「ああーん! 私のセキトちゃんがルドルフに寝取られちゃったー!!」
「陳宮、今すぐこの馬鹿をつまみ出せ」
およよー、と自分の肩にしなだれかかるマルゼンスキーを、心底鬱陶しそうに押しのけながらセキトが唸る。私のトレーナー室なので、もちろん私にその権限はあるのだが、せっかくの来客なのだ。すげなく追い返すわけにもいかない。これは大人としての立派なマナーである。それはそれとして、このティラミスは非常に美味しい。
「ええい! 陳宮、貴様何を敵の
「ほらぁ、セキトちゃんも一緒に食べましょ? せっかくトレーナーちゃんが買ってきてくれた、ナウいスイーツなんだから、食べなきゃノンノン」
「オレ様は喰らいたいものしか食わん!」
「もおー、食わず嫌いはねるとんだけで大丈夫よ。ほら、あーんして。私が食べさせてあげる」
「ぐぬぬぬッ! この! いいから肩から手を離せい! 施しなど受けてたまるものか!!」
その細身ではとても考えられない程の力で、ガッチリとセキトの肩をロックするマルゼンスキー。
突き出されたフォークを握る手を抑え込み、何とかアーンを阻止するセキト。
なぜ、ティラミス1つでこのような面白い光景が繰り広げられているのかは分からないが、友達の居ないセキトにはこうした触れ合いも必要だろう。
決して、この光景の続きをもう少し見たいがために担当ウマ娘を売ったわけではない。
決してあり得ないのだが、ティラミスに釣られて何もしていないのではない。
決して、決して、知りたいわけではないが、これはどこの店で売っているものなのだろうか?
「あ、欲しかったらお代わりもあるわよ。陳宮さん」
おかわりいただけるだろうか。
「愚か者! それは孔明の罠だ!!」
さて、押されると意外と弱いというセキトの弱点を把握したことでもあるし、そろそろ本題に移ろう。マルゼンスキーとそのトレーナーは一体、何のために訪ねて来たのか。シンボリルドルフのように宣戦布告にでもしに来たのだろうか。
「私はそうしたい気持ちでいっぱいなんだけどー、トレーナーちゃんがダメだって言うのよねぇ」
つまり、マルゼンスキーはジャパンカップには出走しないということだろうか?
私の問いに対して、女性トレーナーはコクりと小さく頷く。
見たところ、怪我や疲労が抜けていないという訳ではないようだが、どういう考えなのだろう。
「マルゼンさんは出たくて出たくてしょうがないわよ? だって、このままじゃ、セキトちゃんのアベックをルドルフに取られちゃうもの。でも……トレーナーちゃんにはもっと先が見えてるの」
コクンと頷き、女性トレーナーは短く口を開く。
有馬記念で2人を倒す。
その言葉に思わず口角が上がってしまう。
そして、それは私だけでなく、セキトも一緒だった。
「フゥン……1人だけ体力を温存し、漁夫の利を狙うか? 弱者にお似合いの賢しい考えだと言っておいてやろう」
「違うわよぉ。確かに私の方が日程的には有利だけど、その程度で勝てるなら私はあなたをライバルだとは言わないわ」
失礼しちゃうわ、と頬を可愛らしく膨らませるマルゼンスキー。
非常に可愛らしい姿であるのだが、私にはその陰でチラつく怪物の牙が気になってしょうがなかった。
「勝手に言っておけ。何をしてこようとも、勝つのはオレ様だ」
「うふふふ。そう言っていられるのも、今のうちよ。ちゃーんと、秘策があるんだから」
「フゥン、せいぜい楽しみにしておいてやろう」
マルゼンスキーの言う秘策というものが何なのか、非常に気になるが勿論詮索はしない。
聞いたところで答えないだろうと言うのもあるが、本質は違う。
何が来ようとも、セキトなら打ち破る。そう、信頼しているからだ。
きっと、この気持ちは、シンボリルドルフやマルゼンスキーのトレーナーも同じだろう。
「ええ、楽しみにしておいてね。だから、ルドルフに負けちゃあダメよ? ルドルフに先を越されたら、せっかくの策が目立たないもの」
「無用な心配だな。
特にシンボリルドルフなどは自ら皇帝を名乗るように、王道を好む。
奸計を好まず、逆に相手の策を真正面から踏みつぶしていく覇道を良しとする。
誰が相手であろうと、自らの道を曲げない。
いつもいつだって、完璧なる皇帝であろうとする。
つまり。
ふと、閃いた! この策は、シンボリルドルフとのレースで活かせそうだ。
「さて、言いたいことはそれだけだな? ならば、とっとと帰れ」
「何言ってるの? お菓子を食べたらセキトちゃんに勉強を教えるって約束よ。ね、陳宮さん?」
「一言も聞いておらんぞ!?」
いや、言ったら逃げることは間違いないので。
「陳宮!! 貴様、主を
良薬は口に苦し。
主君のためを思って、主に苦難を課すのも私の仕事だ。
「ええい! そもそも、勉学などせずともオレ様は最強なのだから、別によかろう!!」
将軍。関羽を討ち取った者が誰かをお覚えですかな?
