激動の一年も締めに近づき、人々の歩様は『師走』の呼称を体現すべく若干の慌ただしさを孕むようになったこの時期。加えてクリスマスの再接近を迎えると、いよいよ街の雰囲気は浮つき始める。
あらゆる場所でのべつ幕無しに流されるクリスマス・ソング、あちこちの木に絡まってぺかぺかと光る電飾。わけあって例年よりも多少自粛気味だったとはいえ、それら舞台装置は一定以上の成果を上げていた。
勿論それは往年の輝きを失った荒尾の街でも例外ではなく、年々シャッターが増えてきた表通りには束の間の賑わいが訪れた。町外れにある万田坑の巨大な施設跡は眩しくライトアップされ、その威容を見物客に誇示している。
それぞれがそれぞれの年末を迎え入れようとする姿は、日本全国どこでも変わりはないように思えた。
しかし、どこにでも例外というものは存在する。ここ荒尾市の一角では、他所とは幾らか違った意味合いの『総決算』が今まさに執り行われようとしていた。
83年の長い歴史にピリオドを打つにしては、少しばかり爽やかすぎた晴天。
風も少なく、暖かな陽気は冬の冷気をいくぶんか和らげている。分厚い上着を着てきたことを若干後悔させる効果を持ったその日光を浴びながら、人々は荒尾レース場の前に長蛇の列を作っていた。まだ開場の9時10分までは時間があるものの、正門前にできたその列は過去に例を見ない長さを誇っている。
「お母さんは荒尾で生まれたん
人それぞれに思うことは違えど、抱かれた感想の共通項は、これだけ多くの人が詰めかけるほどの求心力がある施設が集客不足で閉鎖に追い込まれた、という事実に伴う皮肉だった。最後だから、折角だから、と名残惜しさで動くライト層の数が多ければ多いほど、普段から通い詰めている常連の心に隙間風が吹く残酷な構造。
当然、その場の大多数を占める人々には自覚などない。
9時10分。開門。
続々と入場する客が入ってすぐ手渡されたのは、小さな瓶に詰められた荒尾レース場の砂だった。
先日訪れた『
その砂が小さなガラス瓶に入って──お陰でますますビーチの華奢な砂のように見える──続々とファンの手に渡るのは、「皆さんの心の中に荒尾レース場を生かし続けてください」というアピールなのだろうか。受け取った人々の多くが大切そうにポケットやカバンへと小瓶をしまう姿を見るに、その狙いは確かな成果を挙げていた。
場内に入ると左右に設営されたテントの白い屋根が真っ先に目に止まる。そこではサイン入りTシャツなどの記念グッズが販売され、売り子のウマ娘たちが健気に売り子を務めていたのだが、その賑わいの片隅では一際異様な光景が広がっていた。
机の上に所狭しと並べられたトロフィー。盾。
レースの勝者に贈られるべき名誉の品々が、1部500円の記念カレンダーと同列に扱われている。列に並んだ人たちが順番に募金箱へとお金を入れ、お礼の品としてそのトロフィーや盾を受け取っていく様は、『歴史の切り売り』という語句を来場者に連想させるには十分すぎる効果をもっていた。
「ずっと昔に引退した先輩たちが置いていったものが殆どですから。いいんです」
トロフィーを受け取った来場者の1人が投げかけた至極当然の疑問に、にこやかに接客を続けていたウマ娘はそう答える。しかし気丈に振る舞う彼女にも箱からトロフィーを取り出す手が時折ぴたりと止まる瞬間があり、真鍮の表面に刻まれた文字をじっと目に焼きつけてからようやく客に手渡す表情からは隠し切れない未練がありありと伝わった。
荒尾レース場が長年にわたって積み重ねてきた歴史が、続々とウマ娘たちの手を離れ散逸してゆく。開門から1時間もしないうちに全ての『お礼の品』が消えたテントでは、歴史を喪った空虚と過去を断ち切った爽快感とを愛想のいい笑顔で上から塗りつぶした表情のウマ娘が、対価が無くなっても尚募金をしてくれる来場者の厚意にぺこぺこと頭を下げ続けていた。
左右のテントから目を背けてさらに奥へ。正面には『83年間のご愛顧 ありがとうございました』の横断幕が掲げられた歩道橋が頭上を横切り、その通路上にはパドックを高い場所から見物したい客がひしめきあっている。彼らの視線の先にあるパドックでは、冬でも青々とした葉をたたえる名物の楠が、たもとを歩くウマ娘たちを優しく見守っていた。
