司祭(ジェイラ)さんと悪魔(ルシーズ)さん 作:ゼルダ・エルリッチ
あー、やっちゃったー。
床に座ってベッドに頭を埋めながら、心の中で絶叫した。
帰り道の間中、後悔のしっ放しだった。なんとか、頭の中の理性がリュックの中の傘を取り出してそれを使わせたのだけれど、すでに制服は半分くらい濡れていた。中途半端に濡れるより、潔く全身ビショビショになってしまった方がまだスッキリしたかもしれない。その方が、私の中のモヤモヤを洗い流してくれただろうに。
今日は色んなことがあった。いや、あり過ぎたと言ってもいいくらいだ。その中でも一番大きかったのは、ジェイラとの新たな習慣を獲得することができたということ。授業日数のことは私も前から考えていた。でも反面それはあの教会での会合がなくなるということを意味していて、ずっと葛藤に悩まされてもいた。その中での、ジェイラからのあの提案。町で待ち合わせて、一緒に帰る。世間一般から見れば、それがなに? と言われてしまいそうなことだけど、私にとっては雲に登るほどの出来事だった。ジェイラが私を特別扱いしてくれているような気がして、素直に嬉しかったから。
それに加えて、勉強会の約束まで取りつけることができた。ジェイラの成績があそこまで良くないというのは初めて知ったけど、でもそのおかげ(?)で、放課後にお互いの家に出入りする理由ができたわけだから。勉強会ともなれば、二人で過ごす時間も大幅に増える。これなら教会での会合がなくなってしまっても、その埋め合わせには十分だろう。
そんなことを考えながら、私は大分浮かれていた。そのはずだった。
でも、それが一変した。
あの異国のお菓子屋でジェイラの口から出た言葉に、私はひどく打ちのめされた。心臓をナイフで一突きにされたほどの痛みだった。
ジェイラの友人関係のことは私もよく承知している。メアとテセナというクラスメイト。メアの方には一度会ったことがあるので顔は分かる。でもテセナの方は伝話越しの声がちょっと漏れていたくらいで、会ったことはない。二人ともジェイラと交友があるのだから悪いやつでないことは分かるし、そうに決まっている。でも私にとって未だ彼女達は、ジェイラの話の中に登場する物語の登場人物に過ぎなかった。
その彼女達と遊びに行くというのは、正直あまり興味はない。私は誰かと一緒に遊びに行ったりすることはほとんどなかったし、大勢で騒いだりするのも苦手だ。自分と二人だけなら相手に合わせていけばなんとかならないこともないけれど、それが三人以上となると、誰に合わせればいいのか訳が分からなくなる。結局、会話に入っていくこともできず、ただ委縮してしまうだけになるのが常だった。
それなら別に、無理して人と付き合う必要もない。そう思ってきた。自分が縮小してしまうだけだったら、一人でいる方が楽だから。無理に心を捻じ曲げて人と付き合ってみたとしても、そこになにか大事なものが生まれるとは思えなかった。
でもジェイラに出会ったことで、私の心は大きく変わった。運命の出会いといったら大袈裟だろうけど、ジェイラは他の誰とも違っていたから。
あの日、私はいつものように教会にいた。あの教会を見つけたのは随分前のことだったけど、実際通い始めたのは夏頃からだった。頭上からの容赦ない日照りに耐えきれずに、屋内に避暑を求めたことがキッカケだった。
新しい学校生活に疲れ始めていたこともあって、私はそれから度々あの教会に籠るようになった。家族に心配はかけたくないから、学校もそこそこに出る。でも午後になれば授業を早々に抜け出して、後は教会で時間を過ごしていた。
そんな中、ジェイラに出会った。教会のベンチでウトウトしていて、なにかの気配で目が覚めると、目の前に彼女が立っていた。
初めは全く状況が理解できずにいた。誰? とかなんとか言っていたと思う。思えばジェイラからしてみれば、私の方が誰だと言いたかったことだろう。私は完全に部外者で、その部外者が神学校の敷地の教会に不法侵入していたわけだから。
でもジェイラは全然気にもしていなかった。私の隣でおやつを食べ出して、私にもそれをくれた。別にお腹は減っていなかったし、寝起きでもあったので正直全然食べたい気分ではなかったのだけれど、彼女が差し出したそれは、なんだかとても特別なものに思えた。
それからの私の行動は、今にして思えば全くしくじったと思う。変な気恥ずかしさと心の動揺が手伝って、早々に教会から逃げ出してしまった。名前もなにも聞いてないし、歳がいくつかも聞いていない。そのまま二度と会えなくなる可能性も大いにあり得た。
そんな思いを抱えたまま、翌日。私は再び教会を訪れた。ひょっとしたら、彼女がまた来るかもしれないと思ったから。
そして扉が開かれる。
その扉の向こうから、彼女が私のところへやってきた。
それからなにを話したのか、あんまり覚えていない。一つはっきり覚えているのは、私が差し出したアビスを彼女が気に入って飲んでいる姿だった。
私はジェイラのなにが気に入ったのだろう。気に入った、という言い方はちょっと語弊があるような気もするけれど、他の言い方が見つからない。でも、ジェイラが他の誰とも違っていることは確かだ。私の心の中に、スッと入ってくるような感じ。余計な気遣いもなければ、私の心が委縮してしまうこともない。むしろ、私という存在を大きく包み込んだうえで、縮こまった心を温かく広げてくれるような、そんな感じだった。