「
話題が三国志になった瞬間に目が輝きだすセキト。
彼女のこうしたオタク根性は立派な美点だと私は思う。
だからこそ、それを利用しない点はない。
「呂蒙が関羽を捕らえることに成功した理由か……すぐれた武力、そして関羽を油断させ孤立させた知略だろうな。商人に扮しての騙し討ちなども効果的だった」
呂蒙はセキトの言うように、文武に長けた名将だった。
しかし、初めから両方の分野に精通していたわけではない。
「“
直訳すると、おバカな蒙ちゃん。それはかつての呂蒙への侮辱の言葉だ。
彼は孫権に仕え始めた時から、猛将として名を馳せていた。
だが一方で、文字の読み書きすら出来ない程に学が無かった。
「フゥン……続けろ」
しかし、ある時に呂蒙の才を高く買っていた主の孫権より、勉学をするように命じられる。
全くもって、学に明るくなかった呂蒙は当初は自分には無理だと反論した。
だが、それを主君からの期待だと知った彼は心機一転して、猛勉強を行う。
「士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし。日本語で言う所の“男子三日会わざれば、刮目して見よ”だな」
彼は既に
論語を暗唱できる程に成長した呂蒙の姿に、呉の軍師の
いつまでも、
「…………」
呂蒙も勉強したんだから、お前も勉強しろと言われることを察したセキトは黙り込む。
まあ、昔の偉人がやったんだから、お前もやれでやる気を出すなら、全国の二宮金次郎像はもっと重要な扱いになっているだろう。
だから、出来る限りセキトが好む中二病風に言う。
「関羽と虎が戦えばどちらが勝つかだと? くだらんことを聞くな。虎如きに後れを取るならば、軍神などとは呼ばれておらんわ」
そう、軍神関羽にはただの
故に虎は―――
「…ッ!」
地を這うだけの虎は、天駆ける翼を手にし、龍となった。
龍の
やがてその血潮は、
「フゥン、つまり貴様はオレ様に―――龍となれと言うのだな!」
さあ、
「ハーハッハッハッハ!! いいだろう! 国語でも数学でも何でもかかってこい! この飛将軍の羽ばたきを止めることなど、誰にも出来んのだぁッ!!」
さて、セキトもやる気を出したようなのでマルゼンスキー先生、後はお願いします。
「陳宮さんって、詐欺師の才能があると思うわ」
誉め言葉として受け取っておくとしよう。
「あれ以来か、ルドルフ。いつにもまして身なりが良いな。特に
「
「フゥン、敗走の際に邪魔にならんといいがな」
「君の方こそ。将軍をクビにならないといいね。ああ、よければ私の軍門に下るかい? 待遇は良いものにするよ」
「ぬかせ、敗軍の将となるのは貴様の方だ」
ジャパンカップ目前の記者会見。
眩いばかりのフラッシュがたかれる中、皇帝と将軍が対峙していた。
もちろん、彼女達以外にもそうそうたる面々が出走する。
だが、世間の誰もが注目するのは、やはりこの2人だ。
「悪いね。
ホープフルステークス、皐月賞、日本ダービー、菊花賞。
デビューから無敗のままに、獲得してきたクラシック三冠を含む4つのG1。
向かう所敵なし。人は言う。彼女こそ、三女神の寵愛を一身に受けたウマ娘だと。
常勝無敗の皇帝、シンボリルドルフ。
「フゥン、オレ様の居ない
オークス、ジャパンダートダービー、天皇賞(秋)。
獲得してきたG1の数ではシンボリルドルフに劣るが、その鮮烈さでは欠片も劣らない。
彗星の如く地方から現れ、
一騎当千の将軍、セキト。
「確かに、三冠ウマ娘が生まれる年は、他に強いウマ娘が居ないと言われることもある。だが君との戦いで、そんな声は綺麗さっぱりなくなると、私は確信しているよ」
「オレ様という、真の最強の存在を知ることになるからな」
「至極同感。君と言う強者を打ち倒す武功が、この皇帝の偉業に加えられるのだからね」
皇帝の絶対零度の視線と、将軍の灼熱のまなざしがぶつかり合う。
それだけでも、相当な絵面になるのだから、放送関係者も喜ぶことだろう。
だから、事前の打ち合わせを完全に無視して、セキトが喋り始めたことは許してください。
今度、おすすめのティラミスを持っていきますので。
「……さて、このまま君と話すのもいいが、私達の声を待っている者が居る。道草を食うのも程々にしようか」
「フゥン」
