本作品は実際に起きた出来事をモデルにしていますが、全てが史実通りではありません。ご了承ください。
梅雨が明けて早数週間が経ち、夏真っ盛りといった模様の今日。
短い生涯を懸命に主張する
こんな暑い日でも荒尾レース場では試合が行われている。
レースはちょうど向こう正面を過ぎて、いよいよ第3コーナーに入ろうとしているところ。出走者8名のうち前から2番目を走っているのがエイシンコンドルだった。
終盤に入ると海が見えなくなるのが少し寂しい。
有明海に面したこのレース場から見渡せる雲仙岳の雄姿や、水面に浮かぶ海苔の養殖施設を眺めるのが密かな楽しみの私にとって、第3コーナーを曲がるのは若干の名残惜しさを感じる行為だった。
海が視界から消えるお陰で、気持ちが切り替わってレース終盤の競り合いに集中できるのは確かだ。けれども、出来ることならばゴールの直後に見る景色は、空席だらけのスタンドではなく陽光で輝く有明海であってほしかった。
まあ、そんな詮のない事を考えたところでゴール板が動く訳でもない。目の前の勝負と向き合わなくては。
前との距離はおよそ2バ身。逃げに近い脚質の私にとって、正直に言えば追いつけるかどうか微妙な差だ。向こうがどこかでミスをすれば良いが、そうでなければ中々苦しい。
普通ならばこんな場面では3着以内に収める走りに切り替えるところだけれど、そんな妥協は絶対にしない。私は勝つために走っているのだから。
さて、どうやって逆転しようか。
全盛期ならともかく、今の私では実力だけでひっくり返すことは不可能。ならば相手のミスを誘発するしかない。
後ろから詰めて圧をかけるのが鉄板だが、果たして私のスタミナが持つかどうか。出来れば体力を温存できる方法にしたいものだが──
ぞわり。
唐突に、後ろから凄まじいプレッシャーを感じた。
その強烈な存在感を認識した瞬間に、私は組み立てていた作戦を全て捨て去り、何も考えずただ全力で逃げる方針に切り替えた。
第4コーナーを抜けて最終直線に入る。
私にも、前を走るウマ娘にも、余裕なんて一切ない。背後から迫ってくる恐ろしい気配から少しでも離れようと必死だった。
早くも枯渇しそうなスタミナを無理やり絞り出し、ひたすらに足を前へ前へと出す。緊張でカラカラに乾いた喉から血のような味がしてきた。
次の出走をまるで考えていない無茶な走りは、きっと後でトレーナーに文句を言われるだろう。でも関係ない。
ちっとも近づいてこないゴール板を睨みつける。後ろは見ない。気にする余力はない。
頭を空っぽにして、ただ走る。
しかし、その努力は報われなかった。
ズン、ズン、と地響きのような力強い踏み込みの音が私のすぐ横まで迫り、そして焦げ茶色の影が抜き去ってゆく。
その正体はヘイアンウエールズだった。ムラっ気こそあるものの、稀にある調子の良い日は爆発的な末脚で全てをちぎる彼女。どうやら今日は絶好調のようだ。
こうなったら誰にも手がつけられない。逃げ切ることに失敗した以上、もう彼女に追いつくことはできない。
疲労で狭まった私の視野には、遠ざかってゆく鹿毛の尻尾だけが映っていた。
完敗だ。
夕刻。
地平線に残された太陽の薄明が、海の向こうにある雲仙岳のシルエットを浮かび上がらせている。
ヘイアンウエールズの晴れ舞台をスタンドの最前列で見届けた私は、余韻に浸りながらその景色を眺めていた。
彼女のウイニングライブを見るのは何度目だろうか。少なくとも2度や3度ではないが、やはり何回見ても親しい友人が主役を務める姿は良いものだ。こちらまで嬉しくなってくる。
とはいえ、負けた悔しさが消えて無くなる訳でもない。次の対戦機会までにはウェルの凄まじい追い上げに対抗する手段を見つけなくては。
現状だとウェルの追い上げが発動した場合にはなす
だったら、真っ向から殴り合わなければいい。
1対1で勝てないのなら、1対複数の形にすれば勝機が見えてくるはず。例えば何人かで壁を作って抜かさせないようにするとか。
だが、レース中に協力して1人を陥れようとするのはあまり褒められた事ではない。事前に話し合っておくなどもっての外だ。人々の夢を乗せて走る以上、そんな醜い姿を見せるわけにはいかない。
しかし、だ。逆に考えれば、即興かつ合意のないプレーならば問題ないはず。
共謀して壁を作るのではなく、強引に誰かの真横につけて無理やり壁を作れば良いという事だ。仮に相手が嫌がっても無理やり横にぴったりと付けば自然と蓋ができる。
なかなか悪くない作戦ではないだろうか?
