ふわふわと漂っている。
曖昧な世界だ。ついさっきの事も記憶に残っていない。
よく知った誰かに会ったような気もするし、会っていない気もする。
柔らかくて、居心地のいい世界だった。
ぱちりと世界がはじけた。
白い天井が視界に広がる。
はじけて消えてしまった世界は、どうやら夢だったらしい。名残惜しさが覚醒を促した。
カーテンの向こう、ほの暗く透けた窓の
逃げ出す睡魔を捕まえて、再びの眠りに就こうとする。もう一度あの優しい世界に還りたかった。
その時だった。後ろ──つまり、ウェルが寝ているはずのベッドがある方向──から視線を感じたのは。
寝返りを打とうとした体をぴたりと止め、じっと耳を澄ます。
聞こえてきたのは規則的な呼吸のみだった。静かな室内には、昨日の夜みたいな硬い空気は残っていない。たぶん夢の世界に旅立っているだろう、無邪気な寝息だけがあった。
気のせいかな。
そう結論づけると、私は体から力を抜いて再び二度寝の態勢に入る。
今度はあの優しい幻を現実に連れて来られないかな、などと淡い期待を胸に抱いていると、ようやく瞼が重たくなり始めた。
結局寝返りは打たなかった。
「……んぱい、コンドル先輩!」
語気の強い囁き声が耳をくすぐる。肩を揺すられる感触がした。
薄く目を開くと、眼前にはウェルの顔。ちょっと困ったように眉を下げ、同時に痺れを切らした険しさをも器用に表情に同居させた後輩は、横顔を眩しく朝日に照らされていた。結構な時間二度寝していたみたいだ。
「確かに昨日はレースだったかもしれませんけど、流石にねぼすけ過ぎますよ!早く支度して行きましょう!」
「んぁー……」
「コンドル先輩!」
「起きる、起きるからちょっと待って……」
最初に目が覚めた時よりも、二度寝をした後の方が眠気が増すのはどうしてだろう。
言う事を聞かない瞼を頑張って持ち上げながら、私はもぞもぞと体を
大して荷物があるわけでもないからあまり時間はかからない。そこそこに準備を済ませると、私は整えきれなかった髪を人間用の帽子で押さえつけた。
エレベータに向かう廊下の空気は静かで、重かった。
隣を歩く後輩から伝わるのは、何か遠慮がちな
ひょっとして、早朝に感じた視線は気のせいではなかったのかもしれない。だから何だ?と言われたら、それまでだけど。
でも、硬い空気に包まれたせいで、昨日のウェルの悲しげな表情を思い出してしまった。悲痛な心を覆い隠しているのがバレバレだった彼女の声色も同時に蘇って、ただでさえ狭いエレベータの箱がもっと狭く感じる。
ロビーに着くまで精々あと10秒。たったそれだけ我慢すれば、この息苦しい檻から脱出できるはずだ。
でも、それでいいのだろうか?再び現実から逃げ回って、ただ耐えるだけで良いのだろうか?多分その先には、今朝見た夢のような居心地の良い世界は待っていないだろうに。
きっとこの苦しみは自ら打ち破るまで続く。根拠はないけど確信はあった。
「ねえ、ウェルちゃん?」
「……何ですか?」
「私、思っちゃったんだ。……これでしっかり区切りを付けるのも、悪くないかなって」
減ってゆく階層表示の数字から目線を逸らさず、私はまるで天気の話をするような気軽さで言ってみた。内容は不十分で、脈絡もない。一方的に言いたい事を押し付けただけ。コミュニケーションと言うよりかは自己満足に近かった。
ウェルの反応は見ない。視界に入れない。多分私の言葉をちゃんと聞いていたであろうことだけは、視界の端に映る気配から分かった。
「そうですか」
ぽーん。
柔らかい電子音が鳴り、目の前の視界が開ける。
ウェルの返事は短かった。その口調からは感情を汲み取れなかったけれど、先にエレベータを降りた横顔は、ちょっとだけ和らいでいた気がして。
重たくて冷たい金属の扉の向こうから流れ込んだ新鮮な外気が、ふわりと優しく頬を撫でた。
イマリオーエンスは、退屈していた。