アドリブでセキトに対応していたシンボリルドルフが、ここで司会に助け舟を出す。
セキトの方も満足したのか、鼻を鳴らして一応の了承を見せる。
思わず、神様仏様皇帝様と祈りたくなるほどの完璧な対応だ。
実際、舞台袖でスタッフの人が祈っている姿が見えた。
「お二方とも、闘志満々で意気込みについては聞くまでもないと思いますが、ずばり調子の方はどうでしょうか?」
「幸運にも私には優秀なトレーナーがついていましてね。ここ最近は不調というものに陥った記憶が無いのですよ」
「なるほど。シンボリルドルフ選手の調子は絶好調だと。では、セキト選手はどうでしょうか?」
自らのトレーナーを立てるシンボリルドルフ。
その姿に、私の所では決して見られない光景だろうなと、少し遠い目になる。
「オレ様はオレ様だ」
「……え、えっと」
そして、いつものように相手のことなど考えない台詞を吐くセキト。
司会の人が、お前の担当ウマ娘なんだから、なんとかしろと目で訴えかけてくるので、心の中で謝罪しつつフォローに入る。
「なるほど。つまりは、不調だろうと、好調だろうと自分が勝つと……凄い自信ですね!」
「当然だ。走る前から負けることを考えるなど、それこそが既に負け犬の発想だ。調子の良し悪しなど関係ない。走る前から既に勝っている。天下無双の心構えとはそういうものだ」
「実に自信に満ちた心構えですね。まさに、セキト選手の走りそのものと言えるかもしれません。シンボリルドルフ選手はレース前に何か心構えのようなものをしますか?」
いつもの中二病成分が出てきて、いい感じに口が回り始めたセキト。
これならば、フォローをせずに会見を終えられるかもしれない。
そんな淡い期待が私の胸に宿る。
「心構え……レース前に何か特別な心構えがあるわけではないですが、いつも心に掲げているものならあります」
「ずばり、それは?」
「全てのウマ娘が幸福に暮らせる世界を……と。まだまだ、卑小な私には大言壮語に聞こえるでしょうが、いずれは叶えてみせます」
「何と素晴らしい! まさに皇帝の名に相応しい心構えですね!」
シンボリルドルフが掲げる目標を聞き、素で感動した様子を見せる司会の人。
正直に言って、私も感動したくなる程の言葉で、彼女にはそれを実現させると思わせる凄みがあった。
「くだらんな」
もっとも、うちの問題児の心には欠片も響かなかったようだが。
「ふむ、何か君の気に障るようなことでも言ったかな?」
「フゥン、なに。貴様はオレ様の幸福のために負けてくれるのかと思ってな」
微笑みを湛えて、問いかけるシンボリルドルフに、セキトはつまらなさそうに返す。
「もし、貴様が他人のためなどと言って、勝利を譲るのなら興醒めだ」
「なるほど……君は私が手を抜かないか心配なんだね?」
「フン、
セキトの言葉にスプリングステークスでの出来事を思い出す。
セキトはマルゼンスキーに、勝利を譲られたことを激怒していた。
与えられたものに価値などない。自らの手で掴み取ってこその勝利。
そんな強迫観念にも似た信念が、彼女の芯になっているのだ。
「オレ様の勝利の美酒の中に、一滴でも泥を混ぜてくれるなよ? 泥水を飲む趣味はないからな」
手を抜くな。
本気で来い。
偽物の王冠など、こちらから願い下げだ。
そんなセキトの言葉に、珍しく驚いたような表情を見せるシンボリルドルフ。
だが、すぐにそれは笑みに変わる。
「心配ご無用。言ったはずだよ、私は全てのウマ娘の幸福を願うと」
「つまり」
「もちろん、全ての中に―――私の幸福も含まれている」
ただし、その笑みはいつものような柔和な笑みでなく。
威嚇にも似た獰猛な笑みだった。
「ただ、導くだけではない。時には自らが剣を持ち、強敵を討ち取って行く。私が理想とする皇帝とはそういうものだよ。三国志の英雄呂布を名乗る君に分かりやすく言えば、
光武帝劉秀。漢の中興の祖と名高い皇帝だ。
皇帝という身分にありながら、田舎の役人から面と向かって侮辱されても笑って許し。
門限を破り続けて、業を煮やした部下から門を閉められて自らの宮中の外で野宿(2回)。
オヤジギャグが大好きで、部下に披露しては奥さんにあんたの冗談はつまらないと言われたり。
上記のように皇帝とは思えない、異常なまでの親しみやすさを持つ。
しかしながら、その実力は中国最高の名君の1人に数えられる程である。
