―星の瞳―
天体観測が趣味であると言うと、およそ誰もが適当に話を合わせようとする。ロマンチックですね。今度連れて行ってくださいよ。まったく心外である。私が何と呼ばれているのかを知らぬらしい。まあ、自称した事もないが。
私が三脚を担いで山々を巡るのは、何も撮影の為だけではない。闇を楽しみ、光を楽しむ。曖昧さが作り出す、無限のコントラストを楽しむ。己が力はこの世の如何様な星空をも再現してみせる。この世に存在しないそれも、だ。見えざる星々は、無限大の星座を覆い隠しているものだ。
がさり、と音が鳴った。珍しい事ではない。風か、獣か。どちらにせよ、私を害す事などできはしない。今の私は、最高の瞬間を写すのに忙しいのだ。しかして音は二度聞こえた。これは面倒であろうか。人も獣も、群れると気が大きくなるものだ…
「失礼致します」いたずらな風が口を利いた。思い当たる友の声ではない。仕方なく顔を上げ、振り向くと、そこには白狼天狗が跪いていた。面識は、ない。まだ若いようだが、中々の腕前と見る。この私を振り向かせたのだから。
「今宵はここで見張りをせねばなりません」申し訳なさそうに白狼は言う。配置転換はよくある話だ。私も戯れに配置オセロを…いや、それはいい。「嫌だと言ったら?」悪いが、先んじたのはこちらである。梃子でも動かんぞ。
「…ご一緒させて頂いても、よろしいですか」おう、中々ぶしつけな事を言う。これはナンパか? 或いは命令通りにしか動けぬ堅物野郎か?
「ああ」一人増えた所で、星空が霞む訳でもあるまい。それに、私を面白がらせる時点で上々だ。命令を与えられると白狼はしめやかに傍の木に昇り、警戒を始めた。何者も現れぬとはいえ、万が一という事はある。時にそれは身内から発生するのだから、如何にも始末が悪い。
しかしなんだ、二人きりか。こういう機会は滅多にない。大天狗ともあらば黙っていても部下が連なってくる。中には特に用事のない連中もいる。暇ならオセロでもやっておれ。…かくして雑念を温めていると、ふと雑念の親玉が飛び出した。話を振ってみれば良いのだ。試しにな。
「白狼よ、星は分かるか」どうせ、とは思わなくもないが。「わかりません」その返答は少々、予想とは違っていた。大天狗に向かってなんだそのすげない反応は。「しかして、必要であらば覚えて見せましょう」その返答も、予想とは如何にも違っていた。
「…よし、簡単な所から教えてやろう」興が乗った。話のわかる奴――いや、わかってはいないのだが――にはこちらも興味はある。天に向けた指先をくるりと回す。天蓋が回る。季節感も何もあったものではないが、この際だ。「あれがこいぬ座、これがおおいぬ座」星と星とを光の線で繋いで見せる。
「…これは、難しいものですね」そうだろう、そうだろう。私だって少々想像力豊かすぎると思わなくはないぞ。「先人は暇だったかもしれないが、そのおかげで今の私たちは暇の産物を見て思いを巡らせるのだな、と…」白狼はじっと空を見ている。おい、このままだと見張りにならないのではないか?
…まあいいか。誘ったのは私だ。私に文句をつけられる気概のある奴はおるまい。まあ、今しばらくは私が下を見ていてやるか。狼を上に、烏は下に。普通は逆だろうにな。この際だから遠吠えでもしてやろうか? ワオーン、とな。
「――ワオオオォォン!!」うわっ。…びっくりした。なんだ、緊急招集か? 「飯綱丸様、少々…"猪が"紛れ込んだようです。私は行きます」剣を取り背を向ける白狼。機敏な奴だ。やる気のない下っ端共は見習うべきだな。だが。「待て」言葉をかける。引き留める。引かれた彼女がさっと振り向く。
「名を聞いていない」必要がある訳ではない。その場の気紛れだ。ただ一つ、覚えておきたかった。「犬走、椛と申します」「…良い名だ」毅然とした顔が輝いている。…否、彼女の瞳がまるで星空のように光を湛えているのだ。…光を? 瞬きをした瞬間にはもう、光は見えなかった。
「…それでは」「あ、ああ」それ以上は問う言葉もなく、彼女は呆けた私の視界から飛び去っていった。…星、か。私とした事が、何を惑わされた? 釈然としない思いで三脚を片付ける。もうここにいる理由も…理由も? …何故理由が必要なのだ? おかしい、今日の私はどうかしているな…
白んできた空に背を向けて、ぼんやりとした頭で歩き去る。
星の瞳、星か…
あの時の私は、何のまやかしを見たんだ? 何故こんなにも気になって仕方がないんだ?
