九州のど真ん中にある
市には出稼ぎにやって来た鉱夫たちやその家族が流入し、街は産業のみならず経済的にも大きな発展を見せることになる。
人口が増えると、それに比例して娯楽の需要も高まる。
程なくして、荒尾市ではウマ娘を集めたレースが開催されるようになった。当時はまだURAはおろかその前身である日本レース会すらも存在していなかったため、経営は荒尾市が独自で担っていた。
当時はまだラジオ放送が始まって数年という時代。大衆娯楽の少ない世に開催されたウマ娘レースは、荒尾市内外から多くの人を集めて大変な盛り上がりを見せたという。
レース事業は荒尾市の第二の収入源として存在感を増し、同市のトレードマークとして広く認知されることになる。
しかし、荒尾市は徐々に衰退の道を辿ってゆく。炭鉱の重要度が下がったためだ。
石油や天然ガス、その他新エネルギーが広く使われるようになった事が一因なのは勿論だが、それ以上に海外から安く輸入される石炭に国産のものが太刀打ちできなくなったのが大きかった。
巨大な三池炭鉱の価値はどんどんと下がり、ついには閉山に追い込まれてしまうことになる。
荒尾市は屋台骨であった鉱業を喪ったが、代わりになる強みを見つけることができなかった。
魅力を失った街からはかつての活気が消え、往年の炭鉱を支えた人々が老後を過ごすばかり。人口は右肩下がりで減少している。もはやこの街に輝かしい未来はなかった。
しかし、荒尾市の象徴であるレースは今でも開催されていた。
昼はウマ娘たちが走り、夕方にはささやかなウイニングライブが行われる。それは80年以上にわたって続く日常の風景であった。昔との違いがあるとすれば、それはレース場を訪れるファンの数だろうか。
空席ばかりのスタンドを見て、レースが盛り上がっていると判断する人はどこにもいないだろう。
事実、荒尾市のレース事業は壊滅的だった。同事業の赤字は炭坑が閉鎖される数年前から15年以上にわたって続き、荒尾市の財政を大きく圧迫していた。
しかし、荒尾市民は誰もレースが無くなるとは考えていなかった。
100年近く続いている荒尾のレースが、大戦の空襲すらもモノともしなかった荒尾の象徴が、まさか消える訳がない。
レースは今日もやっているし、来週も行われるし、10年後だって開催されているはず。そう信じて疑っていなかった。
この時は、まだ。
「──以上の6名が出走いたします、個人協賛レース、『トゥルーデカワイイデスヨ杯』を行います。選手の皆さんはゲート前に集合してください」
最近、独特な名前のレースが増えてきた。
なんでもファンの人がわざわざお金を払ってレースに好きな名前を付けているらしい。世の中には物好きな人も居るんだなぁと思う一方で、それだけ私たちの事を応援してくれていると考えて嬉しくもなる。
ところで、トゥルーデって誰だろう?荒尾にはそんな名前のウマ娘はいない気がする。
私──エイシンコンドルは、ゲート前に向かいながら聞き慣れない名前の持ち主について考えていた。
まあ、そのうち分かるだろう。今は目の前のレースに集中しなくては。
私は2週間前の前走を思い出しながら、改めて気合を入れ直した。
運がいいことに先日は勝つことが出来たけれども、だからと言って慢心してはいけない。むしろ勝ったからこそマークされる可能性もあるので、その中でどうやって抜け出すかを考えなきゃ。
しかも、今日は
ゲート前に着くと、既に何人かのウマ娘達が準備をしていた。
若々しくハリとツヤのある肌が羨ましい。つい自分の頰に手を当てて具合を確認してしまう。
みんな選手として脂の乗った年代だ。10年以上現役を続けている私が若さで張り合おうとするのが間違っているんだけれども、やっぱり気になる。
私だってまだまだ……!そう自分に言い聞かせながら軽く準備体操をしていると、背後から聞き覚えのある声が掛けられた。
「やあコンドル。こないだのレース見てたけど、中々良かったじゃん!」
「あら、ありがとうマリ。……今日も
「おやおや?まさか今日も勝つ気でいるのかい?残念ながらそうは行かないさ、ぼくがいるからね」
好戦的な笑みを向けてくるのは、ひとつ年下の後輩のイマリオーエンスだった。小柄な彼女は機嫌が良さそうに栗色の尻尾をゆらゆらと揺らしている。
彼女もデビューからもうすぐ10年になろうという大ベテランだ。今でこそ老人会と称して私とよく
つまり、彼女の挑発はただのビッグマウスじゃない。「イマリオーエンスがいるから勝てない」は、すごく
