ、内に堕ちた照明がきらめく。
左に碗。右に土蜘蛛。俄かに囃し立てる周囲の声。
如何にも断り辛い空気である。飲むべきか。飲まざるべきか。
「――そう、ね」
下手に断るよりはまだ尾を引くまい。
半ば自棄的な覚悟を決めた私は、土蜘蛛の手から碗を――取ろうとしたのだが。
「こりゃいいね、何処の酒だい?」
不意に横から伸びた手が碗を奪い、白酒をみるみる大口に流し込んでいく。
空の碗を土蜘蛛に差し出しながら、盗人はにやりと笑ってみせた。
「あら、やだ! 姐さんは飲み過ぎよ」
私を間に挟み、酒瓶を取り合う二人。巻き起こる笑い声。
周囲の興味はどうやら彼女へと移ったようであった。
果たして今のおふざけは助け舟なのか、釈然としなかったが。
確かに彼女の言う通り。彼や彼女は私の参加を拒まなかった。
それは酒の席の特例なのか、無知によるものか、もしくは本当に気にしていないのか。
真実がどうあれ、多少の波乱を覚悟していた私としては拍子抜けである。
――それにしても、だ。
彼らはどうして、こんなにも楽しげなのだろう。
分からない。今日まで知りたいと思ったことすらなかった。
根暗とは無縁の世界で起こる、無関係の出来事。刹那的で享楽的。粗暴で酒浸りな乱痴気騒ぎ。
普段の私なら、目視することすら憚られるような奇行でしかない。
はずなのに。
無為で無益なこの時間を、それほど嫌とは感じない。
「気分はどうだい」
少し、ぼうっとしていたのだろう。
不意にぽん、と――鬼の腕力で、だが――肩を叩かれ、驚き振り向いた先には出来たての酔っ払い。
大事そうに抱える酒瓶は、どうやら土蜘蛛から勝ち取ったものらしい。
取り巻きの輪はいつの間にか崩れ、各自が思い思いに雑談を交わしている。
――要するに今、彼女は暇なのだろう。
「まあまあ、かしら」
ひりつく肩をさすりながら、当たり障りのない答えを返す。
抗議の視線はどうやら通じていない。
「はは、いいね」
隣に腰を下ろしながら、彼女は応える。
楽しそうに。嬉しそうに。そして何処か満足げに。
わざわざこちらに来なくとも、構う相手には困らないだろうに、と思わなくもなかったが――
孤立しがちな私を気遣ってくれていることくらいは分かるし、手を煩わせれば申し訳ない気分にもなる。
――だからこそ、納得がいかない。
彼女は何故、私をこの場に連れ出そうと思ったのだろう?
それからしばらくの間、私と彼女は世間話――ともすれば一方的になりがちな、ぎこちない会話を交わした。
同じ旧都に生きる者でありながら、私と彼女の見る『世間』は随分と異なったものであるらしい。
次から次へ、まるで話題の尽きない彼女に対して、簡単な相槌すらままならない私。
一々この体たらくでは、話す側からして面白いとは思えないのに――
しかし彼女は、まるで上等な小話を聴くかのように、私のたどたどしい台詞に耳を傾けるのだ。
「――ひとつ、聞いてもいいかしら」
彼女が酒に口を付けた所を見計らい、先程からの疑問を切り出してみる。
返事の予測は、できない。それは私の理解の範疇を超えていた。
「どうして貴女は、私なんかを連れてこようと思ったのかしら?
