―上白沢慧音はここにいる―
妖怪がいた。何という事はない弱小妖怪だ。そいつはあまりにも弱かった。妖怪から肉を削がれる事など、日常茶飯事であった。しかしそれでも、妖怪は生き延びた。ただ、怒りを貯め込む事しかできなかった。そして、その時――妖怪は死んだ。その身はばらばらに引き裂かれた。
肉体を食い尽くされたその妖怪には――しかし、憎しみが残っていた。その身は空気のように薄く、憎悪は、深淵めいて深い。矮小なそれは、いずれ消え去るはずだった。しかしてその目の前に、憎き妖怪が現れたのだ。半分だけであろうと、構いはしない。妖怪は、獲物に飛び掛かった。
――女の身体が、震えた。その瞳は子供達を見やり、己を見やり。己が手を、食いしばった歯を、滾るような血の渇望を、遮るように頭を振る。不信がった子供が近付いてくる。心配そうな顔が見つめる。女は顔を背け、天に吼えた。己が衝動を解き放たんと、二度、三度、吼えた。
そして女は、崖から身を投げた。
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それはそれとして、慧音が行方不明だ。
私がさらった訳じゃない。理由は――あれ、なんだっけ?――まあともかく、慧音は行方不明になった。それを理解した時――しかし私は、冷静だった。何処へ消えたのか。何故、いなくなったのか。考えはすれど、手がかりが少なすぎる。探し人なんてのは、正直、そんなに経験がない。
周囲の反応は、如何にも冷淡だった。ガキ共は口を揃えて、そんな人は知らないと言った。まるで最初から、そんな者はいなかったのように。寺子屋では新たな先生が立てられ、日常は淡々と続いていた。私は、そんな刹那の流転を、じっと見ていた。不愉快と思う感性は、既にない。
ふと思い立ち、私はあちこちでその名を聞いた――が、それは誰だ、と聞かれる始末だ。あまりにも冷たい――というより、これは異常だ。私は何の当てもなく人里をぶらついた。慧音の残滓はあちこちにあった。贔屓の道具屋。角の薬屋。駄菓子屋。飲み屋。誰も、覚えていなかった。
――明らかにおかしい。慧音は単に行方不明になった訳じゃない。私は訝しむ。訝しむが、答えは見つからない。ぶらぶらしている間に、寺子屋の辺りに着いた。試しに聞いてたが、やはり誰も慧音の事は覚えていない。大人がそれなのだ。ガキ共にいくら聞いても、わからないはずだ。
適当にお邪魔し、慧音のいた部屋に入る。よくよく整頓され、綺麗に使われている。昨日と何も変わらない。これからはどうだろう。私は紙巻き煙草に火を点け――そういえば、外で吸えと言われていたか。箱に戻す。お前がいなくなってから言いつけを守るなんてのも、おかしな話だな。
結局、何の成果もなかった。今宵は満月。慧音はいつもこの日には、用事があるから、と夜中に出かけていた。何かする事があるんだろう、と聞き流していたが――案外、そこにいたりして。……そういう妄想は、すればするだけ空しくなるか。今日のぶらつきだって、そうだ。
適当な店屋に入って、酒を頼む。あいつのいない世の中は、やはり味気ない。得るよりも失う方がずっと簡単だ。私にとっては、な。私だけが時を刻み続ける。すべてが遠く、遠くに去っていく。「慧音」呟く言葉も、空しい。呼べば必ず来ていた、お小言が返ってこない。
「あの、すいません」声の主を振り返る。……寺子屋の先生じゃないか。「何か用ですか」「いえね、あなたが≪慧音≫と言ったものですから」「ひょっとして、名前を覚えているのですか」私はつい、熱くなってしまったかもしれない。「いえ、その――覚えているとは言い難いですが」
「私が引率していた課外授業のリストにですね、確かに載っていたのです。上白沢慧音、と」「それは」「私にも心当たりは――まったくありませんが、もしやお探しの人のヒントになるのではないかと」そうだ。皆が慧音を忘れていたとしても、慧音が残したものがある。「ありがとう」
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私は課外授業が行なわれていた場所を聞き出すと、店屋から直接そこに向かった。既に夜中。妖怪の時間だが、私には何の問題もない。課外授業がは少しばかり、高い所でやっていた。下を覗けば、木々。木々。そして木々。ここから先は人里ではない。この先に、落ちたとすれば?