一週間を予定している待機期間は今日でようやく3日目だ。にも関わらず、誰にも会わず何の変化もない時間は、予想以上に彼女の精神を蝕んでいた。
とっくに明るくなった外から差し込む白い陽光を浴びながら、小柄な体をベッドに投げ出してぼーっとしている。ホテルの室内に備え付けられたテレビは何やらワイドショーを流していたが、その画面は一瞥もされなくなってから随分と時間が経っていた。
「見飽きた、天井だ」
退屈紛れに口走った台詞すらも、聞く人はいなかった。普段ならコンドルが「世代がバレるよ」なんて自分のことを棚に上げて言ってくるんだけれど、生憎今のぼくは一人だ。
何も言わずに荒尾から抜け出してきてしまったけど、2人はどうしているだろうか。今頃ぼくの部屋に鍵が掛けられているのに気づいて困っているかもしれない。廊下でしょんぼりと立ち尽くしている姿を想像して、愉快なような寂しいような気持ちになった。
ぴろりろりん♪ ぴろりろりん♪
狭いテーブルに放り出した携帯電話が前触れもなく着信を知らせる。
やかましい自己主張を、ぼくは黙殺した。この旋律はコンドルかウェルからの電話だ。いくらでも誤魔化しが効く他の相手ならともかく、少なくとも今のぼくは2人からの電話に出るつもりは無かったし、いけしゃあしゃあと話せる資格も無かった。
それでも着信拒否にはしない。心身をちくちく刺す電子音に敢えて身を晒し、じっとそれに耐えなくてはならない気がした。
これでもう何度目だろうか。昨日から幾度となく掛かってくる着信に、諦めが悪いなぁとぼくは内心で一人ごちた。
うんざりしていないと言えば嘘になる。でも、同時に何故か少しだけ嬉しいような気持ちになって、さらに後ろめたい罪悪感もあって、ぼくはその狭間でむずむずしていた。むずむずが退屈を増幅する。
ちょっと外に出ようかな。
じっと部屋に篭っていても心に良くない気がする。
ぼくは気分転換と昼食の確保を兼ねて、孤独で退屈な部屋を抜け出すことに決めた。
勿論、当分使うつもりのない携帯電話をポケットに突っ込んでから。
「やっぱり出ないのよね〜」
「呼び出し音は鳴ってますから、マリちゃんが気付かない筈は無いと思うんですけど……」
念の為にと今日も電話をかけてみたけど、相変わらずマリが電話に応えることは無かった。最後にこの携帯電話が自らの役割を全うしたのは何日前だろうと考えながら、罪もない小さな端末を手で弄ぶ。
ウェルの言う通り、いつも着信音はしているのだ。だから間違いなく向こうの電話は鳴っているはず。それでも尚電話に出ないんだから、わざと彼女は着信を無視しているのだろう。それか、マリの身に何か事件が起きたか。……おそらく後者は無い。彼女がそもそも電話に出られない状況に陥っているならば、レース後日にいつもやっているらしい担当トレーナーとの話し合いすらも出来ないだろうから。そうなれば私たちに何か連絡が来るはずだ。
つまり、あの生意気な後輩は私たち2人の電話だけを無視していることになる。
まったく良い後輩を持ってしまったものだ。
「しょうがないし、行きましょうか」
……グズグズしていても仕方がない。
ポケットに電話をしまうと、私は気分を切り替えて駅前の広場から歩き始めた。
結局、作戦らしい作戦は立たなかった。
昨日の夜にちっとも話し合いが出来なかった事もそうだけど、多分じっくり話したところで大した結果は出なかっただろう。何せ不確定要素が多すぎる。
だから今日も特に理由はなく路面電車に乗る。車窓にそびえる熊本城を眺めているうちに、気がつけば昨日と同じ商店街に辿り着いていた。
アーケード街を満たす賑わいは昨日と全く変わっていなかった。
雑踏の隙間を縫って歩くのも、何となくウェルとの会話が途切れがちになるのも、昨日と同じ。
けれども、今日はその喧騒に溶け込めたような気がして、足取りも自然と昨日に比べて軽くなった。
「コンドル先輩」
