東方短編集   作:slnchyt

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抗えぬ風に遊ばれ

―抗えぬ風に遊ばれ―

 

「――今日で、終わりにしないか」

 

背中越しの言葉は、果たしてお前に届いただろうか。ベッドの中で身をよじった私の目線の先に、お前の耳がある。弱い耳だ。少ししゃぶってやれば、すぐにでも腰砕けになるだろう。しかしそれは、今の私にとって興味のある行動ではない。私はお前に、別れを切り出したのだから。

 

言葉は返ってこなかった。想像はしていた。きっと本気には取られないだろうと。客観的に見ればお前と私との関係は上手くいっていただろうし、私自身、それに甘んじる気は、あった。ひょっとするとこれは、我儘なのだ。それでも――お前の心から、私は立ち去ろうとしている。

 

「終わらせる必要がありますか、椛?」沈黙を破り、お前の声が聞こえる。「あなたも嫌いではないでしょうに」ああ。如何にも気楽な関係だ。風の吹くまま、蝶のように遊び、獣のように愛し合う。喧嘩すらも予定調和。確かに私はお前を好いていたし、お前も恐らくそうだっただろう。

 

椅子が鳴った。文は私に背を向けたまま、窓際へと立った。机から紙巻き煙草を取り、火を点ける。月のない夜。私の部屋。暗闇の中、ライターの光が輪郭を一瞬だけ浮かび上がらせた。「どうしてそう思ったのか、教えてくれますか?」先端で揺らぐ炎。流れる煙の刺激が鼻をついた。

 

始まりは些細な挑発だったに違いない。私自身、文の言葉を半分も信じてはいなかった。しかし――付き合おうなんて言葉は、そうそう簡単に出るものでもないに違いない。悪戯に差し出された、お前の手を取った。言葉を交わし合うよりも深く、理解を求めて何度も、何度も交わった。

 

やがて私は、お前の本質が想像していたよりもずっと、虚勢に支えられた脆いものなのだと知った。お前も私の何か、或いは私自身及びもつかない秘密をきっと、知っただろう。それは理解して貰えたという喜びだっただろうか。もしくは、されてしまった戸惑いか。それとも――?

 

「――何て言ったらいいか」「落ち着いて、言葉を選びなさい」煙を吐く文の指先が燃えている。「私とて、思う所がない訳ではないのですよ」それはそうだろう。別れたいなんて、文からすれば藪から棒に違いない。どれだけ喧嘩をしても、文はそんな素振りを一度も見せた事がない。

 

「――これ以上、お前を見てはいけない気がする」私はゆっくりと首を振った。文には当然、見えていない。「これ以上――きっとこれ以上、私はお前に心を開いてはいけない。怖いんだ。私自身すら知らない内面へ、踏み込まれた先にいるのが――私ではなくなってしまう気がして」

 

「最初は――最初だけは、遊びのつもりだった。でも、違う。すぐにお前にのめり込んでいた。お前がどんな気分で私をからかっていたのか、段々と分かり始めてから――私も、お前と同じように、寂しさを持て余していたのが分かってしまった。このまま溺れればいい。そうも思った」

 

「――しかし、そうじゃない。私はきっと、お前の事を愛してなんていない。気の迷いだなんて言う気はない。ただ――これは、愛とは違うと思う。それだけははっきりとさせなければならない気がした。私の為に。そして、お前の為に」途中から、ほんの少しだけ、声がかすれた。

 

「だから、関係を清算したい。そういう事ですね」文は振り向かなかった。窓際に置かれた灰皿――お前の為の灰皿に吸い殻を捨て、ただ頭を振った。「私としては、今のままの関係をいつまでも続けていても、構いませんが――あなたがそう決めるというのなら、仕方がありません」

 

「――生憎と、わたくしも同意見です。わたくし達の間に≪真実≫の愛とやらはないでしょう。端的に言って、獣以下と言うものです。しかし、それの何が悪いのでしょう?」文の問いかけに、私は答えられない。「今が幸せなら、それでいいのではありませんか。例え偽りであろうとも」

 

「それは――」「それは出来ない。頑固なあなたの言いそうな事です」文がくすくす、と笑った。「≪真実≫でなければならない、なんてのはあなたの拘りというものですよ。すべてが収まるべき所に収まる、なんてのは滅多にある事ではない」「……新聞記者の発言とは思えないな」

 

「それはそれ、これはこれ」文の視線の先にはただ、暗闇だけがある。「あるべき所に収まれず、置いて行かれたものはどうなります?――消えてなくなる訳ではないでしょう?」「……」「――いいえ。それ以前に、あるべき所なんてものが本当に存在するかも、定かではない」

 

「私はあなたを欲しました。それはある意味、収まるべき場所を探したかった――或いは、作りたかったのかもしれませんね。私の首に紐を繋いでくれる誰か――と言えば、如何にも怪しげですが、いつかこの身が抗えぬ風に遊ばれた時、誰かにその紐を手繰って欲しかったのです」

 

