東方短編集   作:slnchyt

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腐れ縁

―腐れ縁―

 

腐れ縁があった。

 

長い、長い縁だ。始まりも今では定かじゃない。確か、私がまだ泳ぎも下手なガキの頃、河を流れていたんだか、流されていたんだか――ともかく自分ではどうにもならない、所謂ピンチに陥った時、あいつは現れた。小さいのがイッチョマエに剣なんか下げて、真面目くさった顔をして。

 

あいつは流水から私の身体を引き上げようとあらゆる努力を払ったが、生憎とお互い、浮力が足りなかった。必死に繋いだ手にも力は足りず。そうこうしている間に川下は滝、私ら二人は哀れにも空中に放り出され、遥か下の岩肌へと――いやいや、それじゃ話が終わっちまう。

 

あいつは川底に剣を突き立てて、流されるのに耐えた。私はそれに掴まるのが精一杯だった。今思えば、あの時私は死んでたんだ。本当は。……今更ながらおっかなくなってきたな。それはともかく、あいつは幾度も吠えた。白狼天狗が仲間を集める為の遠吠えと知ったのは、後の事だ。

 

しかしまあ、山は広い。そう急に助けがやってくるはずもなかった。手を放しちまいそうになるのを必死に堪えて、私はその時抱えていたガラクタで何とか事態を好転できないか考えた。そうは言っても、ガキのおもちゃだ。役立つものは――一つだけあった。花火だ。打ち上げ花火。

 

躊躇う暇なんてあるはずがない。リュックからそいつを引っ張り出すと、歯で発火紐を引っ張って、上空へ向けて打ち上げた。良い子は真似するなよ。白昼のそれはなんとも頼りない光で辺りを照らした。軽い爆発音が響いた。誰かの目に留まってくれ。様子を見に来てくれ。ただ祈った。

 

だが、現実は非情だ。何も来ない。誰も知らない。次第にあいつの手が震え始めた。私は最悪の事態を想像して、泣けもしなかった。飛翔もおぼつかないガキとはいえ、天狗のあいつ一人なら滑空してでも助かるだろう。私には無理だ。――二人一緒なら? 死体が一つ増える事になる。

 

その時は一人で死のう――なんて、愁傷な考えは私にはない。生憎、性格が悪いのは昔からだ。絶対に放すものか。私はあいつの手を握りしめていた。それが結果的には良い方向に転がったんだから、自己犠牲なんてのは案外悪手かもしれない。死んだら終わりだ、と偉い人も言っている。

 

――その時、遂に剣が水底から抜けた! 私達は一気に滝へと押し流されていく。私は咄嗟にあいつを手繰り寄せた。しかしあいつは――手を放そうとはしなかった。むしろ剣を投げ捨て、背をリュックごと抱え込んだ。私を連れて飛ぶ気だ。それが不可能な事は重々承知だろうに。

 

流れる水から身体が放り出される。遠くに玄武の沢が見える。視界がグン、と下へ向いた。ああ、今のであそこも見納めか。深い滝壺に反り立つ危険な岩肌が、私達を手招いている。死ぬ。どう考えても死ぬ。落下速度は緩まない。白狼天狗の子一人では、二人分の体重を支えきれない。

 

慌てて重たいリュックを投げ捨てる。誤差だ。帽子も捨てた。やはり誤差だ。ふとっちょの身体も投げ捨ててしまいたかったが、そりゃ無理だ。ゴウウ、と風を切る音が、心音と混ざりながら耳の中をまさぐった。地面が近付いてくる。やめてくれよ。ハードランディングなんて御免だ。

 

その時の私は賢しらに走馬灯なんかを浮かべていた。人生、こんな簡単に終わっちまうんだなあとか。もっと空を飛ぶ練習をしておくんだったかなあとか。まあ、役に立つ事は何にも出て来やしない。或いはあいつも同じだったろう。違うのは、諦めの有無。あいつは再び、吼えた。

 

「――おやおや、度胸試しですかな?」

 

