【完結】街からウマ娘が消えた日   作:粋成

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本作品は実際に起きた出来事をモデルにしていますが、全てが史実通りではありません。ご了承ください。


12月23日 後

 息詰まる、といった表現が適切か。

 荒尾レース場に押し寄せた万に近い数の観衆。その全ての眼は古びた発バ機に集中し、彼らの口から一切の余計な声が発せられることは無かった。静寂の(とばり)が降りたバ場では、やや一名落ち着きなくゲートの内でもぞもぞと動きはしていたものの、すんなりとゲートインした12名のウマ娘がやはり沈黙を守ったまま()()()()を待っていた。

 

 本能がゲートの開く予兆を察知する。

 24の脚に力がこもる。併せてウマ耳も8つほどぴこりと動く。

 

 がしゃん!

 

 張り詰めた緊迫は乾いた金属音に破られた。

 綺麗に揃ったスタート。やや接触はあったがスムーズに隊列が形成され、歴史に終止符を打つ12名は一斉に最初のコーナーへと向かってゆく。

 蹴り上げられた白い砂が、傾き始めた太陽に当てられてきらきらと光る。紙吹雪の如く舞った白い粒は涙のようにも見えた。

 

 当たり前のことだが、スタンドの観客は駆けてゆくウマ娘の姿を目で追った。コースをなぞる視線は第1コーナーへと向かい、歓声は走者へと向けられる。

 しかしウマ娘を照らすスポットライトから外れた()()では、もう一つの物語が幕を閉じようとしていた。

 

 ゆっくりとバ場の内側へと撤収していく発バ機。幾千幾万回におよぶ役目を完遂したそれは、トラクターに曳かれて物言わずゴロゴロと進んでいく。横にはバ場の安全確認のためにスタッフが数人付き従い、名残惜しそうに金属の巨体を撫でながらそれぞれの最後の仕事を果たしていた。

 コースから完全に退出する直前に、年老いた職員の1人がふと振り向いてじっと白い砂を眺めた。ゲートの車輪で地面が荒れていないか確認するにしては、少しだけ長すぎた余韻。

 最後に何か目に見えぬものに向けて一礼した彼の姿は、やはりスタンドに詰めかけた人々の視界には全く入っていなかった。

 

 それを顧みることもなくレースは淡々と進み、ウマ娘たちは第2コーナーへと差し掛かる。そろそろ強くなってきた西日が観客の網膜を灼き、細めた目からは大地を駆ける12のシルエットだけが辛うじて視認できた。

 先頭を走るウマ娘は意気揚々と大地を蹴り、それに追随する者が1名。次いで一団となったウマ娘たちが集団を作り追走する。その後ろには控え気味の出走者たちがばらけた隊形で走っていた。

 

 ちょうど残り1000mの標識を過ぎたところ、既にレースはその1/3を終えようとしていた。

 

 残された時間はおよそ1分。

 

 

◇◇◇

 

 

 ちょっと、苦しいかな。

 

 第1コーナーに差し掛かった私は、前をゆく8つの背中を見据えながら内心でつぶやいた。

 普段のように先行策で走る予定だったけれど、不本意にも後ろからのレースを強いられていた。スタート直後のわずかな接触が響いてしまった。

 後ろに感じる気配は少ない。ここが最後方集団だろう。

 

 まだまだ序盤ではあるものの、既に先頭との差は目測でおよそ10バ身以上。しかも先頭を悠々と走るウマ娘は中央からのスカウトが来るほどの実力者だ。

 包み隠さず言えば、初めから勝てる見込みはないマッチアップではあった。私の実力では掲示板に入ればよくやった方だろう。

 

 展開も悪い。流そうかな?

 いつものようにそう考えて、すぐに思考を打ち消した。

 今までみたいに2週間ごとに出走するスケジュールなら、次走に備えて余力を残してゴールするも選択肢の一つだった。でも今の私に()()()()。ここで手を抜いてどうする?

