季節はすっかり梅雨に入り、ここ数日はしとしとと雨が降り続いている。
荒尾レース場は水だらけの不良バ場になってとても練習にならないので、ウマ娘たちは屋内ジムに引っ込んでしまった。中には急遽練習をお休みにして街に遊びに行く娘までいる始末だ。
中央ではとても考えられないだろうが、このゆるさが荒尾での当たり前の光景だった。
しかし、そんな日でもエイシンコンドルは雨のダートを走っていた。
4日後に控えた次のレース当日の予報は雨。せっかくの機会だから今のうちに不良バ場での調整をしておこうと、ほぼ人影のないレース場を独り占めしていたのだ。
『荒尾の長老』などという名誉だか不名誉なんだか分からない二つ名を持つ彼女が、今でも若いウマ娘たちと対等に渡り合えているのは、常日頃からのストイックな練習のお陰だった。
まずは軽いメニューで不良バ場を走る感覚を思い出して、午前のトレーニングを締めるのは本番想定の1400mダッシュ。
天気が悪いせいで海はちっとも綺麗ではないけれど、その分走りに集中することができた。
後ろに泥を跳ね上げながらゴール板を駆け抜ける。
汗と雨で濡れた頭をぶるぶると振っていると、イマリオーエンスがストップウォッチを手に声をかけてきた。
「35秒1! 結構良いんじゃない? この調子なら本番は4秒台前半だって見えてくるよ」
「ありがとう、マリ。でも反省点が見つかったから午後はまずその修正をしなくちゃね」
「第4コーナーの事? 確かにコース取りが甘かったかもしれないけど、この酷いバ場なら仕方ないと思うな。むしろ他に目立ったミスをしなかったのが凄いや」
「目立ったミスをする時点で駄目なの。若い娘たちに勝つためには完璧に走らなきゃでしょう?」
「コンドルは相変わらず努力家だねえ、ぼくなら今の走りで満足しちゃうよ」
「むしろ
心外だという表情をするマリから目線を外し、スタート地点から小走りで寄ってきたもう1人のウマ娘の方を向く。
艶やかな黒髪を雨に濡らす彼女の名はヘイアンウエールズ。私の一つ下、つまりはマリと同い年で、やはり10年近くにわたって走り続けてきた大ベテランだ。私やマリが老人会と称して絡むとすごく嫌そうな顔をするけれど、拒否したところで若返るわけではない。大人しく受け入れろ。
「コンドル先輩、お疲れ様です! 良い走りでしたよ!」
「ウェルちゃんこそ、スタートの合図ありがとうね。おかげで良いタイムが出せたわ」
「そんな、恐れ多いです! 先輩の実力があっての好タイムなんですから」
「ふふ、そうかもしれないわね」
ウェルは私たち2人よりも頭一つ分背が高いので、話す時は自然と今みたいに見上げる形になる。
けれども、この後輩は何年経っても歳下らしく礼儀正しい態度で接してくる。年を追うごとにフランクになったマリと比べると少しだけ距離を感じるが、生意気なのが増えるよりかはずっと良いだろう。多分。
ストップウォッチとスタートの合図に使う笛を受け取り、私は模擬レースの準備を始めた。
私と同じように、2人も試合を間近に控えているのだ。しかも走るのは同じレースだそうで、ここ数日は何度も模擬レースをやっている。
ここまでの模擬レースの戦績はイマリオーエンスの3戦3勝だ。流石にマリは強いなあと思いながら、私はスタートの笛を吹いた。
バチン!と水っぽい破裂音のような踏み込みの音を残し、二つの影があっという間に遠ざかってゆく。
どっちにも負けてほしくないな。
勝負の世界に生きる者に
「悔しい〜! 今まで全部勝ってるからって油断するんじゃなかったよぉ」
「ふっふっふ、マリちゃんわたしのこと舐めてたでしょ? まだまだ末脚では誰にも負けない自信があるんだから」
「もちろん知ってるけどさ、さっきのウェルは凄く気合が入ってて怖かったなあ。まるで本番みたいな雰囲気だったよ」
「4連敗は絶対に嫌だもん! だから今日は必殺の心構えで走ったんだ」
「え、必殺ってなに……本当に怖いんだけど」
ひと足先にシャワーを浴び終わったので外で待っていると、マリとウェルが喋りながら更衣室から出てきた。先程のレースの感想を語り合っているようだ。
勝ったのはヘイアンウエールズだった。
いつも前の方に位置取るマリとは反対に、ウェルは終盤に後方から差す走りをする。彼女の最大の持ち味である爆発力が今回は上手く発揮されたようだ。
私もマリも全盛期からトップスピードが衰えているのに比べて、調子が良い日のウェルの走りからはちっとも衰えを感じない。
今でも若い娘たちと対等に殴り合えるスピードを維持できているのは本当にすごいと思う。中央トレセンに通っていただけのことはある。
ただ、昔からのムラっけは歳を重ねると共に悪化しているようで、昨日までの3連敗も調整が良くなかったのが原因だろう。