もし仮に迷惑にならないとしても、この場に寄与するとは思えないけれど――って、ちょっと」
私の言葉が、余程滑稽だったのだろう。
しばしの沈黙の後、噴き出すように笑い出した彼女に、たちまち周囲の注目が集まる。
その中には当然、憮然とする私も含まれていた。
「何かおかしなことでも言ったかしら」
「いや、ごめんよ。
そういう考え方もあるんだなぁって」
「…………」
生憎と、嫌味の利いた皮肉を返せるような語彙の持ち合わせはない。
険悪な視線に気付いているのかいないのか。話の腰を折る調子者は鼻歌交じりの笑みを浮かべている。
そっぽを向いてやろうかとも考えたが、何しろ相手は鬼である。私如きが邪険に扱えるものではない。
「そうだね。強いて言うなら――
水橋のことが気になるから、かな」
「気に、なる?」
「そうさ」
それは、一体どういう意味で――
「ねぇねぇ。姐さんとお嬢さんも、こっちでお話しましょうよぉ?」
「――うわっ!?
ヤマメ、あんたちょっと飲みすぎてやしないかい?」
出掛かった問いは、しかし土蜘蛛の姦しい声に遮られる。
発生源がやけに近いと思いきや、どうやら彼女の背に飛びついたらしい。
体勢を崩した彼女の抗議も、周囲のお喋りに掻き消され――なし崩しに始まる賑やかな会話の中心は、やはり彼女だ。
「はい、どーぞー」
その間にも酒を注ぎ回りつつ、そこかしこで嘴を挟む土蜘蛛。器用なことである。
やがて順番は回り、甲斐甲斐しく差し出された杯には先程の白酒がなみなみと注がれている。
「――ありがとう」
今度ばかりは彼女も忙しそうだ。
「どーいたしまして」
両手を添え、私に杯を握らせる土蜘蛛。見合わせた顔に浮かべる微笑み。
――反射的にうつむく私の肩を、軽く叩きながら土蜘蛛はからから笑った。
非礼を責めるでもなく。非礼で返すこともなく。
ただ、笑っていた。
失い忘れて久しい、他者との繋がり。
遠い昔、世界を未だ色鮮やかに感じていた頃の日々が、今になって酷く懐かしく思える。
利害ではなく。打算でもなく。ただ私という存在が、血と縁の連鎖をも超えた絆に囲まれていて。
それこそが己が在るべき場所、在るべき姿であると――信ずることに、何の疑問も持たなかった時代。
周囲の囃す声に応え、今一度乾杯の音頭を取る彼女。
彼らにとっては、彼女――勇儀の傍こそが、居場所そのものなのだろう。
煩わしくも懐かしく。莫迦らしくも憎からず。
こんな私ですらも惹きつけられずにはいられない、それは――
――――
取り落とした杯が、乾いた音と共に床を汚す。
「――水橋?」
釈明の暇はない。
――あったとて、口に出せようはずもない。
僅か一瞬の気の迷い、ただ一度の回顧が、淡い幻想にどす黒い汚濁となって広がっていく。
彼女を頂き、取り巻く輪。
楽しげな彼女を。誰や彼やの姿を。
心の底から妬ましいと、そう思ってしまったのだ。
「待ちなよ、水橋!!」
制止の声を振り払うように、私は駆けた。
店屋を飛び出し、通りを横切り、見知らぬ路地から路地へと渡る。
渇く口。震える瞳。言葉に尽せぬ不快感。
後から。後から。噴き上がるように蔓延る嫉妬が、ちっぽけな自制心を焼き焦がしている。
如何に押え付けようとも、それはまるで嘲笑うかのようにこの手を軽々とすり抜け、全てを手遅れにしてしまう。
離れなければいけない。逃げなければいけない。
一刻も早く。一歩でも遠く。遠くへ。遠くへ。
こうすることでしか、迫る悲劇を遠ざける術を知らない。
息切れども。足もつれども。
走り続けるしか、なかったのだ。
「!」
不意に現れた段差。反応する間もなく、大きく体勢を崩した身体。