 

 難しいことは考えないことにした。とりあえず前に出よう。

 いつの間にか第2コーナーに差し掛かり、眼前に有明海が開ける。波打つ水面には対岸の雲仙岳が輪郭をぐねぐねと歪めながら反射していた。

 記憶が正しければ194回目になるこの景色は、とっくに見飽きてもおかしくないはずなのに今日は一段と綺麗に見える。空気が澄んでいるせいだろうか。

 

 向こう正面。

 じわじわと位置を上げる。最後方から脱出して中団へ。

 先頭との距離はそこそこ縮まり、勝ち筋が皆無ではない位置まで持ってきた。

 

 左前には芦毛のウマ娘。

 肩を並べると、彼女はちらりと横目で私の姿を捉えた。

 その視線はすぐさま正面に戻り、先頭を行く栗毛の背中を真っすぐ睨む。

 

 パドックで泣きじゃくっていたあの娘も、今は真剣に走れているようだ。

 呼吸の合間に少し口角が上がったのを自覚する。

 

 残り600mの標識を通過。時間にしてあと40秒。

 位置は悪くない。チャンスはある。

 

 3コーナーに差し掛かり、遠心力を操りながらカーブを曲がる。

 左手に広がっていた海が視界から見切れていく。

 

 大好きな景色も、これで最後。これで……

 

「……っ」

 

 直後、視界がぼやけた。

 汗でも目に入ったかと目元を拭うもその(にじ)みは拭えない。3度ほど繰り返して、ようやくそれが涙だと気付いた。

 

 いや違う。これは汗だ。

 誰に向けるでもなく心の中で必死に言い繕う。今日は日差しが強いから、冬とはいえ汗だってかくだろう。そうに違いない。

 目に入るせいで前が見えづらいけど、走らなくては。勝たなくちゃ。

 

 しかし理性に反して、脚はもう動きたくないと駄々をこねる。

 

 このまま歩みを止めればどうなるだろう?

 心のどこかで囁き声がした。引き返して、もう一度あの景色を見たっていいんだよ。

 既に視界から馴染みある光景は消えていた。まだ辛うじて走れてはいるが、後ろ髪を引かれる思いはますます募る。

 

 確かにそうだ。どうせ全部終わりなんだ。今更何をしたっていいはずだ。

 内心に同調の声が上がる。自棄になったようにも聞こえるその言い分は、しかし今の私にはあまりにも魅力的すぎた。

 軽く頭を振ってネガティブな思考を祓おうと試みる。大丈夫、まだ脚は動いている。次々と後続のウマ娘に抜かされるほどに失速してしまってはいたけれど。

 

 いつの間にか第4コーナーも終わり、最終直線へ。

 もう前の姿は遠すぎて見えない。既にゴールしてしまったのだろうか。

 スタンドの歓声も遠い気がする。きっと彼らは先頭を走る誰かを見ているんだろう。(みじ)めに失速してどんどんと順位を下げる私ではなく。

 

 もういいや。

 

 ついに決定的な一言が漏れる。

 あれだけ我慢していたのに、意地だけで未練を断ち切っていたのに、今になってずっと抑え込んでいたものが全て噴出し始めた。

 

 結局、何も変えられなかった。頑張れば何だってできると思っていた。いつまでも走っていられると信じていた。廃止だって止められると考えていた。綺麗事を言って我慢していれば、いつか気持ちに整理がつくと願っていた。そうすれば大人になれると期待していた。マリと心の底から理解しあえて、元通りの関係になれると望んでいた。頑張っていれば誰かすごい人が助けてくれると夢見ていた。みんなが私を励ましてくれるのを待っていた。でも本当は違った。全部うそっぱちだ。私は私のままで、現実は壊せない。ぎこちない関係は(ほころ)んだまま。耐えた結果がこれだ。我慢は何も産まなかった。この数ヶ月は無駄な努力に過ぎなかった。もうどうでもいい。現実なんてくそ喰らえだ。どうせ全部壊されて更地になってしまうなら、好き勝手やっても──

