心身の疲れをたっぷり眠って癒した私は、朝から荒尾トレセンのトレーナー室をまっしぐらに目指していた。
「失礼します!」
ずんずんと廊下を突き進み、勢いよくガタついた引き戸を開けると同時に元気に挨拶をする。
昨日さんざん小倉の人々へ呼び掛けをしたせいだろうか。意図したよりも大きな声が出てしまって、室内の方々からびっくりしたような視線が集まってきた。
贅沢にも個室を準備してもらえる中央と違って、荒尾のトレーナー室は小学校の職員室のように大部屋を全員で共有している。不本意にも驚かせてしまった他のトレーナーたちに軽く会釈をして謝りながら、私は目的の人物が座っている座席へと向かった。
「おはようございます。今、お時間大丈夫ですか?」
「んっ?おはよう、コンドルくんか。今は……担当の子は皆授業に行ってるから手は空いてるよ」
「そうですか。少し伺いたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「ああ、構わない」
目的の人物は何か書類整理をしていたようだが、特に渋る様子もなく席を立ってくれる。もしかすると私の逸る気持ちを感じ取ったのかもしれない。
面談室まで向かう私の足取りはやけに速く、お陰で呼び出したトレーナーを置いてきそうな程だった。しかし彼は文句を言うこともなく付いてきてくれる。
面談室の使い古された小さいソファに腰掛けた時も、思ったより勢いよく座り込んでしまった気がした。
「コンドルくんに呼び出されるとは珍しいね。ひょっとしてうちの担当の子が何か粗相をしてしまったのかな?」
「いいえ、みんな良い子ですよ。いつも可愛がらせてもらってます。先日も……って、そうじゃなくて。今回はトレーナーさん個人に用があるんです」
「俺に?」
「はい」
私の言葉に、予想外だという表情で尋ね返してくるトレーナー。
それに構わず私は単刀直入に切り出した。
「尾崎トレーナーは元々
ほぼ同時に。
尾崎トレーナーの佇まいが、普段の彼に抱く『熱血だけど頼りない』という印象から少しだけ変貌したように感じられた。
「……あんまり他人に話してないんだけどなぁ。誰から聞いたんだい?」
「昨日です。昨日、小倉で会った人から。その人も中津レース場で働いていたみたいで、思い出話と一緒に尾崎トレーナーの名前を聞きました。『当時の同僚が荒尾で働いているはず』って」
「なるほど、それは口止めしようがないな」
彼は照れたような苦笑いをした。
「ちなみにその話は他の子も聞いていたのかな?」
「いえ、私だけです。休憩中に偶然出会ったので」
「ならいいか」
そういえばあの人の名前を聞いていなかったな。話しながら、ふと私は思った。
今となっては幻か何かだったのではないかと思うほどに唐突で短い出会いだった。しかし、あの元トレーナーさんが言っていた事は間違いなく事実だった。私の目の前に座っている人は、既に一度所属レース場の廃止を経験している。
「どうして……いえ、どんな雰囲気でしたか、中津の最後の日は」
どうして中津にいた事を隠すのかと訊こうとして、やめた。
私が
なかなか直球で尋ねてくるね、と再び苦笑する尾崎トレーナーに、確かに不躾な質問だったかもしれないと少し慌てる。しかし彼は気にしない様子で話し始めた。
「コンドルくんは確か上山にいたんだっけな。多分だけど、中津の最後は上山より随分あっさりしていたと思うよ──」
──10年前、中津レース場──
春の
開放的で風通しの良い畳の大部屋には、その雰囲気に不釣り合いな大きい黒板が運び込まれていた。雑多に貼られた紙と、書き込まれた癖のある文字とが、どこか異様な雰囲気を醸し出している。
室内に集まった沢山の人間とウマ娘は思い思いに話し合っている。その輪の中には中津きっての実力派トレーナーとして知られる尾崎も含まれていた。
「──何
賑やかな室内に、突然外からの怒声が飛び込んできた。