◇◆◇◆◇◆
雲一つない夜空だった。何者も邪魔立てできない世界。私の為の世界。星。星。…星の浮かんだ瞳、彼女の瞳…明るく、輝いて…
「飯綱丸様!」ぼうっとしていた所に最悪の目覚ましだ。「お連れしましたよ、カノジョさん!」お前、次その呼び方したらぶっとばすからな。典を睨んでいると、なるほど彼女が、ゆっくりとした歩みで現れた。武装を解いた姿は、一回り縮んだようにも見える。
「誰にも見られてはいないか」詳細は省くが、これは少々危険な火遊びである。「いいえ、この子が連れ出してくれましたから」彼女にとっても、これは少なからぬ問題を抱えかねない話であったが、いざとなれば私の力でどうとでもなる。こうして来てくれたのだから、良しとしよう。
「星を見せてくださるのですね」心なしか態度が軟化したように思える。気のせいかもしれない。内心はどうあれ、彼女は相当の堅物と見た。忠実な姿勢はは嫌いではない。「そう思って呼んだ」悪いとは思うが、軽率に頭を下げるような真似はできない。私は大天狗だ。地位には相応の振る舞いが伴う。
「さて、これはだな…」「からす座」…少し驚いた顔をしすぎたかもしれない。「覚えました。少しだけですが」…ああ、中々の向上心だ。「あれは…暗めの星だが、見えるか?」「はい。目は少しばかり良いので」実際、彼女には星の瞬き、そのすべてが見えているようだった。
彼女は覚えが早かった。夜空は光の線で埋まった。指を回す。天蓋が回る。知らない夜空がやってくる。そんな事を幾度か繰り返す内、ふと見た彼女の顔は…そうだ。そうなのだ。その瞳は光を湛え、輝いていた。僅か一瞬の内に消えてしまうのも、同じだ。
不思議だった。彼女の瞳を見る度に、自分の中で情が膨らんでいくのを感じる。まやかされているのか。己の迷いか。戸惑いはすれど、その原因は確信めいていた。私は魅入られている。彼女の瞳か。…それとも、彼女にか?
瞳について問いただす事もできたが、私はそうしたくなかったから、そうしなかった。聞いてしまえば今の関係が崩れてしまう気がしたからだ。…そう。これは戯れだ。決して入れ込んではならない、火遊びに過ぎない。私がそうしたいから、そうした。彼女はどうだろう。わからない。
「カノジョさん、あのね!」つまらなさそうに脚をブラブラさせていた典が、いつの間にか彼女の後ろに立っていた。これは何やら余計な事を思いついたな。わかってはいるが、咎めるにも奴は早い。軽口が流れ込む。混ざり込む。捻じ込まれる。
「…!!」耳打ちされた彼女はきょとんとし。さっと頬が赤らみ、そして肩を抱いてしゃがみ込んだ。見ているこちらが恥ずかしくなるような反応だ。そして私にも、見る必要のない"反応"が湧いてくる訳だ。わかるか。性悪狐。
「お前、一体何を吹き込んだんだ」「えぇ~? 聞きたいですか~?」こいつはどうしてこうなんだ。「いい」付き合うだけ時間を損する。利益は最大限に、負債は最小限に。この鉄則を守れなければ、管狐はいとも簡単に宿主を食い潰してしまう。
「は~い」典は如何にもニヤつきながら毛づくろいを始めた。…やけに素直だ。こういう時はロクな事が起こらない。今度一発シメてやらねば。先の予定にしこたま典の調教を入れてやる。
「仕方のない奴め…」こんな奴でも役には立つのだ。私が今の地位にあるのもこいつの働きがあるからこそ。故に手放せない。手放せばどうなるかを考えたくもない。「飯綱丸様」助けを求めるように彼女が呟いた。おうおう、悪いのはそこの――あれ、何処に行った?――狐野郎だ。落ち着いてくれ。
「…」声にならない何かが聞こえる。腰を落とした彼女は頬を赤くしながらも、まったくの不動。そこまで堅物らしく振る舞わなくての良いのではないか。隣に座って、背中を叩いてやる。…駄目だ、完全に固まり切っている。…それなら、これはどうだろうか?
かさり。かさり。
彼女の身体にもたれかかる。一瞬びくり、と震えたが、身体は間もなく身体を支えた。私とて女だ。受け止められたい時くらい、ある。或いはお前を、受け止めてやれるかもしれない。それは決めてもいい。決めなくてもいい。焦る事はないさ、もしも、もしも、近くにいられるなら。
「なあ、椛…」何を言うかは決めていなかった。何を言おうとしているかはわかっていた。ただもう少し、お前を近くに置きたかったんだ。それはわかって欲しい。私は決して、そんなつもりではなかったんだ…
風切り。風切り。そして唸り声。夜空を覆い隠すように、黒、黒、黒い影が舞い降りる。白狼天狗。烏天狗。並みの数ではない。人の壁はたちまちの内に、幾重にも私達を囲んでいく。咄嗟に…駄目だ、逃れられない!