彼の偉業に関しては上げて行けばキリが無い。
皇帝なのに最前線の戦場に出て敵を討ち取り、過労死レベルの仕事量に部下や息子に休めと言われても、好きでやってるから大丈夫と笑顔で応える。
腹違いの兄弟という、どう考えても後継者争いになる2人の息子を争わせずに育て、完璧に引き継ぐ。
劉邦と違い部下の有能エピソードが無い理由を、後世の諸葛亮から『光武帝は本人が優秀過ぎて問題が起こる前に全て解決し、劉邦は本人が部下に任せっきりにしたので部下は華々しい逸話が世に残った』と語られる。
おまけにこれだけしておいて、死ぬ前の言葉が『民のために何もしてやれなかった』と悔いるという絵に描いたような名君である。
「唯一抜きんでて並ぶ者無し。そうなりたいし、そうなるために勝ち続けたいという願いもある。特に君のような強敵相手にはね。むしろ、私の方こそ心配なぐらいさ」
「フゥン?」
「いや、なに。呂布と言えばその武勇と同等に裏切りが有名だろう? 丁原・董卓の2人の父親を殺した裏切り。その他にも劉備を裏切ったりなど、裏切りエピソードには事欠かない」
父親殺しの裏切り。
その言葉に、自信満々だったセキトの顔が僅かに歪む。
「つまり……何が言いたい…?」
「私の君に対する期待までも裏切られないか、心配だと言うことさ」
お前は本当に、私の期待に応える
不意に、私は玉座を幻視した。
皇帝が腰かけ、下々達を見下ろす王の間の光景。
セキトの方が背が頭1つは高いというのに、その時ばかりはシンボリルドルフの方がどうしようもなく大きく見えてしまった。
「フン……」
いつものセキトならば、中二病感に溢れた台詞で言い返していただろう。
だというのに、先程の言葉で気圧されてしまったのか、言葉が詰まっている。
これではいけない。セキトの言った通り、戦う前には勝っていなければならない。
だから、私が代わりに口を開く。
―――必勝の策はあります。
「ほぉ……必勝の策とは大きく出たね。よければ、どんなものか聞いても?」
面白そうにこちらを見るシンボリルドルフ。
逆に驚いたような目を向けるセキト。
そんな視線を受けながら、私は言葉を続ける。
―――シンボリルドルフには弱点がある。
レースではそこを突けば必ず勝てる。
私の言葉に今度はシンボリルドルフのトレーナーの表情が変わる。
まあ、挑発染みたことを言ってしまったので、それはしょうがない。
あちらにも言いたいことを言って貰おう。
―――レースに絶対はないが、ルドルフには絶対がある。
「これは……弱点はあると宣戦布告する、セキト選手のトレーナー。皇帝は絶対だと揺るぎの無い自信を見せるシンボリルドルフ選手のトレーナー。今回のジャパンカップ、ウマ娘達の走りだけでなく、トレーナー達の戦いにも要注目です!」
そして、運命のジャパンカップの開催の日を迎える。
『まるで、空が泣いているような雨が試練となり、この府中に集った世界のウマ娘達に降り注ぐ。今年のジャパンカップ、どんな結末が待ち受けているのでしょうか』
『バ場の状態は最悪と言ってもいいかもしれません。このレース、荒れる展開になりそうです』
降りしきる雨。ぬかるみ、滑りやすくなった芝。
絶好とは真反対のターフ。だというのに、観客席には雨粒1つが入り込む隙間すらない。
超満員のレース場。そこに集まる者達の視線が集まる先には2人のウマ娘。
『本日の1番人気は、やはりこの娘。常勝無敗の皇帝! シンボリルドルフ!!』
雨音にも負けぬ歓声に応えるように、シンボリルドルフが手を掲げる。
その姿、その威信は雨に濡れていようとも、欠片も揺るがず。
どこまでも絶対な姿がそこにはあった。
『2番人気はこの娘! 一騎当千の将軍! セキト!! その矛は皇帝の首に届くのか!?』
続いて、シンボリルドルフにも負けず劣らぬ歓声。
方天画戟を派手に振り回し、パフォーマンスを行うセキト。
雨に濡れてもその顔の自信に一点の曇りもない。
『解説の
『シンボリルドルフ、セキト。やはりこの2人しか居ません』
『やはり、その人気と実力に偽りはなしということですね』
群雄割拠するトゥインクルシリーズ。
天下に名だたる名ウマ娘・名トレーナーは居ても、英雄と呼べるウマ娘は2人しか居ない。
『それでは場主さん。今回のレース、どちらが有利だと思いますか?』