 

『……何があっても、見失わないから』

 

 どこからか、マリの声が聞こえた気がした。

 

 幻聴に違いない。

 そう内心で否定する声を無視して、私は弾かれたようにスタンド席を見上げた。

 目元を拭って、ぼやけていた視界をクリアにする。

 

 みんな(お客さん)は、ちゃんと私のことを見てくれていた。

 

 パドックに立った時のように、全員が注目してくれるわけではなかったけれど。でも、超満員のお客さんたちは、12人の出走者を平等に心の底から応援してくれていた。

 確かに現実は変わらないかもしれない。けれども、欲しかったものは今ここにあった。

 

 観客席の中に紛れているであろうマリの姿を見つけようと頑張ったけれど、そう都合よく見つけられはしない。でも、きっとこの中に彼女はいて、私のことを見失わないでいてくれる。それだけは確信を持てた。

 そうこうしている間に視界は『汗』で(にじ)んでしまい、誰が誰だか判別がつかなくなってしまった。それでも私は満足だった。彼女の声が聞こえただけでも十分だった。

 

 ……そうだ、走らなきゃ!

 

 澄み切った頭が、今すべき最も重要なことをようやく思い出した。

 今はレース中だ。しかも一番勝負どころの最終直線。

 惰性でとろとろ動いていた脚に鞭打ち、急いで周囲の状況を確認する。既に私は一番後ろにいるようだった。無理もない。第3コーナーあたりからずっと脚が重かったのだから。

 

 けれども、最下位だろうが何だろうが、そんな些細な事は気にならなかった。

 お客さん達の声援に応え無事にゴールして、走者としての使命を全うする。それさえできれば満点じゃない?

 

 そうは言っても打ち消せなかった少しだけの敗北の悔しさを噛み締めながらも、2バ身ほど前を走るウマ娘を懸命に追った。今できることを全力でやった。

 ゴール板まで残り30m。

 流石に届かない。無理だ。長年にわたって鍛え続けてきたレース勘は、冷静にそう結論を出した。

 

 でも、関係ない。

 私は最後までやりきってみせる。そう決めた。

 

 あと10メートル。

 差は間違いなく縮まっている。

 

 届け、届け、届け……っ!

 

 

◇◇◇

 

 

 遂に訪れた、荒尾の全てのレースが終了する瞬間。

 83年間、幾万回におよぶ繰り返しの歴史が幕を下ろす刻。

 

 エイシンコンドルがゴールする姿を目にした観客は、最下位だけは回避したいというベテランの意地が発揮されたと確信した。

 彼女が見せた、ゴール板寸前で差し返しに行く勝負根性。勝ち負けどころかドベ争いだったとはいえ、そこには競技者としての譲れぬプライドを最後の最後まで捨てない、誇り高きウマ娘の姿があった。

 

 全走者がゴール板を通過し終えたタイムは1分38秒3。2着以下をぶっ千切って先頭を駆け抜けていった勝者のウマ娘とは5秒近く離されてはいたものの、むしろそのタイムラグは観客がレース後の余韻に浸る準備をするには丁度よかった。

 

 1着でゴールした娘はスタンドに笑顔で手を振るほどに余力を残している一方で、最後方でゴールインした10年選手(エイシンコンドル)はぜえぜえと息を切らしてしまっている。

 その対照的な様子は『一つの時代の終わり』を観客に想起させる効果をもっていた。

 

 ゴール板を過ぎて少しの場所で膝に手をつき、正しく青息吐息といった様子のエイシンコンドル。そこに1人のウマ娘がひょこひょこと近寄っていった。先程彼女と最下位争いをしていた走者だ。

 