お昼ご飯は何にしようかな?なんて下らない事を考えていたら、ウェルの声に思考を中断させられた。
昨日に引き続き静かだった彼女は、何か意を決した様子で口を開く。
「わたし、コンドル先輩の考えを聞いて、……少し、ホッとしたんです」
「ホッと?」
「はい。……わたしも、引き際には丁度いいかもしれないな、って思っていましたから」
しんみりと言葉を続けた後輩は、一瞬固まってからぱたぱたと慌ただしく手を振った。
「いっ、いえ!レース場が無くなっても別に良いとか、そんな意味じゃないですけど!……でも、わたしはどこかで辞め時を探していたんだな、って自分で気づいちゃったんです」
伏し目がちにぽつぽつと話すウェルの態度は、数ヶ月前の彼女が不意に見せた悩む姿とそっくりだった。衰えを前に、どうやって明日走るモチベーションを保てばいいのだろう?とこの後輩が苦しんでいたのは、記憶が正しければ廃止の話が出るより前の事だ。
未だにそれが心にわだかまっていたのだろう。
「もちろん、荒尾レース場が無くなってしまうのは嫌です。廃止を回避するためのお手伝いは沢山しました。でも……ずっと迷ってたんです。わたしはコンドル先輩やマリちゃんみたいに未来を心から信じられないのに、そんな自分が混ざっても良いのかな?って考えると、何も分からなくなってきて」
「挙句にマリちゃんは不在がちになるし、コンドル先輩までも昨日は様子が変だったし。2人の考えてることがわからないから、わたしだけ置いていかれるような気がして怖かったんです。……だから、安心しました」
ウェルのしおれた微笑みには、それでも不安と自嘲の色が混ざっている。
私には肯定することも否定することもできない。何故なら、まだ私の心の中でも決着はついていなかったから。
「……そっか」
朝とは反対に、今度は私が短い返事をする番だった。
後輩の揺れる瞳に、優しい笑顔を作ってあげる。余計な言葉を重ねようとは思わなかった。
1秒に満たないほどの沈黙の後、ウェルがふいと目を逸らす。それで話は終わった。
「だからこそ、急いでマリを探さないとね。きっとあの子も色々背負い込んで思い詰めてるでしょうから」
「……! そうですね!」
話題を切り替えると、ウェルは素早く表情を引き締めた。
まだ最大の目的が残されているのだ。何をしでかすか分からないもう一人の後輩を止めなくてはいけない。
やっぱり彼女をピンポイントで見つけ出す方法は思いつかなかったけれど、気分が晴れた今の私にはひとつの秘策があった。
「私、マリが電話に出るまで延々と鬼電してみるわね」
ゴリ押しだ。
ぴろりろりん♪ ぴろりろりん♪ ぴろりろりん♪ ぴろりろりん♪ ぴろりろりん♪
「うるっさ」
さっきから鳴り始めた着信音が止まらない。
放っておけば諦めて止まるだろうと思って、もう3分は経つだろうか。今は屋外だから良いけれど、これがお店の中だったりしたら大迷惑だ。……いや、今からどこかでお昼を食べるつもりだったから結構面倒ではあるけど。
ぼくは辟易とため息をついて、念のため携帯の液晶画面に表示されている名前を確認する。案の定コンドルだった。
「こんな事するのはコンドルしかいないよなぁ」
その手で来たか、というのが真っ先に湧いた感想だった。
確かにぼくは今まで全ての着信に対して一切反応しなかった。勿論電話には出ないし、切断もしない。着信拒否なんてもっての外。着信メロディをただじっと聴き入るだけだ。
それはぼくが意固地になっているからかもしれないし、『電話に出るのを我慢する』という儀式を通じて自身の覚悟を補強したいからかもしれない。結局、何故そんな事をするのか自分でも理由はよく分からなかった。
けれども、向こうが延々と携帯を鳴らし続けるという暴挙に出た以上、電話に出るにせよ、拒否するにせよ、ぼくが我慢できず何かしらリアクションをしてしまうのは『負け』な気がしてならなかった。やっぱりぼくは意地を張っているだけなのだろうか?