支えを求め、咄嗟に伸ばした手が掴んだものは――古ぼけた木製の手すり。
私の橋だった。
乱れた呼吸に、乾いた笑いが混じる。
結局、私はここに戻ってきてしまうのか。
あの時も、そうだった。
愛しき人は二度と戻らぬと解しながらもなお、心の何処かで現実を認めることができなかった。
傷付くことを恐れ、傷付けることを厭い、己が変化をただ、拒んだ。
『変わらぬ心』――それは決して美徳などでは、ない。
如何な美辞麗句で飾ろうとも、我執は我執。
死者は黙し、何物をも語らない。
生者を縛るは、生者自身の手に他ならないのだ。
こんな、どうしようもない私が――
どうして今日まで、生き延びてしまったのだろう。
不器量な私が、たった一つ持ち得た力。
羨望、恋慕、尊敬、崇拝、友情、忠義――
あらゆる繋がりに負の方向性を与え、不和を生み出す魔性の業。
人に触ららば心を裂き。縁に触ららば道を絶ち。
寄るもの為すもの全てを狂わせ、腐らせずにはいられない。
「――貴方も、そう思わない?」
古ぼけた手すりをそっと撫でる。
いつも寄りかかっていた箇所は微かに磨耗しており、独特の滑らかな手触りを返す。
共に封ぜられたこの橋こそ、私が招いた最大の犠牲者と言っても相違ないだろう。
岸と岸とを渡し、点と点を線で繋ぐ。
浮世の沙汰が行き来する為に造られしもの。
なれば、渡る者の絶えた橋の意義とは何だろうか。
橋姫の祟りを恐れ、人々はこの橋を渡ることを避けた。
渡すべき橋が、渡すべき者を遠ざける矛盾。
あの頃からこの橋は、もはや橋としての意を為していなかったのである。
「私さえいなければ」
橋は橋として。彼は彼として。女は女として。
誰一人として己が道を踏み外すことはなかったのだろう。
そう、私さえいなければ。
私さえいなくなれば。
「こんな私だから」
履物を脱ぎ捨て、手すりに腕をかける。
川と橋とを隔てる、小さな境界――越えようと思えば、簡単なことだ。
「貴方の心も、離れてしまったのでしょうね」
見下ろす視線の先に広がるは、全ての光を飲み込まんばかりの黒き闇。
旧都の川は暗く深く、湛える水は凍てつく程に冷たい。
――妖怪風情が身を投げるには、いささか贅沢過ぎる舞台だと思えた。
「水橋」
右足を、そして左足が手すりを乗り越える。
もはや振り向く必要性も感じない。
「ごめん。無所存だった」
「止めて」
続く言葉を、否定で遮る。
言わせない。言わせてはならない。
「――これ以上、私を惨めにしないで」
常よりも上ずった声が、酷く耳触りに感じる。
噛み締めた唇が破れ、生暖かい感触が顎を伝った。
「もう十二分に解ったでしょう。
貴女達の輪に――いいえ。
私の居場所なんて、何処にもないのよ」
「――本気でそう思ってるのかい」
気圧すように低く、力強い声が耳を打つ。
先程までとは質からして違うそれこそ、鬼たる彼女が発する本来の音か。
「侮られたもんだね。
この勇儀、嫉妬如きに狂わされるほどヤワにはできちゃいない」
「貴女自身は、或いはそうかもしれない。
けれど、貴女を取り巻く妖怪達は違う」
嫉妬とは、そう簡単に割り切れる感情ではない。
様々な要因が入り混じった結果、邪念を抱いた本人ですら、きっかけが分からなくなってしまう――そんなことも多々あるものだ。
誰もが抱き得る他者への不信、力への恐怖、上位者への反感。
強者を頂く集団において、それらは容易に不和の楔へとなり得る。
「違わない」
「何を、根拠に」
荒げた声色に、しかし意力は、ない。
「私を、さ」
それは、彼女の物言いから容易に予想できた返答。
一人一人に問い質した訳でもあるまいに。
個人的な経験則など、根拠になり得ないというのに。
