出遅れたイマリオーエンスの姿に悲痛な表情を浮かべるウマ娘たちが何人かいる中、エイシンコンドルは特に大きな反応を見せずに中継映像にかじり付いていた。体育座りになった彼女の尻尾は微動だにしていない。
──あのマリが、こうも単純なミスであっさりと負けるはずがない。
イマリオーエンスと付き合いが長い故か、彼女は確信めいた予感を抱いていた。いや、自身の不安定な精神を守るために本能的に信じ込んだのかもしれない。
ともかく、エイシンコンドルは親友の勝ちをまだ諦めていなかった。半ば祈るような心持ちで画面を見つめていた。
出走前の熱気をそのままに、各ウマ娘は速いペースでレースを進めてゆく。3名で構成された先頭集団は前を確保しようと激しく争っていた。
序盤から鬼気迫る様子で走る姿に会場のファンは大盛り上がりだった。こりゃあ、
レースは進む。
先頭集団は第1コーナーへと差し掛かり、やはり早いテンポでウマ娘達は走っていた。
後方では出遅れたイマリオーエンスが差を巻き返し、ようやく後方集団に紛れ込んだという所。まだ余力はありそうだが、果たしてハイペースで進む前に追いつくことができるだろうか。
もう見ていられないと両手で顔を隠したあるウマ娘は、スピーカーから流れ出る実況を聞き逃すまいと耳をそちらに向けている。
エイシンコンドルは、何も言わずに画面をただ見つめていた。
レースは進む。
第2コーナーに差し掛かった。先頭集団から1名が抜け出し、逃げの体制を作る。
残った先行集団は足を溜めるのか、敢えて追わずにペースを維持する事を選んだようだ。有明海の灰色のキャンバスを背に、ぽつんと独りで先を走るシルエットが映えていた。
イマリオーエンスは、さらにじりじりと位置を上げて後方集団から抜け出していた。先行集団の真後ろにぴたりと張り付く姿は、まるで道を開けろとノックをしているようだった。
まさか。本当に?
実況の声で状況を知ったあるウマ娘は、こっそりと指の隙間から中継映像を窺い始めた。出遅れたのにこの位置までアガってきたのならば、最後は全員を差し切ってしまう可能性も……いや、しかし、ここまでの無茶なペースで体力が……
エイシンコンドルは、何も言わずに画面をただ見つめている。
レースは進む。
1人で先を行くウマ娘を残し、向こう正面では先行集団では再び激しい競り合いが始まっていた。
強引に外から抜かそうとするイマリオーエンスと、
なぜ必死にベテランを止めようとしているのかは誰にも分からなかったが、接触も辞さない気迫で勝負する姿は、ウマ娘ファンにとって大変見応えのあるものになっていた。
……と、第3コーナーに入る手前で均衡が崩れた。するりと前のウマ娘を
指の隙間からレースを見守っていたウマ娘は、いつの間にか両手を顔から降ろしていた。無意識のうちに身体が少しだけ前のめりになって、降ろした手にはぎゅっと力がこもり、尻尾が期待と興奮でぱたりぱたりと動き始めた。
エイシンコンドルは、まだ何も言わずに画面を見つめたままだ。
レースは進む。
第3コーナーを回り始めたウマ娘たちは、それまでの殺人的ペースのあおりを受けて余力が残っていないように見える。
先頭を行く逃げた一名との距離はまだ大きく、しかし先行集団は早くも疲労の色が隠せない。逃げた娘が逆噴射すればいいが、そうでなければ前に届くか怪しい雲行きとなっていた。
イマリオーエンスはひっそりと先行集団でも前の位置を確保していた。数字でいうと3番手、まだ分からない順位ではある。最後方からぐんぐんと追い上げてきた彼女ならば、あるいは先頭を捉える事が出来るのではないだろうか。
彼女が万全な状態ならば。
──しかし、ハイペースな試合運びの中で無理に順位を上げてきたんだ。最後のひと伸びに向けた体力が残っているとは思えない。ひょっとすると今が一番のピークで、あとはずるずると落ちていくだけかも……
ぺちぺちと尻尾で畳を叩いていたウマ娘は、ふと浮かんだ嫌な想像を振り払おうと頭を震わせ、それでも消えない予感に再び両手で顔を覆おうとしていた。
今度は実況も聞きたくないと耳を寝かせるが、それでも聞こえてくるレース展開に気が取られてしまう。五感を遮断しようと悪戦苦闘しているウマ娘だったが、
「……いける」
それまで一切の無言を貫いてきたエイシンコンドルの、空気に溶け込みそうな小さな声が聞こえてきた。
彼女はそれ以上何も言わずに画面を見つめていた。膝に回していた両手の拳にぎゅっと力が篭っている。彼女の目は、苦しそうな表情を浮かべて走るイマリオーエンスの姿を捉えて動かなかった。
レースは進む。
第4コーナーに入った。まだ前とは6バ身ぐらい距離がある。
先行集団は距離を詰めようと懸命に足を動かすが、もはや疲労の色が隠せていない。
逃げるウマ娘を追う足取りには、巻き返せそうな勢いはなかった。
残念だが、ここまでか。──いや、来た。イマリオーエンスが来た!
