今日も、明日も、そしてずっと先の日も、平穏で優しい日常が続く。
そう信じていたのに。
早朝。どんよりと分厚い雲が薄暗い空を覆っている。
天気はご機嫌斜めだけれども、今日はレース本番だ。エイシンコンドルは眠い目を擦りながら朝食を摂りに食堂へ向かっていた。
開催日になると、試合を控えるウマ娘たちによって荒尾トレセン全体が緊張感に包まれる。
普段はわいわいと賑やかな食堂はちょっとだけ静かになり、気の早い娘はすぐに朝食を食べ終えて外を走り始める。
中には落ち着かずにうろうろと廊下を徘徊する娘もいて、名物となった彼女を見かけた時にはすれ違いざまにぽんと肩や背中を叩いて励ましてやるのが、荒尾のウマ娘たちの間でのお決まりだった。
今日は徘徊していなかったな。そんなことを考えながら、私は食堂の戸をがらりと開ける。
気持ちの良い1日とは元気な挨拶から始まるものだ。今日も食堂に集まっている後輩達におはようと声を掛けようとして、ふと気付いた。
──どうもおかしい。レース前とはいえ、いくらなんでも静かすぎる。
挙げかけた片手を下ろしながら食堂をぐるりと見渡すと、隅の方にウマだかりが出来ているのが見えた。あそこは確か……雑誌や新聞が置いてあるコーナーだ。何事かあったのだろうか。
テーブルに放置された誰かの食べかけの朝食をちらりと見遣りながら、ぞよぞよと低い声で喋るウマ娘たちの集まりへと向かう。
ウマだかりのすぐ
今更になって、集まっているウマ娘達の誰もがすっかり耳を萎れさせていることに気づいた。尻尾を両の足の間に隠してしまった娘の姿もちらほらと見当たる。
何か尋常ではない事態が起きているに違いない。ウマだかりの向こう側で何が起きているのか、気になって仕方がなかった。
けれども、小柄な私には後輩たちの背中の向こう側は見えない。騒動の正体を知るために私はウマ娘たちを掻き分け始めた。
あ。コンドル先輩。時折私に気づいた娘たちの声が耳に入るが、それらを無視して前に進む。
しかし、あと少しで目的の雑誌・新聞コーナーに着こうかという頃に、私はがっしりと腕を掴まれて制止された。
一体誰だと振り向いた私の目に映ったのは、いつも廊下を徘徊している後輩の泣き出しそうな表情。今日は姿を見ないと思ったけれど、ここに居たらしい。
くしゃくしゃに顔を歪めた彼女は、まるで加減が出来なくなったかのような物凄い力で私の腕を掴み、ふるふると首を振っている。
「せ、せんぱい、駄目です。見ちゃ駄目です」
「……どうして? みんなは見ているのに、私だけ見たらいけない理由があるの?」
「あ、ありません。でも、駄目なんです。み、見ないでください!」
目尻に涙を浮かべて叫ぶ彼女の鬼気迫る様子に、私はますますウマだかりの向こう側を見たい欲求を募らせた。
不安と好奇心が半分ずつだったその欲求は、今や不安が大半を占めるようになったが、涙ながらに訴える後輩の言葉に従うわけにはいかなかった。
「忠告ありがとう。でも、見るかどうかは私が決める事なの。……ごめんなさいね」
万力のように腕にめり込んだ指を引き剥がそうと試みながら私は答えた。結構痛いけれども、小心者の後輩を安心させるために努めて優しい笑顔を作ってあげる。
不安に潤む後輩の瞳を見つめ、励ますように肩をぽんと叩いてあげてから、私は再びウマだかりの中心を目指し始めた。
最前列には10秒もしないうちに辿り着いた。
少し開けたその空間には、青ざめた顔でスポーツ紙を眺める旧友のイマリオーエンスの姿がある。
彼女も今日のレースに出走予定なので、早起きしていたようだ。
「マリ、おはよう。一体これは何の騒ぎなの?」
「……コンドルか。これ、見なよ」
苛立ちでせわしなく耳を触る親友は、手に持っていた新聞を無造作にこちらへ寄越した。
開かれたレース面にざっと目を通す。あのオグリキャップとジャパンCで熱戦を演じたニュージーランドのウマ娘がでかでかと載った記事の脇にある、小さく目立たない見出しが不意に目に止まった。
現存最古のローカル・シリーズ、荒尾レース場が来年廃止へ
関係者への取材により、荒尾市は市内で開催されるローカル・シリーズを本年度いっぱいで廃止する方針を固めた事が25日、分かった。9月に行われる荒尾市議会で正式に決定される予定だという。
同市のローカル・シリーズは創設から80年以上の歴史を誇る国内最古のレースだが、ここ十数年にわたって赤字が続いている。しかし、昨年度に久しぶりの黒字を計上し、経営難脱出の希望が見えていた。その矢先の出来事だった。
25日のレース事業方針協議会に出席した荒尾市長は、記者の質問に対し「廃止すると言った訳ではない」と強調。また、荒尾市レース組合の代表によると──
「なによ、これ」
ぽつりと言葉が漏れる。
「嘘……よね? タチの悪い冗談よね?」
イマリオーエンスは俯いたまま反応しない。
その様子が、嘘や冗談ではない事を雄弁に物語っていた。
廃止。
たった1つの短い単語には、がつんと頭を殴られたと錯覚する威力があった。
廃止とは、荒尾のレース場が丸ごと無くなるという事だ。それだけじゃない。トレセンも無くなって、私たちウマ娘は居場所を失ってしまう。
するとどうなる。レースしか知らない私達は、突然社会の荒波に放り出される事になる。果たして無事に生きてゆけるだろうか?