「――なぁ、水橋。
他人を信じるのは難しい。それは私にだって分かる」
それでもなお、鬼の言葉には『重み』がある。
圧倒的な力に裏打ちされた、確かな我。揺るぎ得ぬ自恃。
賎者が何を口走ろうとも、それを正面から否定して余りある説得力。
「でも、違うんだ。そうじゃない。
信じるってのはさ、片思いじゃダメなんだよ。
あいつらがいくら信じても、水橋がそれを拒んでちゃ通じない」
ゆっくりと、鎖の鳴る音が近付いてくる。
「私が信じるあいつらを、ちっとは信じてやってくれないか」
それは私の真後、息もかかりそうな距離で、止まった。
「――私には、無理よ」
人は、己が思うが侭には生きられない。
人在らざる身であれば、尚のことだ。
今までもそうしてきた。これからも、いつまでも。
そうすることでしか、己が業から逃れる術を知らない。
「最初から何もかもが上手くいく訳がないさ。
つまらないことで喧嘩したり、付き合いが時に疎ましく思えたり――
時にはスネて、距離を置くことだってあるだろう」
諭すような口調で、彼女は続ける。
「でも、それでいいんだ。
喧嘩もできない仲なんて、窮屈で仕方がない。
――そういう意味でもさ、いい奴だよ。みんな」
惨めに立ち尽くす私の肩に、彼女の両の手が触れる。
「それに」
ゆっくりと、しかし着実に振り向かされる視界の中――
想像していたものとは大分違う、穏やかな顔が見下ろしていた。
「宴会、ちょっと楽しかっただろ?」
返す言葉が、見つからない。
如何な弁舌を駆使しようとも、それは全て『嘘』になってしまう気がしたから。
だから、静かに俯いた。
ほんの僅か、小さく俯くことしか、できなかった。
「戻ろう。みんな心配してるよ」
差し伸べられたのは、大きな手。
かつて狂おしいほどに求め、願い、遠ざけたものが、今目の前にある。
この手を取れば、全ては変わる。変わってしまう。
私ばかりではない。取り巻きの妖怪達――否、彼女に関わるあらゆる事象を巻き込み、穢し、躙るだろう。
この身に余る過ちの数々。
――もう二度と、繰り返さずに済むのなら。
「――水橋!?」
身を乗り出す彼女。暗闇に向け伸ばされた腕は、しかし静かに宙を切る。
怒りとも、驚きともつかない顔が、遥か上の方にちらりと見えた。
当然だろう。事の結末は、彼女の想い描く絵空通りにはならなかったのだから。
「水橋ッ!!」
妖一つの命を以って、忌まわしき連鎖は断ち切られる。
それでいいと、私は思い。それがいいと、私は願い。
遙か水面へ、落ちていく。
やがて訪れる衝撃。したたかに打ち付けた背中。立ち上る水飛沫と泡。視界はたちまち淡き水に覆われる。
魂魄をも凍てつかせる旧都の川は、愚かな私をまるで歓迎するかのように奥懐へと誘っていく。
末端の痺れと共に五感は曖昧となり、直に水と己の境目すら定かではなくなったが――
内では酷く冷静に、まるで他人事のように状況を眺める自分がいた。
「 」
無意識の呟きは、無常な泡となり遥か水面へと昇る。
「 」
これが私の、本来あるべき結末。
不自然なる生が、自然な姿に還る――それは何よりも正しく、幸せに違いないのだろう。
私であることに疲れ、私であることを厭い、私であるが故に、私は私を失った。
長い、永い、永過ぎるほどの猶予を経て、後少し、ほんの少しで私は、私という呪縛から開放される。
深い安堵と共に吐き出した空気。己が身が、清き水へと、置き換わっていく、幻覚。
徐々に、しかし確実に近付く、最期を、噛み締める、ように。
私は、
私を、
抱きしめる。
『――水橋ィッ!!』
歪な視界。
来たるは人影。
三度差し伸べられた、大きな手。