それに、ジェイラは美人だ。綺麗だし、かわいいとも思う。それもまあ、やっぱり理由の一つに含まれるのだろう。こういう言い方だと、ちょっと私がなんだかそういうあれのような気もするけれど。でも、美人が嫌いな人というのはやっぱり少ないと思うし。
そういうことも全部含めて、ジェイラは私の中での特別な存在だ。それははっきりしている。でも、どの程度まで特別なのかと考えると、ちょっと身構えてしまうところはある。
そんなジェイラに友人がいるのは当然だとは思う。でも私は、そこに一種の嫉妬めいたものを感じてしまっている。
そんなことを思うのは間違っているし、子供じみたことであるとも思う。それは分かっているけれど、私はその思いを消すことができずにいる。ジェイラと特別な関係でありたいという思いは、言わばそこから生まれてきた。必然的と言っても差し支えないと思う。いや、差し支えるかもしれないけど、それは取り敢えず置いておくことにする。
私はジェイラにそんな気持ちを抱いていた。私にとっての特別だし、特別に思って欲しいとも思っていた。そしてそれは、少なからず得られているとも感じていた。ほんのささいなことかもしれないけれど、ジェイラの一つ一つの行動がそれを表してくれていると思っていた。
独占したいとまでは言わない。でも、ジェイラが私のことを特別に思って欲しいという気持ちは正直あった。
そんな中、今日あのお菓子屋でジェイラの口から出た言葉は、私以外の友人に対する言葉だった。今日は皆で遊びに行くその前に、二人で町に行こうということだった。だから私は、凄く嬉しかった。ジェイラと二人で出かけるのはこれが初めてだったし、二人だけで町に行くのも初めてだったから。
私は多分、浮かれていたんだと思う。そして変に期待し過ぎてもいた。自分勝手な思い込みだということは痛感している。私の悪いところが出てしまったのだと。
ジェイラは優しい。だから、それが他の友人に対しても働くということは、ごく当たり前のことだろう。でも私は自分勝手で、それを受け入れることができなかった。
他の友人達に対しての気持ちと、私への気持ちが、同じものとして扱われたような気がして。
ジェイラにとって、私は他の友人達と一緒なんだと。
ジェイラが他の友人達のことを楽しそうに話していて、ジェイラが明日、私の知らない教室で、私の知らない会話をして、私の知らない笑顔を見せている。それらは全て、私以外のものに向けられているもので、私にではない。
私に向けられるものは、そんなジェイラの日常生活の中のただの一部分に過ぎない。私はジェイラにとって、ただの一部分でしかない。
そんな思いが黒雲のように湧き起こって、
私の心は疎外感に包まれていった。
なにも考えることができなくなって、私はその場から逃げ出していた。思えば以前、町でジェイラに会ったときもそうだった。折角ジェイラに会えたというのに、他の友人が一緒だと思っただけでその場から逃げ出してしまっていた。ジェイラの姿が、私の知らない異質なものに見えてきて。
こんなことは変だと分かっている。幼稚だと言ってもいい。この歳にもなって、なにを小さな子供のようなことをやっているんだと。
でも、私にとってジェイラは、やっぱり特別なのだ。
他の友人と同じというのは、やっぱり嫌だ。
特別に思って欲しい。
でも、こんなことジェイラに言えるわけがない。あなたは私の特別です。だから、私のことも特別に思って欲しい。
これじゃまるっきり、告白の言葉と同じじゃないか。
それは違う。別に私は、ジェイラにそういうことを求めているわけじゃないのだ。ただ、ジェイラが誰か特別な一人のことを思い描くときに、私のことを真っ先に思い浮かべて欲しい。それを求めているだけだ。
……あれ? それって結局、そういう相手のことなんじゃないのだろうか?
いやいや、そうじゃない。…………と思う。
思い起こしてみる。
一緒の傘に入りたかった。ジェイラとの距離が縮まる気がして。
手を握った。握手のどさくさに紛れての行動ではあったけれど、ジェイラともっと親密な関係になりたかったから。
あれぇ? 思えば思うほど、これは変なんじゃないだろうか?
いやいや、そうじゃない。私はただ、ジェイラともっと仲良くなりたいだけだ。
そういうことではない。ない、はず……ないよね?
って、今はそういうことを考えているときじゃない。とにかく私は、大きなポカをやってしまったのだ。
変な想像に走っている場合じゃない。
ジェイラとの疎外感がまた思い起こされて、胸が痛む。次に私が取るべき行動は、一つだった。
湿ったリュックからケータイを取り出す。急いでいたので、手を滑らせて床のカーペットの上にケータイが落ちた。落ち着け、落ち着け。自分に言い聞かせながらケータイを拾い、真っ黒な画面を指で押す。一番最初に登録されていたジェイラの画面を呼び出した。というより、他には家族と親類の登録しかされていなかったんだけど。
通話……はやめておこう。今の私じゃ言葉が全く出てこない。わけの分からないことを口走ってしまいそうだ。ここはメールだろう。
メールの作成画面を呼び出す。文章を考えるけど、やっぱり頭が上手く回らない。
『さっきはごめん』
まずは謝ろう。でもこの後はどうする?