満月の夜。何があったのかは知らないが、私は慧音が落ちたであろう森に飛び込んだ。考える。考えれば、後は山勘を信じるだけだ。戻ってこられない、何かしらの理由があるなら――慧音はこっちに逃げる。木が茂っている方だ。誰にも見つからないような。森の奥。そのまた奥に。
「慧音――ッ!!」私は声を張り上げて、その名を呼んだ。鳥が飛び去った。獣が逃げた。妖怪共が身を隠した。とっ捕まえて吐かせようかと思ったが――無駄を悟った。こいつらは慧音を忘れているだろう。私は叫んだ。叫び続けた。永遠の身。声など枯れない。丑三つ時を過ぎた。
このままでは埒があかない。私は危険を――まあ、森林火災はまずいよな――承知で、周囲の木を薙ぎ払った。この明るさを見て、反応してくれればいいが。「慧音――ッ!!!」耳をそばだてた。火が爆ぜる音がする。風がそよぐ音がする。……そして、そして、確かに聞こえた!
「――妹紅」私は指を鳴らして火を消し去ると、慧音の方向に向けて飛び込んだ。慧音はそこにいた。木々の間に、隠れるように――そこにいた。緑色の服。緑色の髪。そして、角。満月の夜、慧音はこのような姿になる。……そして、全身が傷だらけだ。一体、何者に襲われたのか。
頭からは、おびただしい血を流していた。死なない奴が言う事でもないが、明らかに重症だ。私は慧音の傍に駆け寄る。「大丈夫か」私の声を聞いて、しかし慧音はこちらを向かなかった。「探させてすまない。……だが、私はもう駄目だ」「――馬鹿野郎。諦めるなよ」
己が、応急処置以上の知識を持たない事を呪った。「いいんだ。本当に、もういいんだ」慧音の言葉を無視し、袖を切って包帯を作る。巻いてやる間も、慧音は弱音を吐き続けた。毅然とした普段からは想像もできない姿。一体何が起こったんだ?「頼む。死なせてくれ、妹紅」
慧音の顔を張った。「お前を死なせるものか」「違う。私は生きている。だが、死んでいるようなものだ」慧音の言葉が理解できない。「何を言って――」「里の人間は、私の事を誰も覚えていなかっただろう」確かに、そうだ。その通りだったように思う。覚えているのは、私だけだ。
「私は身を投げた。そうしなければならなかった」慧音は、頷いた。何度も頷いた。「あの日、あの時――里の端、眺めの良いそこで、私と子供達は課外授業をしていた」荒い息。「私が出会ったのは、新手の妖怪か、或いは自然現象か。私にはわからないが」慧音は激しくえづいた。
「あの時――私は、おかしくなってしまった。私の心は憎悪と狂気に歪んだ」握り込んだ手から、血が流れる。「半妖の身であるからだろう。狂気は私を半分だけ狂わせた。しかしそれは、十分に致命的だった」慧音は初めて、私を見た。その表情は、如何にも弱々しく、儚い。
「――要するに、狂える妖怪の部分が、ガキ共に手をかけるだろうと」慧音は頷いた。「確信があった」血がつつ、と手首を伝った。「当然、そんな事は許されはしない。私だって、絶対にそんな事はしたくない。私は子供達を守らなければならない。だから、その手段を取った」
「――私は、私を≪最初からいなかった≫事にした。子供達は私の存在を忘れ、引率の先生と共に、家に帰っただろう。それでいい。それで、私は満足したよ」慧音はこちらを向いて――目を閉じた。「それしか手段がなかった。少なくとも、それ以上の答えは出せなかった」
「この傷は、私自身が己と格闘して付けた傷だ。致命傷とは程遠いよ」本当だろうか。私には十分、命に関わるように見える。今すぐにでも処置室にぶち込んでやりたい気分だ。「そして、私は勝った。狂気は私の中から抜けていった」頭の傷を押さえ、慧音は笑った。苦笑いだ。
「私は慧音の隣に座り、独白を静かに聞いていた。肩を抱き、目を閉じた。慧音は寒がっている。寒いって意味じゃない。恐怖を吐き出せる相手を探して、震えていたんだろう。私が温めてやれるなら、それでいい。火力が足りないというなら、それもいい。何もしないより、ずっといい。
「能力を解除する事はできなかった。隠れる、というのは死ぬのと同義だ。≪世界≫が覚えていない者が、再びこの世に戻ってくる事はできない」慧音は私に縋りついた。「気付いてはいた。けれど、この判断が、間違っていたとは思わない」私は、その身体をそっと引き寄せてやった。
「――だが、お前は覚えていてくれたんだな」「当たり前だろ」私はそんじょそこらの雑魚じゃない。そうやすやすと忘れさせられたりはしない。お前の事なら、猶の事だ。慧音は頭を振った。「しかしもう、私はこの世に戻ってくる事はできない。≪世界≫は私を忘れてしまった」
