ライスの退院から二か月あまりの時が過ぎた。
その間、足の経過は常に確認されたが、おおむね問題なく徐々に普通に歩く事、軽いジョギング、人が走るのと同じくらいのペースで走れるようになり、徐々に本来のライスのように走っていく事が出来るようになってきた。
とはいえ、まだ完全な状態とはほど遠く、天皇賞春を勝利した時と同じように走る事は到底出来ておらず、レースに復帰するにもまだまだ時間はかかりそうだった。
ライスはトレーナーと一緒に、基礎練習から再度やり直し、危険の無い範囲で走るトレーニングやフォームの確認、筋力トレーニングなどを段階を踏んで行っていった。
それは、デビューする前に時間が戻ったかのようで、トレーナーはデビューしたばかりの頃を思い出した。
出会った当初、ライスはG1を勝利する事が出来るようなウマ娘になるとはまるで思っておらず、同世代のウマ娘の中では中堅程度の成績で終わると思っていた。
だが、彼女には生まれ持った類稀なるスタミナと長距離に対する強い適正があった。
それは徐々に花開き、デビューから4戦目になるスプリングステークスで始めて対戦したライバル、ミホノブルボンに敗北したところから、彼女の中にブルボンに勝利したいという強い願いが生まれ、その後は皐月賞、ダービートライアル、日本ダービーと三度の敗北を重ねるが徐々に差が縮まっていった事でライスとトレーナーは自信を深め、そこから菊花賞に向けて照準を合わせ、ダービーから800メートル伸びる事や他のコースと比べて起伏の激しい京都レース場での菊花賞で先行したあるウマ娘の存在によってかかり気味になっていた事も手伝い最終直線でブルボンの隙をついて一気に抜け出し、勝利してみせた。
だが、そこでライブは観客からのブーイングとウイニングライブで無視された事がトラウマとなってしまい、次に出走予定の天皇賞春を辞退しようとした。
それを止めてくれたのはブルボンだったそうだ。彼女の言葉はライスの背を押してくれて、その結果、あの稀代のステイヤーであるメジロマックイーンを倒す事に繋がった。
その後は二年間、不調や怪我に泣かされて勝利から遠ざかりながらもライスは懸命にトレーニングを続け、昨年の天皇賞春の勝利へと繋がった。
トレーナーとして共に過ごした時間はもう随分長くなったが、ライスには驚かされてばかりだ。昨年の天皇賞春でのロングスパートもまた、トレーナーの指示ではなく、彼女の判断だったから。あの戦い方で勝利を収める事が出来ようとは誰も思わなかった。
共に過ごせば過ごす程、彼女はライスの可能性を強く感じずにはいられなかった。
だから、昨年の宝塚記念での事故は心臓が握りつぶされたかと思う程だった。それでも、こうして帰ってきてくれた以上、トレーナーとして彼女に寄り添って行きたいと願う。
ライスはこんなところで終わる子じゃない。絶対にまた、あのレース場へ戻して見せる。
同僚のトレーナーやチームの先代トレーナーからはもう走らせるべきじゃないと言われたが、それでも自分はこの子を走らせてやりたい。
そこに、あのミホノブルボンが関わっているのも分かる。当のブルボンは、ライスに何かを伝えようとレースに出場し続けていた。それを見たライスも思う所があり、奮起してくれたから自分としてもありがたい限り。宝塚の事故の際もいち早くライスの元へ駆けつけてくれたしブルボンにも感謝してもしきれない。
「お姉さま……外周終わったよ」
と、息を少し荒くしながら、ライスがトレーナーの元へやってきた。
トレーナーは頷き、ライスに笑いかける。
「お疲れ様。じゃあ、今日は上がりましょうか」
トレーナーが言うと、ライスも頷き、居住まいを正す。そこへ、誰かの足音がやってきた。
「はぁい、ライスちゃん」
現れたのは、マルゼンスキーだった。彼女は驚いているライスの元へ歩み寄る。
「今日のトレーニングは終わりかしら?」
「ええ。今日のメニューは全部済みましたよ」
「じゃあ、ちょっとライスちゃんをお借りてもいいかしら? 丁度ドライブに出かけようかと思ってたんだけど。どうせならライスちゃんも一緒にどうかしらと思って」
マルゼンが優しい笑みを浮かべて告げると、トレーナーも快く頷く。
「ええ。構いませんよ。今日は医師の経過確認もありませんし。それに、トレーニングばかりじゃ息も詰まるでしょうし」
「お姉さま?」
「せっかくのお誘いだし、行ってらっしゃい。まだ時間も速いけど、寮には門限に間に合うようにはね。ヒシアマゾンさんが心配するから」
ライスに優しく語り掛けるトレーナー。それからマルゼンにライスを宜しくお願いしますと告げて、その場を後にする。