『私はただ』
『ジェイラに特別に思って欲し』
って、なにを言おうとしてるんだ私は。急いで消した。
『さっきはごめん。また明日、馬車のところで』
ようやく文章を捻り出した。月並みな言葉だけど、今はこれが一番無難なところだろう。
『学校終わったら、すぐ帰るから。アビスも持ってくから。待ってて』
文章をつけ足してみたけれど、やっぱり消した。余計なことはあんまり言わない方がいいだろう。どうも私は普段の口数は少ないくせに余計なことは言いたがる性格をしているらしい。
その点、ジェイラはサッパリしている。ジェイラとメールでやり取りしたことは今までにもあったけれど、ジェイラからのメールはどれもサッパリした文章ばかりだった。でもそれはジェイラの性格から来ているもので、心が籠っていないわけではないということも認識していた。でもやっぱり本音を言えば、もっと色んなことをつけ足して欲しいとは思っていたのだけれど。
少し迷ってから、送信ボタンを押す。
手紙にちょうちょの羽が生えて飛んでいく絵が表示されて、
「送信完了」のメッセージが出た。
時計を見る。十七時ちょうどになるところだった。ジェイラももう、家に着いているだろう。
伝話の側にいるだろうか。雨の後だから、お風呂に入っているかもしれない。
今更ながら、身体が雨で濡れていることに気がつく。私も早くシャワーでも浴びないと風邪を引いてしまいそうだ。濡れた制服も乾かさないといけないし。明日も学校だ。
そんなことを考えていたとき、
ピロンッ。
ケータイからメール着信の小さな音が聞こえた。
慌てて画面を確認する。ジェイラだった。早い。
バクバクと鳴る胸を押さえながら、メールを開く。
緊張で倒れそうなほどだった。
『オーケー』
えと、……これだけ?
うーん。ジェイラらしいと言えばらしいけど。
これだと全然感情が分からない。せめて「♪」マークでも付けてあれば機嫌も分かるんだけど。
私が勝手に帰ってしまったから、やっぱり怒っているのだろうか?
それとも、気にもしていないのだろうか? それはそれで嫌だけど。
追加のメールを送ろうと思ったけど、それもやめておいた。
なんだか堂々巡りになる気がしたし、そんなことをすればするほど、変なボロを出していきそうな気がしたから。
取り敢えず、今はこれで我慢するしかない。そう思った。
明日ジェイラに会ったら、まず一番に謝ろう。
本当のことはとても言えないから、なにか言い訳を考えておかなくちゃ。
ヒャックチッ。
そんなことを考えていたら、変なクシャミが飛び出した。自分でも、どこから出たんだ今のと思ってしまうほど。
……まずはシャワー浴びよう。
冷静になって立ち上がる。
あれこれ考えるのは、それからだろう。
一人思いながら、濡れた制服を機械的に脱いで着替えを出した。
翌日。私にとって新たな旅の出発のような朝を迎えて、身震いする。ストーブの火はもう消えていたので普通に寒かったけど、心はなんだか火がついたように火照り切っている感じがした。
なんとも言いようのない気分になって、窓を開ける。いつもの山と畑の風景は全く頭に入らなかった。雑木林に阻まれて全然見えないけれど、その景色の先には神学校があって、さらにその先にはジェイラの住んでいる住宅街がある。まだ随分と早いから、ジェイラはまだ寝ているんだろう。いつもギリギリまで寝てるって言ってたから。
ジェイラの家には、まだ上がったことはなかった。前にジェイラの家まで一緒に帰ったときには、家の前で別れて帰ったから。外見はやっぱり普通の家。二階建てで、屋根は暗めの赤。小さめの庭とウッドデッキがあった。庭の芝生の上に子供用の小さな馬車の乗り物があったけど、弟と妹がいるって言ってたからそのどちらかのものだろう。男の子用っぽかったから、多分、弟の方。五年生とか言ってた。妹はもっと小さいと言ってたけど、詳しくは聞いていない。
ジェイラの部屋は見たことがない。上がったことがないのだから当たり前だ。でも私は勝手に想像してしまっていて、今はその想像の部屋の中でジェイラが寝ている姿を頭に思い浮かべていた。
教会でのジェイラの寝顔を思い出す。私の膝の上でまどろむジェイラは、本当に猫みたいでかわいかった。
気がつくと、だらしなく口元を緩ませてにやけている自分の姿があった。ハッと我に返って、窓をピシャリと閉める。ガラスに映った自分の顔を見て、両頬をパンと両手で叩いた。
朝っぱらからなにを考えているんだ私は。ちょっと自己嫌悪。
朝食の間も頭の中には様々な考えが巡り回っていて、ごはんの味なんてサッパリ分からなかった。多分、目玉焼きにトーストを食べたのだろう。それと、水。牛乳はあまり好きじゃない。家族からはいつも勧められているけれど。でも、今更飲んでももう成長期は過ぎているし。
そのまま、意を決して学校に向かう。馬車乗り場に着いて、変に緊張する。学校から帰ったら、ここでジェイラに会うことになるのだ。
意味がないとは分かっていたけど、辺りを見回してジェイラの姿を探してしまった。いるわけないのに、こんな早朝に。アホか。
授業なんてサッパリ頭に入ってこなかった。元々興味もなかったけど、今日は特にだ。教師の書いた黒板の文字を機械的にノートに写す。教科書の内容はずっと前から予習していたので、今更といった感じだった。