良い時は今日みたいに誰も追いつけない走りをするんだけれど……だからこそ勿体無いなあ。
お喋りする2人が私の姿に気づいたので、声をかける。
「2人ともお疲れ様。お昼はどこにしようかしら?」
「コンドル、いないと思ったら先に出てたんだ。……お昼ご飯?ぼくは別にどこでもいいよ」
「わ、わたしも何でも大丈夫です!」
「そう? じゃあいつものラーメン屋にしましょうか。最近ご無沙汰してたし、丁度いい機会ね。2人ともそれで問題ないわね?」
「「もちろん(です)!」」
向かった先は、荒尾レース場のスタンド2階で営業しているラーメン屋だ。
地元の人からは隠れた名店として知られ、レースのある日は来場する観客たちで賑わいを見せるその老舗は、開催のない日にもお腹をすかせたウマ娘たちの憩いの場として利用されている。
看板がわりのボロボロになった横断幕には『中華そば』と大きく書かれているが、出てくるのは紛れもない豚骨ラーメンだ。
このちぐはぐな雰囲気がまた何とも言えない風情を醸し出している。
「おっちゃん! ウマ盛3つね!」
「あいよ」
メニューはラーメンとおにぎりだけ。この潔いまでのシンプルさと、ウマ娘たちには特大のどんぶりで提供してくれる気前の良さが人気の秘訣だ。ウマ娘限定メニューの『ウマ盛』は、人間用サイズの5倍以上のボリュームがあって値段は据え置き。コストパフォーマンスも最高に良い。
とは言うけれども、以前はこれを無料で食べられたものだ。
数年前に荒尾トレセンが所属ウマ娘たちの食費の全額負担を辞めたことをきっかけに、ここのラーメンにもお金を支払わなくてはいけなくなった。なんとも世知辛い事だ。
切り詰められたのは食費だけではない。以前は自由に使えたランドリールームも今では何人分かの纏め洗いが義務になったし、練習道具に支給されるお金も段々と減ってきている。
トレーナーたちは給料が減ったとボヤき、ウマ娘たちのレースの賞金も下げられてしまった。
経営が苦しい荒尾レース場をなんとか立て直そうと全員が必死なのだ。
しかし、それでもウマ娘たちは悲観的にならず楽しくやっていた。
荒尾の人々がレースを愛しているのは間違いない。それに、こうやって頑張っていればいつか必ず結果が出る。
人の温かさと、のんびりした居心地の良さはどこにも負けない。
だからきっと大丈夫。
カウンターに備え付けられたテレビをぼんやりと眺めながら考えていると、何か大切な事を思い出したような態度でマリが声をあげた。
「そう言えばさ、コンドル。噂で聞いたんだけれど、去年のうちのレース場は黒字だったしいよ」
「マリ、それ本当? 私たちがデビューした頃からずっと赤字だったんでしょう?」
「本当だよ! 昨日ぼくのトレーナーと理事さんが話してるのを聞いたんだから」
「マリちゃん、それって聞いたら駄目な会話だったんじゃない……?」
「いいんだよ、バレてないから。それに良いニュースなんだからウェルも嬉しいでしょ」
「確かに嬉しいけれど! でも、そっかぁ……ついに黒字になったんだね……」
「そうね、私たちの頑張りが実った、ってことかしら? このまま目指せV字回復ね!」
どうやら結果は思わぬ早さで付いてきたようだ。さっきまで感傷に浸っていたのが嘘のように感じる。
長くて暗いトンネルを抜けたような明るい知らせに、替え玉を茹でているおっちゃんも含んだ全員の口が
今までの我慢がついに報われたんだ。どん底を抜けた以上、これからはきっと全てが良い方向に傾くはず。
私の胸は安堵と喜びで満ち溢れていた。
「本当によかった……私たちも最後まで諦めずに頑張らないとね」
思わずこぼれた本心は現役にこだわり続ける私らしくない一言だったけれども、2人の後輩は優しい笑顔で頷いてくれた。
何だかちょっぴり恥ずかしくなった私は、照れ隠しで2人から顔を逸らして反対側に置いてあるテレビの方を向く。
古くなった液晶に映っていたのは、マスクをした目つきの悪いウマ娘。
皐月賞とダービーを続けて制し、未来の三冠ウマ娘かと騒がれるその不良ウマ娘は、きっと日本中のファンの夢を乗せて走り続けるのだろう。
けれども、私はその実力に憧れこそすれ、羨ましいと思うことはなかった。
彼女が日本中のファンに夢を届けるように、私たちも荒尾に住む人々の心を支えているのだ。そこに数の差はあっても優劣はない。
「ご馳走様でした。──さて、午後のトレーニングも頑張りましょうか!」
あっさり目の豚骨スープをぐいと飲み干した私は、午後からの練習に向けて気合を入れ直した。
いや、午後の練習だけではない。やっと見えてきた明るい未来のためにも、私は頑張らなくちゃ。
奇跡の復活を遂げようとしている荒尾レース場に負けていられない!
