草木も眠る丑三つ時。
……なんて言葉があるけれど、いまどきの草木は丑三つ時になっても眠れないんじゃないかな?
遠くから聞こえてくるトラックの走行音を耳に捉えながら、私はふとそんな事を思った。
時刻は夜中の3時前。もう夜より朝の方が近い時間帯になっても現代の人間は活動を止めない。窓の外に広がる真っ黒な有明海の、その更に向こうに見える街明かりの小さな光点が、この時間でも人々が息づいている事を教えてくれていた。
眠りたい草木からすると良い迷惑かもしれないなぁ。
植物たちに勝手な同情をしながら、私はこっそりベッドを抜け出してジャージに着替えていた。申し訳ないけれど今日は私も草木の眠りを邪魔する側だ。
静まり返った宿舎には、空調の音がごうごうと低く響くだけ。起きている人の気配はどこにもない。
荒尾のウマ娘たちは皆よく遊んでよく眠る。健康的でとても良い生活だと思うけれど、こうやって密かに起き出す時は少しだけ都合が悪い。小さな衣擦れの音ひとつを取っても、それがどこまでも遠くまで響き渡りそうな錯覚がして、つい着替えに結構な時間を使ってしまうからだ。
お陰で部屋を暗く照らす豆球のオレンジ色にすっかり目が馴染んだ。
ようやく支度をすると忍び足で部屋から抜け出す。
先月に
幸か不幸か、その影響で常に室内の整頓をするようになった。いや、多分不幸成分の方が圧倒的に多いけれど。最近廊下から吹き込む風が冷たくなってきたし。
ともかく、それも今は都合が良い。少なくともドアの開閉の音にだけは気を遣う必要がない。
廊下の板張りには非常灯が反射して、僅かに差し込む月明かりの中ぽっかりと浮かぶ緑色が何とも言えない雰囲気を醸し出している。不気味だと思う人もいるだろうけど、私には不思議とその無機質な緑が愛おしく感じた。
突き当たりには下に繋がる階段がある。真っ暗な下階へそろそろと降りてゆくのは、まるで洞窟の奥深くに進むような気分だった。
そう言えば、ここ荒尾でも『出る』って話を随分前に聞いたなぁ。
真っ暗な宿舎を歩き回っているせいか、不意にそんな事を思い出した。
もう何年も前──それこそ、荒尾に移籍してすぐの頃──に先輩から聞いたその怪談は、先輩の語りが下手だったからか、それとも話の出来が良くないからか、大して怖くなかったような覚えがある。
それでも当時の私は時折その話を思い出して、消灯後の雰囲気が怖くなって耳まで布団を被っていたっけな。
今となっては、荒尾レース場で知っているのは私しか残っていないだろうその怪談。
どんな内容だったかな。頼りない記憶を手繰り寄せていると、
──ひた、ひた。
後ろから微かに足音が聞こえたような気がした。
状況が状況なだけに、尻尾が総毛立つ。同時に沸き起こるのは嫌な想像。
『幽霊は生者の感情に反応する』という言葉が脳裏によぎった。
ひょっとするとあの怪談は実話で、今私の背後にいるのは『張本人』かもしれない。
恐怖が理性を支配する。
──ひた、ひた、ひた。
確かに近づいてくる足音。私の脚は縛り付けられたかの如く動かない。
背後から密やかな息遣いすら聞こえてくるように思える。
寒気がするのは、冬が近いせいだろうか。あるいは。
──ひた、ひた……ひた。
足音が止まった。
私の真後ろで。
僅かな音も聴き逃すまいとありがた迷惑な努力をする耳が、次に微かな衣擦れの音を捉えた。
少し間が空いて、右肩に
「ひっ──」
止めろと警鐘を鳴らす理性とは裏腹に、私の身体は後ろを確認するため振り向いてしまう。
油断すれば引き摺り込まれそうな、底無しの暗闇。
その中に茫漠と浮かび上がっていた影は──
「2人とも考える事は同じだった、って訳だね」
幽霊の正体──同じく部屋を抜け出していたマリは、妙に愉快げにくつくつと笑った。
その様子に私は頬を膨らませて抗議の意を示す。この暗さでは恐らく見えていないだろうけれど。