さて、困った。今日のマリはかなりやる気なので、レースは中々厳しいものになりそうだ。
ただでさえ若くて勢いのあるウマ娘と競い合わなくてはいけないのに、歴戦の勝負師であるマリまで私をマークしてくる事になる。この中で勝つのは絶望的と言っても良いだろう。
──いいじゃない、面白くなってきた。
困難は私のハートを燃え上がらせてくれる。滾る思いをぶつけるように、私は彼女へ言葉を返した。
「さて、どうでしょうね。誰が勝つかなんて実際に走るまで分からないものよ」
「へーえ、中々言うじゃないか。わかった、楽しみにしておくから、情けない走りだけは見せてくれないでよね」
「それはお互い様でしょう?良いレースを期待してるわ」
違いないね。そう言ってゲートインに向かうマリと激励の視線を交わし、私も誘導に従ってゲートへ歩く。
表面上はまるで譲れない勝負に挑むライバル同士のようなやりとりだったけれど、実のところはそうじゃない。最大の敵である体の衰えに立ち向かう同志として、私たちはお互いの健闘を祈っていた。
去年よりも動かなくなった脚に鞭打ち、もういいやと折れそうになる心を補強して走り続けるためには、勝利への執着を維持しなくてはいけない。そのための挑発合戦で、そのためのビッグマウスなんだ。
さて、そうは言っても、啖呵を切った以上負けるわけにはいかない。ゲートが開くのを待ちながら、事前に準備しておいた数パターンの作戦を振り返っておく。
最後の1人がゲートに入った気配がした。
ふう、と一つ大きな息を吐き、意識を正面に集中させる。
目の前の扉が開く。
同時に、私の体は染み付いた動きで一歩目を踏み出していた。なかなか良いスタートだ。
最初の直線、私は先行策をとって一気に前に出た。集団が私についてくる形になる。
私のすぐ斜め後ろにぴたりと張り付くように着いてくる気配が一つある。多分これはマリだろう。
トレーニングでも実戦でも数え切れないほど走ってきた間柄だ。わざわざ見なくても足音だけで誰かわかるが、レースだと不気味なのであまり近づかないでほしい。
一方で、それより後ろの集団からは詰めてこようとする雰囲気は感じない。どうやら若い選手たちは積極的に仕掛けるつもりがないようだ。
体力もスピードもないロートルは好きなように走らせて、最後に捲れば良いと判断したのだろう。妥当な選択だ。
さてさて、ここからどう調理してみせようか。
大勢は変わらず、私が先頭のままでレースは第1コーナーに差し掛かった。
カーブするにつれて、視界に一気に大海原が広がる。そう、ここは海の見えるレース場なんだ。きらきらと陽光を反射する有明の海が私は大好きだ。
レースを見に来るファンのひとたちにもこの光景は評判がいいようで、中には大砲みたいなカメラを持ってきて風景画を撮る人もいる。私たちはその風景を彩る華というわけだ。
ただ残念なことに、海の向こうにあるはずの雲仙岳は霞がかっていてよく見えなかった。黄砂のせいかな?最近ずっと晴れてたからなあ。
益体もない事を考えながら気持ちよく走っていると、私のすぐ左後ろにくっついているマリの気配が
まだレースの1/3も過ぎていないのにもう仕掛けるのかと驚いたが、どうやら違うらしい。彼女の足並みは、まるで私に何かを伝えようとするかのように変化していた。
——へえ、なるほど。面白いじゃない。
長い付き合いが故に、彼女の考えは言葉を交わさずともわかる。微妙に揺れ動く歩調からマリの意図を察した私は、ちょっぴり足の回転を上げた。
私たち2人と後続との距離が少しずつ開き始める。しかし、後ろは反応しなかった。ロートルの暴走なんか気にする必要はないからだ。
第2コーナーを出て向かいの直線へ。普段なら左手に広がる有明海を横目で眺めながらのんびり走る所だけど、今日は違う。
後続との距離を3、4バ身でキープしながら走った。こんな調整は滅多にしないけれども、200回以上も実戦の舞台に立った私なら後ろとの距離は感覚で大体わかる。とはいえミスしないように気を配るのはなかなか大変だ。
相変わらずマリは私の左後ろにピッタリとくっ付いているだけだ。こういう繊細な走りは彼女の方が得意なんだから先頭に立ったら良いじゃないかと不満に思うが、レース中に文句を言ってもしょうがない。
私が一着をもらう事で手打ちにしよう。
さて、向こう正面も中盤に差し掛かり、後続との距離が安定してきた。ここで私とマリは気付かれないようにペースを落とす。
少しずつ、少しずつ。
後続もつられてペースを落とし始めた。よし、計画通り。このままいけば勝算は十分にある。
