我は撫鈴
―我は撫鈴―
ずっと、同じ夢を見ていた。
――方々を引き裂かれた星の背。眼下で燃え上がる寺のゆらめき。咆哮。嗚咽。そして咆哮。怒りの発現を、誰一人として顧みる者なし。我らにも、彼らにとっても、もはや終わった事だ。尼殿はもはやこの世にはなく、妖怪らは逃げ去った。不然たる法と慈悲の支配が、あるべき姿に還ったのだ。
うるるる。星が唸った。もはや好きなだけそうしただろう? 屏風の虎は、所詮屏風の虎。我が主も責めはすまいよ。お前はよくやった。己が役目に忠実であった。ただ少しばかり、力が足りなかった。これからのお前の仕事は、何もかも忘れ、妖怪としての姿を捨てて生きる事だ。
やがて己が何者であったかも忘れてしまえばいい。二度とその肉体を、虎に変じさせられないように。――虎は、その一切を聞いてはいなかった。ただ陽炎を見て、失われた命を見て、心を砕いていた。我が身よ裂けよとばかりに握られたその手は、人妖の血に塗れていた。
錫杖で、その背を叩く。星は反応を返さない。屏風の虎は、虎である事を止めようとしない。放っておけば、火の中へ飛び込みすらするだろう。それが無意味であるとすら、今のお前には理解できない。ならば、従者たる我がそれをわからせなければならない。我が主を、生かす為に。
――虎よ! 虎よ!――お前が為すべき事は何か。仕えるものは何か。お前は何の化身であるか。後頭部を、錫杖で打つ。唸り声が、止まった。こちらへ憤怒の視線を向ける。もはや敵味方すら解してはいない。我は再び、問う。――虎よ! 虎よ!――お前は何者か。何者であるべきか!!
顔をしたたかに打つ。虎はひるんだ。打突にではない。己が内の理性と憎悪の間で、せめぎ合っている。屏風の虎は、何者に成ったのか。何者でならなければなかったか。そして、これから何者でなければならないのか。これは慈悲だ。天の慈悲。拾った命。僕よ、僕よ、捨ててはならぬ…
星は狂おしく頭を抱えた。身体を激しくくねらせると、隠しきれぬ耳と尻尾、獣性の証が消え去った。呻き声と共に倒れ込んだ星は。もはやぴくりとも動きはしない。目を覚ます時には、すべてが終わり、そして始まっているだろう。お前の怒りは、もはや何処へも向かう事はない…
眷属らに、星を運ぶよう命じた。居地はできるだけ、人里から遠い方がいい。虎は山深くこそに潜むものだ。傷付き、眠れるお前にこそ相応しい場所を、選んでやろう。我はそこで待とう。お前が目を覚ます日を。
我は撫鈴。毘沙門天の眷属にして、寅丸星の目付。そして、不実な従者である。
◇◆◇◆◇◆
――どれだけの時が過ぎただろうか。十年。百年。暦を数える事は草々に諦めた。四季がわかれば、それで十分だ。日課の水汲みを終えた我は、布でもって、星の身体を拭いてやる。さして必要がある訳ではないが。埃を積もらせるのは我の誇りが許さなかった。虎は今日も、目を覚まさない。
その身は…そう、まるで時が止まったように動かない。己がすべての心が噛み合うまで。それは慈悲である。それは贖罪である。それは、自分自身を赦す為の。いつ目覚めてもいいように、我がいる。覚めたる虎を導くために。再び心砕く事がないように。
――うるるる。
…聞き覚えのある音が、耳を突いた。眷属らが四散した。我が錫杖を構えるその目の前で、虎は目を開いた。最大限に警戒はしている。或いは己の負の心こそが勝ってしまったのかもしれない。…その時は、我が。虎の身柄を預かって以来。そのくらいの覚悟はできていた。
――ごろごろごろ。
…まるで喉を鳴らす猫のような、大きな音が鳴った。「ふわあ」大きな欠伸をしながら、虎は目を覚ます。「どうしました、なずーりん。そんな怖い顔をして」…緊張が途切れ、我はくずおれた。そうだ、日常の虎はこのような奴だった。我をなずーりんと呼び、何処か抜けた所のある、愛すべき屏風の虎。
「ところで、私は何処にいるんでしょう?」周囲を見渡す虎を、ひやりとする思いで見つめる。まだ油断はできない。外の景色を見た瞬間、忘れていたものが込み上げてくるやも…「うわあ、ここは景色が良いですねぇ」…思い出す事はなさそうだ。我は再び緊張を解くと、へたり込んだ。、