嫌な想像が膨らむのを引き金に、エイシンコンドルの脳の奥深くに眠っていた記憶がにわかに蘇り始めた。
──ボロボロのスタンドにひしめく黒山の人だかり。
マイクを手に何事か喋っていた市長が、人々の罵声を浴びて逃げるように引っ込んでゆく。
名物だった実況のおじさんを労う大合唱。
騒めきの中に混じる「ウマ娘たちはどうなるのよー!」という女性ファンの金切り声。
どうすればいいか分からずバ場に立ち尽くすウマ娘たち。
そして、あの日を最後に連絡が途絶えた友人たちの顔、顔、顔……
「や……やだ、いやだよ、そんなの絶対にやだぁぁあああっっ!!」
「コンドル! しっかりして!」
遠くからイマリオーエンスの声が聞こえた気がする。
全身が脱力感に襲われ、視界がぼやける。
今日は何か大切な日だった気がする。
……今日は、なんだっけ?
ここは、どこだろう。
何も考えられない。
怖い。寒い。
体を強く引っ張り上げられたような気がするが、従いも抵抗もしなかった。
しくじった。
喧嘩になったとしても隠すべきだった。
イマリオーエンスは後悔に奥歯を噛み締めながら、しゃがみ込んでしまったエイシンコンドルをおぶって医務室まで運んでいた。
やだ、やだ、と子供のように繰り返す旧友は焦点の合わない虚ろな目からぽろぽろと涙をこぼしている。心ここに在らずといった様相の彼女には何が見えているのだろうか。
親友の心中を推し量る事は出来ないが、これが
ここまで取り乱す原因には、心当たりがあった。
コンドルは最初から荒尾で走っていた訳ではない。
中央トレセンに入学したけれど芽が出なかった彼女は、一戦だけ出場した中央のレースで遥か最後方を走ってから、地方のローカル・シリーズに移籍した。今から10年と半年ほど前のことだ。
移籍先は東北にある
果物が美味しい(ぼくは一度も食べた事がないけれど、コンドルがそう言っていた)上山市に移籍した彼女はいきなり9戦7勝、負けた試合も2着と3着がそれぞれ1回ずつと大活躍していたらしい。中央出身の意地を見せつけたって訳だ。
上山きっての実力派として駆けていたコンドルだったけれども、2年と少しでその時代は終わった。
上山市のレースが廃止になったんだ。
コンドルは当時の出来事について絶対に話そうとしない。
お陰でぼくは噂でしか聞いた事がないけれど、上山に所属していたウマ娘たちの多くが行く当てもないまま放り出されたと聞いた。
コンドルのように他所のトレセンに移籍して現役を続けられた娘は一部で、残りはマトモな社会経験も無いのに社会で生きてゆく必要があったみたいだ。
その後彼女たちがどんな道を辿ったのかは、杳として知れない。
おそらく、コンドルは上山からウマ娘が消えた日を思い出したのだろう。
記事を見て当時の出来事を思い出すと予想しなかった訳ではないが、まさか心神喪失に陥る程に心の傷が深いとは思っていなかった。
気持ちを落ち着かせる事ばかり優先して、何も考えずコンドルに新聞を渡してしまった自分自身が憎い。
ぼくは自分の軽率な行動を責めながら、廊下の奥にある医務室の戸を開く。
無人の医務室では、消毒液のつんとした匂いが出迎えてくれた。
ベッドにコンドルを座らせようとしたが、彼女はぎゅっと背中に縋り付いて離れようとしない。なんとか引き離すと今度はベッドで胎児のように丸く縮こまってしまった。
ぎいぎいと耐久力が心配になる音を立てるベッドは見るからに固そうだ。ぼくは上のジャージを脱ぐと、彼女の体の下に押し込んでやった。一応はレースを直前に控えた身だから出来るだけ負担のないようにしてあげないと。
入り口のドアから心配そうに覗き込んでいる後輩たちに、そっとしておいて、とアイコンタクトを送る。
廊下から漏れてくるコソコソ声が止み、少しだけ静かになる。
早起きな蝉の鳴き声に混じって、コンドルの
「ごめんなさい……私だけ…………上山のみんなの分まで走らないと……」
思わず彼女の手を握ってしまった。
──エイシンコンドル。君は、今まで何のために走っていたんだ?