「コンドル先輩、大丈夫ですか? 肩貸しますよ」

「いや、だ、大丈夫よ……っ、差しに行くのって、キッツいわねぇ……」

「あはは、普段は先行策ですもんね、先輩って。アタシびっくりしましたもん」

「と、ところで、貴女最後えらく失速してたけれど……怪我なんかじゃない? 大丈夫? 佐賀に移籍が決まってるんだから、無理したら駄目よ」

「いや、別にそういうのじゃないんですけど……えっと……」

「?」

 

「ほら、最後の最後に最下位ってカッコ悪いじゃないですか。コンドル先輩がそんな終わり方しちゃダメですよ」

 

 その話し声は観客席にまで届きはしなかったが、エイシンコンドルが人目を憚らず涙をこぼし始めたのは誰の目にも明らかだった。妙に照れくさそうな苦笑いを浮かべて肩を貸すウマ娘に支えられて、彼女はゆっくりとダートを後にする。その後ろ姿にどこからともなく温かな声が飛び始めた。

 

 後日、ファン達はエイシンコンドルがわずか数cm差で最下位を免れた事を知る。彼らはそれをベテランの意地がもたらした結果だと解釈し、やっぱりコンちゃんは凄か!と後に語ったという。

 

 当然、レース後に交わされた会話の内容を彼らが知ることはない。

 

 

◇◇◇

 

 

「じゃあ、行ってきます」

 

 宿舎の玄関で、大荷物を抱えた数人のウマ娘が出立の準備をしていた。

 既に日は沈み、外は暗い。とっくに虫の鳴き声も絶えた冬の夜は静かで、そこに別離の挨拶はしんと染み入った。

 

 みんな中央への移籍が決まった娘たちだ。先日の『天才(レジェンド)』の訪問があったおかげか予想以上に多くのオファーが届いて、移籍手続きの手伝いをしていた私まで嬉しかったのをよく覚えている。みんな実力あるいい子だ。

 

 別にわざわざ夜行バスに乗ってまで今日出発しなくても、明日の朝だっていいのに。そう思って私は尋ねてみたのだけれど、彼女たち曰く「1分1秒も早く向こうに行ってトレーニングしたいんですよ!」との事らしい。

 きっとそのハングリー精神が中央に誘われる要因だったんだろうな、と気付かされると同時に、同じ発想が出来なかった自分が寂しく感じた。

 

「向こうでも頑張ってください!」

「絶対見に行くから!」

「LANEするからね〜!」

 

 大きな荷物と夢を背負って荒尾を後にする後ろ姿に、まだ宿舎に残っているウマ娘たちが思い思いに声をかける。

 既に佐賀や福山、園田などの近場に移籍するウマ娘たちは早くに出発していたため、送り出す声の数もめっきり減っていた。

 

 みんな行ってしまった。お祭り騒ぎの後の静けさは、ことさら身に染みた。

 

 見違えるほどに人が減った食堂で夕食を取った私は、自分が想像以上に暇を持て余していることに気づいた。

 昨日までは時間ができたらとりあえず走るなり何なりすれば良かったけれど、今の私にトレーニングは必要ない。

 不思議な気分だった。

 

 手持ち無沙汰な夜に何をして良いのか分からず、気が付けば私は惹かれるようにしてレース場のある方へと向かっていた。

 夜の暗闇に包まれたスタンドには当然ながら人影ひとつ見当たらない。それは別に今日だけに限った特別な事ではなくて、夜にお客さんが居ないのは当たり前の現象なんだけれど、今はその当たり前のはずの無人の観客席が無性に胸を締め付ける。

 確か野良猫が棲みついていた筈なんだけどな。温もりを求めて猫の姿を探したけれど、見つからなかった。時々宿舎周りで姿を見かけることもあったので、今はきっとそっちにいるのだろう。

 