実際は、マルゼンがライスを何処に連れ出すつもりかは事前に聞いて知っている。
自分もこっそり向かうつもりだし、問題は起こらないだろう。
これから起こる事に、あの子がどういう決断をするか、見届けておきたいから。その決断に自分も従うつもりだ。
トレーナーが去った後、ライスはマルゼンを見上げた。
「マルゼンさん」
「ん? 何かしら?」
「ライスと一緒で良いの? ライスと一緒だと、赤信号にいっぱい引っかかるけど」
「今日はゆっくりと走りたい気分なのよ。さぁ、行きましょう」
マルゼンに促され、彼女の乗るスポーツカーに乗り込んでシートベルトを締める。
程無く車はゆっくりと発射し、トレセン学園を出発した。
それから街中を走り、高速道路に乗って、更に進んでいった。
「マルゼンさん。今日は何処に向ってるの?」
「内緒。着いてからのお楽しみよ」
マルゼンは余裕たっぷりな笑みを浮かべてはぐらかし、そのまま高速道路を規定の速度で進み、更に更に遠くまで進んでいく。
それから、どれくらい時間が経過したか。
高速道路を降りたのは、京都だった。
そこから車が進んでいく先は見覚えのある景色が見え始める。
「マルゼンさん。ここって……」
「流石に気付くわよね。そうよ。向ってるのは京都レース場よ」
肩を竦めて告げるマルゼン。そう受け答えてる間に、車は京都レース場が目視出来る範囲に到着していた。そのままマルゼンは京都レース場のURAの経営している専用駐車場に車を止める。
「さ、行きましょう。見せたいモノがあるの」
マルゼンに促されるままレース場に入ったライス。そのまま彼女の後ろについていくと、観客席の最前列へと誘われた。
「あー、ライス。マルゼン先輩も」
そこにいたのはチームスピカの面々だった。二人にいち早く気付き、トウカイテイオーが声をかけてきた。
「テイオーさん。それにスピカさん達。どうして?」
「ちょっとライスに見せたいものがあって。マルゼン先輩と協力して来てもらったんだ」
テイオーもマルゼンと同じ事を語る。
『続いてパドックに登場したのは、昨年にレースに復帰した二冠ウマ娘ミホノブルボン』
と、そこで場内アナウンスが流れる。見れば、パドックにはよく知るウマ娘の姿。
「…ブルボンさん」
パドックに登場したミホノブルボンは堂々と観客の声援に答え、自身の好調をアピールした。
それを見て、ライスは驚きに目を離せなくなった。
「今日は天皇賞秋。ブルボンちゃんが出走するのよ。その姿を映像じゃなくて実際に見届けて貰おうと思って、今日の事はライスちゃんに隠していたのよ」
マルゼンはそういってライスの背に手を回し、最前列にライスを促した。
されるがままに、ライスは前に出ると戸惑いながらも前に出て、ブルボンの姿を見詰めていた。
やがてパドックから全てのウマ娘がターフに移動し、続々とゲートに入っていく。
「さぁ、全てのウマ娘がゲートにおさまりました。今年の天皇賞秋、いよいよスタートです」
実況が場内アナウンスで告げると、会場全体に緊張感が走り、静寂が溢れる。
スタート特有の緊張感。レース場でのゲートが開く数秒間の特別な緊張感を、ライスは久しぶりに体感していた。
そして、ゲートは開かれた。
そこからは、あっという間の出来事だった。
ゲートが開いた瞬間、鋭い加速で先頭に飛び出したのはミホノブルボン。そこにピッタリ横に一人ウマ娘が並び、更にもう一頭が真後ろについてのレース。有力馬のマヤノトップガンやマーベラスサンデーなどが中段につける。
ブルボン先頭のまま、第三コーナーを通過。陣形はそのまま変わらず、最終直線にまで突入。
そして、最後の直線に入った瞬間、マヤノトップガン、サクラローレル、マーベラスサンデーと外に膨らみながらも差しの体勢でスパート。
しかし、それでもまだブルボンは先頭。いつの間にか、真横に並んでいたウマ娘は置いて行かれる。そこからブルボンが先頭をちぎるかと思いきや、背後からマヤノトップガンと三番手のウマ娘がブルボンに並ぶ。そのまま両者一歩も譲らず、そのままゴールまでなだれ込みゴールイン。
審査が出たが、ブルボンともう一頭のウマ娘は一歩も譲らず、同着一位、二着マヤノトップガン、三着サクラローレル、四着マーベラスサンデーの結果に終わった。
G1レース久々の勝利となったブルボンだったが、同着という事で勝ち切れなかった事に悔いが残っている様子で少し悔しそうに奥歯を噛んでいるようだった。
その鮮烈なレースに、ライスは言葉も出せずに呆然としていた。
ブルボンさんが、勝った。同着だけど、久しぶりにG1を勝利した。
その事実が自分の事のように嬉しいと同時に、何だか胸の中に蟠りのような何かが残った。
この想いは何だろう?