始めて目にする、血相を変えた彼女の姿。
渦巻く泡。
震える水の、叫び。
私に。
この手を取る資格なんて。
本当に、あるのだろうか。
思案の暇は、されど与えられず。
流水を切り裂くかのように泳ぎ寄る彼女は、苦もなく私の身体を掴み寄せると、猛烈な勢いで水面へと引き上げたのだ。
天地がひっくり返るかのような衝撃が、私の意識をめちゃくちゃに掻き回し――
咽る。吐き戻す。咽る。吐き戻す。入り込んだ水が尽きる時まで、繰り返される苦痛は不義への罰か。
やがて深い呼吸と共に我に返れば、彼女の大きな身体に無我夢中のまましがみついている自分がいた。
「――ちっとは頭、冷えたかい」
滴る闇の中に、彼女の金色の髪が艶やかに映える。
凍える川の洗礼すらも、鬼にとっては行水に等しいのかもしれない。
「勇儀……」
「お、初めて名前で呼んでくれたね」
大きな手が、私の頭をくしゃくしゃと撫でる。
気まずさから反射的に逃れようとするが、凍りついた手足はまるで言うことを聞かず――
恥知らずを承知で、確かな支えに身を預けることしかできなかった。
「――ごめんなさい」
一度ならず、二度までも。
背き続けたこの私に、それでも手を差し伸べた彼女。
その真意など、今はどうでもいい。
命を拾われたという事実、それだけで恩を――引け目を感じずにはいられない。
「いいさ。
でも、もうしないでおくれ」
何気ない言葉は、枷。
縁という名の鎖で繋がれた、これは枷そのものだ。
「――ええ」
故に我が身は侭ならず。
鬼が生きろと、説くならば。
幕を引く権利すら、私にはないのだろう。
―――
―――
「――あっ、いたいた!」
遥か頭上、橋からの声。見下ろす顔は、件の土蜘蛛だ。
その声がまるで合図であったかのように、周囲が俄かに騒がしくなってくる。
「あらまぁ、二人で寒中水泳?」
「まあ、そんなとこさ。
悪いけど、何か拭くもの持ってきてくれないか」
彼女の言葉に応え、内の一人が旧都の喧騒へと駆け出していく。
その間に土蜘蛛が編んだ糸が垂らされ、私は彼女の小脇に抱えられたまま、橋の上へと引き上げられた。
喧騒と共に無数の視線が彼女へ、そして私へと集まる。
輪の中心に在る、というのはこういう気分なのか。渦巻く慚愧の念をも忘れ、妙な納得感を覚えてしまう。
「心配したんだよう」
彼や彼女の第一声は、私が想像していたものと大分異なっていた。
「――心配?」
「急に飛び出して行っちゃうんだものねぇ」
土蜘蛛の言葉に呼応するように、各自思い思いに肯定する妖怪達。
中には見知らぬ、宴会場にいなかった顔も少なからず混ざっている。
僅かな縁を繋いだ彼や彼女に、かけてしまった迷惑の大きさは想像に難くない。
それなのに――こんな私を探す為、ただそれだけの為に、彼らは旧都を駆け回ったのか。
「あ……」
息が詰まって。
「あの……」
胸が苦しくて。
「…………」
言葉一つが、出てこない。
意気地なしの背を、彼女の大きな手が押した。
濡れた衣装と肌との間から、静かで、優しい音がした。
「――ありがとう」
やっとの思いで搾り出した言葉は、
この上なく安直で、簡単で、安っぽかった。
揺れる視界も、後から後から零れ落ちる涙も、
莫迦みたいにありきたりだと、心の何処かで笑いが止まらなかった。
「「どういたしまして!」」
誰も彼も莫迦ばかりだと、私は笑った。
泣きながら笑い、笑いながら泣き続けた。
旧都の対岸に位置する、朽ちかけた一軒家。
そこが私のささやかな住処だった。
煌々と輝く地底の星明かりも、ここまでは届かない。
僅かな囲炉裏の火だけが、部屋を仄かに照らしている。
「――結局、宴は台無しになってしまったわ」
