―不可能じゃない―
「あなたより先に、死にたくなかった」
一羽の玉兎がそう呟くと、永遠の存在に身体を預けた。焚き火が照らす暗闇の中、竹林の中はただただ、静かだった。「何度も言ったろ」永遠――藤原妹紅は片手を背に回すと、逆の手でポケットを漁り、紙巻き煙草に火を点けた。一口吸い、そして吐いた。煙が周囲に漂い始める。
「それは無理だ」「不可能じゃない」玉兎――鈴仙は力なく首を振った。己に言い聞かせるような段階は、既に過ぎているようだった。「限りなく低い確率を求めて、何か得られたか」鈴仙は再び首を振った。「貴女の言う通り」「そうだろうな」妹紅は鈴仙の手をそっと取り、握った。
「蓬莱の薬。八意とあいつが揃って、初めて出来上がるような代物だ。どだい無理な話だったんだよ」その口調に責めるような色はない。ただただ、慰めるかのように妹紅は続けた。「生き肝でも食ってみるか?」思い出したように呟く。鈴仙は何も答えない。「――ま、もうやったしな」
妹紅は煙を吐き、鈴仙の顔を見た。その姿は出会った頃と何も変わらない。姿だけは。中身はもはや玉兎とも言えない。己が技術で可能な限りの延命処置を施された身体は、その代償として常に恐るべき苦痛に曝されていた。彼女が狂気を操るものでなければ、とうに狂死しているだろう。
「今日は少しだけ調子が良いの」傾いた耳が妹紅の首元に回った。「最期だからかしら」「そうかもな」頭を撫でながら、肯定してやる。いくらでもしてやる。もう二度と、叶わぬのならば。「妹紅」目が合った。紅い瞳。狂気に歪んだ、美しい瞳。鈴仙は頭を近づけると、耳元で囁いた。
「私を殺して」
「分かった」目を閉じ、煙を吐いた。「――躊躇わないのね」「まあ、何度もあったからな。長生きしてるとさ」妹紅は首を振り、鈴仙に微笑みかけた。今から殺そうというものにかける表情としては、これ以上凄惨なものもない。「一瞬で終わるよ」「――ありがとう」「ああ」
焚き火がぱちり、と爆ぜた。一人が煙草を投げ込み、立ち上がった。一人を支え、ふらつく身体を抱き込んだ。その身体は酷く軋んでいだ。もはや長くは――いや、一刻の猶予もないのは、傍から見ても分かった。「最期に、貴女を狂わせようと思ってた。私の事をすべて忘れるように」
「私には効かない」「そうでしょうね」鈴仙は悲しげに呟いた。「忘れて欲しい」「言われなくても、いつかは忘れる。私らはそういう風にできてる」妹紅は壊れかけたそれを強く抱き寄せた。「忘れるまでは、忘れない」「ありがとう」「ごめんな」悲しくも、ちぐはぐな言葉だった。
お互い、涙はなかった。永くを生きる者は情緒も枯れ果てるものか。そんな法はない。納得ずくなのだ。これが彼女らの望んだ結末なのだ。妹紅の背から噴出した炎の翼が、互いの身体を包み込んだ。竹林は俄かに明るく、昼間もかくやという炎に照らし出された。眩い光。命を燃やす光。
――それは一瞬で輝きを失うと、竹林に静寂と暗闇が戻ってきた。空を抱く、一つの影がそこに佇んでいた。鈴仙はいない。もう、何処にもいない。骨も、心も、埋め込まれた機械も、何も残らなかった。ただ人々の心の中に痛みを残して、灼熱と慈悲の彼方へと逝ってしまった。
妹紅は背を伸ばし、首を振った。そのままずっと、佇んでいた。何を考えているのか。何を感じているのか。それは当人にしか分からない。或いは当人すらも理解してはいないだろう。永遠の存在が、人を一人殺めた。ただただ、それだけの話。もはや誰にも覆せぬ、ただの結果一つ。
それを、許せと言うのか。それを、見逃せと言うのか。それを、忘れろと言うのか。目の前で焼かれた命を、仲間を、愛する人を、知らぬ顔で通せと言うのか。≪私≫は竹藪の影から飛び出し、その首筋に――鈴仙の残したアーミーナイフを突き立てた。返り血が私の顔を濡らした。
「――随分な挨拶だな」
怒りではない。驚愕でもない。諦観がこちらを見た。「最初から、ずっと見てたんだろ。止めるならいくらでもやりようがあったはずだ」既に傷は塞がっている。当然だった。永遠を殺す事はできない。「止めたかったさ」私は首を振った。「止めないでね、って言われてなけりゃあね」
