【完結】街からウマ娘が消えた日   作:粋成

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本作品は実際に起きた出来事をモデルにしていますが、全てが史実通りではありません。ご了承ください。


10月21日

 開催日で賑わう荒尾レース場。

 集う来場者の数は決して多くはなかったが、そこでは相も変わらずこぢんまりとした日常の再現が行われていた。

 

 時刻は未だお昼時、まだ全てのレースが終了したわけではない。しかし、出番の済んだウマ娘たちは早々と更衣室に引っ込んで、弛緩した雰囲気に身を任せていた。

 緊張が一気にほぐれた反動と、身体に蓄積した疲労とで、レース後は誰もが気を和らげる。良い走りができた喜びや負けた悔しさなど、胸に抱く思いはそれぞれではあったが、ひとまずの安息に浸るのは全員に共通していた。

 

 ストーブの近くを占領できたウマ娘などは、折りたたんだ膝を行儀悪く上の体操服に突っ込み、暖かな空気に甘えて船を漕いでいる有様だった。

 0.1秒を賭けて争う表のトラックとは正反対に、ここでは時間がゆっくりと流れていた。

 

 しかし、優しい静けさは唐突に破られた。

 

 バタン!という大きな音と共に、廊下につながるドアが勢いよく開かれる。扉が壊れかねないほどの強さだったが、犯人のエイシンコンドルは気にも留めない様子で廊下へと躍り出た。

 

 

 前触れのない蛮行に、まだ更衣室に残っていた後輩たちが驚いて私の方を向いたのを背中で感じる。無茶苦茶な強さでドアを開けるのは少なくとも先輩らしい行動ではないだろう。

 でも、私はそれ以上に急いでいた。ついさっき終わった1400m走並みに急いでいた。背中に刺さる視線すらも推進力に変える。

 

(ま、マリのやつ、もう許さない! 絶対とっちめてやるんだから!)

 

 端的に言って、私は怒っていた。

 

 昨日の事だ。姿を消しがちなマリとようやく腰を据えて話ができると思っていたのに、私の当ては外れてしまった。

 彼女は開口一番に爆弾のような大ニュースを告げると、私がそれをウェルに伝えに行った間に再びふらりと姿を消してしまったのだ。おかげで私は夕飯の時間まで何処にもいないマリを探して回る羽目になった。

 まったく油断も隙もないウマ娘だ。せっかく()()()()マリから目を離した私が悪いのではない。決して。……多分。

 

 なにもそこまでして()ける事もないじゃない、と少し悲しくなった。久しぶりにしっかり話せると思った私の嬉しさは何だったのか、と。

 でも、悲しみよりも怒りと心配が勝った。マリの何かを誤魔化すような態度を私は見逃さなかったからこそ、飄々(ひょうひょう)とした態度の裏にある侮りを感じられたし、一瞬の隙に逃げ出す必要に駆られるまでにマリが『何か』に追い詰められているのではないか、という嫌な予感もあったから。

 

 とにかく、彼女が次に走るレースの日まで待つなんて悠長な事は言ってられない。言う気もない。

 どこかでフラフラしている筈のマリをこっちから見つけ出して、一体何を企んでいるのかを問いただしてやらなくちゃ。

 

 事によっては外泊も辞さない覚悟で、私はひとまず手がかりを探しにマリの部屋へ向かった。

 

 

「……? ウェルちゃん、どうしたの?」

 

 目的の部屋の前までやってくると、なぜかウェルが困り果てた様子で立っていた。

 振り向いたウェルの眉はしょんぼりと八の字に下がってしまっている。

 

「マリちゃんの部屋、鍵が閉まっちゃってるんです。探し物があるのに……」

 

 そんなまさか、マリの部屋はいつも解放されているはずだ。だから3人の溜まり場になっているのに。

 半信半疑のまま、私は促されるままにドアノブを回そうと試みる。

 

 がちり。

 

 久しく味わっていなかった硬い感触が返ってきた。

 

 …………。

 

「蹴破るわよ」

「コンドル先輩!?」

 

 もうなりふり構っていられなかった。後で謝ればきっとマリは許してくれるだろう。それに、どうせこの建物とも今年いっぱいでお別れなんだから、ドアの一枚や二枚壊れても問題ない。

 珍しくわたわたと慌てるウェルを他所に、私はいつか観た海外ドラマの1シーンを思い出しながら、一切の手加減をせず扉を足の底で蹴った。

 