ともかく。コンドルのせいで、ぼくは道ゆく人に陽気な電子音を披露する愉快なウマ娘になってしまった。
ちょっと周りの視線が気になるけれど、
折角だから
ポケットのできるだけ奥深くに突っ込んだ小さな端末から漏れる電子音が、本来あるはずだった繋がりの断絶を嫌でも意識させる。ぼくはその孤独感に背中を押されるようにして、気がつけば人でごった返すアーケード街の雑踏に潜り込んでいた。
そう言えば、ここには初めて来たかもしれない。
左右に広がったありとあらゆる種類のお店を見物しながら、ぼくは今更ながらに気づく。1週間ホテルに篭りっきりで過ごすつもりだったけど、案外出歩いてみるのも悪くない。荒尾では最近新しくできた大きなショッピングモールに行くばかりだから、こんな賑やかな商店街を歩くのは新鮮な気分だった。
ぼくの経験上、こんな場所ではメインストリート沿いではなく一つ外れた小道に隠れた名店があったりする。
そんな場所を運良く見つけられないものかと、左右の小道を覗き込んだりしながらとてとてと歩いていると、不意にがしりと肩を掴まれた。
「やぁやぁ奇遇だね、マリ。ご機嫌はいかがかな?」
同時に背後から、
ぼくは振り向きもせず、反射的に手近な脇道に向かって全力で駆けだした。
私が鬼電大作戦を始めてしばらくした頃。
隣で少し暇そうに携帯をいじっていたウェルが、はっと何かに気付いたようなそぶりで顔をどこかに向けた。素早く脱いだ帽子の下から飛び出したウマ耳がぴんと立って、視線と同じ向きへと揃う。
「どうしたの、ウェ……」
何事かと不思議に思って声を掛けようとすると、ウェルがそわそわと後ろ手に私の肩を叩いた。
向き直った彼女は人差し指を立てて「静かに!」のジェスチャーをしてから、さっきの方向をちょいちょいと指差す。私は促されるままにそっと耳を傾けた。
──ぴろりろりん♪ ぴろりろりん♪
聞こえた。
がやがやと空間を満たす話し声の向こう側から、滲み出るように電子音のメロディが漏れ聞こえてきた。
聞き覚えのある旋律だった。この私が間違えるはずもない、これはマリの携帯の着信音だ。
私は無言でウェルと頷き合い、手筈通り一旦散開する。
音源の方向へそっと忍び寄ると、人混みの隙間から見覚えのある栗色のウマ耳が垣間見えた。
やっぱりそうだ!見つけた!
今度こそ逃さないという決意だとか、やっと会えた嬉しさだとか、いろんな感情が入り混じったせいで尻尾の動きを抑えきれない。私は妙に高いテンションで今度こそ本物のマリの肩を掴むと、気持ちをそのまま乗せて第一声を発した。
「やぁやぁ奇遇だね、マリ。ご機嫌はいかがかな?」
「ッ!」
びくりと一瞬身を竦ませた彼女は、こちらを振り向きもせずに直ぐさま身を低くして駆け出した。
「あっ、ちょっと!」
風のように人混みをすり抜けていったマリは、どうやら近くの小道に飛び込んでしまったようだ。急いで後を追うと、小さな背中が細い道を駆けてゆくのが見えた。
そうかそうか、徹底的に逃げるつもりなんだ。
……だったら私も
私は小さく息を吐くと、思い切り地面を蹴って全力で加速した。即席市街地レースの始まりだ。
バ場はアスファルト、距離無制限。付けられた差はおよそ10バ身。
相手がマリとくれば不足はない。本気で走ってようやく勝負になる。
一般人も通る公道でウマ娘が全力疾走するのは御法度だが、そんなものは後でいい。
今はもっと優先すべきことがある。
すれ違う人の驚愕の表情に内心で謝りつつ、ごみごみした小道を突き進む。
雑然とした左右の光景が後ろにかっとび、時折混ざる90°ターンの度に視界に広がる雰囲気が変化した。
徐々に寂れてゆく街並みが妙に心に残る。