彼女の言葉通り、2人とも同じ目的で部屋を抜け出していた。
少し前に撮影した荒尾レース場の動画だ。あれが、もう間も無くテレビの電波に乗って全国へ放送される。
放送開始は3時からのはずだ。
真夜中もいいところなので、本来は録画したものを皆で翌日に見る予定だったのだけれど……我慢できなかった。眠れないうちに放送時刻になってしまったんだから、仕方ない。
テレビが置いてある1階の談話室に向かう道中も、やはり真っ暗な廊下を並んで進む。
ついさっきまで恐怖を攪拌していた暗闇は、隣を歩くウマ娘のお陰で再びワクワクする冒険心の対象へと戻っていた。……帰りもマリと一緒に戻る事にしよう。
「ところで、無言で近づくのは怖いからやめてちょうだい。変な声が出そうになったじゃない」
「『出そうになった』? ぼくの耳にはコンドルの
「さあ、気のせいじゃない? 私は何も言ってないわ、きっとマリが他の音を勘違いしたのよ」
「……別にそういう事にしても構わないけど、その方が怖くない?」
「怖くないっ」
窓から差し込む月の青白い薄明に、マリが呆れて肩をすくめる様子がかすかに浮かび上がる。
ひそひそと言い合っているうちに気がつけば目的の談話室まで辿り着いていたようだ。彼女はそのまま静かに扉を開けると、ひらりと扉の隙間に滑り込んでいった。
私も後に続く。
当然ながら部屋は真っ暗だ。先ほどまでいた廊下とは違い、月明かりすらも差し込まない真の暗闇。
部屋の奥からこそこそと手探りで何かを探す音がした後に、パッと部屋を眩しい白が満たした。
テレビの画面が発する光に目が灼かれ、反射的に瞼を閉じてしまう。同時に襲い掛かるけたたましい音楽と人の声。普段テレビを眺めている時と変わらないはずなのに、何倍もやかましく聞こえる。
手近なソファに腰掛けてゆっくり目を慣らしていると、顔を顰めて音量調節をしていたマリが示し合わせるでもなく隣に座った。
番組が始まるまであと数分。特に会話を交わすでもなく、じっと2人でその時を待つ。
興味のないCMは、とても長く感じた。
「……始まる」
マリが小さく呟くのと番組が始まるのはほとんど同時だった。
オープニングと共に、博多で有名な二人組のタレントが手際よく司会を始める。どうやらいくつかコーナーがあるみたいで、最初は全く別の話題が始まった。
……へぇ、ナポリタンって戦後に東京で発明されたんだ。
ケチャップで彩られたパスタが画面に躍るのを眺めていると、今まで知りもしなかった情報が次々とテレビから流れ出てくる。その奔流を私は無感動に受け止めていた。
「今こうやって耳に挟んだ知識も、きっと明日の朝起きてみれば綺麗に忘れているんだろう」なんて皮肉な事を考えてしまうのは、まだ荒尾レース場の話題に移らない番組に焦らされているからだろうか。
美味しそうな映像に呼び覚まされた深夜の空腹と戦っているうちに、いつの間にかナポリタンの話題は締めに入っていた。
次こそはと身を乗り出すと、視界の端で隣に座るマリも同じ動きをしたのが見えた。
「──さて、次のテーマはこちら、『ローカル・シリーズ』です! 今年は新たな三冠ウマ娘の誕生もあり、広く注目を集めたトゥインクル・シリーズでしたが、ウマ娘が走るのは中央だけではありません。全国各地に存在するご当地レース場の、知られざる日常に迫っていきましょう。 ……それでは『地方レース場アイドル』こと磯田さん、よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします〜。今回はですね、私が宣伝隊長を務めている川崎レース場、更に熊本にある荒尾レース場の紹介をさせていただきます──」
『ウマ娘好き』を公言する人間の女性アイドルが、軽快な口調でローカル・シリーズについて語り始めた。