 バギャ!と凄まじい音がして無事にドアが開く。

 ……いや、無事じゃない。ドアと一緒に外枠まで外れてしまったし、よく見ると周囲の壁にもヒビが少し入っていて、要は割と大惨事になっていた。

 

 この扉、外開きだったなぁ。

 

 

◇◇◇

 

 

「ウェルちゃん、探し物は見つかったの?」

「……この部屋じゃなさそうですね」

 

 えへへ、と気まずそうに頬を搔くウェルは、ちらりとドアの方を見遣る。

 扉としての機能を失った板は、そっと元あった場所に戻されていた。明らかに四方の隙間が広くなって光が漏れていたが、きっと一目では壊れていると気付かれないだろう。気付かれないといいな。

 

 マリの部屋はやたらと片付いていた。

 普段散らかすのはどちらかと言えば私たち2人の方なので、最近出入りがなかった分片付くのは当然のことなのかもしれない。それでもなお、日常感のない整頓された様子が少しだけ寂しく感じてしまう。

 同時に、この雰囲気を見るにマリは当分帰ってこないつもりだろうな、と直感的に思った。無茶して部屋に押し入ったのは正解だったかもしれない。急いで彼女の居場所のヒントを探さなくては。

 

 手当たり次第に室内を物色し、あれでもないこれでもないと品定めをしていると──

 

「あの、コンドル先輩」

 

 探し物を諦めたのか、手持ち無沙汰な様子のウェルが尋ねてきた。

 何だか不安そうな表情で私の目をじっと見てくる。

 

 

「一体、何をそんなに焦っているんですか?」

 

 

 ドアを破るなんて、よっぽどの事があったんですよね?

 そう言い添える後輩の表情は、相変わらず気遣わしげだったけれど、不思議とその真っ黒な瞳に全てを見透かされそうな錯覚を覚えた。

 私は一瞬答えに窮する。

 

「まあ、その、ちょっと急ぎの用があるんだけど……」

 

 どこまで伝えようか。

 間違いなくこの子もマリの様子が変だという事には気付いているだろう。しかし、何故ここまでしてマリを追いかけているかを説明しようとすると、私が荒尾レース上の「終わり」を受け入れてしまった事を打ち明けざるを得なくなる。それは大丈夫なのだろうか。やっぱり今は伏せておいた方が良いかもしれない……

 いや、駄目だ。逃げちゃ駄目だ。今ここで尻込みするようなウマ娘が、いよいよマリと対面した時に何ができると言うのだろう?

 

 私は焦りに突き動かされるようにして、重い口を開いた。

 開いたのに。

 

「……最近、ずっとマリの様子が変じゃない? だから昨日その理由を問いただそうとしたんだけど、まんまと逃げられちゃって。ちょっと頭にきたから無理やり探し出すつもりなの」

 

 あーあ、逃げちゃった。

 

 心のどこかで他人事のような声が聞こえた。

 間違いなく今は打ち明ける絶好のチャンスだった。他に誰もいない環境も、少しだけしんみりした雰囲気も、何もかもが私の後押しをしてくれていた。それでも私は肝心の一歩を踏み出せず、誰かと同じように自分を偽ってしまう。

 

 ウェルはいまいち納得のいかない様子で首を傾げている。床をなぞって何かを考えていた瞳が、一瞬だけちらりと私を捉えた。

 目を逸らしたくなった。きっとその視線には私を責める意図なんて全く含まれていないだろうに。

 

「本当に、それだけ……? まあ、今は置いておきましょう。確かにわたしも最近のマリちゃんは変だと思っていましたから」

 

 深く追求せず見逃してくれる気遣いすらも、今はただ胸を苦しくする材料だった。

 

「コンドル先輩、わたしも付いていきますから。一緒にマリちゃんを探しましょう。ね?」

「……うん。ありがとう」

 

 だから、ウェルの言葉に私は頷くことしかできない。

 一緒に行動するならば、全てを打ち明ける機会は今後も再び巡ってくるかもしれない。どこまで私の内心を汲み取った上での提案か分からないけど、その助け舟に乗るしかなかった。

 

 なんとなく会話も途切れ、私は再び何か手がかりは無いかと適当に室内の物を手に取ってみる。

 片付いてしまった部屋には大した物も無く、この写真立ても眺めるのは3回目。『福山レース場』の看板を背景に立つマリの幼さが残る顔つきを懐かしく感じる。記憶が正しければ5年ぐらい前のものだったはず。

 

「ん、これって……?」

 