午後の授業は、つまらなさにも加速がつく。ジェイラは午後は眠くてしょうがないと言っていたけど、私はそれほどでもない。でも、こうやって退屈な授業を受けていると、本当に子守唄でも聞いているかのような気分になる。取り敢えず、体育の授業がなくてよかったと思う。運動は嫌いではないけれど、今はとてもスポーツなんてする気分じゃなかったから。
ようやく放課後。今まではずっとサボっていたから、私がこの時間にここにいることはとても珍しい。体調でも悪いのかと心配されそうなほどだ。普通は体調が悪いから早退するわけで、まるっきり逆だろうけど。
逸る気持ちを抑えつつ、リュックを背負う。何人かのクラスメイトが声をかけてきたけど、なにをやり取りしたのかもよく覚えていない。近寄ってくるのは主に男子ばかりで、そう言えば午後の授業中にもよく目があった。私が授業を受けていたのが余程珍しかったらしい。
なにか困ったことがあったら言ってね、なんて言われたことは覚えている。それに対して私は、ありがとうと言ったような気がする。あと、女子生徒が三人くらい寄ってきて、このあとなんか用事あるかな? なんて言ってきた。遊びに行こうとか、なんとか。それも私は、人を迎えに行かないといけないからと断った。
思い返してみればみるほど、私は酷いやつなのかもしれない。折角、仲良くなろうとしてくれているのに、それに応えようともしていない。
でも私は私なりに、人付き合いへの価値観というものがあるのだ。誰かれ構わず付き合いたいというわけじゃない。もちろん、好意を持ってくれるのはありがたいと思うし、とても恵まれていることだとも思う。こんな私に対してならば、尚更だ。
でも、人と付き合うということには多大な苦労が必要だということを私は痛感していた。人付き合いには様々な痛みや苦しみが伴う。そして少なからずのトラブルもそこから生まれてくる。
それが人生だと言われればそうだとも思う。でも、私はそこまで心が強くない。痛みを突きつけられて、それに耐える自信もない。
言わばこれは、一種の自己防衛だろう。人付き合いの上手い人は、人付き合いの痛みをなんとも感じないか、それとも、痛みに耐える強い心を持っているかのどっちかだと思う。
私はそのどちらでもない。心は容易に傷つくし、元々強くもない。
だから私は、人付き合いに距離を置いてしまうのだ。不用意に飛び込めば、私も相手も傷つけてしまうから。
そんなことを思いながら、心は再びジェイラの方へ向く。
相手がジェイラであっても、人付き合いには変わらない。だからそこには当然、痛みや苦しみも生まれてくる。それは分かっていた。
でも、ジェイラはやっぱり私の特別なのだ。それ以外の理由は私には思いつかなかった。
自然と、私の足が逸り出す。
とにかく今は、早くジェイラに会いたかった。
乗合馬車の空間には未だに慣れることができない。客車の大きさには大小があるけれど、乗っているのは大抵十人から十五人程度。そのほとんどが私の学校の生徒だ。私のクラスの生徒とは同じ馬車ではなかったので、周りには知らない顔ばかり。でも私には、そちらの方が都合が良かった。これで顔見知りなど乗っていたら、またあれこれ話しかけられて神経をすり減らすことになるだろうから。
私はいつも、ぼんやりと景色を眺めながら過ごす。他の乗客達はお互いおしゃべりに花を咲かせているけれど、私はそういったことには興味がない。乗り物には静かに乗って過ごしたいタイプだ。っていうか、話しをする相手もいないから、自然、静かにしているしかないわけだけれど。
ここにジェイラがいたら、やっぱり私もおしゃべりに興じたりするのだろうか? ちょっと考えたけど、それはないと思った。ジェイラと二人のときも、そんなにおしゃべりが弾むわけではないし。ジェイラは適度に沈黙を守ってくれる。それは私に合わせてのことだろうと思うけど、それが私にはなんとも心地良かった。
町が近づいてくる。馬車乗り場の入り口に差しかかったところで、身を乗り出す。停車場の辺りを眺め渡して、そこにいる人達のことを一人一人確認していった。
馬車の中からではジェイラの姿は見えなかった。停車場に止まって、急ぎ足で降りる。乗り場を見回したけど、やはりジェイラの姿はない。
視線を先に飛ばして、シャトランデルデの軒先を見た。そっちにいるかもしれないとジェイラが言っていたから。でもそこにも、ジェイラは見つけられなかった。
私は走り出していた。シャトランの前まで来て、客席を覗き込む。まだ時間が早くて学生達は来ていなかったので、客席はガランとしていた。ジェイラはいなかった。
次第に、私の中に焦りが生じてくる。隣町では馬車乗り場のすぐ前に私の学校があったから、放課後はすぐ馬車に乗り込むことができる。15時45分発の馬車が一番早い便だった。当然私はこの便に乗って帰るわけで、それは前々から話していたことだったからジェイラももちろん知っている。馬車の到着が16時05分だということも知っている。
だからこの時間にこの場所にジェイラがいないということは、いくら考えてもおかしかった。一つ前の便は放課後より前の15時25分発だから、これに乗ることなんてできない。一便遅らせると16時25分着になるので、それに合わせてジェイラが来ることもないはずだった。そもそもジェイラはずっと、私が町に帰ってくる十六時にこの乗り場で待っていると言っていたのだから。
こうなると、最後の可能性まで考えてしまう。本当にトイレなのかも?