きゅるきゅるきゅる。金属の軋む音がして、パドックの奥にある建物の壁に大きく備え付けられた黒板が回転する。
勇壮なメロディの『
歓声は荒尾の空に轟き、通路からばらばらと出てきたウマ娘たちの鼓膜を揺るがす。驚いてスタンドの方に視線をやった1人のウマ娘が、今まさに人生最大の晴れ舞台に立っていることに気づいて眩しそうに目を細めた。
きょうの来場者は合計でおよそ9,000人。
荒尾レース場の終幕を見届けに、平時の10倍近い数の人々が集まっていた。
ぼうっと海を眺めていると、波が心を洗い流してくれるような気がする。
宿舎裏の海に面した堤防からでも、レース場のスタンドで沸き立つ歓声が風に乗って聞こえてくる。遠くに響くお客さんたちの声は、びりびりと私の背中を痺れさせるようだった。
腰掛けた堤防の冬のコンクリートが私の太ももから熱を奪ってゆく。本当はレース前に脚を冷やすべきではないんだけれど、今はそんな事を気にかけずに1人で波を眺めていたい気分。
「コンドル、まだこんな所にいたんだ。もうすぐ集合時間なんだよね? 早く行かないと」
「うん……」
ぱたぱたと軽い足音がしたのち、後ろからマリが私を呼ぶ声がした。
私は波面を見つめたまま、気のない返事だけを寄越す。ややあって、今度は少しだけ乱暴になった足音が近づいてきた。
「ほら、しっかりしなよ! そんなに嫌ならぼくが担いで連れて行こうか?」
「わかった、歩く、自分で歩くから……」
「頼むよ、本当に。荒尾最後のレースを走る大役なんだろ?」
隣に立ち、ちょっぴり呆れた表情でマリが私を見下ろす。海面に乱反射した太陽光が彼女の顔に黄金色のまだら模様を踊らせていて、その様子をじっと見ているとマリは
「……本当に抱えていかないと駄目そうだね」
「だっ、大丈夫だから! ちょっぴり黄昏れてただけよ」
「そういうのは走った後で! ほら立った立った!」
べしべしと心なしか強めに背中を叩く手に促されて、私は仕方なく立ち上がる。2メートルと半分ほどの高さの堤防からひらりと飛び降りると、聞こえてくる歓声が一段と大きくなったように感じた。同時に自らの心臓が早鐘を打ち始める。
きっと、人生最後で最高の大舞台。
悔いのない素晴らしいレースにしたいという思いがある。あの大歓声に背中を押されて走るのはどれだけ気持ちいいだろうかと期待する気持ちもある。でも同時に、レースが始まる前のこの不安定なドキドキが、永遠に終わらないまま続いてほしいというわがままな願いもある。
集合場所の建物に近づくにつれて耳朶を打つ声も大きくなり、心の底にまで届くその空気の振動が私の複雑な思いをかき混ぜる。混ざり合った相反する気持ちは、いつの間にか私の体を居ても立ってもいられない興奮で震えさせていた。
気合い入ってんじゃん。私の震えを好意的に受け取ったのか、隣を歩くマリが少し嬉しそうに言ってきた。私はそれに、まあね、とだけ応える。確かにこれは武者震いなのかもしれない。
若干固い足運びで廊下をずんずん進むと、ついに点呼をとる部屋の前までやって来てしまった。
今日走らないマリとはここで一旦お別れだ。
「……じゃあ、行ってくるね」
「うん。……情けない走りだけは見せてくれないでよね」
いつか聞いたようなセリフを口にしながら、マリは悪戯っぽい笑顔を作った。
その表情は決して完璧ではない。けれども、お互いに憎まれ口を言い合って走っていた頃を思い出すには十分だった。
「そっちこそ。途中で私を見失うなんてみっともない真似はしないでよ」
「む。ぼくがそんな下手を打つわけがないだろ」
「さて、どうだか」
見せつけるように肩をすくめてやると、マリは少しだけ唇を尖らせた。
一瞬だけ間違いなく蘇ったあの頃のやりとりに、私たちはどちらからともなく小さく笑う。それを最後に、私はマリに背を向けた。
「……何があっても、見失わないから」
扉を開けて部屋の中に踏み入る直前、背後から小さな声が聞こえてきた。
お互いを繋ぐ扉がゆっくりと閉じる。私は振り返らない。
気がつけば、体の震えはすっかり治まっていた。
パドックって、こんなに狭かったっけな?