『そうですねぇ。パワーとスタミナはセキト。スピード、レース運びはシンボリルドルフと言ったところでしょうか。総合力で言えば、双方同じぐらい。このレースお互いの得意分野を相手に押し付けた方が勝ちそうです』
『となると、これは天候も結果に大きく作用しそうです』
『お互いにこれだけの雨の中のレースは初めてですからねぇ。もちろん、雨の日の練習はしてきているでしょうが、練習と本番は違いますよ』
『シンボリルドルフがレース運びの上手さで、泥のターフを攻略するか。セキトが持ち前のダートの経験を活かし、泥にも負けぬ走りを見せるか、注目です』
あれだけ舌戦を尽くした記者会見とは打って変わり、2人の間に会話はない。
粛々とレースの始まりに備え、ウォーミングアップをするだけだ。
見る者からすれば、それはまるで積もる話は走りで語ろうと言っているように感じられた。
『さあ、この雨は一体どのウマ娘にとっての祝福の雨となるのか』
『各ウマ娘のレース運びに注目です』
『運命のゲートの前に皆一列に並び……今開いた!!』
全てのウマ娘達が一斉に水しぶきを上げながら踏み出していく。
『先頭に躍り出たのは5番! その後ろに一纏まりになった集団が続く! 一番人気、シンボリルドルフは普段通りに集団の中で先頭を差す態勢を見せる!』
『いつものような絶対的な走りを期待したいものです』
まるで軍団の統率者のように、シンボリルドルフは悠々と集団の中央を進む。
先行部隊を進ませ、道を整えてから最後に皇帝自らが躍り出る。
余裕綽々。いつもと変わらぬ頂点としての誇りを胸に、シンボリルドルフは走る。
『その後ろに2番人気セキト。こちらも普段通りに後方で追い込みを狙う姿勢か?』
一方のセキトはシンボリルドルフよりも後ろの方に位置付け、追い込みの姿勢を見せる。
『……いえ、普段よりも少し前に位置付けてますねぇ、これは』
そう、思わせていた。
『確かに、場主さんのおっしゃる通り、いつもより若干前目に位置しています。おっと、さらに少し前に出たぞ、セキト』
『これだと、追い込みではなく差しの態勢ですねぇ。何かの作戦でしょうか』
いつもとは少し違う走りを見せるセキト。
その姿に実況解説共に首を傾げるが、驚くほどではない。
追い込みと差しは作戦としては近いものだ。
体格が小さいウマ娘なら当たり負けするが故に、集団に飲まれる差しは不利だがセキトには関係ない。彼女の背はこのレースに出ている娘の中でも一番高く、当たり負けすることはまずない。故に、若干位置が変わっただけと観客達は考える。
が、次の瞬間にその考えは打ち砕かれる
『おっと、セキトがさらに位置を移動し―――シンボリルドルフの真後ろについたぁッ!?』
ピッタリと、まるでシンボリルドルフの影となるように張り付くセキト。
それに気づき、思わずと言った感じで後ろを振り向くシンボリルドルフ。
そんな彼女に向けてセキトは。
『これは、間違いなく挑発ですねぇ』
ニヤリと口角を吊り上げてみせた。
『場主さん! 挑発とはどういうことでしょうか?』
『簡単に言えば、プレッシャーをかけてるということですねぇ。後ろに張り付いて相手のペースを乱させるのが目的でしょう。無理に引き剥がそうとすれば、かかってスタミナを失いかねません』
『そして冷静さを失った相手を最後に差し切るという訳ですね。これが記者会見で言っていた秘策か!? 皇帝の背を今か今かと、赫い刺客が狙っているぞぉおおおッ!!』
雨音をしのぐ歓声がレース場を包み込む。
これだけでも並みのウマ娘ならば、動揺を生みかねないものだ。
現に、ペースを乱し始めるウマ娘が現れている。
だが。
『しかし揺るがない! 皇帝の道筋に一切の歪みなし!!』
『流石の精神力です。見事としか言いようがありません!』
その程度のことでは
どれ程のプレッシャーをかけられても、その脚にかかる重さは変わらない。
まるで、この程度は慣れたものだとでも言うように。
(まさか、私にプレッシャーをかけようとはね。驚天動地。正直に言って驚いたよ)
後ろ目にセキトを入れながら、シンボリルドルフは内心で呟く。
(私にプレッシャーをかけられる者など、君以外に居ないだろう。それ程までに君は強い。だが、そんな小細工では私には届かない!)