「ま、たまにはそういう日もありさ」
身体の震えこそ、収まりはしたものの――
火の傍に吊るした服は、しかしそう簡単には乾かない。
今の彼女は衣装を脱ぎ捨て、借り物の着流しを軽く羽織っている。
「優しいのね」
そう、彼女は優しい。
誰もが彼女を頼りにし、彼女はそれを当たり前のように受け入れてみせる。
だからこそ、数多くの妖怪達に慕われるのだろう。
「優しいさ。みんなね。
――気の置けない仲間ってのは、いいもんだよ。
水橋もすぐに打ち解けられるさ」
「――貴女が言うと、如何にも簡単に聞こえるけれど」
縁を絶ちて、幾百年。
他人と上手く付き合っていける自信など、あろうはずもなかった。
奇怪な容姿。捻くれた性根。この手に余る嫉妬の力。
嫌われる要素など、この場でいくらでも挙げられるのだ。
「案ずるより産むが易し。
あれこれ考え過ぎなのさ、水橋は」
私に言わせれば、今でも十二分とは思わない。
過敏と言うか、他人から見て過剰なことは理解しているが。
――傍から見れば、多分に面倒臭い女なのだろう。私は。
「御しきれない嫉妬の力――
確かに、ちょいと厄介な代物かもしれない」
ちょいと、ね。
如何にも強大な鬼らしい表現だと思う。
「けど、力を厭うだけでは何も変わらない。
そうだろ?」
彼女の言葉は、ただひたすらに正論だ。
ともすれば、頷くことしかできないほどに。
「自制はしているつもりよ。
――結果は、見ての通りだけれど」
堪えれば、堪えるほどに募る嫉妬心。
己に欠けるものを。己より優れたものを。緑の澱みに映り込むすべてのものを。
資して得られぬと解しながら尚、心を砕かずにはいられない。
無垢なる赤子を善とするならば、私という存在は、大悪そのもの――
邪念、煩悩、心の穢れで形作られていると断じても過言ではないだろう。
仏ならざる人の身で、患う煩心から逃れ得ぬように。
此の世の業を祓い去りし聖者が、もはや人の子ではあり得ぬように。
私が私である限り、私そのものである嫉妬から逃れることは、決してできない。
「『鬼』の貴女には、分からないかもしれないけれど」
当て付けがましく呟いた言葉。気付いた時には、もう遅い。
慌てて視線を伏せ、彼女の顔色を伺うが――特に変わった様子は見られなかった。
気付かなかったのか、それとも聞き流したのか。
どちらにしても、褒められた物言いではない。
「ちょっと、違うんだな……
抑えるんじゃない。吐き出しちまえばいいのさ」
頭を掻き掻き、語る彼女。
「吐き出す?」
「今みたいにね」
――聞き流されていたか。
「ごめんなさい」
形ばかりの詫びに、いいのいいの、と彼女は膝を叩いた。
「我慢ばかりしてちゃ、そりゃ鬱憤も溜まるさ。
口に出すとか、行動で表すとか――
一通り吐き出したら、その件は終わり」
堪えられないのならば、いっそ小まめに吐き出してしまえ――
彼女の語る理論も、理解できなくはなかった。
だがしかし、それには相手が必要だ。
鬱屈した愚痴を垂れ流される、憐れな憐れな犠牲者が。
「迷惑にならないかしら」
「ほら、それがいけない。
迷惑かどうかなんて、言われた方が決めるもんだ。
イヤならイヤで、相手だって言い返してくるさ」
みんなそうさ、と彼女は言う。
果たしてそうだろうか。例えば、私は――いや。かつては私も、意識することなく他人と付き合うことができたはずだ。
いつからだろう。自他の間に設けた壁の厚さに、何の疑問も持たなくなったのは。
「無理して回りに合わせろとは言わない。
でもさ、思い切って一歩を踏ん切っちまえば、後は結構どうにかなるもんだよ」
彼女は、違う。他人の心に踏み入ることに躊躇はしない。