関東にある川崎レース場の紹介をしている姿を眺めながら、荒尾にはこんな風な看板がわりの人が居ないよな、と思った。彼女みたいにテレビに出演してPRしてくれる人がいれば何かが変わったのだろうか。
「熊本県にある荒尾レース場は、83年の歴史を誇る日本最古の国内レース場ですが……残念ながら、今年いっぱいでの廃止が決まってしまいました。所属するウマ娘たちが撮影した貴重な映像を入手しましたので、是非ご覧ください。それでは、VTRの方をどうぞっ!」
そうこうしている内に、気がつけば肝心の荒尾レース場の話に移っていた。
画面が切り替わり、幾度となく見た映像が流れ始める。見慣れた建物、見慣れたコース、見慣れた顔。私のよく知る世界が、今まさに日本中へと発信されている。
不思議な気分だった。
深夜に暗い部屋で見ているという状況もあって、何か夢でも見ているのではないかとさえ思ってしまう。けれども、隣に聞こえるマリの眠そうな息遣いは紛れもない本物で、今映し出されている映像は間違いなく皆で協力して作ったあの動画だった。
「……ん、続くんだ」
3分ほどのビデオは、あっという間に終わりを迎える。……と思ったけれど、テレビで放映される動画には『続き』があった。
事前に私たちへ伝えられていた説明通り、テレビ局の方で追加編集をしたようだ。
賑やかだった雰囲気から一転して、物寂しい音楽が流れ始める。
「……やってくれたね」
夕暮れの荒尾レース場を背景に次々と表示されるテロップに、マリが少しだけ悔しそうな口調で言う。
私はその言葉を右から左へと聞き流しながら、半ば呆然として画面に見入っていた。今見せられたものを消化するのには少し時間が必要かもしれない。
廃止が決まってからのおよそ2ヶ月と半分。
私はその間になんとか現実と向き合って、気持ちを整理して、折り合いをつけてきたつもりだった。廃止を受け入れて、その後に向けて歩き始めようとした決断に自信を持っていた。
でも、やっぱり心のどこかで「これはきっと悪い夢だ」「ある日突然、全てが無かった事になるかもしれない」という願いは捨てきれていなくて。
こうやって第三者の視点から、荒尾レース場の廃止が『確定した事実』として語られるのを見ると、私の心の防壁がゴリゴリと削られるのをまざまざと自覚できる。客観的な立場だからこそ感情抜きに淡々と提示される
画面に映し出される『Thanks & So long 荒尾レース場』の文字が不意にぼやけた。
何度も目を拭ったけれど、その滲みは治らない。上を向いて何かを
「ねえ、コンドル」
映像が終わってスタジオのタレントたちが喋り始めた中、静かにマリが切り出した。
「やっぱり分からないんだ。君が廃止を受け入れると決めた
横顔に微かな光を浴び、彼女はこちらを振り向く。
青白い画面を反射したその瞳は、発した言葉に反して異常なまでに
「ぼくには理解できない。何故君は廃止を受け入れることが……いや、諦めることができたんだ」
『ウマ娘好き』を公言する女性アイドルがとうとう涙を見せ始めた。しかしその涙が向けられた先は、きっと廃止が決まってしまった荒尾ではない。川崎レース場なのか、或いは廃止の瀬戸際で踏ん張っている他のレース場なのか。
マリはじっと私を見つめるばかりで、
「悔しいんだ。まだぼく達はこれからもレースがあって、明日もトレーニングがあるだろ。でも、こうやってテレビでは荒尾レース場は過去の物として語られてしまう。……ぼくは、堪らなく悔しいよ。コンドルはどう思う? 何も思わないのか?」
「私、は……」
悲しい。
真っ先に浮かんだ答えは、極めてシンプルだった。
けれども。
──今、素直にそう答えてしまったら駄目だ。また
蔦のように本心を覆い隠した直感に近い恐れが、その答えを口に出すことを妨げる。
マリの言葉はある種の誘惑だった。彼女の気持ちに同調して思いを吐き出せば、きっと気持ちよくて心がスッキリするだろう。私もそうしたくて堪らない。