如何なる策を使われようとも、それを真正面から打ち砕いていく。
それこそが我が覇道。王の進む道。
自らを絶対と呼ぶ由縁だ。
『残り1000メートル! シンボリルドルフの走りはいつも通りだ。やはり今日も、絶対は揺るがないのか!?』
『セキト選手の予想と外れてしまいましたねぇ。それに今日の天候だと、前のウマ娘が蹴った泥が跳ねて走りづらいですよ。失策だったかもしれません』
依然変わることなく、皇帝はシンボリルドルフ。
そんな空気が会場を包み込む。
それに解説が語るように、シンボリルドルフが蹴った泥がそのままセキトの鎧を、髪を、顔を黒く染め上げている。ウマ娘によってはそれだけで調子を落とすこともある光景だ。それどころか、ウマ娘が蹴り上げた泥は散弾銃にも等しい。下手をすると、失明すらしかねない。
『残り500メートル! 遂にセキトがシンボリルドルフの後ろから横にズレた!』
『ペースを乱せなかった以上、いつも通りに勝負するしかありませんからねぇ』
ここで、これ以上泥をかぶるのを嫌ったのかセキトが横に動く。
誰もが確信した。セキトはシンボリルドルフのペースを乱すことが出来ず。
シンボリルドルフは
『セキトとシンボリルドルフが横一線に並ぶ。ここからは素の実力勝負になりそうです!』
『策が失敗したとはいえ、最終直線での末脚はセキトも全く劣っていませんからね。真っ向勝負に期待です』
策は失敗に終わった。
皇帝の無敗記録は続いて行く。
シンボリルドルフのトレーナーは、そう胸を撫で下ろす。
近くの席でレースを見ている陳宮に、こちらの勝ちだという目線を送る。
ルドルフ本人も、後はいつもと同じように勝つだけだと気を引き締めている。
『おっと、セキトがもう一度シンボリルドルフの方に寄ったぞ』
『これは……何かささやいているのでしょうか?』
そこへ、セキトが近づき。
一言、シンボリルドルフに告げるのだった。
「―――射程圏内だ」
ここからお互いに、
そう、付け加えて。
『一気に突き放したぁあああッ!!
飛将軍が皇帝を置き去りにするッ!!』
『流石の
『普段と違い内から攻めるが、その
いつものように、終盤からの化け物染みた追い込みを見せるセキト。
その姿に負けじとシンボリルドルフもついていく。
彼女の末脚は皇帝の名に負けぬ素晴らしいものだ。
だが、他のウマ娘を抜くのと同じようにはセキトは抜けない。
(しまった…ッ。私はいつも通りに走っていたのではない!
今になって気づく。失策、否、
それに気づいたのは彼女だけでなく、彼女のトレーナーもだった。
ガタりと立ち上がり、悔し気に頭を掻きむしる。
そして、近くの席で静かに微笑む陳宮をもう一度見る。
―――策を練らねばならぬのは、
セキトの方が強いのだから、
そう、陳宮の目は語っていた。
(そうだ、陳宮! 貴様の言うようにオレ様に策など必要ない!!)