「お戯れを」烏の一人が無礼を吐いた。「お前達に何事もされる謂れはない」若干の威圧を込める。私は大天狗だぞ。お前達よりずっと偉いんだぞ。「去れ」いくばくかの壁が動揺したように見えた。されど統制は揺るがない。
「お引き取りくださいませ」違う烏が無礼を…承知で吐いている。されば答えは一つしかない。私よりも上からの命令だな。居場所を知られたのは…典か! あの悪戯者め。しかし、こうなっては私とて何もできない。組織は盲従せぬ者に残酷だ。もはや駒の一人すら、私の手で動かす事はできない。
…いや、一人だけは違う。違うはずだ。彼女は何としても、私が庇ってやらねばならない。…ならなかった。身分の違いは命の違い。言い訳にしかならないが、山の老人達がここまでやろうとは、思わなかった、のだ。
「わかっています」彼女は抵抗しなかった。後ろ姿が、毅然とした声が、遠ざかっていく。私はともかく、彼女は何をされるかわかったものではない。しゃにむに近付こうとするが、駄目だ。どうあっても多勢に無勢…!
「すみません、飯綱丸様…」白い毛並みは壁の中に埋もれ、見えなくなった。謝る必要があるのは、私の方だろうに!
◇◆◇◆◇◆
牢の扉が、ガチャリガチャリと音を立てる。倒れ伏した私は、耳だけを向けてそれを聴いていた。常人であればこのような時こそ、何者かの助けを期待するものだろう。けれど、けれど、今の私にそれは聞きたくもない音だった。私がどのように処断されようとも、飯綱丸様の迷惑になってしまう。
ならば、いっそこのまま…
「思慮が足りませんね、犬コロ」
踏み込んできた"助け"は、想像していたよりもガサツで、腹の立つ奴だった。
じゃらじゃらと鍵束をかき鳴らしながら、見覚えのある高下駄が踏み込んでくる。誰も頼んでなどいないのに、そういう時こそしゃしゃり出るのがあいつだ。私はよく知っている。思い知らされている。これ以上、私をかき乱さないでほしい。
「…何をしにきたんですか。規則違反でしょう」「規則破りは不良天狗にお任せあれ」最もな事を言い、あいつは飄々とお辞儀をして見せた。慇懃無礼。こういう、人を小馬鹿にしたような態度が気に食わない。腹立たしくも仕方なく起き上がった私の傍で、一本足の主が見下ろしている。
「上の方が何故癇癪を起こしたかわかりますか? 枯れた時分に見せつけられて、少しばかりイラついたのでしょう…おや、なんですかその顔は」こいつの言葉は常に疑わしい。(なにしろわたくし、生まれてこの方嘘を申した事がなく)しかし、嘘ばかりでもない。嘘を吐き、真実も放る。
「飯綱丸の事が好きなんでしょう、あなた」根掘り葉掘り聞かれるであろう言葉に、それでも動揺してしまった。好き。そうだろうか。そうなのだろうか。雲の上の存在を、私などが好いても良いのだろうか。私にはわからない。私の心は、わかるようにはできていない。
あの人が私の目を覗き込む度に観えた、星空のような輝きが忘れられない。忘れようがあるものか。それが何かを確かめたくて、私は…危険を承知で飯綱丸様の誘いに従ったのではなかったか。
「自由恋愛に目くじら立てるなんてのは今日び流行りませんがねェ」下劣な瞳がせせら笑う。「通すべき筋というものがあり、あなたがたはそれを踏み越えてしまった」あいつはすらすらと語り続ける。「まァ要するに、それなりの身分差を意識して付き合いましょうね、という事です。わかります?」
「大体飯綱丸が迂闊なのですがね。上に立つ者は立つ者らしく、はしっこく振る舞るべきだと…おやおや、そんな怖い顔をなさらないで?」こいつには飯綱丸様に対する敬意が感じられない。私の事はこの際構わないが、あの人を侮辱するのは腹が立った。「それはまあ、ともかくとして」
「このままでは一生、接触を禁じられるでしょうね。それでも随分と寛大な処置でありましょう」心が青ざめるのを感じる。覚悟はしていた。足りなかった。私はもはや二度と、あの人の顔を見る事はできないのか? あの星が何なのか、確かめる事もできないのか…?