 ついと写真立てを机に戻した時、近くに置いてあったクリアファイルが妙に目に止まった。

 荒尾レース場に関する記事を纏めてあるやつだ。この前出しっぱなしにされていたのを片付けた覚えはあるけれど、こんなに薄かっただろうか。

 

 何かあるかもしれない。

 直感に従ってクリアファイルを開く。もう飽きるほどに繰り返し読んだ紙片がぱらぱらと広がるが、やはりその数が減っているように思えた。

 

 欠けている記事はすぐに分かった。

 憶測である事ない事書き立てている類の記事ばかりだ。初めて読んだ時に腹が立ったのでくしゃくしゃに丸めようとして、マリに慌てて止められたのをよく覚えている。

 それにしても、何故その手の物ばかりを?とうとう我慢できなくなって捨ててしまったのだろうか。

 

 あれだけ丁寧に切り抜いていたマリの事だ、流石に捨てた訳ではないだろう。けれども、わざわざタチの悪い記事ばかりを選んで持ち出す理由が分からなかった。

 彼女は何を考えているのだろう?

 

「ねえ、ウェルちゃん。マリは最近何か変な事を言ってなかった?」

「変な事、ですか?」

 

 何でもいいからヒントが欲しい。

 ベッドに腰掛けて暇そうに足を揺らしていたウェルに尋ねると、彼女はちょっとだけ視線を宙にさまよわせてから答えた。

 

「変と言うよりかは、珍しいなと思った事なんですけど……ちょっと前に、いきなり『ぼく達はどうやったら強くなれるのかな』って言い始めたんです。マリちゃんって普段は結構自分の考えとかはっきり表に出すタイプじゃないですか。なのに、その時は何だか曖昧な事しか言わなくて。それが印象に残ってます」

「そっ、それっていつの話?」

「えっと……思い出した、スプリンターズS(ステークス)があった日です。だから今月の頭ですね」

 

 今月の頭。

 マリの様子がおかしくなったのも丁度その頃だ。辻褄が合い始めた。

 

「ウェルちゃんはその時なんて答えたの?」

「『刺し違える覚悟を持つのが大事』みたいな事を言ったような気がします。そんなに自信ないですけど……」

「……そうなんだ」

 

 ちょっとよく分からなかった。多分マリは尋ねる相手を間違えている。

 

 それはともかく、今の話は大きな手がかりのような気がする。特に私にはそんな素振りを一切見せなかった所が怪しい。

 にしても、『刺し違える覚悟』か……

 

「まさか、マリは荒尾市そのものと刺し違えようとしていたりして?」

 

 半ば冗談で言ってみた思いつきだったが、その冗談は妙に真に迫って聞こえた。ウェルもぴくりと身じろぎして反応する。

 

 考えられなくはない。

 荒尾レース場の現状を世間に伝えようとあれだけ頑張っていたマリならば、マスコミを()()することも当然視野に入れているだろう。それが良い方向に向かったお陰でテレビ放送が実現したのだけれど、仮にネガティブな方向へ進んだらどうなるだろうか。

 その想像を裏付けるように、マリが持っていった記事はどれもあんまり良いやつではなかった。むしろ嘘か本当かわからない事ばかり書いてるタイプの下世話な物ばかりで、仮にその手の記者と手を組めば……

 

 あれ、結構まずいかもしれない。

 

「……ねえ、ウェルちゃん」

「急いだ方がいいかもしれませんね」

 

 同じ結論に辿り着いたのだろう。

 クリアファイルの中を確認した後輩は、明らかに焦っていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 どこか昭和の香りを残すデザインをした熊本駅の白い建物が、雲に覆われた灰色の空に溶け込んでいる。

 

 まだお昼を過ぎた時間帯だったが、平日の昼間にしても駅前の人影はまばらだった。最近開通した新幹線の恩恵も今はそれほど感じられない。いや、普段からこの駅の人出を見知っているわけではないけれど。

 思ったより閑散とした駅前の大通りでは、これまた白いボディの路面電車が頼りなく線路を滑って通過していった。

 

 欠けていた記事の出版社は、いずれも熊本市に支部を置いている。

 推測が正しければマリは遅かれ早かれその支社に接触するはずだ。その前に彼女を止めなくてはならなかった。

 しかし、どうやって? 出版社の事務所の前でひたすら待つわけにはいかなかった。候補は複数あるからだ。とはいえ、無策で探したところで簡単に見つかりはしないだろう。

 急いで目的地まで来たのはいいが、私とウェルは早速途方に暮れていた。

 

 とりあえず、当てずっぽうでも探した方が何もしないよりは良いだろう。路面電車に乗って繁華街の方へと向かうことにした。

 