可能性としては無くはないので、祈るような気持ちでケータイを取り出した。本当にトイレではなかったとしても、ジェイラに伝話が繋がりさえすればどこにいるのか分かる。ひょっとしたら、なにかの理由で来ることができなかったのかもしれない。多分、そうだ。
通話ボタンを押す。呼び出し音が聞こえ始めた。
一回、三回、五回……。
十回……ジェイラは出ない。
ケータイを握る手にも力が入った。指がベタついている。不安と緊張が、私の心臓を溶かしてしまいそうなほどだった。
そのとき。
「とーう」
「ひぇっ」
後ろから勢いよくぶつかられて、はずみで前方に押し出された。わけも分からないまま、後ろを振り返る。
ジェイラだった。
通学鞄を胸に当てて、へらへら笑っている。この格好で、そのまま私の背中に突進してきたらしい。
以前の私と同じことをしてきたということは、すぐに分かった。
「へっへっへ、びっくりしたか」
腰に手を当てて言ってくる。
「ジェイラ。ってか、なにしてんの」
非難めいた目を向けた。でも同時に、このうえもないほど安堵している自分がいた。
「ちょっと、驚かしちゃおうと思ってねー。馬車が来たときから、隣のドラッグストアの中に隠れてた。以前のお返しも兼ねてだけど。ルシーズさんには、こういうドッキリもいいかなと思って」
「良くない。意地が悪い」
拗ねたような口調でつぶやく。本当に、私の心は潰れそうなほどだったのに。ドッキリで済まされてはたまらない。
「ま、たまにはわたしの方から心配させてみるのもいいかなと」
「え?」
ジェイラの意外な言葉に、驚いて尋ねる。
「心配させるのはルシーズ得意じゃん」
「そ、そんなことない」
顔を逸らして、目だけをジェイラに向けた。
「昨日だってさ、心配したぞ。いきなり帰っちゃうんだもん」
「あ……ご、ごめん」
急に話を振られたので、頭の中は混乱状態になってしまっていた。ジェイラに会ったらまず一番に謝ろうと思っていたのに、全くその段取りすらできなかった。一体このあと、どう取り繕っていけばいいのだろう? 考えてきた言い訳の内容すら、全部吹き飛んでしまっていた。
「まあいいよ。それよりルシーズ。昨日、ちゃんと傘差した? 風邪引いてないだろうね」
そう言ってジェイラは私の顔をジロジロ眺める。
「ちゃんと差した。帰ってすぐシャワーも浴びたし、平気……です。はい」
強がって言おうとして、最後は委縮してしまった。自分でも、なんだかモジモジした子供みたいだということは分かっていた。でも、
ジェイラが私のことを心配してくれた。
私にはそれだけで、充分過ぎるほど嬉しかったから。
こんなことがあると、私はすぐに顔に出てしまう。強がろうとしても、どうにもできなかった。
「それならいいけど。ホント、手のかかる子だルシーズは」
ジェイラが私の頭を撫でてくる。
私には、それに抗うだけの力はなかった。
ジェイラが敢えて、昨日の私の態度を問い詰めないでくれているということも分かっていた。普通だったら、怒ったり、理由を聞いてきたりするだろう。でも、ジェイラは違う。
決して無関心なわけではない。けれど、それが私に対する一番の気遣いであるのならば、敢えて気に留めていないように振る舞ってくれる。それは、ジェイラの優しさそのものだと言っていい。
ジェイラは優しい。そして今私に向けられているその優しさは、私に対して特別に形作られたものであるということも実感していた。
ジェイラに自覚があるのかどうかは正直分からない。
けれど今は、これで充分じゃないか。
ジェイラの熱を心に感じられる、このままで。
並んで歩き出して、通りを進んでいく。買い食いは今日はスルー。特に覗きたい店もなく、自然、私達はそのまま家に向かうことになった。これからは、これが私達のスタンダードになりそう。
「買い食いばっかしてたら、お金なんてすぐなくなっちゃうしねー。少しは倹約せんと」
通りに並ぶお菓子屋の軒先を眺めながら、ジェイラが恨めしそうに言った。
「じゃあ、代わりにこれあげる」
そう言ってアビスを差し出す。アビスは私の学校の購買に売っているので、お昼のパンを買うついでに二本買うのが習慣になっていた。一本はもちろんジェイラの分。
「これはどうも。いつも悪いけど」
悪いと言いつつ、躊躇なく受け取るのがいつものジェイラだ。
「別に大丈夫。購買で買えるから安いし」
「学校で売ってんの? これ。凄いな」
「どんな学校だと思ってるの」
ふざけ半分に言って、アビスを一口飲む。私の浮き足だった心が、冷たく静められていくような気がして心地よかった。