慧音の言う事はわからないが、こいつが――諦めているのは、何となくわかった。己の能力に振り回される者は、その力によって滅びるだろう。だがそれは、お前独りでの事だ。ここには私がいるじゃないか。諦めるのはまだ――いや。諦める必要なんてハナからない。そうだろ。
「助けてほしいなんて思ってはいなかった。ただ――最期にお前に会えて、よかった」「いい訳あるか」私は慧音の肩を掴んだ。「考えろ。考えた先に答えはある。タコが出来るくらい聞かされたぞ。お前がそれを放棄してどうする」慧音は少しばかり、驚いていたようだった。
「お前なら必ず、打開策を思いつくはずだ」「ああ。生き汚いと言われても仕方がないくらい、ずっと考えていたさ」その顔が陰る。「答えは出なかった。死人みたいなものが蘇る、などと言うのは、最初から不可能なのかもしれない」つられて、暗い顔をしそうになる。ダメだダメだ。
その時だった。私に一つの案が浮かんだ。「お前の言う通り――≪世界≫からお前が消えてしまったのなら――もう一度、知らしめてやるってのはどうだ。どんなに無視されたって、耳元で叫んでやれば、きっと聞こえる。そう思わないか?」「――知らしめる?」慧音は戸惑っていた。
「能力を解除できないか。私自身を思い出して貰えないか。そういう方法ばかり考えていた。そんな風には、考えた事もなかった」慧音は立ち上がり、私を見た。「新たに自分自身を定義し直せばいい。なるほど、そうかもしれない。そして、そして、今宵、私は――それができる」
私は立ち上がり、慧音の方を見た。「どうすればいい?」「いや、これは私の問題だ」私は首をすくめた。「お前の問題は、私の問題でもあるんだ」慧音は仕方ない、とでも言いたげな顔をした。「そういうお節介な所は、いつも変わらないな」「ラブアンドピースとでも思ってくれ」
私は向かい合い、手を繋いだ。慧音の髪が浮き上がり、周囲に霊力が浮かび始めた。虚空から巻物が現れ、筆が自動的に何かを書き込んでいく。周囲に更に、更にと巻物が現れ、同じく現れた筆がそれを次々につづる。編纂される歴史。お前が見た歴史。お前がいなくなった、歴史。
「妹紅」緑の風をまとった慧音が、私の名を呼んだ。「お前は、私を覚えていてくれた。お前の記憶は歴史となる。だが、私がいなくなった記憶は――同様に、歴史であり続けようとする。事実が二つ。それは不自然なんだ。私はそれを、一つにしようと思う」慧音は私の手を、引いた。
「上白沢慧音はここにいる」
ああ、わかってる。「上白沢慧音はここにいる」お前の周囲に霊力が渦巻いた。「そうだ。お前は、確かにここにいる」右手が引かれた。左手でお前の腰を抱いた。「歴史を隠す者。歴史を創り出す者。上白沢慧音はここにいる」慧音が血を吐いた。その手を、私は強く握った。
「歴史は改ざんを許さない」慧音は呟いた。「私のいない歴史こそが正統であるならば、私は≪世界≫から消され、お前の記憶も消えてしまう」「そうだな」「そう、させないでくれ。お前に忘れられるのが怖いんだ」「上白沢慧音はここにいる――私が保証する。間違いなんてない」
巻物の一つが私達に向けて飛び上がった。ぐるぐると周囲を回り、そして止まった。巻物の文字が光り、虚空へと浮かび上がった。上白沢慧音はここにいる。そこにはそう、つづられていた。「上白沢慧音はここにいる」慧音は呟いた。「ああ。上白沢慧音はここにいる。ここにいるさ」
やがて巻物は消え、筆は消え、私達の目の前の文字も消えた。霊力の流れが正常に戻った。歴史の編纂が終わったのだ。私達は抱き合いながら顔を上げ、遠慮がちにキスをした。そこにいるから、出来るのだ。そこに在るから、出来るんだ。歴史なんぞに、奪われてたまるものか。
≪世界≫にお前が戻ってくる。誰もが知るだろう。お前は戻ってきたのだと。誰も知らないだろう。お前がいなかった事なんてのは。お前の日常が戻ってくる。私のそれも、だ。握られた手を、どちらともなく離した。尻尾をばたり、と振り、お前は空を見た。私もだ。白んだ空を見た。
「泣くなんて柄じゃないだろ」「そういうお前だって。そんな顔は初めて見た」そう、お前は戻ってくる。私の腕の中に。私の≪世界≫の中に。ただ、安堵があった。そう――そうだな。お前を失いたくなかった。高々数百年の付き合いだろう。それでも今は、お前にお熱なんだよ。私は。
「永遠亭に運ぶ。あいつの手を借りるのは癪だが」慧音は頷いた。月が天空を手放せば、太陽が掴み取るだろう。角が消え、尾が消え、お前の姿は見慣れたその姿に戻った。私はお前を背負い、飛んだ。「私は飛べるよ」「いいだろ。やってみたかったんだ」慧音は私の肩に、頭を預けた。