死の風切り音に、確かに人の声が混ざった。私とあいつは同時に顔を上げた。目の前に浮かぶ烏天狗。私達と同じ速度で落下していた。「このままどんぶりこ、と行くと――まあ、よろしくはありませぬな」烏天狗は平然と私達の末路を告げると、扇で口元を隠しながら、目を細めた。

 

「たっ、助けてぇ……」我ながら情けない声を上げたもんだが、死にそうなんだから仕方ないだろ。「烏天狗様、どうかお助けを!」私達の声に、烏天狗は脚を組み直して、答えた。「ふぅむ、子供に助命を乞わせるつもりはなかったのですが、少々意地悪でしたかね。これは失敬」

 

大人が何やら難しい話をしている間にも、岩肌は近付いている。「早くッ!?」まったく、意地悪な奴だ。私の懇願が引き金だったかのように、私達の下に竜巻めいた風が渦巻いた。急激に落下が遅くなる。烏天狗は目線をピタリと合わせたまま、私達の顔をじろじろと伺っていた。

 

やがて片足が、そして両足が地面についた。風は四散し、私とあいつは高下駄の主に見下ろされていた。「危ない所で遊んではいけませんよ――と、月並みな事を言うのも何ですが、ね」烏天狗はやれやれ、と腕を開いた。「わたくしが通りがかるような偶然は滅多にありません故」

 

ぱたぱたと扇で仰ぐ烏天狗の顔は、何処かで見た事がある気がした。恐らく、あまりよろしくない手配書か何かに載ってたんだろうと思うが、その時はまあ、恩人にそんな印象を抱く訳はないわな。「ありがとうございます、烏天狗様」「あ、ありがとう……」「はいはい、どうも」

 

ふと、烏天狗の背後に人影が見えた。白狼天狗の大人が集まってきたのだ。「あやや」烏天狗は何やら奇妙な鳴き声を上げると、私達に向けて片手を上げた。「それでは、わたくしはこれで」いやいや、急だ。当然のように困惑したが、烏天狗の素早さは私達の反応を待ってはくれなかった。

 

衝撃波と共に、輪郭が風に溶けて消える。「まだお名前も聞いていないのに」あいつが手をぶらぶらとさせた。そこに走り寄る、白狼天狗の集団。「無事か、犬走」「はい」あいつは私との顛末を手短に説明していた。「ああ、大体分かった。――今ここに、烏天狗がいたんだな?」

 

私達が頷くと、白狼天狗達は――どちらかというと頭を抱える感じで――ざわめいていた。「射命丸文か」「椛を助けたのか?」「いつまでもウロウロされちゃあ敵わん」大人の話はよく分からなかったが、今思えば厄介者に頭を痛めてたんだな。あれは。200年前から不良は不良か。

 

「射命丸、文」あいつは恩人の名を口にした。「犬走、椛」私もそうした。最後はどうあれ、私にとっての恩人は椛だった。あいつにとってのそれが、文であるように。その日から私達は友達付き合いを始めた。白狼天狗と河童。腐れ縁の始まりは劇的で、そして些細な話だった。

 

―――

 

  ―――

 

そして今。腐れ縁は連綿と続く。互いの立場や環境が変わっても。将棋に傾倒する椛に付き合っている間に私もそれなりにはなっただろうし、一番最初に発明を見せてやるのも大体は椛だった。似た者同士とはとても言えない二人だが、それ故に離れる事もなかった。気楽な関係。

 

だがそれも、永遠ではないのかもしれない。或いはそう信じたかっただけなのかも。椛の中から私がいなくなって、しばらくが経った。最初は単なる気紛れだろうと思っていた。どうせその内、向こうから私を構いにやって来る。そう思っていた。何の音沙汰なく、半年が過ぎるまでは。

 

気付けば私は、椛に渡そうと思う発明品ばかり手を付けていた。それは渡せぬままに部屋の隅に積み上がっていた。見方によってはくだらないガラクタだが、椛はそれをいつも迷惑がらずに受け取ってくれた。そうだ。私の一方的な気持ちは、行く先を失ってしまったのだった。

 