マリの背中は、予想していたよりも近かった。
彼女の方が私よりも小回りは上手いはず。けれども、追う背中はどんどん近づいてくる。
「つっ……かまえた!」
あっさり手の届く位置にまで来た肩を、今度こそ振り解かれないように掴む。そのまま減速を促すため少しずつ後ろへ引っ張った。
存外素直にマリは脚を緩めてくれた。
「どうよ、マリ! これぐらい簡単に追いつけるんだから!」
「くっ……昨日ずっとゴロゴロしていたのが敗因かな」
「だったら今度お互い万全の状態でやってみる?」
「それはやめとくよ」
何故か一瞬だけ感想戦を挟むと、少しだけ乱れていた息を整えたマリはきっと私を睨んだ。
「一体何なんだよ、君は。どうしてぼくをそこまで追いかけるのさ」
「それはこっちのセリフよ。マリこそなんで私を避けるのよ」
「言うはずがないだろ、言いたくないから避けてるんだ。ちょっとは考えてみなよ」
「それが分かった上で聞きたいから追いかけてるの。マリこそ考えが足りてないんじゃない?」
「中々言うねぇ」
口では言葉の応酬をしながら、両手は隙あらば拘束を振り解こうとするマリを抑え込む。
マリの抵抗は徐々に弱くなっている気がした。
「とにかく、だ。君に話すことなんて一つもない。問い詰めたって無駄だよ」
「……だったら、話さなくてもいいから」
「はっ?」
「でも、私には言いたい事が……いや、言わなくちゃいけない事があるの」
コンドルの言葉は予想の範囲外から飛んできた。思わず
言わなくちゃいけない事?ぼくに訊きたい事じゃなくて?
目の前に立つ、ぼくの肩をがっしりと掴んで離さない旧友は、二の句を継ごうとして一瞬躊躇している様子だった。
僅かに歪む表情筋からは彼女の苦悩が易々と透けて見える。
何故だかわからないが、激しく嫌な予感がした。
「……もっと正確に言えば、謝らなくちゃいけない事、かもね」
さらに続いたコンドルの言葉は更に嫌な予感を促進した。
これ以上彼女に喋らせてはならない気がする。その『謝罪』を聞けば、多分後戻りが出来なくなる。それ以上口を開くなという激情は益々膨れ上がり、遂にはぼくの心を突き破って溢れ出した。
「や、やめろ! ふざけるなよ! 君の謝罪なんて聞くもんか!」
「マリ、お願いだから! 話を聞いてちょうだい!」
「うるさい!はなせ……よッ!」
「きゃっ」
我慢ならなくなったぼくは、渾身の力でマリの手を振り払った。
しばらく抵抗をやめていた分不意打ちになったせいか、彼女は小さく悲鳴をあげて勢いよく転んでしまった。
固いアスファルトに身体を打ち付けられた親友に、思わず駆け寄って助け起こそうとしてしまう。
けれども、今は優先順位が逆だ。
一刻も早く逃げなくては。
後ろ髪が引かれる思いでコンドルから背を向ける。
再びぼくは走り出したが、置き去りにした彼女の事が気掛かりでつい振り向いてしまった。
ゆっくりと立ち上がる姿が遠目に見える。
良かった、特に大きな怪我はしていないようだ。不安で重くなった足取りが復活する。
そもそも、こんな所までしつこく追いかけてくるコンドルが悪いんだ。ぼくのせいじゃない。
安堵と同時に、責任転嫁と自己正当化の波が押し寄せてきた。よし、今度こそ絶対に見つからずに逃げ切ってやる。どうして居場所がバレたか分からないが、一旦荷物を取ったらそのまま電車に乗ってしばらく遠くへ行こう──
そんな事を考えながら、後ろを向いていた視線を戻そうとしたところで、
「マリちゃん、おいたが過ぎるよ?」
今度は前からよく知った声が聞こえてきて、既に退路は断たれていた事をぼくは理解した。
くそ、ウェルも来ていたのか。
「コンドル先輩、大丈夫ですか?」