でも、多分それは良くない選択なんだ。素直に答えてしまえば最後、私は
「私は……わからない。分からないけど、もう振り返るつもりは無いよ」
だから、これでいい。
何か大きな物を押し殺しているかの如く、不自然なまでに落ち着いた瞳が私を見据える。
目を逸らしたら負けな気がしてその双眸をじっと見つめ返していると、不意にマリの目元は緩んだ。
優しく笑ったようにも、寂しく歪んだようにも見える、ほんの僅かな変化だった。
「答えになってない気がするけど……まあいいや。君の気持ちは揺らぎそうにないねぇ」
「……私を、試したの?」
「いや、別にそんなつもりじゃないさ」
そう言うと、マリは逃げるようにソファから立ち上がってテレビに近づく。
気がつけば番組はさらに話題を変え、大道芸人の話を延々と続けていた。話の途中でぷつんと画面が消され、全ての光が失われた談話室は暗闇に包まれる。
「……少なくとも、あれは紛れもないぼくの本心だ。一つも嘘は吐いてないよ」
暗闇の向こうから、小さな声が聞こえた。
直後にぱっと部屋の蛍光灯が点き、何の準備もできていない私の目が眩しい白光に塗りつぶされる。
「ちょっと! 電気点けるなら言ってちょうだい!」
「へへ、ごめんごめん。ドアを開けたら消すから待ってて」
悪びれなく謝るマリの悪戯っぽい口調を見るに、多分わざとだ。
談話室に来た時は真っ暗な中テレビを点けていたはずだ。本当は暗い中でも出入り口程度は分かるのだろう。追求しても仕方ないから言わないけど。
「よし、行こっか」
10秒ほどでマリが電気を消す気配がしたので、手のひらで目を覆うのを止めた。
開いたドアの向こう、廊下から差し込む僅かな月明かりの残滓が、扉の前に立つマリを控えめに照らす。その横顔には、光の角度のせいか
「明日みんながあの番組を見たら何て言うだろうね」
「うーん、多分泣いちゃう娘もいるでしょうね」
「そうだね……間違いない」
なんせ君も泣いてたからね。マリが付け足したその言葉を、私は聞かなかった事にした。
会話が途切れる。廊下に落ちる静寂は、時間に見合った静謐なもの。
おそらく4時を過ぎたであろうこの時間には、月はかなり傾いて地平線に迫り始める。
窓から差し込む黄色の月明かりは、床ではなく反対側の壁を真っ直ぐ照らしていた。壁に映る2つの薄いシルエットが静かに私たちの後を追う。
深夜独特の雰囲気を味わっているうちに、気がつけばマリの部屋……いや、今は私の部屋だ。私の部屋にたどり着いていた。
ドアのない出入り口を微妙な面持ちで見ているマリにおやすみを言おうとしたら、彼女は私の肩を突いて呼び止めた。
「そう言えばさ。コンドルって来月の1日に走るんだっけ」
「えーっと……うん、そうだね。12月1日が復帰レースのはず。トレーナーさんも脚の経過は良いって言ってくれてるから、その日で決まりそう」
「そっか。脚のことは……悪かったよ」
「別に、マリのせいじゃないわよ。レース中に痛めたんだから関係ないわ」
先月の28日のレースで、私は足を少し痛めていた。別に日常生活に支障のない程度だけれど、レースは1ヶ月ほどお休みになった。
どうやらマリは例の時*1に私を突き飛ばしたせいだと思っているらしく、いつもその話になると謝ってくるから少し調子が狂う。
「それで、来月の1日がどうしたの?」
「あ、そうだった。ぼくも小耳に挟んだだけで、本当かどうかは怪しいんだけど──」
マリがそう前置きする時は、大体が真実の時だ。
彼女はむしろ自信満々に断言する時の方がよく外す。
「荒尾に来るらしいよ、中央の『
しかし、彼女の真実であろう言葉は、普通なら信じられないような突飛な内容で。
だからこそ、荒尾レース場がいよいよ迫った廃止を見据え、少しでも
終わりは、刻々と近づいている。