薄暗い部屋の中、パイプベッドに寝転がりながら、私は考えていた。椛を探しに行こう。今日までの疎遠は何かの間違いで、顔を合わせさえすればきっと何もかも元通り、上手くいく。今度持っていく発明品はきっと気に入るだろう。暇が出来たら将棋を指そう。飯を食って昼寝をしよう。

 

「――んな訳ないだろ」自嘲。私には分かっていたのだ。腐れ縁――いや、私が大切にしていた縁は、もうおしまいなのだと。昨日拾った新聞に載っていた。射命丸文、犬走椛と熱愛。椛が射命丸に執着しているのは知っていた。しかしそれはあくまで上司と部下との関係だと思っていた。

 

事実、歳を経る毎にその関係は険悪になっていった。不良天狗とお巡りさんだ。仲が良い訳がない。普通に考えれば、な。あの二人は、普通じゃなかった。愛し合っているなんて噂を、一度は一笑に付したさ。そりゃそうだ。私の目の前ですら、猛烈な喧嘩を繰り広げる輩だぞ――?

 

でも、そうじゃなかった。愛には色々な形がある事を思い知った。私が抱いていた腐れ縁――そう思いたかっただけの、これは恋だったに違いない――もまた、そうだ。あなたがいなければ死んでしまうなんて愛もある。あなたと共に死のうという愛も、ある。人の数だけ、愛がある。

 

「――それで、私はこのまま、負けるのか?」冗談じゃない。自慢じゃないが、私は諦めが悪けりゃ性格も悪い。あんな新聞は飛ばし報道に違いない。歳だって私の方が明らかに近い。地位や名誉はまあ、ないかもしれないが、幼馴染ってのは圧倒的なアドバンテージに違いない。

 

私は徐に起き上がると、冷蔵庫からキュウリの束とマヨネーズを取り出した。黄色い旨味をたっぷりとかけ、ボリボリと齧る。「好かれよう、なんて考えた事もなかったな……」今の今まで≪ありのまま≫を晒してきたという事は、要するにそれ以上を演出してみせた事もない訳だ。

 

カーテンを開き、窓を開けた。そのまま窓辺に背を預ける。あいつは射命丸文の何に惹かれているんだ? それが分かれば、私にも目は出てくるのか? 目を閉じ、水流に耳を澄ませる。白狼天狗と、烏天狗か。身分違いの恋。たまに聞きはするが、成就したって話はまず、聞かないな。

 

あいつの性格的に、禁断の恋とやらに入れ込むタイプではない。もっとこう、規律にうるさい。相手から求められたんでもない限り。だとすると、命を助けられた恩義を感じて? もしそうなら、普段からもう少し仲がいいんじゃないか。要は、頭が上がらないって意味だろ――?

 

なら――ひょっとして、身体目当てとか? ありえんとも言い切れんが。あいつの好みなんて聞いた事がないし、口にするような奴でもない。案外あれで、スレンダーな年上美人が好きなんじゃないか? ――軽く頭痛がして、頭を叩く。いいか、これは例えだ。論理的飛躍だ。

 

作業場の一枚鏡を振り返る。容姿に自信があるかないかで言えば、ない。≪可愛いにも二種類≫という。髪も肌も構ってやった記憶がない。場合によっちゃ煤や機械油でギトギトだ。腰を捻ってみる。太い。口の悪い奴はトドみてーな体型とか言いやがる。せめてアザラシくらいにしろよ。

 

少々嫌な気分になって、帽子を深く被り直した。「なあ、椛」私にないものに、お前は惹かれたのか?「なあ、椛――」私がお前を見るように、お前は私を見てはくれないのか? 私は――私はきっと、あの日あの時から、お前の事が――お前の事が――好き、だったのにか――?