同時に室内は一瞬だけしんと静まり返る。ウマ娘たちは耳をぴくりと反応させ、数人は何事かと首を上げて外を覗き込もうとしていた。
「
ウマ娘たちの心配する様子を敏感に感じ取った尾崎は、彼女たちを落ち着かせるために先手を打って立ち上がった。
不安に揺れる瞳で見つめてくる担当ウマ娘に安心させようと微笑みを返し、尾崎は外へ出て声の発生源へと向かう。
「親父さん、どうしました?中まで声が聞こえましたよ」
「おお、ユキヒロ。どうもこうもないわ」
サンダルをつっかけて外に出た尾崎は、玄関から少し離れた所で立ち話をしている中年の男に声を掛けた。
『
「映像会社から──ゴール判定の映像を撮ってくれる業者から契約を断られた」
「……それ、大丈夫なんですか」
「アホ!絶体絶命っちゃ!レースが開催できんくなるが!」
尾崎の若干気の抜けた返事に再び声を荒らげた親父さんを、立ち話の相手だった眼鏡の男が宥めにかかる。
しかし憤懣やる方なしといった様子の親父さんは中々止まりそうになかった。
「大体、理由は分かっちょるんか。向こうさんは何か言いよったかえ?」
「そいがな、『このような不義理な態度を見せる市長と契約する会社と思われたくない』って
「あんバカ市長が……ッ!」
眼鏡の男の言葉を聞いた親父さんが顔を真っ赤にして怒る様子を見て、ようやく尾崎にも実感が湧いてきた。
どうやら中津レース場はかなり窮地にあるようだ、と。
中津市長がレース場の廃止を言い出したのは先月の事であった。
発表はあまりにも突然だった。赤字が出ているとはいえ、レース事業は公営事業だ。何か方針転換があるならばレース団体と市との間で話し合いが持たれるべきで、それが廃止などという重大な決定ならば尚更のこと。数年前から綿密な調整を経てようやく決定されるのが通例だ。13年前に廃止された
しかし、中津の場合は違った。職員に対して事前に何の相談や通達もなく、ある日突然廃止命令が降りてきた。いや、廃止命令よりも新聞やテレビのニュースが飛び込むのが先だった。まさに寝耳に水といった状況で、中津レース場の職員とウマ娘は意味不明な状況に一瞬呆気に取られてしまう程であった。
慌てて市に連絡を取るも、取り付く島もない。「今年の6月で全部終わりにしろ」という指示のみが突きつけられる状況だったが、残された僅か4ヶ月で後始末など出来るはずもなかった。
当然ながら中津レース場は総員を挙げて市長の命令に反発した。
先ほどまで尾崎がいた大部屋を拠点として毎日のように活発な話し合いが行われ、時にはレース場の外に飛び出して活動することも厭わなかった。6月までという短い猶予の間に少しでも流れを変えようと、全員が必死だった。
ところがその前提は全て覆されてしまった。
親父さんの言う通りに映像会社からの契約が打ち切られたのであれば、そもそものレース開催が不可能になる。
少なくとも6月までは続けられる予定だった興行の機会すらも奪われては、中津レース場は存在意義すらも失ってしまう。もはやこの施設は火葬を待つだけの棺桶でしかなかった。猶予なんて物はどこにも存在しなかったのだ。
タチが悪い事に、公営事業である中津レース場が外部の業者と提携する場合、契約は直接交わすのではなく市長を介するシステムになっていた。
『このような不義理な態度を見せる市長と契約する会社と思われたくない』という映像会社の言い分は真っ当に思える。しかし、その不義理な市長に対して中津レース場は無力であった。いくら市長が人でなしだとしても、それを理由に契約を切られてしまってはレース場に打てる手段など無いのだ。
当然それは映像会社側も理解しているはずだ。理解していない訳がない。しかし、実際に契約は解消されてしまった。恐らく市長側から映像会社に何かアクションがあったのだろう。尾崎がその推測に辿り着くまで時間は掛からなかったし、親父さんが茹でダコのようになっている理由もそれで察しがついた。
「……かなり、不味いですね。どうします?