ペースを落として体力を残しながらも、逃げるふりをして後ろとの距離を維持し続けるのが狙いだ。上手くいけばラストスパートを完全に有利な状態で迎えられる。
求められるのは超絶技巧。
スピードを落としすぎると、後ろとの距離が詰まって計画がバレる。かといって走りを緩めなければこちらの体力が切れる。
双方の境界線を見極めながら走るのは、まるで綱渡りのような芸当だ。私には到底出来ない。
そんな妙技を、私のすぐ後ろを走るマリはいとも簡単にやってのける。彼女の走りからキレは無くなっても、技術は衰えていない証左だ。お陰で私は無理せずペースを合わせるだけで済んだ。
というか、マリは初めからこの展開を計算して私の後ろに引っ付いていたのか。何という大局観だ。駆け引きに強いのは前から知っていたけど、ここまで老獪な走りをするとは。
幸いにも、マリは私と協力する選択肢を選んだ。おそらく彼女1人では作戦を完遂できないと考えての行動だろう。そのお陰で私は哀れにも策に嵌められる立場から、策を巡らせてライバルを狩る立場に回ったわけだ。
そして、共謀者を裏切って一人勝ちする権利も得た。
(お膳立てありがとう、マリ。でもこれはレースなの。宣言通り、今日も勝たせてもらうね)
最終コーナーに入って、相変わらずガラガラな応援席が視界に入った。油断し切っている後方集団はもう間に合わないだろう。つまり私たち2人の一騎打ちだ。
残りおよそ400メートル、普段の私ならもう少し待ってからスパートをかける。
勿論マリはそれを知っているから、彼女が仕掛けてくるならば今だ。
だから、こちらも今仕掛ける。
私は普段より50メートルも手前でスパートをかけた。
が、そこはまだカーブの途中。加速に伴ってグンと強くなった遠心力に引っ張られて、思わず外にヨレてしまった。
マリからすれば絶好のチャンスだ。類い稀な彼女の勝負勘はこの隙を見逃さなかった。一気に内から抜こうと準備する気配を感じる。
(はい、
残念ながらそれはブラフだ。外にヨレる演技をほんの数瞬で止めて私は再びインに戻る。これで仕掛けようとしたマリは蓋をされ、出鼻を挫かれたわけだ。このロスは非常に痛いはず。
事実、真後ろからは動揺する気配を感じた。どうやら一杯食わせることができたようだ。
とはいえ、これで稼げた時間は僅か数秒。当然このまま蓋をしてゴールできる訳ではない。だが、この数秒があればそれで充分だった。
この駆け引きの間にコーナーを抜けて最終直線に入った。普段の私がスパートをかける位置だ。この瞬間、私は有利なポジションを取ったまま全力を出せることが決まった。考えうる中で最も勝算があるシチュエーションだ。
ならば、もはや駆け引きはいらない。全身全霊で走るのみ。
私が全力疾走を始めると同時に、すぐ後ろの気配もスパートを掛け始めた。彼女もあとはただ走るしかないと気づいたようだ。
のこり200m。まだ半バ身の差がある。後方集団が必死に追っているが届かないだろう。
あと100m。マリが横に並び掛けた。負けじと私も足に鞭打つ。まだいける。
50m。完全に並ばれた。喉と肺が真っ白になったような感覚がする。足の筋肉が悲鳴を上げる。もう少し我慢してくれ。
あと10歩。まだ横並び。この10歩で全てが決まる。
体力と根性を絞り切った方の勝ちだ。
足は重く、言うことを聞かない。脳がもう走るなと訴えかけてくる。
でも、止まるわけにはいかない。
「「負けるかあああああぁぁぁあああ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!」」
無意識に出た2人の叫びは、奇しくも同じ言葉だった。
「イマリオーエンスが来た!イマリオーエンスが来た!しかしエイシンコンドルも粘る!2人が完全に並んだ!後ろからはコスモアンフォセが追い上げるが届きそうにない!イマリか、エイシンか、わずかにエイシンが出た、エイシンが差し返した、そのままゴールイン!3着にはコスモアンフォセ!」
「——稀に見る大熱戦でした。ファンの皆様、素晴らしい走りを見せた選手たちへ盛大な拍手をお送りください!」
ぱらぱら。
空席だらけのスタンドから聞こえてくる拍手の量は、相変わらず少ない。
けれども、私の胸は満足感でいっぱいだった。ダートに倒れこんで空気を思い切り吸い込むのが最高に心地よい。
私のすぐそばで、マリも同じように仰向けに倒れていた。ぜえぜえと荒い息がこちらまで聞こえてくる。
「ふふ、マリったら、全身からすごい湯気が出てるわよ」