 

「――呼んだか?」

 

突然の問いに、私は思い切りつんのめった。慌てて振り返った窓の向こうにいたのは。「いくら呼び鈴鳴らしても、返事がないから」頬を掻きながら、椛は呟いた。しばらく間が開いて、勝手口から入ってきた姿は、確かに半年前に見た椛そのものだった。何も変わらない。何も。

 

「よう――か、変わらないな」如何にもぎこちない挨拶を返してしまった。仕方がないだろ。いきなり実物がやってきたんだから。「お前こそ――いや、太ったろ。大分」真顔で何て事言いやがる。「お? 宣戦布告か?」「事実を言ったまでだ」そう嘯くと、痴れ者は――表情を崩した。

 

「久し振り」「お、おう。久し振り」調子を狂わされ続けている私に、椛は半年前と何ら変わらない反応を返している。私は戸惑うと同時に、深く安堵してもいた。ひょっとすればひょっとすると、この半年間は本当にただの気紛れだったのかもしれない。また、腐れ縁が戻ってきた――

 

「ま、その、なんだ。積もる話もあるだろうし、座って――」慌ててデスク兼作業台の上の物体を押し退ける私を、椛はしかし首を振って制した。「いや。それほど時間がない」瞬間、固まった私に、椛は構わず話し続ける。「答えを求めている」腕組みをして、俯いた顔が答えた。

 

「答え」「そうだ」頭の耳が畳まれた。知っている。これは困っているサインだ。「私は、嘘をつくのが得意じゃない」私にとっては周知の事実が告白される。「ここしばらく、他に何も手につかないくらい、考えていたんだ」「――何を?」その先を聞くのが、何故だか怖かった。

 

「文を、愛しているのか」淡々と。淡々としていた。「私には分かりかねる。愛とは何か、恋とは何か」まるで感情が籠っているような声ではない。ただただ、己の中の困惑を吐き出しているかのような、そんな声だ。「文には返しきれない借りがある」ああ。あの時の事を言っている。

 

「好きか、嫌いかで言えば、嫌いだ。断言してもいい。あの不良天狗はどうしようもない痴れ者だ」俯いた顔から、表情は伺えない。ただ少し、震えているようにも見えた。私もだ。私も震えていた。自覚する余裕があったかは怪しい。「いずれ、罪を償わせなければならないとさえ思う」

 

「だが、どうした事だ。剣を向けながら、私には文を斬るつもりはなくなっていた。いつの間にか私は――文の事ばかり考えるようになっていた」椛は首を振った。「私は、嘘をつくのが得意じゃない」知ってるよ。私はよく知ってる。「この気持ちを、今から整理しなければならない」

 

「気負い過ぎじゃないか」「気負ったんだ」椛は再び首を振った。「文に話そうと思う。答えを伝える為に」淡々と。淡々としていた。「もし、これが愛なのだとしたら」まるで感情が籠っているような声ではない。ただただ、己の中の決意の刃を研いでいるかのような、そんな声だ。

 

「私は、文を愛そうと思う。それが許されるならば」椛は顔を上げた。その顔は精悍ながら、まだ迷っているようにも見えた。希望的観測かもしれない。私にとって、椛の告白はまさしく懸念を叩きつけられたも同然だ。「どうして」疑問が口からこぼれた。「どうして、私にその話を?」

 

「こんな事は、お前にしか話せない」椛の返答はある意味、予測できる話でもあった。ただそれは、聞きたい返事ではあり得なかった。「お前なら何か、知恵を出してくれると思った」めちゃくちゃになる情緒を抑えながら、私は押し殺すように答えた。「――お前自身は、どうなんだ」

 

「私自身?」「お前は≪愛したい≫のかって聞いてるんだ」帽子を目深に被り直しながら、私は問うた。今までの話を聞く限り、こいつは≪愛≫を義務か何かと勘違いしているように思えたからだ。人の数だけ愛がある。だがそれは違う。違うんだ。お前に求めるのは、そうじゃない。

 

「もしも、愛さねばならない、なんて思ってるんだとしたら――」私は大馬鹿野郎に歩み寄ると、胸倉を掴んだ。抵抗はなかった。「≪愛し返さねばならない≫義務だってある。そうだろ」頭の耳が、再び畳まれた。「それは、文が決める事だ」「そうか。ああ、そうだろうな」

 

顔を近づける。身長は椛の方が随分と高い。それでも、覗き込めないほどではなかった。「相談する相手を間違えたな」声が、酷く震えた。「生憎と、私はお前の無軌道な≪愛≫とやらを証明してやる事はできないよ」顔を、更に近づける。帽子のつば越しに、戸惑う椛の瞳が見えた。