尾崎は先ほど自分が出てきた建物を顎でしゃくりながら言った。
大部屋にたむろする職員とウマ娘たちに事実上の終戦報告を突きつけるのはかなり気が引けるが、だからと言って隠すわけにもいかなかった。
「すまん、ユキヒロ。頼
一転して悄然としてしまった親父さんは、消え入るような口調で尾崎に託した。
迫力ある外見と口下手のせいで若干怖がられている自分よりも、若手の
溜息をついて集会所へと向かう尾崎の背中を、彼は黙って見送ることしかできない。
大部屋に戻ると同時に、部屋中の視線が自分に集中するのを尾崎は感じた。
室内を満たしていた喋り声がすっと引いたのは、先ほど聞こえてきた怒声の正体を全員が気に掛けていたからだろう。何があったか早く話せと言う無言の圧力が尾崎に襲い掛かった。
雰囲気に促されて部屋の前に鎮座する黒板の前に立った尾崎は、ごくりと唾を飲むと口を開いた。
「不味い事になった。うちと提携していた映像会社さんとの契約が打ち切られて──つまり、来週からレースの開催ができなくなった」
一瞬だけ部屋がしんと静まり返り、それからざわりと低い動揺の声が湧いて出た。
「そっ、それじゃあ、荒尾やサガとの交流レースはどうなるっちゃ?」
「難しいと思う。こっちからの遠征は可能かもしれないけど、少なくとも中津開催はできない」
「ファンの皆さんへの挨拶とかは……?」
「それも……厳しいだろうね」
質問が矢継ぎ早に飛んでくる。尾崎はその中から答えられる物だけ拾い上げていったが、それでも室内の職員とウマ娘の顔が絶望に染まるまで大した時間はかからなかった。
しかし、少しではあったものの状況の整理をする時間があったお陰か、それとも動揺する人々の姿を目の当たりにしたせいか、かえって尾崎は冷静に心を落ち着かせられていた。
「皆よく聞いてくれ。確かに現状は大ピンチだ、それもどうしようも無いほどの。……だが、ここで立ち止まれば本当に中津レース場は今日限りで終わってしまうよ。何とかして今の状況を活かさなくてはいけない」
ぱん、と気分を切り替えるように手を叩いて、尾崎は話を切り出す。
「レースは開催できなくなってしまったが、言い換えればその分時間が沢山できた訳だ。ならばこの有り余る時間をアドバンテージに変えよう。一分一秒を無駄にせず、全てを市長への抵抗活動に費やすことができるのは大きなメリットだ」
静かに尾崎の話を聞く面々の瞳に、徐々に落ち着きと理性の色が戻り始める。
年端もいかない少女たちが不安で圧し潰されないよう、尾崎には彼女たちの矛先を他方に向けてやる必要があった。幸いにも市長という明確な悪者がいたため容易だったが。
全ては尾崎の独断専行であったが、事は順調に運びそうな気配があった。理不尽な仕打ちをバネにしたウマ娘たちの気が昂るのを感じ取りながら、彼は更に畳み掛ける。
「さて、今後に向けて皆から案を募ろうか。どんな小さなことでも良い。奇想天外なアイデアでも構わない。思いついたことをどんどん言ってくれ。明日から忙しくなるぞ!」
「それで、どうなったんですか?」
私は尾崎トレーナーに話の続きをせがんだが、彼は力なく首を振った。
「俺が中津ではなくこの荒尾にいる時点で分かってるだろ?ダメだったんだよ。俺が先頭に立つ形で、それこそ人に言えない事まで何でもやった。でも、それでも届かなかった。6月に市から強制退去させられて全部おしまいだ。俺たちは期限ギリギリまであのレース場に居たけれど、『中津レース場』が終わったのは間違いなくあの契約が打ち切られた日だった」
「……」
「ファンの人々に挨拶するチャンスもなかったし、ウマ娘が再び走ることもなかった。上山は最終セレモニーがあったんだろう?中津はそれすらもできなかったんだ」
噛み締めるように語る尾崎トレーナーの目は、ここではないどこか遠くを見つめている。
きっと彼が今視ている物は、生涯その心の中に仕舞われっぱなしになるのだろう。私にはそんな直感があった。
「……その点、荒尾は
心の壁を感じたせいだろうか。
尾崎トレーナーが最後に付け加えた言葉は、すごく他人事のような雰囲気で聞こえて。
私には、どうしてもそれが見過ごせなかった。
「『まだマシ』って、何なんですか」
声の調子が薄暗く変化するのを自覚する。
ちょっと前までなら声の調子が乱れていただろうけれど、強引に平静を取り繕うのは今の私にはすっかり慣れっこだった。
「他と比べたところで、荒尾レース場が無くなってしまうのは変わらないんですよ」
「ち、違う、そんなつもりで言ったんじゃない」
対面に座った男は慌てて取り繕うが、素直にそれを信じるほど今の私は優しくなれない。
「だとしても、私には
「すまなかった。誤解なんだ、どうか話を聞いてほしい」