 マリが私たちに気付いたら逃げるかもしれないという懸念のもと、道中で最低限の変装だけをしておく。人間用の帽子は耳が窮屈で仕方ない。尻尾も適当にズボンに突っ込んだせいで足がちくちくして痒い。

 おかげで2人ともくすぐったい歩き方になってしまい、それが雰囲気にそぐわないものだから妙に面白かった。

 

 お城の前で路面電車を降りる。

 5分、いやもっと歩いただろうか。あてもなく賑やかな通りに沿って進むと、市内で一番栄えているアーケード街までたどり着いた。流石に人が多い。

 商店街が左右に伸びていたので適当な方に入る。ウマ娘の敏感な聴覚は、荒尾とは厚みの違う喧騒をくまなく拾い始めた。音の濁流に逆らって、人混みの中を進んでゆく。

 しかし、当然といえば当然なのだけれど、市内随一の繁華街を歩いてもマリが見つかる気配はなかった。

 

「見つからないねぇ」

「いませんね」

 

 その言葉は、困ってしまった感想というよりも確認作業に近かった。闇雲に歩き回ったところで見つかる筈もないよね? と結論を出すためのもの。

 

「一緒に行動しても効率悪いし、手分けして探さない?」

「……はい、それが良さそうですね」

 

 これも提案というより確認だった。合理的で効率を重視した、少し考えれば理に適っていると分かる判断。否定されることは、まずありえないはずだ。

 その割にウェルの返事に含みがあるように聞こえたのが気がかりだったが、話はスムーズに進んだ。何か起きたらお互い連絡しようと確かめ合って、一旦別れを告げる。

 

 わたしは反対側に行ってみます、と言い残してウェルは来た道を戻ってゆく。

 その後ろ姿を見て、何故かホッとしている自分に気がついた。

 

 

 また私は1人になった。

 

 1人になってもやる事はそれほど変わらない。黙々と歩いて道ゆく人を観察し、見覚えのあるウマ娘が紛れ込んでいないかを確かめる。誰にでもできる作業。

 

 すれ違う人々の表情は明るかった。

 雑踏から漏れてくる話し声によると、なんでも熊本市が国からすごい都市(政令指定都市)に指定されることが決まったらしい。なるほど、道理で晴れやかな顔の人が多いわけだ。

 ここには未来がある。それが眩しかった。

 

 気がつけば結構な距離を歩いていたらしい。視界の先ではアーケードの屋根が途切れ、雲に覆われた空が垣間見えていた。もう端っこまで来ていたようだ。

 案の定マリが見つかる気配は無く、それどころかウマ娘すら1人も見かけていない。他の地域に比べてウマ娘の人口が多い荒尾と比較するのが間違いなのだろうが、どことなく寂しさを感じた。

 

 さっさと引き返してウェルと合流しようかな。一度しっかり方針を立てよう。

 そう思い、近づいてきたアーケード街の終わりを前に踵を返そうとして──

 

「……ぁ」

 

 雑踏の向こう。

 途切れた屋根の代わりに緑の並木が覆った細い通りに、ひょこひょことウマ耳が揺れているのが見えた気がした。

 

 見慣れた栗色。マリだ。

 

 いつの間にか私は走り出していた。

 風を切り、通行人の間を縫ってすり抜ける。幾つもの驚いた表情とすれ違った。

 

 普段のように走れない身体に違和感を覚え、尻尾をズボンに突っ込んでいたのを思い出した。

 でも走る。

 

 アーケードを抜けた。頭上に空が広がる。

 

 ウマ耳の持ち主の全身が見えてきた。彼女はこちらに背を向けて歩いている。

 尻尾はよく知った赤茶色。背丈も大体私と同じぐらい。

 

 間違いない。ようやく見つけた。

 

 もう逃がさない。

 

 ゆっくりと歩く後ろ姿へ詰め寄り、ちょっと強めに肩に手を置いた。

 積もり積もった鬱憤を晴らすように。簡単に私の手から離れないように。

 

「こんな所にいたのね、ずっと探してたんだから!」

 

 そのウマ娘は、私の声にびくりと身を跳ねさせてから、弾かれたように振り返った。

 ちょっと間を置いてから、彼女はようやく口を開く。その表情には少しだけ怯えの色が含まれていた。

 こちらを向いた瞳は、()()()()()()()だった。

 

「だ、誰ですか……?」

 

 間違えた。

 

 

◇◇◇

 

 

