―ずっとといたかったた―
ご主人が猫になった。
比喩表現ではない。御堂にいないと思って外に出たら、庭に見慣れぬ虎猫がいた。その猫はみゃう、と鳴くと、私の脚元に擦り寄ってきた。猫に懐かれるのは正直あまりいい気分ではないのだが。仕方なく頭を撫でてやろうとして――その猫は、如何にも見慣れた冠を身につけていた。
「――ご主人?」猫はねうねう、と鳴いた。喉を掻いてやれば、喉をゴロゴロと鳴らしている。猫を構いながら、私は困惑していた。よもや、この猫は――ご主人なのではないか? 私の腹に擦り寄ってくる。冠が落ちた。拾い上げたそれは確かにご主人のものだ。……いや、まさかね。
「ナズーリン、星を知らないかしら」尼君が辺りを見回すように歩いてきた。「いえ」「さっきから姿が見えないのよ」尼君は顎に手を当て、参ったという顔をした。この猫の事を話すべきか?――いや、まだわからない。私の考えすぎかもしれない。きっと何処かで昼寝でもして――
「なあ、星知らない?」村紗が速足でこちらに来た。「いや、こっちにはいない。私達も探しているんだ」「今日は炊事当番だってもう一回言いに来たんだよ。多分忘れるから」村紗は腕を組み、首をかしげた。「私も結構探したけどね。何処かに隠れてるって事はないだろうし」
「ねえ、星を――なんかお悩み?」「星ならここにはいないらしい」村紗が首を振った。一輪も首をかしげた。「結構探したんだけど」「私らも同じさ」私はじっと猫を見ている。猫は腹を天に向け、転がりまわり――こちらを見た。何やら構って欲しげに、にゃおん、と鳴いた。
「あっ、猫だ」一輪はしゃがみ込み、猫の腹を撫でている。「この辺に猫なんていたかな?」村紗も頭を掻いてやっている。「虎柄――虎柄ですね」尼君は何やら思いつきそうな顔をしている。……こうなったら、隠しても仕方がないか。「聞いてくれ。この猫は、多分ご主――」
ガサガサ、と草むらが鳴った。私達はそっちを向いた。猫はそちらに歩き始めた。私はそれに続き――そこには、大きなダンボール箱があった。大柄な身体でも、すっぽり納まるくらいの。「まさか、な」いや、そのまさかか。私はダンボール箱に手をかけ、慎重に蓋を開き――
そこにはご主人が丸まっていた。さぞ気持ちよさそうに眠っている。「――君は馬鹿か?」私は呆れながら、ロッドでその背をつつく。「にゃうぅ」まるで猫めいた声を上げ、ご主人は寝転がったまま、こちらを見た。目をぱちくりとして、自分の身体を舐めまわすように見ている。
「さあ、帰るぞご主人」私が腕を引っ張ると、ご主人はゆっくりと立ち上がった。……おっと。ふらついた身体を支えてやる。そんな所で昼寝しているからふらつくんだぞ。やんごとなき用事を済ませ、寺の方に戻ろうとする――と、足元の猫がにゃうう、と鳴いた。何度も鳴いていた。
「――?」猫はご主人の足元にすがりつき、爪を立てた。こら、破る気じゃないだろうな。私はロッドで猫を牽制しながら、ご主人を寺へと連れ戻す。猫は相変わらずやかましい。私の予想は外れたんだ。お前も住処に帰るがいい。虎柄を一瞥する。猫はもう、追いかけてはこなかった。
―――
―――
この頃のご主人は何処か奇妙だった。呼ばれてもまともな返事をしない。まるで猫のように、にゃう、と返すだけだ。それでも仕事は普通――いや、普段以上にこなしていたので、いつものように寝ぼけているのだと、全員が思っていた。ただ一人、私を除いて。違う。何かがおかしい。
今のご主人から漠然と感じられるのは、屏風の虎のそれではない。もっと卑近な――そう、猫のような。私にすり寄る仕草も、膝に頭を乗せるそれも、以前とは異なっているようだ。……いや、以前からそんな事をしているのも、いい大人としておかしいと言えばおかしいのだが。
――そういえば、しばらく宝塔を見ていない。どうせまたなくしたのだろうと放っておいたが、どうも最近のご主人はやたらにモノを整理していた。まるで見るのを嫌がるように。よもや、宝塔もそうだとしたら、或いは――わざとなくしたのか? あくまで、ただの推測に過ぎないが。
「――ああ。ご主人はどうしてご主人なの、か」ご主人を定義するのは肉体か? それとも精神か? それとも? 私は難しい事を考えていた。もしも今のご主人がご主人でないとすれば、私達は化かされている。如何にも怪しい化け狸もいるが――あいつは違うだろう。メリットがない。
ふと、あの時見かけた虎猫を思い出す。あの猫はご主人の冠を被っていた。箱の中のご主人から取ってきたにしては、奇妙だ。今思えば、私に何かを伝えたかったかのように思えてくる。あれはひょっとすると、本当にご主人だったのかもしれないな。冗談半分で、そんな事を思った。