「いえ、もういいです。荒尾を救う手掛かりになるかもしれないと楽しみだったのに、がっかりしました。きっと尾崎トレーナーは中津に魂を置いて来てしまったんでしょうね──」
感情の赴くまま言い放って、はたと気付いた。
私も同類ではないか?と。
荒尾レース場を守るために頑張っているようで、その実は上山の呪縛に怯えている私。
それは中津に魂を置いて来た目の前の男と何が違うのだろうか?いや、大した差なんてない。同じ穴の狢だ。
そう思うと、急に尾崎トレーナーに憐れみのような親近感を覚えてしまった。ひょっとするとこれは傷を舐め合うような同族意識かもしれない。
「──やっぱり、気が変わりました」
退室しようと席から立ち上がったきり、しばらくの間動かなかった私が唐突に前言を撤回すると、尾崎トレーナーは目をぱちくりと瞬かせた。
「さっきの言葉は忘れます。だから、今の荒尾レース場の状況を見て、尾崎トレーナーが思っていることを率直に教えてください。……あれは誤解で、もっと深い考えがあるんですよね?」
泡を食った様子をしていた先刻の尾崎トレーナーを
恐らくその表情は硬さが残っているだろうと自分でも察しがつく。別にそれで構わなかった。
「急に何が……?い、いや!分かってくれたならそれで良いんだ。荒尾レース場の現状について、だったな」
流れを掴みかねたのか、ぽかんとした表情をする尾崎トレーナー。しかし彼はすぐさま雰囲気を汲み取って場を仕切り直してくれた。
再び真剣な表情を取り戻すと、彼は仮面を被るように淡々と言った。
「これは一度レース場の廃止を体験した身での意見だが──抵抗したところでまず結果は変わらないと思う。それだけ市の決定とは大きいんだ。もし覆そうと思うのならば、正式決定が出るずっと前から動かなくてはいけなかった。それは中津も荒尾も関係ない、大人の社会の掟だ」
希望を真っ向から叩き折るその言葉を聞いても、思ったよりショックは受けなかった。
多分私は既に心のどこかで受け入れていたのだろう。もう間に合わない、結果はどう足掻いても変わらない、って。それが一度廃止を経験したからなのか、それともここ数ヶ月の激動の日々で芽生えたのかは分からないけれど。
それでも、嫌だ嫌だと抵抗する気持ちは決して消えていなかった。不完全に
「どうぞ、続けてください」
「……つまり、俺たちが今最もやるべきは歯向かう事じゃない。レース場が潰れた未来に向けてより良い道を準備する事だ。お前たち生徒の転校先を見つける必要があるし、俺たち職員の行き場も考えておく必要がある。ただ、幸いなことに荒尾の市長は補償関係に協力的だ。中津より荒尾の方がマシ、と言ったのはそういう意味だったんだ」
「そうですね」
尾崎トレーナーの意見は至極真っ当だった。「そうですね」なんていう平凡な返事しかできない程に。
間違いなく理屈としては正しいのだろう。別に反論も思い浮かばないし、わざわざ逆らう気にもなれない。冷静で客観的な、大人らしい考えだなと感じた。
ただ、私にはどうしても不思議に思うことがあった。
中津の時には先陣を切って反対運動に参加したらしい尾崎トレーナーが、どうして今回はこんなにも冷めてしまっているのだろう?
大人になるというのは、そういう事なのだろうか。
「あの、尾崎トレーナー?中津の時みたいに、徹底的に反抗しようと思ったりはしないんですか?」
どうしても気になって私が問いかけると、尾崎トレーナーの表情が一瞬歪んだように見えた。
「コンドルくんやイマリくんが色々やってくれているからね、そもそも俺が手を出すまでもないよ。……まあ、そう言いながら時々イマリくんの手伝いはしているんだが」
彼は茶目っ気のある口調でそう言って、下手くそな笑顔を作る。
さらりと初耳の情報が明かされたが詳しくは後でいいだろう。私が無言で続きを促すと、尾崎トレーナーは作り笑いをやめた。
「……まあ、何も思わないと言えば嘘になるな。正直な話、この前嘆願書を提出しに行った時も市長をぶん殴ってやりたくて仕方なかった」
なんだか身に覚えのある台詞に私は内心どきりとしたが、尾崎トレーナーはそれに気付く様子はなかった。
彼はゆっくりと、まるで自分自身に語りかけるようにして続けた。
「でも、俺が表立ってやるのは駄目なんだ。職員として、お前たちウマ娘を守る立場として働いている者がそれをやってしまえば、誰もお前たちの事を守ってやれなくなる。それは責任の放棄でしかない」
「中津の時、俺はそこで間違えた。守るべきは
絞り出される言葉に、私は尾崎トレーナーの気持ちが痛いほど察せられた。
上山の頃の友人の顔が幾つも浮かぶ。少しでも運命が違えば、
想像しながらも、私は黙って話を聞くことしかできない。