「わたしも飲み物くらいいつも買いたいけどねぇ。月末はいつもお小遣いピンチで無理。最近じゃ、家のお茶をポットに入れて持ってってるよ。ケチ臭いけど」
鞄からアルミの水筒を出して見せてきた。実質本位の外見。
「ウチは弟に妹もいるし、親からも倹約しなさいって言われてて。お小遣い増やしてとは言いづらいよねえ」
そう言ってジェイラは、ハァと溜め息を着く。
「ジェイラは、アルバイトとかしないの?」
「えー、バイトかー。うーん。した方がいいとは思うけど、面倒臭くて」
あはははと変に笑ってきた。
「っていうか、ルシーズの方はどうなの? 聞いたことなかったけど」
「土日だけ。お婆ちゃんの知り合いの食堂で働いてる」
「マジかっ。それは初耳。なんで黙ってた」
「言わなきゃいけないこと? それ」
呆れたように言ってみたけど、ジェイラは妙に興味を持ったみたい。
「そりゃ、気になるじゃん。よし、今度食べにいこう。ルシーズ見に」
「やめて。やめてください」
本気で否定したけど、ジェイラは、へっへっへと変に笑うだけだった。まさか本当に来ないとは思うけど。
「でもホント、ルシーズは立派だね。もう働いてるなんて。わたしにはやっぱり無理」
私の目を覗き込みながら言ってきたので、思わず視線を逸らす。顔が熱くなっているのを感じた。どうもジェイラに顔を覗き込まれるのは苦手だ。
「そんなことないけど。家じゃお小遣いもらってないから、バイトしなきゃどうしようもないし。それだけ」
「マジかっ」
そう言いつつ、「お小遣い増やしてとか言いたい自分がちょっと恥ずかしいな、それは」などとつけ足していた。でも、ジェイラならバイトの仕事だって、私なんかよりよっぽどそつなくこなせそうだけど。私は食堂のホール担当だったけど、私よりジェイラの方がそういうことは向いていると思う。やっぱり美人の方が、受けはいいだろうし。
「それはともかく、今度いくから」
さりげなく繰り返された。
「だから、やめてって」
もう一度念を押しておく。働いているところを友人に見られるのは、なんだか丸裸の自分を見られるみたいで恥ずかしかった。他人ならいいけれど、ジェイラだけはやめてほしい。
「なんか、言いづらくなっちゃったな」
「なにが?」
ジェイラが急に言ってきたので尋ねる。
「あー、ノート、一冊もらえませんかね? 勉強会用」
顎に指を当てて、目線を逸らしながらはぐらかすように言ってきた。どうやら私のノートを当てにしていたみたい。少しでもお金を倹約したいといったところだろう。
使ってないノートならいくつかあったので、断る理由もない。私は別に、ケチ兵衛でもなんでもないし。
いいよと言うと、
「助かった。お礼にわたしのサインをあげよう」
「別にいい。ってか、もらってどうするの、それ」
「将来価値が出るよ。なははは」
ジェイラはまるっきりふざけて言っただけだろうけど、私は内心、それはちょっといいかもなどと思っていた。多分、部屋に飾ると思う。
……いや、やっぱりそれはやめとこう。
すぐに思い直す。
なんだかわけの分からない気持ちになって、また顔が熱くなった。
「ところでルシーズさん」
「え?」
また急に声をかけられる。こちらが準備していないところに突然声をかけられるので、私の心はあちらへこちらへ右往左往しっ放しだった。心の中にも目の前にも、ジェイラ。まるでジェイラが何人もいるみたいに感じて、どのジェイラに対応すればいいのか迷ってしまう。
「今日はいいんですかね、手」
そう言って手をヒラヒラと振ってきた。その意味に、私はすぐに気が付く。
「あ……じゃ、じゃあ」
遠慮がちに、その手を取った。
並んで歩き出したそのときから、私の目はチラチラとジェイラの手に向いていた。ジェイラの手が時計の振り子のように揺れ動いているのを見ていると、なんだかそのまま、ジェイラがどこかへ消えていってしまうような気がして。
そんな私の視線に、ジェイラは気が付いていたのかもしれない。
そう思うと、私の顔はますます熱を帯び始めてきた。
「……いいの?」
「え? なにが?」
「あの、手。無理に合わせなくても」
「ああ、別にいいよ。ルシーズがよければね」
ジェイラがそう言ってにっこり笑う。
「それにしても、人と手、つなぐなんて何年振りなんだろ。幼稚園以来かな。あの頃は、なんにも考えてなくて。好きも嫌いもなかったよ」
なははと笑ってくる。私もつられてちょっと口元を緩ませたけど、ジェイラの言葉を考えているうち、今度は火照ったように顔が熱くなった。
小さい頃のジェイラは好きも嫌いもなくて手をつないでいたと言う。
ってことは、今は?