ライスは自分の心の中に生じた何等かの感情が一体なんなのか、自分でもまるで分からない。
そうこうしている間に、勝利者インタビューが始まり、ブルボンともう一人のウマ娘がターフに並ぶ。
表情の固いブルボンは自分の番が回って来るまで直立不動で黙って立っていた。
「では、もう一人の勝者、ミホノブルボンんさんです。久しぶりの勝利、おめでとうございます」
「はい。同着ではありましたが、勝利出来た事本当に嬉しく思います。どうしても勝たなければと思っていましたので」
無表情のまま、いつものように淡々と告げるブルボン。
「なるほど。今回の勝利は是が非でも欲しかったという事ですね? それは復帰後にG1勝利が中々飾れなかったからという事でしょうか?」
「いえ。今回は、どうしても勝利を見せたい相手がいたのです。彼女は今、観客席の何処かにいると思います」
そう言って、ブルボンはテイオー達と最前列で観戦していたライスの方を見た。
「彼女はレース中に負った大きな怪我からようやく復帰し、走れるようにもなったと聞いています。これまでの勝利は全て、彼女に贈る為のモノでした。彼女が復帰さえ絶望的な状況でした。私は医師ではありませんので、彼女の為に出来る事は思いをこめて勝利する事だけでした。そして今日、彼女の退院祝いとして勝利を贈りたいと思っていたのです」
真直ぐライスを見詰め、はっきりと言い切るブルボン。そして、アナウンサーからマイクを奪うとそのまま叫ぶ。
「そこで見ていたのでしょう、ライス! 私は待っていました。貴女がかつての私のように、観客席で私の走るレースを見てくれる日を! あの宝塚記念から今日までずっと、貴方に見届けてもらう為に私は走り続けました」
その言葉は、インタビューでは無く、最早個人へ当てた言葉だった。
ライスは急に声をかけられた事で驚き、声も出す事が出来ずにブルボンを見詰めていた。
「貴方の帰りをずっと待っていました! 貴方は絶対ここに帰って来ると! だから、今度は貴方とまたレースで走りたい! 貴方と肩を並べ、あの菊花賞の続きを、菊花賞の先も共に走る筈だったレースを今こそ!」
その言葉に、観客たちも黙って聞いているしかなかった。ブルボンの抱えていた思いに、彼らは心を撃たれてざわめきを上げる事さえ出来なかった。
「今すぐで無くても良い。マスターを通じて、貴方の復帰は来年の春ごろではないかと聞いています。だから今度は長距離レース3000メートル、いや貴方が二度制した3200メートルで貴方に勝利して見せます! もしも次の春に復帰出来たなら、私と天皇賞春で戦って下さい! ライス!」
そして、ブルボンの叫びは彼女の願いに変わっていた。
かつて菊花賞で敗れた相手に、距離が更に長い3200、しかもライスが二度も勝利して見せた天皇賞春での勝負を、彼女は心から望んだのだ。
その言葉に、場内はついにどよめいた。
まさかブルボンがライスに長距離で宣戦布告?