「それで、あなたは何かできますか?」あいつは顎に手を当て、こちらを上から覗き込んだ。「何もできないでしょう。あなたは」お前はそんな事を言う為にここへ来たのか。悲愴と共に、怒りが湧いた。そうだ、私には何もできない。一介の白狼に何ができるものか。私には、何も…!
「あなただけ、ではね」あいつは立ち上がった。「あなたにはできない。わたしにも無理です。ならば、合わさればどうでしょうか」言葉の意味が飲み込めない。手枷が外される。立ち上がる。あいつの顔を見た。ニヤニヤ笑いは、消えていた。
「あなた、飼い犬になる気はなくて?」
◇◆◇◆◇◆
宵闇の空を突っ切って、飛んだ。遠吠えがいくつも、方々から聞こえた。私は罪を犯したのだ。追いすがる同僚の剣を受け止め、払い、叩き落とす。何彼の声は、私には届かない。決めたのだ。もはや飛び込むしかない。
辺りの騒々しさに反して、私に向かい立つ影は少ない。あいつの嘘八百で情報が錯綜している。月のない夜も、星々の暗幕をも、私の味方をしているようだった。目指すは大天狗の住処、高き山の上、更に上! 白狼の領域の突っ切る。烏の領域へと押し通る!
人影は、ない。あいつのでたらめ千万は最大限の効果を上げたに違いなかった。…逃げおおせたと、油断していたのかもしれない。視界の端に何かが映った。それを確かめる間もなく、弾丸が脇腹を殴り付けた。"何か"はもはや眼前にある。烏が三人。…疾い、あまりにも疾い。
「終わりだ、犬風情が」咄嗟の剣は、烏に届かない。反撃の裏拳を避け切れず、私は意識を手放しかける。…まだだ。まだ剣は握れる。睨む烏が風を繰る。彼らはまだ私を捕えるつもりなのだ。渦巻くそれは風の牢獄。少しでも身じろぎすれば、ばらばらに切り刻まれるだろう。だが。
私の背後から撃ち込まれた風の槍が、そのすべてをかき消してしまった。「どうです、そんな犬コロは放っておいて、私と遊びません、かッ!!」弾丸が無防備な烏を撃ち落とす。おもむろに風を繰る烏を先んじて、竜巻の壁が幾重にも発生する。「さあ、行きなさい!」
言われずとも、こいつの事は見捨てるつもりだった。せいぜいかき乱して無事に帰ってくれば、それでいい。目前に大天狗の住処が見える。教えられた建物は…見えた! あそこだ!
「飯綱丸様――ッ!!」あなたに叫んだ。胸よ壊れよと叫んだ。訓練でもこれほど叫ぶ事はなかっただろう。「私を飼ってください――! お傍に置いてください――!!」樹上の楼閣。高きの回廊。私とあなたを阻むもの。飛び込む。…飛び込む! 飛び込む!!
グワッシャアアン!! 私の稼ぎでは一生償えぬであろうガラス張りの戸はばらばらに砕け散った。器物損壊を問われようとも、今更構うものか。左を向き、右を向き…「飯綱丸様――」探し求めていた影が、そこに佇んでいた。「聞こえていたよ」表情は闇に遮られ、伺えない。
「典、今度は戯れるなよ。…行け」人払いを命じられた管狐は、至極つまらなさそうな顔で、ふよふよと破壊された戸から出て行った。勅命なくば、大天狗の住処に立ち入る事は許されない。それを誇示するだけでいい。そこへ飛び込んだ私は…考えない事にする。
「夜空の下でくらい、対等な関係でありたいと思った。それがよくなかったのだな」身に余る光栄でした。「すまなかった」何故詫びる必要があるのですか。「飯綱丸様」…私が何と言おうとも、あなたの後悔を消し去る事はできないのでしょうか。
「どうして、此処まで来てくれた」どうして。それを聞かれるのは、とても恐ろしくも狂おしく感じられた。「どうして、待っていてくださったのですか」空を覆う暗雲が彼方へ飛び去り、星々の光が部屋から闇を消し去っていく。おまえの顔は、悲しげだった。あなたの顔は、悲しげでした。
「おまえの瞳に映る星が知りたかった」「あなたの瞳に映る星を知りたかったのです」
なんだ。同じだったのか。おまえに魅入られていたのは。あなたに惹かれていたのは。
「あなたの飼い犬でいさせてください」あなたの手が遮った。「それでいいのか」そうと決まれば、決して対等にはなれぬ関係だ。それでも構わない。あなたとの繋がりがあれば、それだけで構わない。構わないから。「わかった」遮る手が、こちらに伸びた。「私のものになれ」肩が、震えた。
互いに身を寄せ、星を見た。私達の瞳に星が輝いていた。