嫌いだったら手をつなぐなんてありえない。ってことは……。
だめだだめだ。
いかんいかん。
またおかしなことを考え始めている。
私は別に、そういうわけじゃないんだってば。ただジェイラと仲良くなりたいだけで……。
特別な仲に……。
特別の意味がよく分からなくなって、結局なんにも考えることができなくなった。
冷静になれ、私。
ふひゅう、と変な息を吐いて、頭に酸素を送ろうとする。
効果のほどは、サッパリだった。
「いやぁ、わたしも、手をつなぐのはいいもんだと思ってきたよ」
ジェイラの言葉に、コクコクと頷いて返す。なにも返す言葉が出てこなかったから。
「……ルシーズだからかな」
「ひゅえ?」
変な息を吐いたのと驚きとが合わさって、未知なる発音が生まれた。
こんな不意打ちはずるい。
「なっはっは、不意打ち」
私の心を見透かしたように言ってきた。
「これも、ルシーズ得意だよねー」
けらけら笑うジェイラを見て、なんとも憤る。
「……つなぐのやめる」
口を尖らせて、手を離そうとした。
「ごめんごめん。離しません」
逃げる私の手をぎゅっと握り返される。
そのまま、私の手はジェイラの言いなりになった。
ひょっとしたら、心まで? 多分それは違う。
分岐点に着いた。少しだけ脇道に入って懐かしの教会を横目で眺めつつ、荒れた細道を北へ。「ルシーズがぶつかってきたところだね、ここ」などとジェイラが言って、私は少し赤面する。あれはちょっと子供じみた行為だった。でも結果としてはジェイラと仲を深めることができたので、よかったのかもしれない。そして今日は、ジェイラが私にそれと同じことをしてきたわけだ。
道祖神と呼ばれる道の境目の石の柱を越えてしばらくいくと、私の家へ向かう道とジェイラの住む住宅街に向かう道の分岐点に着く。そして今、私達はその分岐点にいた。
なんとなくここまでやってきたけれど、実はまだどちらの家へ向かうか決めていなかった。答えを決めかねているうち、とうとうここまで来てしまったという感じ。お互いに主体性がないと、結局はこうなってしまう。私はジェイラの希望に従うし、ジェイラは私の提案を待っているといったように。
どうしようかと考えて、最後はジェイラの言葉に従うことにした。
「ルシーズの家でいいよ。先生に寄り道させるわけにはいかないしねー。いい生徒でしょ、わたし」
生徒云々はいいとして、ジェイラの希望なら異論はない。
「じゃあ、それで。今度はジェイラの家にしよう」
ジェイラの家には上がったことはないわけで、私も興味があった。妄想の中では、ジェイラの部屋の間取りまで知っていたけれど。
「あー、よく考えたら、うちだと勉強の環境じゃなかったかも」
ジェイラが思い出したように応える。
「どうして?」
「ちび達が騒いでうるさいし。友達なんかもどんどん連れてくるから、大騒ぎ」
「そうなんだ」
ジェイラの弟と妹か。想像してみる。弟は分からないけど、妹はジェイラに似ているんだろうか。やっぱり年下のきょうだいというのは、かわいいものなんだろうか。
「私は別に、気にしないけど」
素直な意見を言ってみた。ジェイラのきょうだいなら私も仲良くなりたいと思う気持ちはあったし、会ってみたいとも思う。
でも、私はいいお姉さんにはなれそうもないな。すぐに思い直した。
どちらかと言えば、私の方がジェイラの妹的な存在になりそう。
「取り敢えず、しばらくはルシーズの家に御厄介になるってことで。ルシーズ一人っ子だったよね?」
「うん」
「わたしも静かな家庭に生まれたかったよ。うらやましい」
「そんなもん?」
「そんなもん。実際ね」
きょうだいが、いたらいいなと思ったことはある。でも実際にはいないわけで、それが良いのか悪いのかは私には判断できなかった。多分、それぞれにいいところはあるのだろう。寂しさを感じることもあるし、うるさいと感じることもあるし。
そう思うと、私とジェイラが二人でいることはバランスが取れているのかもしれないと感じた。ジェイラは私に静けさを求める。私はジェイラに愛情を求める。足りないものを補いあえれば、それが一番いいわけで。
愛情……またおかしなことを考え始めていた。
いやいや、きょうだい愛ってことだし。自分に言い聞かせる。
同時に、私がジェイラに求めているものは本当にそういう感情なのかもしれないと思った。
妹……は違う。
姉とか、母親とか、多分そんなものだ。言ってみれば、母性的な。
手をつないで赤面しているところを見れば、やっぱりそれが正しいのだろう。
私はジェイラに甘えたいのかもしれない。それは、私がとうの昔に忘れていたことだから。
私は母親に甘えるような性格はしていなかったし、母もそれを受け入れていた。結局、母の愛情といったようなものとは、私は疎遠になっていた。
なんとも思ってはいなかったけど、私は知らないうちに、自分の中にその思いを残したまま過ごしていたのかもしれない。
心の中に、忘れ物のように。
その忘れ物が、今ふっと、戸棚の奥から出てきたように感じた。
まるで、長年雪に埋もれたままだった種が、雪解けと共にその芽を開かせるように。
その芽を開かせたのは、紛れもなくジェイラだった。
「宮殿に到着」
「やめて」
ジェイラの冗談に、すかさず突っ込みを入れる。
「おっす、ナルちゃん。元気ぃー?」