 

「ただ、答えは与えてやれる」私の中で、冷たい何かが持ち上がるのを感じた。それは敵意にも似た、しかしどうしようもなく不可解な感情だった。「私はずっと嘘をついていた」俄かに窓から吹き込んだ風が、帽子をさらった。「お前と過ごしてきた日々も、私は心を偽り続けていた」

 

困惑の双眸を、紅い瞳を、青い光が睨み返した。「お前は愛されてる。それが私から伝えられる、ただ一つの答えだ」右手を離した。両手を開いた。棒立ちの椛に、私は力を込めて抱き着いた。「それは、お前が決める事だ」椛の言葉を、私はオウム返しした。きっとそれは、卑怯だった。

 

椛は何も答えなかった。ただ黙って、私の暴く嘘を聞いていた。腐れ縁だと公言して憚らなかった関係が、本当は何よりも大事だと伝えた。心地よい関係が壊れてしまうのが怖かった。いつまでも、今が続けば良いと思っていた。けれどそれはもう、叶わない事なのだと、伝えてしまった。

 

「言わなきゃ良かった」自覚した時にはもう、堪えられなかった。私の頬には涙が流れていた。「お前の問いに、雑な答えをくれてやれば良かったんだ。その後がどう転がるにせよ、お前と私はこれからも変わらずにいられた」後悔した所で、もう遅い。私は己に、嘘をつき通せなかった。

 

私だけじゃない。椛の将来をも、私はめちゃくちゃにしたんだ。例え椛が今から文と会うとしても、二人が結ばれたとしても、私の存在は無用の記憶として残るだろう。無視されるなら、まだいい。もしも、もしも、私のせいで、二人の関係がぶち壊しになったとしたら、どうだ。

 

私は笑うだろう。憎き烏天狗は私から椛を奪う事ができなかった。私は泣くだろう。私は椛から大切なものを奪い去ってしまった。私は知るだろう。椛は私の下から静かに立ち去る事を。罵倒はない。あるはずがない。椛はそういう奴じゃない。だからこそ、私にとっては、辛い。

 

「――お前の言う事は、分かった」椛が口を開いた。「私も同じだ。お前との関係は当たり前すぎた。だからこそ、気付く事ができなかった」椛の腕が背に回った。今にも泣き叫びたかった。だがそれは私のプライドが許さない。私とお前とは、あくまで気軽で対等な関係でありたかった。

 

「すまなかった」椛の腕が、私を突き放した。それは告白の終わりを意味していた。「文に会ってくる」ゆっくりと背を向ける。呼び止める事はできたはずだ。最後まで足掻くのが私のやり方だ。それなのに、どうしてだ。私は、敗北者だった。恋に破れた、哀れでつまらぬ、敗北者。

 

「せめて」一言だけ、絞り出した。「せめて、私を嫌いになってくれよ」椛は何も答えなかった。勝手口から音がして、そして静かになった。部屋は俄かに暗くなっていた。明かりもつけずに、私はただ呆然と突っ立っていた。逆転の目はない。終わりだ。何もかもが終わりだった。

 

部屋の隅に、お前に渡すべきものが積み上がっていた。私はそれを手に取ると、思い切り床に叩きつけた。それはあっけなく壊れた。下らないガラクタ。思いを込めたガラクタ。今はもう、ガラクタとも言えないガラクタ。片っ端から投げつけた。壊れないものは、金槌で打ち壊した。

 

お前の事を好いていた形跡すべてを消し去ってやりたかった。ペアのグラスを箱ごと捨てた。何でもない日に、お前に買ってもらったものだった。部屋の隅に転がっていた帽子をゴミ袋にねじ込んだ。お前に褒められたものだった。お前が勝手に設置していったきりの将棋盤も、どけた。

 

部屋はたちまち泥棒の仕業とばかりに荒れた。お前の痕跡は何処にでもあった。お前は既に私の一部として不可分だった。それを切り離そうというのだ。どれだけ血を流す事になるだろうか。知った事じゃない。お前は私を選ばなかった。だから私は、お前を捨てる。当然の結末だ。

 