いや、待った。強引にペースを合わせて壁を作ることによる体力消費はどうなる?それならまだ自分のペースで走った方が良いんじゃない?
……うん、分からない。こんな時はトレーナーに相談しよう。
エイシンコンドルは終わりそうにない思考を一旦打ち切り、あとは担当トレーナーの力を借りることに決めた。
いつの間にか雲仙岳の姿は夜の闇に溶けてしまっていて、応援スタンドからも人の姿が無くなっている。
どうやら結構な時間が過ぎていたようだ。ぎゅるると空腹による抗議の声を上げるお腹が、どれ程の間考え込んでいたかを教えてくれる。
トレーナーと作戦会議をするのは後だ。その前に食堂で腹の虫を宥めなければ。
「……ハヤシライスにしようかしら、それともあえての
「コンドル先輩、まだ残っていたんですね!今から夕食ですか?」
「ウ、ウェルちゃん。そうよ、ちょうど食堂に行ってたところなの」
トレセンの宿舎に向かう道中でヘイアンウエールズとばったり鉢合わせた。ライブの後片付けが終わった所だろうか、肩には衣装の入ったバッグを下げている。
独り言を聞かれてしまったようで、ちょっぴり恥ずかしい。
「ところで先輩はどうしてこんな時間まで?居残り練習ですか?」
「ううん、ちょっと景色を見ながら考え事をね」
「考え事、ですか。もしかして今日のレースの事だったりしますか?」
「ご名答!絶好調の
その言葉を聞いたウェルは少し驚いたような表情をすると、そのまま足を止めて黙り込んでしまった。
少しばかりの沈黙。さざめきのような虫の鳴き声に混ざって、遠くから救急車の音が聞こえてくる。
あてもなく夜空を見上げると一際明るい2つの星が目についた。夏の大三角ってやつだろうか。最後の一つを探すけれども、どこにあるか分からない。
今お腹が鳴ったら格好悪いな。ふとそんな考えが浮かび、そして同時に胃が
胃の平滑筋を必死に制御しようと音もなく悪戦苦闘していると、静かになっていたウェルが再び口を開いた。
「先輩は……先輩は、どうしてずっと前向きに走っていられるんですか」
「うん?」
普段の素直で明るい彼女からは想像もできない不安げな響きの声に、思わず私は聞き返してしまった。
返事が聞こえたのか分からないが、ウェルはそのまま言葉を続ける。
「わたしは今日は偶然調子が良くて勝てましたけど、いつでもそうやって勝てるわけじゃないし、むしろ大抵のレースでは調整不足で負けちゃって。そんな時、わたしには走る資格があるのかなって不安になるんです」
「それに、年齢の事を考えたら今からはずっと衰える一方ですよね。なのに、勝てない相手に次はどう対処しようかと考えるのって無駄なんじゃないかって思うんです。でもコンドル先輩はいつも次回のことを考えてて、どうして前向きになれるんだろうって不思議に思って。──ごめんなさい、訳分かんない事言っちゃって。こんなの変ですよね」
変じゃない!