そして、セキトは陳宮の言葉を思い出すのだった。
「で、必勝の策とは何なのだ? 陳宮」
―――ありませんよ、そんなもの。
記者会見の後、必勝の策について聞いたセキトを待っていたのは陳宮のあっけからんとした言葉だった。
「な…! 貴様、はったりをかましたのか!?」
オレ様を騙したのかと、胸倉を掴んでくるセキトを宥めながら陳宮は語っていく。
千人の敵兵に対し万人の軍隊を差し向けることを策とは言わないと。
「つまり……いつも通りに戦えばオレ様が勝つと言いたいのだな?」
服を軽く整えながら陳宮は軽く頷く。
世間では2人の実力は、同等もしくはルドルフの方が上だと思われているが、陳宮の見立てでは贔屓目抜きで、同等もしくはセキトの方が上なのだ。
「フゥン、理由は?」
片目をつぶって尋ねるセキトに、陳宮は指を3つ立てる。
1つ。ジャパンカップ当日は雨天が予想され、パワーや泥はねの対処が要求される。
シンボリルドルフとセキトならセキトの方がパワーは上。
またダートの経験で泥への対処も経験がある。
2つ。同格以上との対戦経験がセキトの方が豊富。
シンボリルドルフは戦績で言えば、セキトより上だが、その内容に死闘はない。
最後の競り合いとなれば、セキトのマルゼンスキーとの対決の経験が生きる。
「なるほどな、流石の分析力だと言ってやろう。それで、3つめはなんだ?」
シンボリルドルフには弱点がある。
「フゥン、それは会見の時にも言っていたが、本当のことか。聞かせてみろ」
奴に欠点などあるのかと、若干興味を持ったように聞いてくるセキトに陳宮は笑って答える。
それはどれだけ対策しようとも、努力しても決して拭えぬ弱点。
強すぎるが故に生じた、
―――シンボリルドルフは、
(会見での私に弱点があると言った発言も…! レース序盤の見え透いた挑発も…! 全ては私に普段通りに走らせるためッ! 私の皇帝としての矜持を利用したもの!!)
雨と泥にまみれて、セキトの背中を追いながらシンボリルドルフは内心で叫ぶ。
全てはあの軍師の掌の上にあったのだと、歯を食い締める。
軍師に誤認させられた。挑む側と挑まれる側を。
対策を練らねばならないというのに、胸を貸すつもりで相手をしてしまった。
(弱点があると言われれば、私は…私達はいつも通りに絶対の走りを見せようとする! 相手が自分よりも強いと考えず、自信と慢心を取り違えてしまった…ッ)
シンボリルドルフは勝ち続けていた。つまり、変化がなかった。
勝利を重ねる度に、今のやり方を変えることへの恐怖が大きくなっていく。
変化の必要が無いと言えば聞こえはいいが、それは停滞とも取れる。
停滞している限り、大きな環境の変化が起きた時に対処が出来ない。
例えば、自らと同等の存在が現れるなどの変化が。
(自らが頂点であると誤認し、身を守る剣を捨てていた…! 彼女を自分の喉元に届く刃と言いながら、何たる失態!)
彼女は外敵が居ない島に、王として君臨する飛ぶことを忘れた鳥。
だが、そこに獰猛な猛獣が現れた。鳥が飛ぶ練習を再開していれば逃げられただろう。
しかし、王は慢心してしまった。自分ならば飛ばずとも猛獣に勝てるだろうと。
その結果がこれだ。
猛獣よりも弱い鳥は、哀れに食い殺されるだけだ。
(後悔などしないように生きてきたつもりだが……難しいものだな)
このままいけば滅びは免れ得ない。
そして、その滅びの時は近づいてきている。
もう、諦めていいかもしれない。
そう、思った所で。
「まだ…だ…ッ」
負けたくないと。
いつの日にか忘れてしまった心に火が灯る。
彼女が無敗を貫いていたのは才能もあるだろう。
しかし、それ以上にシンボリルドルフは、いや、
「―――絶対は、私だッ!!」
究極の負けず嫌いである。
『あのシンボリルドルフが吠えた!?
咆哮と共にシンボリルドルフが追い上げてくる!!』
雨空に
それは反撃の狼煙。
無敗ゆえに限界を知らなかった皇帝が、限界を超えようとする光景。
『雷鳴を合図にするかのように、皇帝の逆襲が始まったァッ!』
『ラスト100メートル!! セキト! 逃げ切れるか!?』
『何という末脚!
まるで翼が生えたようだ!!』
誰もが彼女の背に稲妻の翼を幻視した。
敗北を直前にして、シンボリルドルフはその才能の全てを解放する。
脳で考えるよりも、体が先に動き、全てを勝利という1点に注ぐ。
『並んだ!! 並んだぞッ!!
