東方短編集   作:slnchyt

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惣闇から

―惣闇―

 

僅かに白み始めた空に、黒い塊がぷかぷかとこちらへ飛翔している。闇から来たりて腹鳴らす。あれはネズミだったけれど。それは屋台の上を旋回すると、そこらの木々に引っかかりながら、ぼてりと地上に転がり落ちた。

 

「はい、こんばんわ」闇の中から手が伸びる。「おはこんばんちはー」よくわからない挨拶――挨拶?――が返ってくる。竹林の炭屋さんが一時使っていたそれが気に入ったのだろう。まあその内に飽きて忘れるだろうと思って、特に何も言わないけれど。

 

闇が薄れると、中からは腕の一部が現れる。ルーミア。食欲の妖怪だ。彼女にとって、宵闇はおまけに違いない。こいつはいつも私の屋台で無銭飲食を働くのだ。今では片付けを手伝う代わりに、残り物を食べさせてやる事にしている。

 

「みすちー!」しゃにむに近付く顔。「やめい」こいつはいつも私の腕な顔なを齧ろうとする。もっとも、本気で食べるつもりはないと思う。…たぶん。こいつなりの厚意、それとも愛情表現かもしれない。それを迷惑と理解してくれればなお良いのだけれど。

 

「今日はあんまり残ってないわよ」私が指差した先を見て目を輝かせる。「おでん大好き!」そう言いながら、両手に掴んだのは骨付き肉だ。嘘は言っていないのだろうが、なんだかなあ。まあ、こいつなら全部ひっくるめて平らげるのだろうけれど。

 

「もうかりまっかー?」「ぼちぼち、ね」増えもせず減りもせず。今では固定客もついてきた。無銭飲食も増えてきたけれど。頭を掻く私の眼前では、ゴリゴリと凄惨な破壊行為が行われている。骨付き肉を骨まで齧り尽くす顎は素直に感心する。ゴミも出ないしね。

 

「おいしいねえ」そりゃ、あんたは何でも美味しいんでしょうよ。感想はいつもそんなものだ。結局骨肉をすべてを食い尽くしたこいつは、手や口の脂をハンカチで拭い――おでんを温め直す私にふと、問いかけた。

 

「誰かを骨まで食い尽くしたいと望み狂うのは、愛だと思う?」

 

「ねえ、どう思う?」どうもこうも…いや。こいつは本気で聞いているんだ。普段は胡乱な妖怪だけど、時々いやに真剣な顔をする時がある。今のように。そんな難しい事を聞かれても、私にはよくわからない。わかろうとはする。でも、わからない。悲しいけれど、自分の頭の限界を感じる。

 

「さあ。…妖怪だもの、そういうものじゃないの」片付けをしながら適当に答える。次の瞬間には頭の中から零れ落ちていた。興味がないから、そんなものだ。…いや、本当はそうではなかったのかもしれない。ルーミアの背に立った時、彼女の言葉を反芻していなかったと言えば、嘘になる。

 

「そうなのか」背筋に悪寒が走る。翼が凍るように緊張する。あっという間に私は押し倒された。逃げられない。恐ろしく強い力が両の腕を掴み伏せている。いや…まさか、食べられたり…? 困惑と恐怖の合間を揺らぐ私を真顔で見つめながら、宵闇は、私の首に、噛みついた。

 

「うッ…!」冷たくなった肌に気味の悪い粘り気が伝う。ようやく私は悟った。こいつは私を食べようとしているんだ。本気で。「…い、嫌…」声がかすれた。死ぬかもしれないと思った事は、何回もある。幽霊のお姫様に食べられかけた事だって。でも、これは、そうじゃない。

 

間近に迫った死の双眸が、私を掴んで離さない。周囲は暗闇に覆われていた。あいつの顔だけが見える。闇の中で何が行われようとも、誰も気付いてはくれないだろう。私が、私の身体が、骨まで食べられてしまうとしたら、後には何も残らない。何も。

 

…嫌だ! 死にたくない。食べられたくない。そんなもの、愛じゃない。そんなもの、嬉しくなんかない! 「――嫌だ!」喚いた所で、止めてくれるなんて思ってはいない。誰かが助けにくるなんて期待していない。ただ、ただ、嫌だったから叫んだ。絞り出せるのは、それだけだった。

 

「じゃあ、やめる」…ルーミアは、あっさりと腕を手放した。呆然自失の私を助け起こしもした。埃をはたいてくれすら。「私も、嫌だ」ぽつりと呟いた。その言葉は、例えば残念そうに、或いは怒りを帯びたり…そういう風には、聞こえなかった。

 

「みすちーはいなくならないでね」口元の血がハンカチで拭われる。まるで何事もなかったかのように。乱れた呼吸が楽になるにつれて、私もそれを信じたくなった。思い込みたかった。…違う。僅かに削げた首元の傷は、今の行為が白昼夢でない証拠だった。

 

おでんをつつき始めたルーミアの背を、私は見つめた。その姿は普段と何ら変わらない。…彼女は妖怪だ。恐ろしい、妖怪だ。しかし私の事だ、さっき感じた恐怖も、やがて避けられた死の記憶として風化し、忘れてしまうだろう。首の傷も、じきに消える。忘れよう。忘れてしまおう。すべて。

 

屋台を片付け始めたルーミアの顔を、見たくなかった。彼女が片付けを済ませるまで。闇に乗じて立ち去るまで。どんな顔をしているか、私には想像もつかなかったから。やがて屋台を片してしまう時になって、私の中で一つの問いが膨らんでいた。

 

――あなたが私を食べたかったのは、愛しているからだったのだろうか?

 

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