即座に否定したくなったけれど、震えた声で喋る今の彼女には逆効果だろう。
不安はゆっくり丁寧にほぐすに限る。
「ウェルちゃんは、もう走りたくないの?」
「…………走りたいです」
「もう勝ちたくないの?」
「……勝ちたいです」
「敵わない相手に負けっぱなしでも満足なの?」
「絶対に嫌です、いつか首を取りたいです」
ウェルの口調に少しずつ熱が篭ってきた。いい感じだ。
それはそうと物騒な言葉を使うのはやめてほしい。レース中のあの気迫で首を取るなんて言われた日には、それだけで走マ灯が見えそうだ。
「だったらそれで充分じゃない?衰えとか、走る資格とか、そんなどーでもいいことは気にしなくて大丈夫。大切なのは、貴女がどうしたいかよ」
「そう……ですね。確かにそんな気がしてきました」
「それに、お客さんたちは全力で走る私たちを応援しに来てるんだから。その気持ちに応えるためには、とにかく勝つ!って気持ちを忘れないのが一番でしょ?」
「……」
私の言葉に再び口を閉じて考え込む様子のウェル。
その心中は分からないけれど、葛藤している事は察せられた。
まあ、たかが一言二言ですぐに心変わりするとは思っていない。噛み砕きながら、じっくり時間をかけて考えるのが良いだろう。
私に出来るのは結論を出すための切っ掛け作りぐらいだ。その結果彼女がどんな答えに辿り着いても、尊重して受け入れてあげなくては。
ぎゅううぅぅう〜
しかし、2回目のシリアスな沈黙は私の胃の自己主張によって破られた。最悪だ。
「……ふふっ」
隣から思わずこぼれたような笑い声が聞こえてくるが、足元を見つめるのに必死な私には彼女がどんな表情をしているのか分からない。頬が熱い。
重かった雰囲気は一気に弛緩したけれど、代わりに大切なものを失ってしまった気がする。
「先輩、ご飯食べに行きましょうか」
「そうしましょう。一刻も早くね」
によによと笑いながらフォローを入れてくれるウェルの優しさが胸を抉ってくる。
もうこれ以上恥ずかしがっても仕方ない。切り替えよう。決してヤケになった訳ではない。
「今日はウェルちゃんの勝利を祝って私のおごりにしましょう!何でも好きなもの頼みなさい」
「本当ですか!わたし、勝った日は
「勿論いいわよ、何杯でもいきましょう!」
「やったあ!マリちゃんも呼びますね!」
「それはダメ」
絶対にさっきのことを知られるから。
「えぇ〜!良いじゃないですか、3人の方が絶対楽しいですよ!……それに、マリちゃんとも私の悩みを相談しておきたいですから」
「もう、そう言われたら断れないじゃない。分かりました、3人で祝勝パーティーといきましょう」
「はい!じゃあ先にマリちゃん呼んできますね!」
ぱたぱたと宿舎に向けて駆けてゆく後ろ姿を見送りながら、私は再び夜空を見上げる。
さっきは見当たらなかった夏の大三角の最後のひとつを、今度は簡単に見つけることができた。
──同日、荒尾市役所にて──
市長室は2階の廊下の突き当たりにある。普段は定時になるとすぐに明かりが消えるその部屋は、ここ数週間は毎日のように遅くまで煌々と照らされている。
市長は悩んでいた。荒尾レース場を今後どうするかについて、決断を迫られていた。
彼にとってレースは青春だった。若い時は
彼にとってレースは人生だった。結婚して子供ができると、子にもレースを見せてやった。仕事の接待でレースを観る機会があれば誰よりも熱心に応援した。もっと荒尾のレースを発展させようと、彼は政治の道に進んだ。
しかし今、彼はそのレースを終わらせなくてはいけない立場にあった。
勿論彼はレース事業を廃止したくはなかった。出来ることならば50年でも100年でも存続させてやりたかった。
だが、彼の政治家としての知識が、市長としての立場が、それを否定していた。
荒尾市の機能はガタガタだった。財政難で市営バスは廃止に追い込まれ、市民病院は赤字続きで設備更新が進まない。そんな中で赤字を垂れ流すレース事業を続けるのは許されない事だ。
しかも、荒尾レース場を潰せば跡地の再開発という名目で国から補助金がおりるようになっていた。仮にこの機会を逃せば荒尾市は立て直す資金すらも失って沈んでいく可能性がある。もはや市長のわがままで覆すことのできる案件ではなかった。
先日の議会では経営改善の策を探すという議論も行われていたが、何という事はない。廃止は避けられない運命だった。
あとは市長の彼が決断するかどうかだったのだ。
「……帰るか」
すっかり暗くなった窓の外に目をやり、重い腰を上げる。
人気のない市庁舎を出ると、送迎の運転手が待っていた。
「すまない、今日は1人で歩いて帰りたい気分なんだ」
一言だけ伝え、そのまま歩いて敷地を出る。事実、彼の家は市庁舎から徒歩圏内にあった。
地位ある者が単独で出歩くのは本来あまり良い行為ではないが、市長がそう言うからには誰も断ることができない。
しかし、彼が向かったのは家ではなかった。数分後の彼がいたのは荒尾レース場だった。
今日の開催も終わり真っ暗になったスタンドを眺めながら、彼は下すべき決断の重さを噛み締めていた。
この老朽化した建物を潰せば、きっと荒尾市は復活することができる。だがそれは同時に、荒尾市民の青春や人生が喪われる事も意味している。
胸に去来する思い出と市の将来を天秤に掛ける覚悟は、まだ市長にはできていなかった。
「廃止……廃止か」
ぽつりと呟いた言葉は、途轍もなく重く感じられた。