 もうすぐ日が暮れる。

 相変わらず空は分厚い雲に覆われていて、それどころかぱらぱらと雨まで降り始めた。こんな時にアーケードの屋根は心強い。

 

 ウェルと合流した私は、少し早めの夕飯をファストフード店で摂っていた。

 テーブルには小さな山が出来ている。注文した時に店員さんから「これ全部食べるの? 2人で?」と言いたげな表情をされたので、耳を隠す帽子は外しておいた。店員さんは納得の表情を浮かべていたが、おかげで時折物珍しげな視線を店のあちこちから感じる。

 

「結局見つかりませんでしたね」

「……そうね」

 

 ウェルの言葉に投げやり気味な返事をして、ひょいとハンバーガーの包みを一つ取り上げる。

 脂質と糖分の塊は不健康の味がした。

 

「ウェルちゃんの方はどんな感じだった? 私、ウマ娘すらほとんど見つけられなかったわ」

「こっちも似たような状況でした。荒尾と比べたら駄目なんでしょうけれど……ちょっと寂しいですね」

「そうよねぇ。私なんか、最初に見かけたウマ娘がマリに見えて、思いっきり人違いしちゃった!」

 

 獲れたての失敗談を話したのは、元気のない雰囲気を一掃するためだろうか。それとも虚勢を張るためだろうか。

 自分でもよくわからなかったが、私の話を聞いたウェルは予想に反して笑わなかった。むしろその眉をひそめている。

 

「……」

 

 それでも、彼女は何も言わなかった。

 物言いたげな雰囲気は私でもすぐに察せるほどだったが、我慢していた。

 

「今夜はどうする?どこか部屋を取って泊まるのもいいし、一旦帰るのもありだと思うけど」

「……泊まりにしましょう。夜も時間を使いたいですから」

「偶然ね、私もそう考えていたわ」

 

 お互いに含むところはあっても、意見交換はスムーズに済んだ。元々同じことを考えていたのも理由の一つだろうけれど。

 油に光る指を拭いて、私は携帯電話を取り出した。周辺のホテルに手当たり次第に電話をかけて空き部屋がないか確認する。

 ウェルも同時に電話をかけていた。ワンタッチで発信したあたり、おおかたマリが電話に出ないか試してみたのだろう。彼女はしばらく無言で電話に耳を当てていたが、やがて諦めたように肩をすくめると携帯をテーブルに置いてしまった。

 

 何度目かの電話を掛けながら、私は目の前に置かれた物言わぬ携帯を眺めていた。

 

 

 夕食後も成果はなかった。

 駅前のビジネスホテルの窓からはライトアップされた熊本城が少しだけ見える。私はシャワーを浴びて温まった体を冷ましながら、その白い勇姿を眺めていた。

 狭いツインルームでも景色だけは良い。

 

「洗面台、空きましたよ」

 

 ドライヤーの音が止み、ユニットバスからウェルが出てきた。くらい窓ガラスに室内が反射して映る。

 彼女は髪が長いから乾かすのも大変だろう。そんな感想を抱きながら、私は何も応えずにじっと夜景の(きら)めきを見ていた。

 

 お互い何も喋らず、ウェルが物を整理する音だけがしばらく室内を埋める。

 

「……結局、何も話してくれませんでしたね」

 

 沈黙を破ったのはウェルだった。

 あまりにも漠然とした言葉。けれども、私にはその意図が手に取るようにわかった。

 

「今のコンドル先輩はやっぱり変です。ドアは蹴破るし、人違いはするし、すごく焦っているように見えます。何か隠しているんですよね? ……わたしには、何も教えてくれませんけれど」

「怒ってるの?」

「いいえ、怒ってなんかいません。怒ってはいませんが……ただ、寂しいです」

 

 悲痛に聞こえた声に、私は思わず振り返る。

 

「コンドル先輩。わたしは……邪魔ですか。わたしだけ仲間外れなんですか?」

 

 ウェルは笑っていた。

 笑っていたが、それはくしゃくしゃに泣いてしまう寸前の表情にも見える、ひたすらに寂しそうな笑顔だった。

 

 それでも。

 

「……ごめん。本当にごめん。多分、今すぐは話せない。きっと全部話すから、待っててくれる?」

 

 私には、こう言うしかできなくて。

 

「分かりました。……信じてますから」

 

 ウェルの笑顔は、もっとくしゃくしゃになっていった。

 

 その日は静かな夜だった。会話のない、つまらない夜だった。

 けれども、私はずっと眠れなかった。

 

 

──ウマ娘が消えるまで 残り63日

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