共通の思いを胸にした3人は、軽い足取りで再び雨のグラウンドへと向かうのだった。
──ちなみに、気合十分で第4コーナーの練習に向かったエイシンコンドルは、本番でまさにその第4コーナーで足をひねって競争中止になるのだが、それはまた別のお話。
──同日、荒尾市議会にて──
その日の議会はピリピリとした緊張に包まれていた。
歴史と伝統ある荒尾レース場が今後どう在るべきかについて、激しい議論が繰り広げられていたからだ。
「おっしゃる通り、確かに昨年度のレース事業は黒字でした。それは間違いない。しかしこの黒字は見せかけの数字でしかありません。付近のレジャー施設が偶然一斉に休業になったおかげでイレギュラーな観客増があった事や、自治体やURAから出る補助金のことを考えて諸々差し引くと、反対に赤字になるんです。これではレース事業が自らの実力で収入を増やしたとは言えません。市長はその点をどうお考えになりますか」
厳しい口調で追求を続けるのは、眼鏡の似合う角ばった顔の議員だ。
かつて炭鉱街として栄えた輝きを失いつつある荒尾市。その財政や各事業の立て直しに燃える彼の矛先が、今日はレース事業に向いていた。
「そうは言ってもだね、安原君。いくら見せかけだとしても黒字だったのは間違いないじゃないか。それに、去年はインターネットの収益が大きく増えたと聞いている。私はそういうのに詳しくないが、インターネットに力を注げばもっと状況は良くなるんじゃないかね?」
気圧されたように答える市長に、安原と呼ばれた眼鏡の議員はさらに畳み掛けた。
「見せかけの黒字じゃあ駄目なんです。いくら歴史があったとしても、結局のところレース事業というのは商売な訳で、毎年のように赤字を垂れ流したり、見せかけの黒字で喜ぶようじゃいけません。それと、インターネットとおっしゃいましたか。確かにネット配信による収益は出ましたが、
「わかっている。わかっているさ、利益が出せないならば意味が無いなんてことは。だが、儲からないからと辞めてしまってはウマ娘たちはどうなる? 彼女たちを教えるトレーナーや、施設管理の職員はどうなる? 荒尾レース場のお陰で何百という人たちが生活できているんだ。それを無視してハイ辞めますという訳にはいかない。それは君も理解しているはずだ」
「そうは言いますがね、市長。荒尾レース場で働く人々の収入を考えると、むしろ縛り付ける方が酷なんじゃないかと私は思います。知り合いのトレーナーの話を聞いて仰天しましたよ。あんなの人間が生きていける給料じゃない。確かにレース事業のお陰で多くの雇用が産まれているのも事実ですが、彼らの生活の実態を正しく認識した上で改めて議論すべきだと思います」
「……わかった。君の言い分も確かに一理ある。それは認めよう。ひとまずレース事業の今後について、専門の協議会を作って話し合うことにする。レース事業を立て直すためにどんな対策を取るか、それともいっそ全てを諦めるか。あらゆる可能性を検討してもらおう」
「頼みますよ、市長。他の事業のことも考えると先延ばしにはできない案件なのですから。どちらに転ぶにせよ、しっかりと判断を下していただきたいものですね」
不気味な笑みを浮かべて言う眼鏡の男に、市長はそれ以上何も反論することができなかった。
と、急に真剣な表情に戻った安原議員は、最後にこう言い残した。
「それと、気になった点をひとつ。レース事業自体の存亡については協議会で決定すべきではないと思います。最も大切なのは市民の意見なので、そこはお間違えのないよう」
言われなくてもわかっている。
そう返そうとした市長の言葉は、何故か喉でつっかえて声にならなかった。
【6/24】イマリオーエンス号,ヘイアンウエールズ号出走レース
【同日】エイシンコンドル号出走レース
※netkeibaより
【厩舎レポ】ヘイアンウエールズさん
※当時の荒尾競馬場スタッフが残したブログです
【6/20】荒尾市議会議事録
※左の一覧のうち赤くハイライトされた発言を読んでいただけると大方の流れがわかります