「はて、何か大切な事を忘れているような――っ、と」我は虎の、彼女の背に抱き着いた。忘れていい。忘れていいんだ。「何だったんでしょうねぇ」横顔に、あの時の獣の顔は、もはや重ならない。我に取っても、あの時の清算は、終わったのかもしれない。
――
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――
――
千年の安息。それは、幸せな時間であったに違いない。深く絆を交わした私達の関係は、或いは夫妻と言って差し支えなかっただろう。そうだ、忘れてしまえばいい。己が虎であった事を。屏風の化身であった事を。如何なる使命を帯びていたかを。すべて忘れて、私と生きよう。
外から来たという洋服を見繕ってもらった事もあった。錫杖をダウジングロッドに持ち替え、宝探しとしゃれこんだりもした。私の稼ぎがあれば、そして彼女の加護があれば、生きるにまったく不自由がないほどの金銭が得られた。
――それでいい。それでよかったはずだった。
「――おおっ、本当にいた!」
死に絶えたのではなかったのか。唖然とする私をそこそこに上がり込んだ二人は…「星ー! いるんだよねー!」「おおぃ、星ー!」…やめろ。やめてくれ。「はーい」やめてくれ。「おや、あなた方は――?」やめてくれ!!「私だ、村紗!」「わたしわたし、一輪」頼む、やめてくれ!!!
私は完全に心を乱されていた。思慮もない。言葉もない。三人は僅かな時間で、互いの生存を、そして聖の事を口にし始めていた。「――記憶がないって、あんた一番聖に懐いてたのに?」「千年ちょっとでボケちゃったんじゃないでしょうね…」何度もその名を口にするんじゃない。やめてくれ。
「あ、少し――思い出せそうです、なんだか」「――やめてくれ!!」遂に言葉に出た。三人が怪訝な顔で、こちらを見た。「そっとしておいてくれ。何故そうしれくれない。帰れ。帰ってくれ。二度と姿を現さないでくれ!!」皆が皆、私が口を利けるとは思わなかったとばかりに、目を見開いた
「そうはいかないよ、聖を助ける為には――」「それが余計だと言っているんだ!」三人は顔を合わせ、困惑している。「じゃあ何、あんたは聖を助けるのに反対な訳? 毘沙門天の手下なのに?」「それはおかしいよ」…おかしいさ。わかっている。それでも。それでも。ご主人は…
「思い出しました」!! 「――思い出せました。すべて」見ろ! お前達は、取り返しのつかない事をしたんだぞ!! 「聖の事も」ご主人の顔が、徐々に険しくなっていく。私はロッドを構えた。あの日、あの時の事を鮮明に思い出す。毘沙門天の加護なき私に、何かができるとも思えなかったが。
それでも、私の手でこそ、ご主人を――殺さなければならない!!
ロッドを握る手が、震えた。ご主人が、じっとこちらを見た。立ち上がった。私に近付き…ロッドを掴むと、払い除けた。力で敵うはずがなかった。眷属も、影に隠れたままだ。もはや噛みつくしかない。そう判断するより先に、ご主人は両手を、首に――
「ありがとう」
その手は首に優しく触れると、耳を、頭を、撫ぜた。「私を、殺そうとしてくれたのですね」私はもう、何も言えなかった。意味もわからず緊張した面持ちの二人も、ほっとため息をついていた。「大丈夫です。もう、あのような事は繰り返しません。させません」
ご主人は力の抜けきった私を抱き上げると、椅子へと座った。私を膝に抱いて。「方法はわかりました。…しかし、足りないのです。一つ」申し訳なさそうに、ご主人は頭を掻いた。あの時散逸した法具…そう、宝塔だ。私には想像がついていたし、次に紡がれる言葉も、わかっていた。
「ナズーリン」
「宝塔を、探してきてくれませんか」
…散逸したそれは見つからなかったと、偽る事もできただろう。それはしかし、すぐに見破られただろう。彼女の意思は、既に尼君に向かっている。あの時助けられなかった彼女を、今こそ、今度こそ。探し出し、助けようとする意志は、私にはもう、止められるものではなかった。
私はナズーリン。毘沙門天の眷属にして、寅丸星の目付。そして、不実な従者である。