やがて、手元のゴミ袋が一杯になる。顧みる気はなかった。そんな事をすれば、私はきっとすべてを元に戻そうとしてしまう。ギリギリとねじって、ガラクタの死骸だらけの部屋の片隅に投げ捨てた。新たな袋を手に取った。捨てられるものは、何もかも捨ててしまおうと思った。

 

――捨てられるもの。私のこの心は、捨てられるのか。あいつの存在を知らなかった、幼くも全能感に溢れた河城にとりに戻れるのか。それとも捨てられないままに、新たに負け犬の河童として生きていくしかないのか。私の生き方、私の在り様に、あいつは深く――深く、関わっている。

 

袋を取り落とし、頭を抱えた。自嘲する余裕すらなかった。私はこんなにも軟弱だったか? 私が私たるイメージは、もっとこう、図太くもしたたかな河童の頭目だったじゃないか? あいつの存在はあまりにも大きすぎた。私の根幹に喰い込んでいる。幼馴染。命の恩人。そして腐れ縁。

 

周囲の闇が深くなるほどに、私の中から気概が失われていくのを感じていた。普段からもっと椛との間に介入していれば。安穏を終わらせる決意があれば。あの時、椛を引き留めていれば。或いは、憎き射命丸に手袋でも投げつけてやっていれば。不可能な仮定ばかりが浮かんでは消える。

 

「――椛」

 

今までは何度でもそう呼べた。これからは――その名を呼んでも、もう二度と戻っては来ない。自分が何の為に生きているのかすら分からなくなってきた。それは流石に、錯覚だ。いつかは痛みだって忘れるだろう。だが、今は。今はどうだ。≪今≫この痛みを、何が誤魔化してくれる?

 

「夜分、失礼」

 

背中側、窓から声がした。聞き間違いだと思った。それは河童仲間の声ではなかった。当然、椛のものでもなかった。今一番、聞きたくない輩の声だったからだ。「邪険になさる」いやらしい笑い声と共に、部屋に風が舞い込んできた。軽い高下駄の音。壁のスイッチが勝手に押された。

 

「文明の光でございますな」部屋の明かりに浮かび上がった影の主は、射命丸文。椛が探しに行ったはずの相手。「――何の用だよ」「用があるから来たのですよ」慌てて涙を拭う私の顔を見ず、射命丸は部屋を見回しながら答えた。「如何にもな身辺整理。既に椛はここに来たと」

 

「そう言うって事は、お前の所にも椛は来たんだろ」「ええ」首をこちらに向けた。半笑い。いつも通り、人を小馬鹿にした表情だ。「少しばかり興奮しておりました故、頭を冷やさせに行かせました」「頭を?」「夜風に当たっていれば、自分が何を叫んだか理解するものですよ」

 

こいつの言葉は、いささか不愉快に感じられた。椛はあれほど必死だったのに、こいつときたら、真面目に話を聞かなかったのか?「断ったのか」「いいえ」手を振る仕草も、何処か鬱陶しい。「何も返事しておりません」「いい加減な態度を――」「そういう訳ではありませんとも」

 

「ただ一言、告げました。今の気持ちを本気にしない方がいい――とね」「椛は本気だったぞ!」私はまるで自分の事のように、食ってかかった。「本気が必ずしも最良の結果を呼ぶとは限りません。人生の選択ともなれば、特にです」返ってきたのは、まるで宥めるような声色だった。

 

「年長者の言う事はよくよく聞くものですよ、にとり」――およそ五倍の時を生きたという烏天狗の言葉には、重みがある。それはそうだ。生き物は生まれた順に生きている。どんなに願っても、歳を追い越す事はできない。「あなたがたはまだ、若い。訪れる機会は無数にあるのです」

 

「たった一度の機会を逃して、死ぬほど後悔したとしてもか」「それは椛の事ですか?――それとも、あなたの本音?」「どうだっていい!」絶望を見透かされた気がして、私はますます激昂した。「後悔したとしても、ですよ。生き急ぐのは若者の特権。それを止めるのは年長者の役目」

 