四方を大勢のお客さんに囲まれた中、私は不思議と余裕のある頭でそんなことを考えていた。
密集した人のせいで圧迫感があるのだろうか。それとも私も自覚が無いだけで緊張しているのだろうか。他の娘たちが油の切れたロボットみたいなぎこちない動きをしている中、私だけ人ごみの中から常連さんの顔を見つけ出して数える余裕があるぐらいだから、たぶん緊張はしてないと思うんだけれど。
……あ、これで8人目。手を振ってあげよっと。
「コンちゃーん!
そういえば、パドックの真ん中に生えたこの楠はこれからどうなるんだろう? ふと気になって、私は物言わず緑の葉を揺らす樹に近づいた。程よい太さの幹は、休日に木登り好きなウマ娘たちが登るせいで樹皮が剥げたり傷が付いていたりする。
私は最初の枝で脚を滑らせて思いっきり落ちたなあ。荒尾に来てすぐの頃の、たった一度の苦い思い出が蘇った。思わず傷だらけの樹皮を撫でてしまう。
『──出走者の発表です。1枠1番、フミノフライト……』
そっと手のひらで乾燥した感触を味わっているうちに出走者紹介が始まった。
最初に名前を呼ばれたウマ娘──もう3年目のはずの栗毛の後輩が、デビュー直後の娘みたいにたどたどしく手を振る。それでも詰めかけたお客さんたちは割れんばかりの拍手と歓声を送ってくれた。
『3枠3番、エイシンコンドル──』
楠の下を離れてパドックの外周に戻ると同時に私の名前が読み上げられ、声の濁流がワッと襲いかかって来た。
あらゆる視線が私を向く肌感覚。思わずゴクリと生唾を飲む。パドックがますます狭くなったような感覚がして、ああ私は緊張していたんだと今更ながらに気付いた。口の渇きが止まらない。
最年長の意地を見せるため、落ち着いた態度を演出しようと片手だけを控えめに小さく挙げる。
なんだか外国の政治家みたいな格好になったけど、やっぱりお客さんたちは万雷の拍手を送ってくれた。「最後
パドックに立ち、誰もが等しく主役として受け入れられる時間。きっとそれは10秒にも満たない幸せだったけれど、私が目に焼き付けた光景は永遠のように感じられた。
パドックを囲む人たちの表情からは、とにかく今このひとときを忘れられない瞬間にしたいという思いが伝わる。その溢れんばかりの願いが、この刹那を無限大に引き伸ばしてくれたのかもしれない。きっとマリに聞かせたら鼻で笑うであろう荒唐無稽な考えが頭をよぎった。いや、案外彼女も同意してくれるかもしれないけど。
しかし時の流れは決して止まることなく進み続ける。
次の娘の名前が読み上げられると同時に、私に向けられていた注目は一斉に次の対象へと移った。同時に元の広さに戻るパドック、乾いた口に思い出したように滲む唾液。
どっと肩の荷が降りた私は、広くなった視界でぐるりとパドックを一望した。余裕があるつもりだった私でもこれなんだから、
「キラちゃん先輩、もうすぐ順番なんだから泣いてたらヤバいですよ!」
「っ、でも、止まらなっ、いんだもん……」
「ほら、ハンカチありますから! 鼻水ぐらいは拭きましょうよ! 流石にみっともないですって!」
とっくに限界を超えてるのがいた。
年下の娘に甲斐甲斐しくお世話を焼かれながら泣きじゃくる芦毛のウマ娘。彼女はデビュー6年目、ベテランなんだからしっかりしてくれないと……と思って、でもベテランの方が辛いはずだと考え直した。当たり前だけど、ここで過ごした時間が長いほど辛い。不思議と落ち着けている私がおかしいだけで、むしろハンカチをベトベトにしている彼女の反応が当然だ。
泣き止まない様子にわたわたと慌てているもう1人の後輩を見かねて、私はそちらへと歩み寄った。
「ほーら、泣かないの。サマーちゃんが困ってるじゃない」