是非は兎も角として、何処までも前向きなその姿勢が、まるで旧都の灯のように眩しく感じられる。
「――さぁて、まずはこいつが一歩かな」
愚図な私の目前へ、ゆっくりと腕を伸ばす彼女。
都合四度、差し伸べられた手。躊躇いながらも、それを両手で握り返す。
思い返せば、彼女の手を取るのはこれが初めてだったか。
想像していた通りに大きく、想像していたよりもずっと柔らかくて、暖かい。
「ほら、簡単だったろ?」
重ねた手に、重ねる手。より近く、近くへと寄り、座り直す彼女。
私と彼女とを隔てる、僅かな境界――越えようと思えば、簡単なことなのかもしれない。
「――ええ」
私の中で何かが少しずつ、しかし確実に変わり始めている。
それを許容すべきか、否か――今はまだ、何も分からない。
強者たる彼女に、或いは盲目的に従っているだけかもしれないのだから。
「いつでもいいから、また顔を出しておくれ。
皆で待ってる」
優しげに微笑む彼女に、つられて顔を引き攣らせる私。
――見ずとも分かる。今の私は、酷い顔だ。
柔和な笑い方など、遠い昔に忘れてしまったから。
笑いたくても、笑えない。
それを不都合に感じたことは、今の今までなかったのに。
「――粗茶でも入れましょうか」
「水橋」
その場から逃げるように立ち上がった私の背を、穏やかな声が呼び止める。
布擦れの音。立ち上がる気配。
それは私の真後、息もかかりそうな距離で、止まった。
「手伝うよ」
「――いいわ。座っていて」
「そう言わずに、さ」
背中に触れる柔らかな感触。僅かな布越しに触れ合う肌と、肌。
驚きと共に振り返る私を、じっと覗き込む二つの紅。
頬に当てられた手が、胴に回された腕が、目を逸らすことを許さない。
「可愛いよ」
背筋が、震えた。
「――いいよ、水橋。
その顔、すごく可愛い」
真紅に輝く彼女の瞳。
炎のように猛々しく、穢れ一つない綺麗な瞳。
「もっと近くで見せておくれ」
そこに映る私。映る瞳に、映る彼女。
近付く瞳。もつれ合う視線。混ざり合う紅と緑。
揺らぎ、揺られて、触れ、惑い――やがて生ずる、黒き汚濁の帳。
それはじわじわと視界を狭め、遂には何もかもを覆い尽くしてしまう。
闇に包まれた私の中で。
心の臓だけが、耳障りな早鐘を鳴らしている。
「――そろそろ、帰ろうかな」
ばつの悪そうな彼女の声が、自己嫌悪の堂々巡りから意識を引き戻す。
真っ暗なのは瞼を閉じているせいだと気付くまで、少しの時間を必要とした。
「悪いけど、これしばらく借りとくね」
首の手拭を見せ付けるように、着流しの肩口を撫で上げる彼女。
いなせな柄のそれは大柄な男物だったが、
長身の彼女には不思議なほどに似合っているように思えた。
「又今度、返しに来るからさ」
頷く私に手を振りながら、ゆっくりと戸口をくぐる彼女。
せめて外まで見送るくらいはするべきだったかもしれないが、心賎しき私には、その背を黙って見つめることしかできなかった。
―――
―――
意識し始めてから、幾度目かの寝返り。
不可思議に悶えるこの心、惑わすは鬼の妖しき残響。
『可愛いよ』
掛布に巻き付き、枕へ強く顔を埋める。
――私は一体、何を勘違いしているのか。
常識的に考えて、答えは明らかのはずだ。
彼女なりの日常会話か、或いは悪質な冗談か。
どちらにしても、本気のはずがないのに。
『もっと近くで、見せておくれ』
――目を、開けられない。
今目を開けたら、彼女の顔が目の前にありそうな気がして。
この穢れた緑の澱みを、あの綺麗な瞳で覗き込まれてしまいそうで。
ありえないと分かっているのに。
そこにあるのは、暗闇だけなのに。
ただひたすらに、
怖かった。