先行集団を抜け出した小柄な影が、猛然と前を目指して駆けていた。
どこにそんな余力を残していたのか、はたまた執念とでも言うべき精神力だけで走っているのか、集団を残し1人で前へと進出していく。
栗毛を振り乱し鬼気迫る表情で走る彼女には、諦めという概念が存在していないように見えた。
じりじりと先頭との距離を詰める栗毛のウマ娘の姿に、最後方からの大逆転劇を期待する観衆が歓声を沸かせる。荒尾レース場は今日一番の熱気に包まれていた。
控え室で映像を眺めていたあるウマ娘は遂に我慢ができなくなってしまった。畳の上を四つ足でドタドタと進み、画面のすぐ近くまで寄ると、ネガティブな想像をすっかり忘れて純粋な気持ちで応援の声を上げ始める。
「イマリ先輩!頑張って!」
その声に呼応してか、エイシンコンドルもとうとう動いた。体育座りを解くと膝立ちになり、身を乗り出すようにしながら声を絞り出した。
「いける……行けるよ、マリ!お願い!」
最終直線に入った。
前との差は4バ身。差は間違いなく縮んでいる。
届かない距離ではない。しかし近くもない。
前のウマ娘は死ぬ気で逃げている。
体躯にスタミナは一切残っていないが、意地と根性だけで逃げ続けている。
その精神力が、今は果てしなく遠くにある。
あと3バ身。
もう余裕がない。一気に詰めないと間に合わない。
なのに届かない。もうひと伸びが足りない。
満身創痍のふたりは剥き出しになった心で戦っている。
先に妥協した方の負け。
本能で走るのをやめて体を守るのではなく、本能で体が壊れるまで走る。
あと2バ身。
手が届きそうで、まだ届かない。3歩の距離が無限遠にある。
苦しさに歪んだ顔が見ているのは、前を行くウマ娘ではなく自分自身。
3歩よりもっと先をゆく自分めがけて走る。
しかし、その足取りはますます重くなる。
「あと少しなの!届いてよ、お願い!」
エイシンコンドルの言葉は懸命に走る親友に向けられたものだろうか。それとも、もっと大きな何かに対して祈っているのだろうか。
悲鳴に近い応援は、同じ部屋でレースを見守るウマ娘たちに沁み込んでいった。
あと1バ身と半分。
がくん、と。
露骨に追うペースが落ちた。
前との距離が変わらなくなった。
数瞬前までの勢いが喪われてしまった。
観客席にさざ波のようなため息が広がる。
これでは無理だ、もう彼女は勝てない──本当に?
最後の希望は潰えたように見えたが、夢は捨てられなかった。
「行けぇっ、イマリオーエンスッッッ!!!!!!」
エイシンコンドルは
イマリオーエンスならば、まだ戦える。そう信じて疑わなかった1人のウマ娘の叫びが荒尾レース場に響き渡った。
そして。
──ぐん、と栗色のウマ娘が再び加速した。
あと1バ身。
体力は尽きたはずだった。気力も残されていなかった。
けれども、レースに
あと半バ身。
序盤から長い長いスパートをかけた挙句の追い込みは、中央の名だたる優駿ならば容易に再現してみせるだろう。
けれども、中央の晴れ舞台に立てぬ地方のウマ娘が、その難しい走りを実現してみせるにはあまりにも実力が足りなさすぎた。
足りないはずだった。
そんなもの、イマリオーエンスにはどうでも良かった。
実力が足りないから何だ。中央で走る資格が無かったから何だ。
ぼくは荒尾のウマ娘として、荒尾レース場を救うために勝たなくてはいけない。一緒に暮らす何百というウマ娘たちの生活を守るために、今ここで勝たなくてはいけない。
不可能を可能にするために走っているんだから、実力の壁
あと4分の1バ身。
全ての視線がイマリオーエンスに集まっていた。
勝てるはずのない勝負を制する瞬間を、全員が心待ちにしていた。
訳の分からぬ大きな力に引きずられて走っているような栗色のウマ娘を誰もが応援していた。
少なくともこの瞬間、荒尾レース上は間違いなく一つになっていた。
じわり、じわりと差が縮まる。
クビ差がアタマ差に、アタマ差がハナ差に、そしてハナ差が──
「すごい、本当に勝っちゃった……」
ゴール直後の沈黙に包まれていた控え室に、ぽつりと誰かの声が零れる。
その一言を皮切りに、部屋はわっと歓声に溢れかえった。
勝った。勝ったんだ。