「ゴンドルぜんばい……わたっ、わたしっ、泣き止みたっ、いのに、ごめんなさい」
「そっか、そうだよね。……じゃあ、無理して泣き止まなくてもいいから。泣いたまんまでも、ちゃんとお客さんの方にアピールしよう」
最後なんだから。
そう付け加えようとしたのに、不思議と私の言葉はつっかえて続かなかった。
ぐすぐすと頷く芦毛の後輩の背中を撫でてやると、ようやく彼女はしっかりとパドックを見据えた。同時に聞こえた小さく息を呑む音。場の雰囲気に圧倒されたのか、こぼれる涙はぴたりと止まっていた。
彼女が泣き止むのを待っていたのだろうか、一旦進行を止めていたアナウンスが再開する。
『続きまして、8枠11番──』
おそらく気のせいではない、間違いなく一際大きな声援が、泣き虫のウマ娘を迎え入れた。
「レース本番の日にここを歩けるなんて……すごいですっ」
えへ、と照れくさそうに笑うのは、来年ここ荒尾でメイクデビューを迎えるはずだった後輩だ。私より一回り近く年下の彼女は、今日は誘導ウマ娘としてパドックとバ場を繋ぐ細い通路をとことこ歩いていた。左右を挟む建物の壁が圧迫感を与えるけれど、幼い彼女はその雰囲気すらも心地よく堪能しているようにも見える。
本来、荒尾レース上には誘導ウマ娘なんて大層なものはいない。それは決して予算がないからといった消極的な理由ではなく、ずっと昔からそのスタイルを続けてきたから。好き勝手にぶらぶらと入場する特有の空気感が私は大好きだった。
けれども今日だけは例外だった。デビューが間に合わなかった娘たちにせめて一度でも本番の舞台に立たせてあげようとする粋な計らいは、誰が言い出したのか分からないけれど満場一致で賛成された。
既に転校先が決まっているとはいえ、彼女たちが確かに荒尾のウマ娘であったという事実は歴史に刻まれなくてはならない。
緊張で口をへの字に結びながらも、可愛らしい誘導ウマ娘は立派にその役目を果たした。
どこからともなく湧き起こる温かな拍手が彼女を包み込む。小さな主役は一瞬呆けたように超満員のスタンドを見上げると、慌ててぺこりと一つ頭を下げた。行きがけよりも更にふわふわした足取りで戻ってゆく背中には、未来が詰まっていた。
「これで最後かぁ」
ゲートイン直前の、束の間の待機時間。
誰かの呟きは、宛先不明のまま冬の空気に溶けて消えていった。
当てもなくわずかに茜色がかった空を見上げる。黄色い雲を順々に数えていくと、海の向こうに佇む雲仙岳の稜線と視線がぶつかった。空と山との鮮やかなコントラストに、今日はやけに空気が綺麗だなと思った。
「最後ぐらい、勝たないとね」
視線を彼方に固定したまま、私は試しにそんな事を言ってみる。
ですね!と元気な返事が聞こえる。一切の邪気が感じられないその声に、きっとみんな笑顔になったんだろうと勝手に想像した。
『──いよいよゲートイン。12名の出走者によって、83年間の千秋楽、結びの一番を迎えます』
誘導が始まり、ゆっくりとゲートに収まる。
225回目のゲートイン。225回見た狭い景色。戯れに手頃な鉄パイプに触れてみると、確かな冷たさが出迎えてくれた。
この扉が開けば、2分もしないうちに荒尾レース場は終わる。私たちがゴールを越えたら、長い長い歴史に幕が下りる。
逆に言えば、ゴールをしなければその時間だけ荒尾レース場は生きながらえるだろう。けれどもその行為には意味なんてない。私たちが終わらせなくてはいけないんだ。
あれだけ騒々しかったスタンドがしんと静まり返っていた。
実況のアナウンスも黙って何かを待っている。
私も、待っていた。どうかこのまま永遠にゲートが開かないでくれと願いながらも、その瞬間を待っていた。
ガシャン!
乾いた金属音は、自身の持つ意味に見合わない軽さで冬の荒尾レース場に響いた。