皇帝の無敗神話は続くのかぁあああッ!?』
遂にシンボリルドルフの脚がセキトと並ぶ。
解説席から絶叫が上がる。
観客の全てが我を忘れて、2人の疾走に目を奪われる。
ルドルフのトレーナーが観客席から、落下しそうになる程に身を乗り出す。
このまま皇帝が飛将軍を抜き去っていく。
全ての人間がそう思い、ゴール板へと熱い視線を送った。
そして。
「フゥン、奥の手とは、先に出した方が負けるのだ」
セキトが
『ルドルフの戴冠を阻んだのは、やはりこの娘!!
飛将軍ッ! セキトォオオオオッ!!』
拍手が、喝采が、天上の神々を叩き起こす様な大歓声が響き渡る。
誰もが信じられぬ死闘激闘に、冷めやらぬ興奮を持て余して叫んでいる。
もっとも、陳宮だけは当然と言った表情を一切崩していなかったが。
『今! あの皇帝がターフの上に仰向けに倒れこんでいます!! その頬に流れるものは雨か汗か、それとも涙か。死闘の果てに何を感じる!? シンボリルドルフ!』
いつ、どんな時でも、優雅で、悠然と、完璧に振舞う皇帝はそこには居なかった。
泥にまみれて、豪華な衣装も薄汚れ、無様に地べたに這いつくばる敗者の姿だけがあった。
『そして、崩れ落ちる敗者を背に悠然と佇むのは飛将軍セキト! その鎧についた泥は、数多の勲章よりもなお輝く!! 世界よ、見よ!! 強さとは! かくも美しいッ!!』
対するセキトも泥にまみれていない部位などない。
だが、天に高々と右腕を突き上げる彼女の姿は誰が見ても美しかった。
滝のように流れる汗がウマ娘特有の高い体温により蒸発し、オーラのように漂う。
そして、彼女の赤く長い髪は泥にまみれてもなお、宝石のように輝いている。
『今、セキトがゆっくりとシンボリルドルフに近づいていきます』
『今回ばかりは友好の握手でしょう、ええ』
一頻り観客席にアピールしてきた後に、セキトは倒れこんだままのシンボリルドルフの下に行く。普段ならばルドルフは、結果がどうであれ立ち上がっているだろうが、今回ばかりはそうもいかないらしい。
「どうだ、
「……存外、悪くない気分だよ。上を見上げるというのは楽しいものだね」
「フゥン。皇帝様にも奇特な趣味があったものだな」
「ああ、私も自分に驚いているよ。全力で走るとこうも疲れるものなのかと」
初めて全力で走ったと、どこか清々しい表情で元無敗は語る。
そんなルドルフに何を思ったのか、セキトは一瞬考え込む仕草を見せ。
ルドルフの方に手を突き出す。
「それは?」
「見てわからんか?」
「私の知っている人を助け起こす手というのは、指を2本立てた状態じゃないよ」
「オレ様が何故、貴様を助け起こさねばならんのだ。自分で立て」
「ははは……手厳しいね。手だけに」
寝転がった状態で、立てられた2本の指を見つめていたシンボリルドルフだったが、やがてそういうことかと納得をみせる。
「私の真似だね? 秋シニア“三冠”を指で表している。2本は“天皇賞(秋)”、“ジャパンカップ”を取った証。そして、3本目は……」
「宣戦布告だ。有馬記念にオレ様は出る。貴様が自分の真似をされたくないというのなら……挑みに来い。今度は雪空を仰がせてやる」
「それは嫌だね。深い衝撃でショックを受けてしまいそうだよ」
苦笑しながらも、自分の脚でしっかりと立ち上がるシンボリルドルフ。
そんな姿にセキトはどこか満足そうに鼻を鳴らし、背を向ける。
「フゥン、それでいい」
「ふふ、これは貸しが出来てしまったかな。いずれ返さなければね」
「いらんわ。そんなことに頭を悩ます暇があったら、有馬記念で無様な姿を見せぬことに使え」
貸しを返すという言葉に心底嫌そうな顔をしながら、控室に戻ろうとするセキト。
そんな後ろ姿を黙って見送るシンボリルドルフ。
だったのだが、どうしてもあることが気にかかり声をかけてしまう。
「セキト、有馬記念と言えば年末だが……」
「フゥン、それがどうした?」
「君―――二学期の期末テストは大丈夫そうかい?」
無言のまま固まるセキトの姿に、第2回テスト勉強会の開催が決定されたのだった。
次回は3人の有馬記念と勉強会を書く予定です。
亀更新ですが、気長にお付き合いくださると嬉しいです。