「こんなの平気平気! ちょっと擦りむいただけよ」
心配するウェルの言葉に、私は念の為脚の調子を確認しながら応じた。
ふくらはぎの辺りにほんの少し違和感があるけれど、これは多分大丈夫だろう。あとは膝小僧の擦り傷ぐらいだ。特に問題はない。来週のレースに支障はなさそうだ。
ウェルに捕まったマリは顔を俯けてしまっていた。
すっかり諦めたのか抵抗する様子も見せない。仮に暴れたところで、身体が一回り大きいウェル相手では分が悪いだろうけれど。
「ねえ、マリ?」
「……」
声をかけても、反応はなかった。表情は前髪に隠れて窺うことができない。
もう彼女は解放しても大丈夫だという予感があったので、ウェルに目配せして羽交い締めを解いてもらう。案の定マリはその場から動かなかった。
意気消沈といった様子の彼女に、私は再び言葉を投げかける。
「その……どうしても、聞いてほしい事があるの」
「……聞きたくない」
ようやくマリが発した言葉は、拒絶だった。
「何も聞きたくない。ぼくは何も喋らないし、君も打ち明けない。それでいいじゃないか。『謝る』と表現するほどに気が引ける内容なんだろ?」
「……そうね。出来る事なら、今すぐ何も無かった事にして帰りたいぐらいの気持ちよ」
「だったら尚更じゃないか。どうしてそんな辛い思いをして、わざわざこんな所までぼくを探しに来て、その謝罪とやらをしようって言うんだよ?」
「そうしないと、
私の言葉に、目の前で俯いていたウマ娘がゆっくりと顔を上げる。
その瞳には恐怖が宿っていた。
「何なんだよ、意味がわからないよ! ぼくの事なんか放っておいてくれたらいいのに!」
「放っておいて良い時とダメな時の区別なんて簡単につくわよ、何年の付き合いだと思ってるの」
「知るかよ! いいからそっとしておいてくれ!」
「そっとしません。……ウェル、念の為お願い」
「はい」
何も口を出さず見守ってくれていたウェルが、ふたたびマリを羽交い締めにする。
今度はよく抵抗していた。もがく身体は、しかし拘束を解くには至らない。
「ずっと、心の中でモヤモヤしてたんだけどね。この前ようやく決心がついたの」
「そりゃ良かった、そのままずっとコンドルの心の中にしまっておいてくれないかな!」
「それは無理な相談よ。だって貴女にも関わる事だもの」
「関わりたくない! 頼むからもう何も言わないでよ!」
「……ごめん」
口先で必死の抵抗をみせるマリに、私は勢いよく頭を下げる。
頭の向こうから息を呑む気配がした。
「私、
さっきまで悪足掻きしていたマリの身体がぴたりと止まった。
身じろぎすらしない親友は、驚きに息をも一瞬止めているようだった。
「じょ、冗談にしてもタチが悪いなぁ。もう分かった、おふざけは良いから早く本題を言いなよ」
「……ごめんなさい」
「……」
頭上から聞こえてくる声は妙に明るい。空元気に支えられた口調は、僅かに震えている。
私は頭を上げなかった。再びの謝罪に、マリは暫し黙りこくっていた。
「ふざけるな」
驚愕と怒り、そして絶望が混ざり合った声。
声量はブレて安定しない。
「
ぎろりと私を睨みつける眼は、同時に哀しみを宿していた。
「『諦めない』って、いつもそう言っていたのは君だろう! 何年経っても走り続けるって、荒尾レース場は絶対に廃止にさせないって、約束したじゃないか! 教えろ、一体誰に何を吹き込まれたんだ!」
「別に何か言われたからじゃないわ。……ただ、自分の心と相談しただけ。荒尾レース場が無くなっても後輩たちが困らないようにして、あの子たちに夢を引き継ぐの」
「何言ってるんだよ、後輩に引き継ぐ? それじゃダメだろ!