 誰もいないスタンド席の階段を、一つずつ降りてゆく。こつこつと足音がやけに大きく響き、数えきれないほどの回数見てきたバ場が一歩ずつ近づいてきた。

 閉場セレモニーの一環でお客さんに開放したせいだろうか、ダートの表面には沢山の足跡が残されている。中には砂場遊びみたいに山まで作った名残まであった。

 きっと整備する係員さんは大変だろうな。そう思って、もうこの砂が均される事も二度とないのだと遅れて思い出した。ふ、と失笑にも似た溜息が漏れる。

 

 最下段まで辿り着いた私は、行儀悪く柵を乗り越えてウイナーズサークルに立った。見上げたスタンドは20回ほど見た景色。最後は3月にマリと走った時だったな、と記憶が鮮やかに蘇った。

 結局あれが一緒に走った最後のレースだった。

 

「もう一回、マリと走りたかったな……」

「だったら今から()るかい?」

 

 前触れなく聞こえた馴染みある声。いつの間にか、マリが背後のバ場に──ゴール板の前に立っていた。

 

 

◇◇◇

 

 

「市長さんの挨拶、コンドルは見てた?」

「ううん、見てない」

「そうなんだ。……思ったより、あっさりしてたよ」

「そっか」

 

 もっと荒れるかと思ったのに。少しだけ悔しそうにそう付け加えたマリの言葉を、私は聞こえなかった振りをした。

 

 満天の星。雲がない夜はよく冷える。

 ほうと吐き出した白い息が夜闇に散るのを見送りながら、私は軽くジャンプをして体を温めていた。

 

「真っ暗で危ないから全力疾走は無しだよ」

「でも、どうせお互い引退なんだから転んでも構わないじゃない?」

「……まあ、それはそうなんだけどさ」

 

 ちょっぴり呆れた声がした。

 

「じゃあ、この石を投げ上げるから。落ちた瞬間がスタートね」

「オーケー」

 

 返事をすると同時に、マリが石を高々と投げ上げる気配。

 

 とすん。ザッ!!

 

 お互い出遅れのない、理想的なスタート。

 あんな事を言っておいて、マリも本気で走っていた。

 

 足元の数mがようやく見えるかどうかの真っ暗なダート(みち)。耳に聞こえるのは冷たい風切り音、すぐ横から届く好敵手(腐れ縁)の足音。

 視界は頼りにならない。使えるのは培った勘と積み重ねた記憶。

 

 経験を頼りにコーナーを曲がる。

 内ラチに沿って走れているのを、僅かな星明かりで確かめる。荒尾の事は何でも知っている。

 そして勿論、ぴったりと私の横から離れない気配の持ち主も、荒尾の事は何でも知っている。

 

 こうも暗いと海が見えない。

 仕方なく空をちらりと見上げると、星がまたたき返してくれた。

 文字通り星の数ほどいる観客に向けて、私は走りのギアを一つ上げた。隣の気配も追随する。

 

 ゴール板は直前まで見えなかった。勘でスパートをかけると、マリも同時に最後のひと伸びを見せる。

 ほぼ横並びでゴールイン。

 

「勝った!」

「ぼくの勝ちだ!」

 

 ゴール後にお互いが勝利を主張するタイミングも同じだった。

 多分、引き分けだと言えばお互い納得するだろう。それほどの僅差だった。でも、それを理解した上で、私は引き分けで終わらせたくなかった。きっとマリも同じ事を考えていた。

 

「いや、間違いなくぼくの勝ちだね」

「何言ってるのよ、私がハナ差で勝ってたわ。写真判定でもしてみる?」

「そうだね、明日の朝一で確認しに行こう」

 

 くだらない言い争いをしながらクールダウンを兼ねて歩いていると、気が付けば2人で海沿いの堤防に立って真っ暗な有明海を眺めていた。

 背後にあるはずのレース場からはなんの物音もしない。夕方まで何千人という数の人が集まっていたのが嘘みたいな静けさだった。耳に飛び込むのは歓声や拍手ではなく、ざんざと押し寄せる波の音だけ。潮の香りが鼻をくすぐる。

 

「……みんな、行っちゃったね」

 