射命丸は扇で口元を隠し、私をじっと見た。「しかしてまあ、若者とは往々にして耳を貸さぬものではありますな」私の姿を、上から下まで、じろりじろりと見た。「口から出る覚悟など、所詮は軽薄なもの。真の覚悟は行動によって示されなければならない」紅い光が、青い瞳を突いた。

 

「あなたは椛を愛している」思わぬ言葉は、しかし恐ろしい程に易々と私の中に入り込んできた。驚きも、抵抗もなかった。「それくらいは、分かりますとも。椛の様子は明らかにおかしかった。あなたの様子もです」めちゃくちゃに荒らされた室内を一望し、射命丸は首をかしげた。

 

「私は――あなたこそ、椛には相応しいと思いますよ」「何を……」「嘘は申しません」疑り深い私の目を以てしても、嘘を吐いているようには――見えなかった。「若いツバメに慕われるのは、悪い気はしませんがね」私にも何となく分かる。椛の思いを、否定している訳ではないのだ。

 

ならば何故、それを受け入れないのか。身を引こうと言うのか。私に椛を――譲ろうとでもいうのか。「ざけんな」私は射命丸をギリリ、と睨みつけた。「何の権利があって、お前は椛を私に≪譲る≫って言うんだ」「譲られたくはありませんか」「そういう傲慢なのは、大嫌いだね」

 

「椛はお前が好きなんだ」「わたくしは受け入れるつもりはない」「何故だ!」腕を広げ、大声で問う。叫び声が夜の闇に響いた。「結局お前は、椛の事なんて何とも思っていないんだろう!」――射命丸は、平然としていた。私の叫びは、目の前の烏天狗に届いているのだろうか。

 

「――好いているからこそ、では通じませんかな」扇が再び、口元を隠した。「わたくしの生き方に、椛を巻き込みたくはない。あなたもご存じでしょう。わたくしめが何と呼ばれているか」――不良天狗。時に山の権力者の間を、時には外界をも飛び回り、裏で万事を働くもの。

 

「わたくしめに、人を愛する資格などありはしないのです」射命丸は嘲笑した。それは多分、自分自身へ向けられていた。「例え説明したとして、椛は決して納得しないでしょう」「――そうだろうな」不良天狗を辞めるように説得する。罪を償うように勧める。椛なら、必ずそうする。

 

私はあいつほど、世の中が綺麗に回っているとは思っちゃいない。時には射命丸みたいな奴も必要だ。私自身、椛に知られたら小言の一つでは済まないような事をした経験は幾度となくある。だがそれを、椛は理解できないだろう。あいつはそういう奴だ。そういう奴も、また必要なんだ。

 

「譲られるなどと考えなくてよろしい。あなたはまだ負けていない」負けて、いない。「あなたは勝ちに行かなければならない。その為にはどうすれば良いでしょう?」如何にも挑発的な射命丸の言葉に、私は乗る事にした。「椛を探す!」「その通り」射命丸は窓際に立ち、背を向けた。

 

「沢の上流の方へ飛んでいくのを見ました。きっと、あなたがたがご存じの場所にいるのでしょう」それなら、いつもの場所。あの時私が流されていた場所の近くにいるんだろう。――私に会いたい時、椛はいつもそこにいる。「――さて、わたくしめは退散すると致しましょう」

 

室内に風が渦巻いた。ゴミ袋ががさがさと音を立てた。「椛の事、頼みましたよ」捨て台詞と共に、その身体は窓から勢いよく飛び出して行った。頼まれなくたって、やってやる。私は棚からリュックをひっつかむと急いで外に飛び出し、地面を蹴った。夜の闇の向こうに、お前がいる。

 

―――

 

  ―――

 

「何してるんだよ」私の問いに、椛は答えなかった。「私らみたいなんじゃないんだ。風邪引くだろ」私は懐中電灯を足元に置き、滝壺へと飛び込んだ。そこで仰向けに浮かんでいる椛の傍に、泳ぎ寄る。「頭を冷やしている」差し伸べた手を、椛は払った。「身体を冷やしてどうすんだ」

 