シャッターの並ぶ人通りのない裏道に、マリの声が空虚に響く。
「違う……とは言い切れないわね」
やっぱりマリに論戦で勝てる気はしない。
私はちょっと頬を掻いてから、何とかして考えを言語化していった。
「でも、それでいいの。本当は引き継がれていなくてもいい。私たちの走りがそれっきりでも、別にいい。大事なのは私たちが納得するかでしょう?」
「そうだね、確かにぼく達が納得すればそれでいい。間違いないさ。でもぼくは納得していないし、君だって納得していないだろ? 違う?」
「私は……そうね、まだ完全に納得はできてない。でも、きっと時間をかけてゆっくり心に言い聞かせることは出来るはずよ。それはマリも同じはず」
「随分と気楽な事を言うんだね。『時間をかけてゆっくり心に言い聞かせる』? 仮にそれが正しかったとして、レース場の閉鎖までに間に合わなかったらどうするんだ」
「間に合わなくてもいいの。何年かかってでも、それこそ私たちがお婆ちゃんになった時でも、受け入れられたらそれでいいんだから」
お婆ちゃんになった私は何をしているかな、と想像してみる。
さすがに走ってはいないだろう。たぶん上山や荒尾で走っていた頃の昔話をしては、遠い思い出に目を凝らすんだろうな。
そして、きっとその思い出とは上手いこと折り合いがついてるんだ。
「死ぬまでに間に合わなかったら?」
「それはもう仕方ないじゃない。だったら私たちはヨボヨボになっても一生走るの?」
「それは……ちょっと嫌かな」
「でしょう?」
ヨボヨボになっても走るのを想像したのか、マリが苦笑いを浮かべる。
皺くちゃになった3人がよいしょよいしょとダートの上を走っている光景が頭をよぎり、なんだか私まで可笑しくなって笑ってしまった。
「コンドルはいつもそうだ。理屈もへったくれもない無茶ばっかり」
「そうかしら? ちょっと照れるわね」
「……これが褒め言葉に聞こえたの?」
「あら、私には敗北宣言に聞こえたけど? 無茶理論に言い負かされました! って」
はぁ、とマリが呆れてため息をつく。
いつの間にか羽交い締めは解かれていて、一歩離れたところからウェルがニコニコと見守っていた。
「一応言っておくと、ぼくはコンドルみたいに
「そうなんだ。だったらもう一回最初から
「いや、いいよ。ぼくは今までずっとコンドルの背中を追いかけて走ってきたんだ。君がそう決めたなら仕方ないさ」
マリは皮肉げに笑うと、一つ大きな伸びをして空を見上げた。
「君はいつもそうだよね」
空の大半を覆っていた雲が、傘が不要なほどのささやかな雨をしとしとと降らせている。
「いつの間にか、ぼくを置いて先に行ってしまう」
頬をつたった雫も、きっと雨なのだろう。
「疲れたぁ〜」
私は宿舎の部屋に帰るとすぐさまベッドに飛び込んだ。
面倒だから寝転がったまま靴下を脱いで、ぽいぽいとその辺に放っておく。きっと明日の私が片付けるだろう。多分。
一泊二日の出来事が物凄く長く感じた。
レース後に直行したせいもあるだろうけれど、とにかく全身の疲労がすごい。それはよそも一緒で、帰りの電車では珍しくウェルが寝てしまったほどだ。おかげで私は乗り過ごさないようずっと頑張って起きる羽目になった。
あの大団円じみた和解の後、3人でお昼ご飯を食べてからすぐ帰るものだと思っていたけれど、そうじゃなかった。
なんでもマリは『後始末』をする必要があるらしく、「ちゃんと電話には出るから」と言い残して再びどこかに行ってしまったのだ。
ちょっと心配だったけど、夕飯時には帰ると連絡が来たので私はマリを信じることにした。最悪電話すればいいし。
それにしても、疲れた。眠い。
私は全力で襲ってくる睡魔に抵抗もせず、夢の世界に引き摺り込まれていった。
こんこん。こんこん。
どれほど寝ただろうか、ノック音が私の目を覚ました。
時計を見れば既に夕飯の時間を過ぎてしまっている。近くのコンビニでも行こうかと思案しながらドアを開けると、そこにはマリがいた。
「やあ」
「んー、帰ってきてたんだ。……私寝てたんだけれど」
「ちょっと大事な話があるんだ」
マリはニコニコと笑顔を見せてそう言った。あれ、なんか……怒ってる?
よく見ると、廊下の向こうでウェルが心配そうにこちらを見ていた。何だろう。とても大切な事を忘れている気がする。
「あのさ、ぼくの部屋のドアが滅茶苦茶に壊れてたんだけど……これ、コンドルの仕業だよね。部屋交換しようか」
今日からドアのない部屋で生活することが決まった。