 ついさっき玄関で見送った後輩たちの姿を思い出していると、ぽつりと言葉が漏れた。隣で海に石ころを投げていたマリの耳が小さく動く。

 

「いい事じゃないか。みんなに進路を準備できた証拠だろ? コンドルも毎日頑張ってたじゃん」

「そうなんだけど……やっぱり、ちょっとね」

「なるほどなあ」

 

 何がどう「なるほど」なのか私には分からなかったけれど、マリはなんだか納得した様子で頷いていた。

 手伝いに奔走した甲斐あってか、荒尾に所属していたウマ娘はほぼ全員が希望した進路に就けていた。現役を続けたい子は他のレース場に移籍できたし、それ以外を選んだ子たちもそれぞれの道に進めるようだった。

 それ故、だろうか。荒尾を後にする後輩たちの表情はみな後腐れなく晴れやかで、新たな門出を喜ぶべき場面なのに寂しさが募った。

 

「ところで、まだ聞いてなかったんだけど。コンドルはこれからどうするのさ?」

「私? 私は……、えーっと……」

「……まさか、後輩たちの進路の事ばっかりにかまけて、自分は何も決めてないなんて言わないよね?」

「……その、まさかでございます……」

 

 まずい。完全に頭から抜け落ちていた。

 こんな寒いのに冷や汗を流していると、マリが大げさなため息をついた。

 

「全く、君ってやつは……自分の話をしないから嫌な予感はしてたんだけど、まさか本当に何も考えてなかったとはね」

「そ、そう言うマリはどうなのよ? 私だってマリの事何も聞いていないんだけれど」

「当然決めてるさ。ぼくを何だと思ってるんだ? ……まあ、ちょっと福山の方にね」

 

 マリは一瞬懐かしそうな色を声に湛えた。確か彼女は一時期福山レース場に在籍していたはずで、きっとそのツテがあったのだろう。

 ……あれ? 私、結構まずい?

 

「……ほら、これ」

 

 マリがポケットからぴらりと小さな紙片を取り出し、私に差し伸べた。暗くてよく見えないけれど、じっと目を凝らすと10桁ほどの数字が書いてあるような気がする。

 

「万が一のために用意してあったけど、まさか本当に役に立つとはね。……ここに電話してみるといい。きっと力になってくれるよ」

「あ、ありがとう。この番号は、一体……?」

「新しく子供向けのレーシングクラブが出来るらしくてさ、そこの先生を募集しているみたい。場所は栃木。ここなら週末に府中まで遊びに行ったりできなくもないし、それに……」

 

 そこでマリは言葉を途切れさせたけれど、私には彼女がその後何を言いたかったか理解できた。

 栃木からなら、頑張れば山形に──上山に、行けないこともない。そういう事だろう。

 

「……ありがとう」

 

 改めてもう一度お礼を言う。マリは小さく頷いただけだった。それ以上はいらなかった。

 

 受け取った紙片をポケットへ大切にしまう。

 この紙は未来へつながるチケットで、同時に荒尾から完全に離れるための最後の一欠片だ。そう思うとポケットが急に重く感じられて、同時に体が熱くなるような気がした。

 この感情が期待による興奮なのか、不安混じりの武者震いなのか、今の自分には分からない。けれども、今す知る必要はないと思った。時間が経って振り返った時に、ようやく自分自身のことが理解できる。それぐらいが丁度良いはずだ。

 

 なんだか居ても立ってもいられなくなった私は、静かに波立つ海に背を向けて、荒尾レース場のスタンドの方を向いた。

 古びた建物は、私に何を語りかけるでもなく黙って鎮座していた。それでいい。80年以上はたらき続けたのだから、ゆっくりと休んでいてほしい。

 膨れ上がるわけのわからない感情をせり上がるままに発散したくて、私は思いっきり息を吸い込む。

 

「ありがとーっ!!」

 

 バカヤローと叫びたかったのに、口から飛び出したのは正反対の言葉だった。

 

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