――みゃおう。猫の鳴き声。声の主を探すと、瞳を潤ませた虎猫が、外にいた。随分と汚れてしまっている。私にも、猫を哀れむ心はあったのだろう。何か与えてみようか、と奥へ入ろうとすると――みゃおみゃお!――と、猫は激しく鳴いた。まるで、置いて行かないでとばかりに。
「仕方のない奴だな」私は猫に近付くと、猫は何度も振り向きながら、私を呼ぶように草むらへと消えた。何を言いたいのかは何となくわかった。私の疑念が正しいのだとすれば、猫は――己を証明する何かを示そうとしているのだ。私は靴を履き、その背を追う。鳴き声が聞こえる。
「――これは」猫の足元には、宝塔が半ば埋まるようにして転がっていた。こんな所にあったのか。私はもはや、この猫がご主人である事を確信していた。「君は、ご主人なのか?」猫はにゃおう、と鳴いた。私は宝塔を掘り出すと、偽物のご主人を探そうとした。しようとしたんだ。
――ううーっ、と唸り声が聞こえた。私は虎猫を抱き、振り返った。偽物がそこに立っていた。私はつけられていたのか。私は藪の中を走った。偽物は凄まじいスピードで追いすがってくる。逃げ切れない。……そうだ。宝塔を使えば。走りながらそれを掲げ、呪文を――くそ、駄目だ。
しばらく放っておいたからだろう。ガス欠だ。私の力では威光を引き出せない。宝塔を取り落としそうになりながら、小柄な身体を活かして、走り続けた。虎猫――ご主人をやらせる訳にはいかない。抱く腕に力がこもる。藪の中を必死に駆ける!――駆ける!!――駆ける!!!
その時だった。私は木の根に足を取られ、思い切り転んでしまった。宝塔と猫が遠くへと転がる。私は今、ロッドを持っていない。抵抗する手段はないんだ。それを知ってか知らずか、偽物は私の背に立っていた。ゆっくりと振り向く。その顔は、私への、ご主人への怒りに歪んでいた。
「わわ私を寄越せせせ」偽物が口を利いた。それは如何にもつたなかった。私は、猫と偽物との間に立ちはだかった。やらせはしない。やれなくても、やるんだ。今までもそうしてきた。今からもそうする。私は、あなたの従者なのだ。どんな時でも、その身を護ってみせる。
一瞬の後、偽物が私へと飛び掛かった。私はその顔に向けて砂を蹴り、背後に跳ねた。偽物はひるんだが、ご主人は無駄に丈夫なのだ。妖怪の力でも何度もいなせるとは思えない。私は一瞬、後ろを向いた。後ろを向き――咄嗟に、しゃがみ込んだ! 背には宝塔、そして虎猫――ご主人!
光条がその身体を幾重にも貫いた。ギャオオ!――と偽物は叫び、ひるんだ。うねる光がその身体を簀巻き状に拘束する。偽物はその場に倒れもがくが、その程度で抜けられるものではない。虎猫――ご主人は必死に宝塔を掴んでいた。やがて力を使い果たした宝塔から、光は消えた。
「お前は何者なんだ」私はもがく偽物を見下ろし、問うた。素直に口を割るとは思ってはいなかったが――意外にも、偽物は低い声で答え始めた。「わわ私は人に虎になりたかたた」その言葉を聞いた瞬間、ご主人の尾が二つに割れた。「ずっとといたかったた」偽物は涙を流していた。
「でももももういい」ご主人は飛び降り、偽物の身体に触れた。「からだかえすすす」やがて、二人の身体が光を放ち始めた。虎猫の身体がばたり、と倒れた。偽物も縛られたまま、動かなくなった。徐々に光が薄れ始める。二尾の虎猫がすっくと立ち上がると、私達の前から姿を消した。
「――ふわぁ」偽物――いや、ご主人が目を覚ました。「なんでしょう、とても長い夢を見ていたようです」ご主人がこちらを向いた。「ありがとうございます、ナズーリン。また助けられましたね」「いいんだ。それが務めだから」私が笑うと、ご主人もつられて笑っていた。
「それで、私はいつまで縛られたままなんでしょう?」「さあ?」宝塔の機嫌次第だろう。私は宝塔をご主人の懐にしまうと、身体をぐい、と持ち上げて、寺の方へと歩き始めた。「皆が心配してますね」「案外していなかったぞ。むしろ偽物の方がよく働いたかもな」「えっ?」
ご主人をおちょくりながら、私はふと、あの猫の事を考えていた。虎になりたかった。人になりたかった。猫は確かにそう言った。虎であり人である、なんてのは、確かにご主人だけだろう。しかし、少しばかりガードが緩すぎないか? 私は呆れて――安堵の笑みをこぼした。
◇◆◇◆◇◆
「猫を拾ってきたぞ。どうだ、かわいかろう」
「げげっ!?」