「放っておいてくれ」「そうはいくか」私は強引に椛の身体を捕まえにかかった。陸上でならともかく、水中で河童に敵うはずがない。私は抵抗する身体を抑え込むと、なだらかな岩の上に椛の身体を引き上げた。当たり前だが、ずぶ濡れだ。服を着たまま寒中水泳とは、馬鹿な事をする。

 

二、三発頬を張ってやると、観念したのか水へ戻ろうとはしなくなった。リュックから固形燃料を取り出すと、文明の利器で火をつけた。互いの姿が照らされる。「服を脱げ」「いい」「良くないから言ってるんだ」河童の服は完全防水だが、普通はそうではないのは当然、分かってるさ。

 

幾度目かの説得の末、そこにはすっぱだかの椛がいた。全部脱げとは言っていないんだがな。とりあえずリュックから毛布を取り出して、投げつけてやった。「頭は冷えたかよ」「――分からない」垂れた耳の先から、水滴が垂れた。「射命丸に会った」「文に?」「ああ、話を聞いた」

 

椛の顔が陰ったように見えたのは、光の加減のせいではないと思った。「頭を冷やせば、何か解決策が見つかると思った」「お前な、頭を冷やす、ってのは物理的に冷やすって意味じゃなくて――」「分かっている」椛は首を振った。「でも、そうするしか、自分の気が済まなかった」

 

「私は文を愛していた。文と顔を合わせて理解できた。それは理屈じゃない」椛は首を振り続けた。「文は――そんな私を、やんわりと拒んだ」「理由があったんだ」真意を言うべきか迷った。今は止めておこうと思った。「ああ。からかわれている訳ではないのは理解できた」

 

「それが愛でないのだとすれば、速やかに忘れるつもりだった。今まで通り、文と付き合う事を考えていた。しかし、しかし、そうはならなかった。それは≪愛≫だった。どうしようもないほどに焦がれていた」握り込んだ手に、力が籠っていた。苦痛に耐えるかのような表情を浮かべ。

 

「今もお前は、射命丸を愛しているんだな」揺らぐ火の中で、湯を沸かすケトルが音を立てている。「…………」沈黙が肯定した。「ままならないな」「――そうだな」そうだ。ままならない。お前は決して成就しない愛を追いかけているんだ。今すぐにでも指摘してやりたかった。

 

静かだった。火の揺らめきが周囲を支配していた。コーヒーを淹れて、二人で飲んだ。互いに何も言わなかった。かける言葉が見つからなかったんだ。互いの腹の内を知ってしまった。私達の間にもきっと、愛はあったのだと思う。ただ、それは――射命丸への愛とは、比べられない。

 

愛がその執着を失うまで、どれだけの苦悩が待つだろうか。失った愛がその熱を完全に失い、過去の傷として納得できるようになるまで、どれだけの時間がかかるだろうか。お前はその時まで、私を傍に置いてくれるだろうか。私はその時まで、お前を愛し続けられるだろうか。

 

だが、だがな。私は負けるつもりはない。もはや告白は成されてしまったのだ。気軽で、楽しいばかりの、昔のままの二人ではいられない。私は、私達は、変わらなければならない。「私は」それは独り言だった。「私は、お前を愛している」お前に聞かせる為の言葉では、なかったから。

 

椛は何も答えなかった。それは最大限の敬意だと思った。いい加減な事を口にできる性格ではない。私は知っている。よくよく知っている。いつか私への愛が、射命丸への愛を上回った時、その時初めてお前は、私に愛を囁くのだろう。いつか、そうなる。ああ。そうさせてみせるさ。

 

不意に椛が、大きなくしゃみをした。私は――思わず噴き出した。椛もつられて笑った。私は懐中電灯を絞ると、椛の毛布の中に潜り込んだ。脂肪の多い身体だからこそ、役立つ事もある。椛は一瞬だけ躊躇ったようだったが、私の一種破廉恥な行動の意図はすぐに伝わったようだった。

 

闇の中に揺らぐ炎の傍で、私達の心も揺れていた。未来の事は分からない。ただこれが、謝った選択肢だったとしても――今ここにいなければ、きっと私は一生後悔しただろう。お前もきっと、そうだ。お互い、悔いの無いように生きよう。いずれやって来る、より良い結末の為に。

 

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