「それは君もだろ、コンドル。3月とはいえまだまだ寒いんだから仕方ないさ」
「確かにその通りね。———ねえ、私、こんなに楽しいレースは久しぶりだったの。本当にありがとう」
「へっ!勝ったからって調子の良いこと言うなよ!……確かに楽しかったけどさ」
お互いに寝転がったまま、顔を見合わせる。
数分ぶりに見たイマリオーエンスの表情は、悔しさを滲ませながらもどこか晴れやかだった。
彼女が無言で拳を突き出す。私もそれにグーで応えた。
泥だらけの2人は、間違いなくレース場の中で最も輝いていた。
「2人で掴んだ勝利ってやつだね」
「あら、私だけでも勝てたわよ」
「君のそういう所、ほんと良くないと思うよ。前から思ってたけど」
レースが終われば、ウイニングライブの時間がやってくる。
砂だらけになった髪を綺麗に洗い、ダートに寝転がるなと怒るトレーナーの言葉を聞き流しながら、私はライブ衣装を身に纏った。
2回続けてこの服を着ることになるとは思わなかったが、やはり着てみれば良い気分だ。勝者の証としてこの服を考えた人は天才と言っても過言ではない。
応援スタンドに備え付けられた小さなステージには数十人ほどの観客が集まっていた。
ほとんどが知っている顔で、中には私がデビューした時からずっと見かける人もいる。普段は何をしているんだろうか。
そういえば今回が都合35回目のライブだ。キリがいい数字なので、気合いを入れていこう。私は元気に愛想を振りまきながらステージに登った。
温かい拍手に包まれる中、私はゆったりした曲に合わせて歌い始める。
「——空を押し上げて 手を伸ばす君 五月のこと」
有名ではあるけれど今流行りの曲ではないし、ウマドルらしい元気な音楽でもない。けれども、私はこの歌が好きだった。先立つ者が、残された人たちの幸せを願うこの歌詞が大好きだった。
私は、先に引退していった同期や後輩たちの分まで走れているだろうか。彼女たちがダートに残していった未練や夢を拾い集めることができているだろうか。
そして、私もそう遠くない未来に引退することになる。その時は素直に若い世代に夢を託すことができるだろうか。
いいぞー、よく頑張った、お前なら100年走れる!
観客席から野次のような声援が飛んでくる。声をかけてくれる面子もだいたい決まっていて、もはやここのライブの名物といってもいい。ちょっぴり古くさくて、でも優しさに溢れたこの雰囲気も大好きだ。きっと何年経ってもこのレース場のライブの風景は変わらないんだろう。
ふと気配を感じ、私はスタンド席の一番後ろに視線を向けた。イマリオーエンスだ。
ちょうど通りがかったのだろうか。彼女は飲み物を片手に、ステージの照明が届かない暗がりから私のライブを眺めていた。
今日の勝利は2人で掴んだものだけど、ウイニングライブは1人しか出られない。今の彼女は敗者として、ぽつんと観客席に立っていた。
——よし。
「おーい、マリ!今日は2人で勝ったんだから、一緒に歌いましょう!」
間奏中にいきなりそう叫んだ私に、観客席は一瞬ざわついた。私の視線につられて、お客さんの目が一斉に彼女に集まる。
耳と尻尾をぴんと逆立てて、思わず飲み物を取り落としたマリ。逃げ出そうとしたのか一瞬視線を奥に向ける。
「あ、イマリオーエンスだ!」
「イマリ、お前も勝ったみたいなもんだから歌え歌え!」
「
しかし、常連のファンたちが逃げることを許さなかった。たちまち会場は2人で歌うのが当たり前のような雰囲気になり、気の利いた照明係が新たな主役にライトを当て始める。
逃げ道を失ったマリは、ぶつぶつと言い訳を始めた。
「いや、でも……ぼくはジャージだからさ」
「そんなのは気にしなくていいの!ほら、早く上がっておいで」
「いいの?勝ったのはコンドルなんだよ?ぼくじゃなくて」
「いいの!私はいいし、お客さんもいいって言ってるでしょ」
「……まったく、しょうがないなあ」
観念したようにため息をつき、渋々とステージに登るマリ。背中に盛大な拍手を受ける彼女の尻尾は、隠しきれない嬉しさにふるふると揺れていた。
間奏はとっくに過ぎていたので、2人で適当なところから歌い始める。
「「——
しゃん、しゃんと静かに手拍子が鳴り始めた。
10年以上走り続ける諦めの悪い私達は、先に引退していった仲間の分まで夢を背負っている。
だから、いつかその夢をちゃんと終わらせられるように、限界まで頑張り続けよう。5年でも、10年でも。
共に長い間駆けて来た親友と並んで歌いながら、私、エイシンコンドルは、心の中で誓った。