「だから、俺はお前たちウマ娘を守ることに決めたんだ。年末までに全員分の進路を確保するとなると中々ハードだが、やれるだけやってみせるさ。……それが、俺なりの10年前の失敗に対する贖罪だ」
「贖罪……」
「そう、贖罪だ。一度失敗した分は自力で取り返して、自分の中でけじめを付ける。そうしないと俺はきっと自分で自分を許せなくなって、コンドルくんの言葉を借りれば『荒尾に魂を置いて来てしまう』事になるだろうと思うんだ」
ハッとした。
きっと本人にはそんなつもりは無いのだろうけれど、尾崎トレーナーの瞳は私の心の奥底を見透しているように思えた。
私も同じなのかもしれない。
上山の時、強制的に道を閉ざされてレース場を去っていったウマ娘が沢山いた中で、私は望み通りに走り続ける進路を得た。
それは間違いなく幸運な事だったけれど、同時に私を縛る鎖でもあった。「
荒尾レース場の廃止をどうしても認めたくない気持ちの正体はそれなのだろう。上山で露と消えたウマ娘たちの代わりに走らなければという信念──いや、妄執が、絶対に荒尾を失くしてはいけないという衝動の火種になっている。
頭では、もう手遅れだと理解しているのに。
しかしその執念が自然と消える事はないはずだ。なぜなら、「あなたは十分走ってくれた」と私を許してくれる
だから、自分でケリを付けてなくてはいけない。さもなくば私は一生上山の悪夢にうなされる事になるだろう。
……そうか、それなら。
「後輩たちの進路確保って、私にも手伝えませんか?」
試しに尋ねてみたのと同時に、何かが胸にストンと落ちるのを感じた。
「私、最初は中央にいたので。そっちのツテならありますよ」
「本当か!俺は中津と荒尾しか知らないんだ、すごく助かるよ」
荒尾レース場が無くなった『その後』の話をするにつれて、私は自分の心を客観的に観られるようになってきた。
相変わらず、荒尾に──現役に執着する気持ちはある。今もどくどくと熱く鼓動するその思いは簡単には抑え込めないだろう。
でも、それでいい。一筋縄ではいかない葛藤と正面から向き合う方が、中途半端に燻ったまま見過ごすよりもずっと後悔しないだろうから。
「後は……岩手の水沢とか。一回しか走った事ありませんけどね」
上山にいた頃に一度だけ走ったレース場の事を思い出した。冬だったのですごく寒かった思い出がある。
本当か!と喜ぶ尾崎トレーナーに「任せてください!」と私は自信満々に請け合った。
久しぶりに先のことを考えながら明るい気持ちになれたかもしれない。
この前は荒尾レース場を守るために行動できることが嬉しく思ったけど、それとは全く違う方向での喜びだ。ただ、見通しの範囲は今の方がずっと広い。
……そういえば、マリは一時期福山に移籍してたんだっけ。あとでマリにも説明して力を借りようかな。
そこまで考えて、私はふと先ほどの尾崎トレーナーの言葉を思い出した。
「尾崎トレーナーってマリのお手伝い?をしているんでしたっけ。最近はどんな事をしているんですか」
「ああ、それで思い出した。最近イマリくんはどうしてるんだ、ここ2週間ぐらいあまり見かけないし連絡もないんだ」
「えっ?」
嫌な予感がした。
2週間前。ちょうどマリの様子がおかしくなり始めた頃だ。
「最後に連絡を取った時、どんな話をしたんですか」
「話というか……頼み事だったな。『荒尾レース場とコンタクトを取ったマスコミ関係者の名簿が欲しい』って言ってたぞ。もしかしてコンドルくんは何も聞いてないのか?」
「何も聞いてません。最近あんまり話ができてないんです、避けられてるのかなって思うぐらい。逆に尾崎トレーナーは何も聞いていないんですか」
「いや、変なお願いだなぁとは思ったんだが、コンドルくんもウエールズくんも一緒だから妙な事はしないと思っていた。……本当に何も聞いていないのか」
「私っ、ちょっとマリと話してきます!」
私は勢いよく立ち上がると、そのまま部屋を飛び出した。
マリがマスコミの名簿を使って何をするつもりなのか、私には分からない。
けれども、嫌な予感だけはどんどん膨れ上がっていた。
確かに最近の彼女は変だったのだ。「マリにも隠し事の一つや二つあるだろう」と軽く考えて放置せず、ちゃんと直接話して確かめるべきだった。
今までずっとそうしてきたのに。私は自分のことに必死になりすぎて、当たり前のこともできていなかった。
規則も何も考えず、板張りの廊下を駆け抜けて離れの宿舎まで向かう。
目をまん丸にした後輩たちと猛スピードですれ違い、ようやくマリがいるはずの宿舎の個室までたどり着いた。
彼女はいつも鍵をかけない。私もいつものようにノックなどせず、扉を勢いよく開ける。
「マリ!」
しかし、私の呼び声がマリに届く事はなかった。
誰もいない部屋では、ドアの風圧で動いた紙片がパラパラと机から散らかるばかり。