君はレースが大好きで、走るのが大好きだから、何年経っても現役に
それは全部建前で、本当は上山のウマ娘たちの無念を晴らすために走っていたとでも言うのか?
心の底から楽しそうに走る純粋な姿に励まされて、ぼくは今まで走ってきた。あれは全部偽物の姿だったのか?
君は一体どれだけの重荷をひとりで背負ってきたんだ?その背中には
「ぼくは、何も知らなかったんだね」
コンドルの掌を包み込んだぼくの両の手に力が篭る。
今まで気付いてあげられなかった悔しさや、なぜ相談せずに黙っていたのかという不満もあった。
けれどもそれ以上に、この手を離してしまえば大切な親友がどこか遠くへ行ってしまうような予感がした。
「マ…リ……?」
手に力を込めたせいか、コンドルの目に少しだけ光が戻り始めた。焦点が合い始めた両目はこちらに向けられている。
まだ混乱しているようだけれど、ぼくの姿は認識できているらしい。
「コンドル、今日はレースだよ。走るんだよね?」
「レース……うん、私は走る。走らないといけないの」
「
「うん、リリちゃんやエルサや、他のみんなの分まで走らないといけないの」
「……だったら、急いで支度しないとね。ほら、ご飯食べて準備運動しに行こう」
「ええ、準備して、走りましょう。レースなんだから、走らないといけないわよね」
徐々にコンドルの意識がはっきりして来た。
唐突に知らない名前を呼び始めるあたり、まだ記憶と現実が曖昧になっているようだけれども。
ひとまず本人は走る気になってくれたようだ。さっきまで幼児みたいだったのが嘘のようにいそいそと身だしなみを整えている。
嫌な気持ちになった時は走るに限る。
思いっきり体を動かして風を全身に浴びれば、悩みや不安が風で吹き飛ばされたような気がするからだ。
今のコンドルにそれが効くかはわからないけど、あのまま医務室で蹲っているよりかは絶対に良い。それに、自分がレースを欠場した事を後で知れば、きっと彼女は更に落ち込むだろうから。
だから、ちょっと無理矢理にでもレース場に引っ張り出した方がいいと思った。
「……走らなきゃ」
呟きながら廊下を歩く旧友の姿には、どこか危うさを感じる。
今はレースという支えがあって正気を保てているけれども、ふとした切っ掛けで再び折れてしまいそうな、張り詰めた糸のような緊張感を。
このままだと、いつか彼女は壊れてしまうという確かな予感があった。
だから、ぼくが目を覚ましてやるんだ。
今日のレースで最高の走りを魅せて、過去の幻影に囚われてしまったコンドルを現実に引き戻す。
時折ぼんやりとした瞳で虚空を見つめる、辛そうな姿をこれ以上見たくないから。
……それに、荒尾レース場の閉鎖を阻止するためには、彼女の人望と行動力が必要だ。その為にも、頼りになる親友を取り戻す必要があった。
コンドル。君の走る目的は偽物だったかもしれないけれど、いつも見せていた負けず嫌いな心は本物だろう?
だから、その負けん気を思いっきりくすぐってあげるよ。
ぼくの走りを見ていてくれ。
10年前の残像なんかよりも、今がずっと大事だと思い知らせてあげるから。