それは観客として見ていたスピカのメンバーだけでなく、カノープスやリギルと言ったチームや彼らと戦った事のあるウマ娘達など、客席にいた全てのウマ娘がどよめきを上げた。
それは、その宣戦布告を受けた当の本人であるライスも同様だった。
何しろ、わけも分からず連れてこられて、ブルボンの走る姿を見せられてからのコレだ。
動揺するのも仕方の無い話。
しかし、心の中にあった蟠りがこみ上げてくるような気がした。
それは、ブルボンと走りたいという願いとして、はっきりライスの胸中に浮かんできた。
走りたい。
ブルボンさんと、また……。
ずっと、ずっと待っていたのだ。彼女の帰りを……。中々復帰が上手く行かずに苦しんでいたブルボンを見ていた。去年、宝塚出走を決めたのも彼女が帰って来るからというのがあった。
だから、この宣戦布告を受けたい。
心の中で、その思いが全身を駆け巡っていった。
『……もう良いだろ! これ以上、あの子を苦しめるわけにはいかない』
ただ、あの病院で聞いたあの言葉。
あれはトレーナーの師匠であるチームの先代トレーナーのモノだった。
今のトレーナーがライスの事を担当する事に際して、彼女の力を見極めたのも彼だった。
トレーナーにとっても、彼は大きな存在。
そんな相手がライスを走らせるのに反対している。
その事はとても大きな意味があるのではないか? トレーナーは反対していたが、それでも彼の意見を無視出来ない所もある。
だから、ライスはどうしたら良いか、分からない……。
「ライスちゃん」
そんな風に悩むライスを、背中から抱き寄せて、マルゼンが呟く。急にされて、ライスは驚いてマルゼンを振り返る。
「マルゼンさん」
「こういう時は、自分の気持ちに従っちゃえば良いのよ。誰が何と言おうと、貴方の意思が一番大事なの。貴方がどうしたいか、言っちゃいなさい」
母のような笑みを浮かべ、マルゼンはライスを諭すように告げた。
その言葉で、ライスの中にあった悩みは嘘のようにとけていった。
気が付けば、インタビュワーがライスの元へ歩み寄ってマイクを向けてきた。
そのマイクに戸惑いライスが見上げると、インタビュワーも優しく笑って、答えてあげてくださいとこっそり彼女にささやきかけた。
そうして、周りが注目する中、ライスは思案する。答えはもう決まっていた。
「ライスは……」
そうして、ライスはゆっくりと語りだす。
「ライスも、ブルボンさんと走りたい。また同じターフを! 例えちゃんとは走れなくても、一緒に走っていきたい。だから、その挑戦、受けます!」
その言葉が場内に響いた時、静寂が流れた。が、誰かの声が微かに響きだしたかと思うと、。徐々にそれはどよめきへと変わり、大きな歓声となって響き渡った。
その歓声は、更に大きくなっていき、誰かがブルボン!ライス!と叫ぶと、その声につられて二人の名前を叫ぶ人が増えていき、場内は二人のブルボンとライスの名を呼ぶコールとなって場内全体を包んでしまった。
その歓声の中心で、ブルボンとライスは互いを見つめあっていた。
それから暫く、ブルボン、ライスコールが続き、場内の興奮はまるで収まる気配もなかった。
「全員、ちゅうも~~~く!」
突然そんな声が轟いた。途端、観客たちは叫ぶのを辞めて、背後を振り返る。
そこに立っていたのは、小柄な長髪の女性と、その傍らに緑色の服に身を包む長身の女性。
「あれは……トレセン学園の、秋川理事長?」
「理事長だ。急に出てきてどうしたんだ?」
そんな声がざわざわと聞こえる。その中で、声の主、秋川理事長は更に叫ぶ。
「話は全て聞かせてもらった。我が校の生徒二人が、来年の春に勝負をしたいとの事。しかし!」
そこまで叫び、彼女は手に持った扇子を左の手のひらにぶつけた。
「不安! ライスシャワーはまだ、ようやく退院し、学園に復帰したばかり。来年の春とはいえ、すぐにレースに出場資格を貰える程の走りが出来るかは依然分からない!」
それを聞き、観客たちも確かに…と誰もが頷いた。ライスシャワーが宝塚記念で負った怪我は相当なモノだった。幾ら歩けるようになるまで回復したとはいえ、レース復帰はまだ先の事。予定通りに出走できるかは分からない。
そんな観衆の反応を満足げに見下ろし、理事長は扇子を広げて前に突き出した。
「そこで! 私は、春のファン感謝祭で特別なレースを開催し、二人の勝負はそのレースでするという事を提案する! その名も、春のファン感謝祭エキシビジョンカップ! 場所は京都レース場、距離は3200」
その宣言に、観客は愚か当事者であるライスとブルボンも驚いた。ファン感謝祭で特別なレースを? 場内は新たなるどよめきに包まれた。
「このエキシビジョンカップには、ブルボン、ライス意外にも十六人のウマ娘が出走する事を認める! こぞって参加するように! 以上!」
その一方的な宣言によって、場内は歓声からどよめきに包まれ、ウイニングライブに移動するまでそのどよめきは続いていた。