「それが、私?」「ええ、あなたが最高だと思いました。勿論、今もそう思っています」ゆっくりと文が振り向いた。漂う煙の向こうで、その顔は――とても悲しそうに見えた。私がそうした。私がそうさせた。覚悟はしていたつもりだったが、他人を悲しませるのは――やはり、辛い。

 

「置いて行く方も辛いでしょう。けれど、置いて行かれる方も、それなりに辛いのだとは――理解してください、椛」文は再び煙草を取り出し、口に咥え――火を点けず、そのまましまった。代わりにといった具合で、銀色のオイルライターを手慰みにいじり始めた。カチカチと音が鳴る。

 

「もう一度だけ、考えてみませんか」文が私の顔を覗き込んだ。こいつは嘘吐きだ。だが、いつもいつでも嘘しか吐かない訳ではない。嘘を吐き、真実も嘯く。今はどちらか。考えるまでもなかった。文の目は真剣だ。私の千里眼は、それを見逃すほどにぼけてしまってはいない。

 

「ああ――と言ったら、この場は収まってしまうんだよな」首を振った私の頬に、文の手が当たる。「収めたくないのでしょう」「そうでなければ――こんな話、切り出さない」文は笑った。不思議と腹は立たなかった。こいつも多分、私と同じように――言葉を選んでいる。臆病な程に。

 

「――分かった」しかし私は、一旦この場を収める事を選んだ。収まるべき場所を作りたかった。文はそれを私に求めた。私にとってはそれが、私自身も知らない場所へ踏み込まれるようで、恐ろしかった。意思はすれ違ったままだ。――今この場で別れるのは、きっと早計が過ぎる。

 

「結構」何処かいやらしい手が、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。「――それでも、と切り出されたら、どうしようかと思っていた所です。私はあなたを失いたくない。少なくとも、それだけは真実ですよ」文がしゃがみ込む。目線が合った。揺らぐその顔。言葉はきっと、要らなかった。

 

どのくらい、そうしていただろうか。やがて文は立ち上がり、素早く身なりを整えた。「また明日、会いましょう」カメラの収まった鞄を叩きながら、文は微笑みかけてきた。私もそうした。きっとそれは、引きつっていたとは思う。小さく振られる手。下駄を履く軽い音。戸の滑る音。

 

――ガタのきた扉は、しかし静かに閉じた。その背を見送り、私は息を吐いた。安堵ではなかった。悲しみでもなかったように思う。ただ、終わりはやってこなかったという実感だけがあった。廊下を歩み去る音もやがては遠く、静けさの中に溶けていく。もう、私の耳には届かない。

 

「――終わらなかった、な」私は終わらせようとした。己に固執した挙句、大切なものを投げ捨ててしまった。文がそれを拾ってくれなければ、私は二度と顔を合わせる事も出来なかったに違いない。分かっていながら、そうしたのか。それとも――そんな理屈、分かりたくなかったのか。

 

無益な考えの末、私はベッドから立ち上がった。私だけの部屋の中に残されたのは――灰皿が一つ。殆ど火をつけただけの吸い殻がいくつか。そして――忘れ物のライター。火を点ける仕草はいつも近くで見ていた。暗に煙たがってはいい加減に謝られるのが、決まり事になっていた。

 

私は一本を手に取り、ライターで火をつけた。部屋の中に、文の匂いが戻ってきた。窓際に寄り掛かり、文の見ていた景色を見る。それはやはり、暗闇のものだ。夜目の利かない身なれば、余計にそうだろう。私の言葉を静かに聞いている間、文は何を思って外を見ていたのだろうか?

 

今日、私達の関係は切れなかった。明日はどうだろう。明後日は。どちらにしても、いずれは切れてしまうものだろう。それを殊更大切に思う事は、果たして許されるのか。分からない。分からないが、文はそれを望んでいた。それなら私は、文の為にそれを望んでも良いのだろうか。

 

――文の為に、か。如何にも傲慢な口振りだ。苦笑と共に、灰が皿へ落ちた。私は、烏のように傲慢である事を肯定しようとは思わない。ただ、私自身が正しいと思う道を行きたいと思っている。それが外から見れば頑迷で傲慢な姿に映るというのも、私とて幾ばくかの想像はできる。

 

けれど、それを改めようとは思わない。ああ。それこそが私の傲慢だ。善なる生き方。正しい生き方。正しさを努めた先にこそ善さがある。そう信じているし、今もそうだ。しかし――正しさが人を傷つけた現場も、私は何度も見てきたのだ。その時、私はいつも無力だった。

 

煙草を口に運ぶ。少しだけ吸い、煙を吐いた。喫煙は文に教わったのだった。決して安くはない紙巻き煙草。捨てるのが勿体なくて、ギリギリまで吸おうとする姿を笑われたな。隣り合って座り、火を移して貰った時の事を思い出す。ああ。その時は煙たいとしか思わなかった。

 

実際の所、私とお前との関係は、火を移しあうようなものなのかもしれない。どちらかが灯っていれば、火は再び与えられる。己が抗えぬ風に遊ばれた時、収まるべき所――文が言っていたのは、そういう事ではないか。そこに本当の愛があるかなんてのは、決して重要じゃない――

 

「げほっ」

 

慣れない煙に、私はむせた。

 

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