万雷の拍手の中、イマリオーエンスは半ば信じられないような心境で掲示板を見上げていた。
1着の欄に表示されたのは、紛れもなくぼくのゼッケンと同じ4の番号。終わってみれば1バ身以上の差がついていたのは、抜かした瞬間に逃げていたウマ娘が力尽きたせいだろうか。
──競り合いがあと半秒長ければ、力尽きていたのはぼくの方だったかもしれない。
何もかもを振り絞った激戦を振り返って、そう思った。
後方から追い上げる試合運びはパフォーマンスとして予定していたけれど、出遅れは純粋なミスだった。
ただでさえ苦しいロングスパートを、更に高ペースでやってのける羽目になった。正直なところ、普段のレースなら最初の2秒で諦めて適当に流していたと思う。
コンドルにあれだけ啖呵を切っておいて、ぼく自身も結局試合に没頭できていなかった訳だ。情けないったらありゃしない。
でもそのお陰で良い雰囲気を取り戻せたようだし、結果オーライって所かな?レースは本当に死ぬかと思うぐらいキツかったけどね。
えも言われぬ達成感と体の節々に沁みた疲労を堪能しながら、ぼくは一緒に走ったウマ娘たちを
疲労によるものか、それとも敗北のショックか、もしかすると
……レース後にここまで悔しがるの、初めて見たなあ。
思わぬところで荒尾のウマ娘の
「さて、みんな。出走前にぼくが言った事を覚えているかな?」
全員がぴくりと動いた。
「『ぼくに勝ったら、奢りで
数名が顔を上げてこちらを期待の眼差しで見てくる。
意地を張っているのか一切体勢を変えない後輩もいるけど、その耳は思い切りぼくの方を向いていた。興味津々なのバレてるよ。
「みんなとても頑張っていたので、ぼくが半額負担で全員連れて行くことにします。……残りは自分で出してね」
その瞬間、荒尾レース場に詰め掛けていた人たちは、負けたのに狂喜乱舞するウマ娘という摩訶不思議な光景を目の当たりにする事になった。
次のレースの出走者がやる気に満ち溢れているのを確認して、ぼくは満足しながら控え室を目指していた。
観客席の熱気も、ウマ娘の覇気も、理想的な状態に持って行くことができた。大局で見るとぼくの作戦は大成功だったと言って良いだろう。
あとは最後の1ピース。一番大切で欠かせないぼくの親友がどうなっているかを確認するだけだった。
──もしも今日の走りで心に響かなかったら、次はどうしようかな。
ぼくは念の為に次の計画を練りながら、控え室のがたついた戸をガララと開けた。
「ただいまー。コンドル、ぼくの走り見てた?ちゃんと勝ったでげふぅ」
わずか2、3秒の言葉を言い終わらないうちに、コンドルがぼくを目掛けて突進してきた。
ぎゅうっと抱きついて来るのは良いんだけれど、衝撃が体に堪えた。普通に痛い。
「あの、今の結構痛かったんだけど」
「ごめん、マリ……私、何も見えていなかった。何もせずに諦めようとしてた!」
今朝とは違った色合いで震えている声に、ぼくは何も言わずぽんと背中を叩いてあげる。
「でも、
「だから、お願い!マリの力を貸して!」
「勿論」
即答だ。考えるまでもない。
色々と感極まったのか、コンドルはぼくの胸に顔をうずめて泣き出してしまった。ウマ娘が泣くと耳の内側が赤みがかるので簡単にわかる。
すぐに洗濯できるレース後でよかったと思いながら、ぼくは
控え室にいる後輩たちの生暖かい視線が刺さる。
数分ほどして、ようやくコンドルが落ち着いた。
真っ赤に腫らした目を恥ずかしそうに擦りながら、いつも通りの笑顔をぼくに向ける。なんだかその表情が懐かしく感じた。
「コンドル、すっごい鼻水出て光ってる」
「え、嘘!?」
「嘘だよ」
「……」
色んな感情が入り混じってそうな顔でぼくを睨んでくるけれど、これぐらいの仕返しは勘弁してほしい。こちとら死ぬ気で走ったんだから。
はあ、と諦めたような溜息を吐いた親友が、ぱっと表情を明るく変えた。
「ねえねえ、マリ?私、荒尾レース場を守るためのすっごく良い作戦を考えちゃった」
「お、早速やる気だね。どんな作戦でもぼくにお任せあれ!」
「本当!?じゃあ早速発表しちゃうわね」
コンドルはえっへんと胸を張ると、自信満々な態度でこう言ったのだった。
「一発、市長さんをぶっ飛ばしに行くわよ」