私――因幡てゐは再びナイフを構えた。私は、永遠を殺す為にここに来た。鈴仙の願いを叶えてやる。一緒に在りたいという願い。例えそれが死後の世界であろうとも。「死にな。永遠」分かっている。そんな事は不可能なのだと。遠大な歴史が語る。永琳が、そして姫様が証明する。
だが、しかし、それでも――不可能なら、やらないのか? 不可能に立ち向かった鈴仙は、あれほどに足掻き、苦しんだのに? 私にしてやれる事は、鈴仙が生きている間には、何一つなかったのにか?「私を鈴仙の所に送ってやる、って言うんだろ」妹紅が分かったような口を利いた。
「そういう奴もいた」首を振る。表情はない。「それができるなら、そうしていたかもな」「ッ……」「生憎と、私はそういう風にはできていない」妹紅は残された焚き火の傍に歩み寄ると、静かに座り込んだ。「それは≪不可能≫だ。納得したか? それで、次はどうする、てゐ?」
ナイフを握る手が、震えていた。震えが止まらなかった。「或いは、憎しみのままに私を殺し続けるか? いいぜ、今は生きたい気分じゃない。朝まで殺し続けさせてやる」まるで挑発するように、妹紅は後方へ倒れた。喉元を親指で指差した。焚き火が小さく爆ぜる音だけが響いていた。
動けなかった。誰も動かなかった。「それとも」妹紅が上体を起こすと、その指先には御札が挟まれていた。「ここでお前さんに、後を追わせてやるか」その言葉が時を動かしたかのように、ぶるり、と身体が震えた。ナイフを取り落としたのにも気付かなかった。「さあ、どうしたい」
私は後ずさりした。自分の行いを理解してはいなかった。命惜しさに逃げ出そうとしているのか。いや違う。違うはずだ。私には分からないんだ。どうすればいいのか、分からないんだ。「軽々と答えられる奴なんて、そうはいない。どれだけ長生きしてても、な」煙草が取り出される。
「分からない」私は正直に答えた。嘘吐きにあるまじき行為だと思った。「鈴仙をたぶらかしたあんたが憎い。殺してやりたいとも思う」「だがそれは、不可能だ」「――なら、私にできる事は何もないって訳?」ふと、涙がこぼれているのに気付いた。何もかも、納得がいかなかった。
「所詮、人一人ができる事なんて限られるって話だ」指先から火を灯しながら、妹紅は嘯いた。「私も」吐いた煙が、辺りへ散っていく。「私も考えた。何も思い浮かばなかったが。いつもそうだ。してやれる事なんてのはたかが知れている」――永遠の存在が、己の無力を嘆いた。
「正気を保っていられる間に、苦しまないよう殺してくれ。最期の願いは叶えてやれた」「そんなのは願いじゃない!」「それとも、断るべきだったか? 苦しんでこと切れるその時まで、放っておいた方がマシだったか?」「違う、それは――」私は、何ら反論の言葉を持てなかった。
「してやれる事なんてのはたかが知れている」妹紅は繰り返し、呟いた。「不可能な事は、不可能だ。だからこそ、僅かでも可能性があるなら、付き合ってやりたいと思った。結果的にそれは鈴仙を苦しめる事になってしまったかもしれないが、な」煙草を咥えたまま、妹紅は俯いた。
鈴仙は妹紅と付き合い始めてからずっと、永琳や姫様に隠れて不死の研究に手を染めていた。けれどそれは当然ばれていただろうし、現に私も気付いていた。永琳が止めなかった理由は分からない。どうせ不可能だからと放っておいたのか。それとも、それが鈴仙の為だったから――?
「傍にいてくれるのが嬉しかった」吸い殻を炎の中に消し去りながら、妹紅は立ち上がった。「不自然に命を繋ぎ続けながらでも、嬉しくないはずがなかった。けれどいつかはそれも終わる」指を鳴らすと、突然に焚き火が消えた。辺りが暗闇に包まれる。「終わった後も、世界は続く」
「これからも私はきっと、してやれる事を探すだろう。いつか鈴仙の全てを忘れてしまうまで」「だったら」私は暗闇の中、何処へとも知れぬ相手へ叫んだ。「私は、立派なお墓を立てる。あんたも来なさい。必ず」「ああ」何処からか返事がして、やがて竹林は――完全に、静かになった。