そのまま、ジェイラがふざけて手をかざす。飼いクアジットのナルフェシュネーが更にキャンキャン吠え出した。
「静かにして。私の友達だから」
そう言ってから命令の言葉をかける。途端にナルフェは静かになって、お座りの姿勢を取った。
「おー、さすがは悪魔。使い魔ならお手のもんだね」
「悪魔とかじゃなくて。飼い主なら当然」
「わたしもやってみよう。お手」
ジェイラが手を差し出すと、ナルフェがウーウー唸りだす。困ったクアジットだ。これはちゃんと躾けないといけない。
「危ないから、手は引っ込めて。あと、奈落語じゃないと言うこと聞かないから」
「奈落語なんて知んないよ。学校で習ってないし」
「学校じゃ教えないと思う」
奈落語は悪魔の故郷のアビス界の言語で、悪魔種族の者なら大抵は心得がある。でもそれ以外の種族では、一種、禁忌とさえされているものだった。神学校で教えることは、まずないだろう。
再び、奈落語で命令を出す。ナルフェは尻尾を振りながら走り出して、小屋に入って寝そべる。お気に入りの小手を齧り出した。祖母がどこかから拾ってきたもので、本物の騎士の小手らしかった。戦場で拾ってきたとか言ってたけど、信じないようにしている。拾ってきたときは中身が入っていたとか、笑えないジョークを言っていた。
「お邪魔しまーす」
ジェイラを中に招き入れて玄関のドアを閉める。ジェイラが私の家の中にいることが、なんだかとても不思議に思える。友達を家に呼ぶなんて何年ぶりだろうか。中等時代にも記憶がないし、小等学校のときにも数えるほどしかなかったはずだ。私は昔から人付き合いは苦手だったし、仲の良い友達も数えるほどしかいなかった。
そしてその友人達とは、今は全く接触がない。どこの学校に行ったかも知らないし、そもそも家に遊びに行ったことがなかったので、どこに住んでいるのかも知らなかった。名前も段々曖昧になってくる。名字の方は、さっぱり覚えていない。
薄情なやつだと言われたら、そうかもしれない。でも私は私であって、他の何者でもないのだ。私から寄っていこうともしなければ、寄ってくる者もない。それが今までの私であって、私はそれで、これまでずっとやってきた。
不自由を感じたことはない。寂しさも、特に感じなかった。
でも、今の私は違っている。
私の中のなにかが変わり始めているということなのだろうか。自分では全然分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
私は、このささいな変化を望んでいるということだ。
その変化の中心に常にジェイラがいることは間違いなかった。
「部屋、二階だから。こっち」
階段を登りかけて、ジェイラの方を振り向く。そのとき、玄関の脇の台所から声が響いた。
「おぉ、珍しいねぇ。友達かい?」
「あ、お邪魔します」
台所のテーブルに祖母が腰かけていた。牛乳の入ったコップを手にしている。
「心配してたけど、友達ができたんだね。いや、よかった」
そう言って、ひゃっひゃと笑い出した。祖母のこういうところは未だに掴めない。本気なのか、ふざけてるだけなのか。問い正してみても、これがあたしのキャラクターさね、と言って流されるのが常だった。
「名前は? お嬢ちゃん」
「あ、ジェイラです。今日は」
ジェイラも反応に困っているみたい。ここはさっさと二階へ行ってしまおう。
「ジェイラちゃんね。ルシーズのこと、よろしく頼むね。あたしは、心配で心配で」
「おばあちゃん、もういいから。これから勉強するの」
「そうかい。でも、勉強なんかほどほどにしときな。人生にはもっと大切なことが山ほどあるんだよ。ガールズ・ビー・アンビシャスっ。ひゃっひゃっ」
ちょっと恥ずかしくなって、ジェイラを見る。ジェイラも私の方を見て、あははと笑ってごまかしていた。
祖母をそのままにして、二人で二階に向かう。背後から、
「ルシーズ、あんたも牛乳飲みなさいよ。グーよ、グー」
「いいから」
声を張り上げて断った。
「なんか、破天荒なおばあちゃん」
階段を登りながら、小さな声でジェイラが言ってきた。
「昔っから、あんな感じ。つきあうのが大変」
「ルシーズ家の人々。ってか、おばあちゃんスタイルいいなっ」
祖母はもう七十を越えていたけれど、見た目と身体能力に関しては随分若かった。すらりとした長身で、背は170センチくらいある。腰も全然曲がっていない。若いときからの鍛錬が違うとか言っていた。未だに百メートルを12秒台で走れるとか言っていたけれど、それは多分嘘だろう。
「家は今、おばあちゃんだけ?」
階段を登り切ったところでジェイラが聞いてきた。
「うん、大抵そう。母親は帰ってくるの六時くらいだし。父親は単身赴任で外国に行ってる」
「外国? 凄いな。なにしてるの?」
「あー、大学の先生やってて。天文学」
「大学って、じゃあ教授じゃん」
「そうだね」
「すげえ」
ジェイラは凄く感心していたみたいだけど、正直私は家族のことを人に話すのは好きじゃない。家族と言えども私自身とは明らかに異なっているわけで、それを自分のことのように話すのはなんだか違和感があったから。結局、他人事のように話す感じになってしまって、それは私としても心苦しいものがあって嫌だった。
「おばあちゃんもカンビオンだったね。親もそう?」
「母親はカンビオンだけど、父親は人間」
「おー、人間のお父さん。尻に敷かれてそう」
「やめて」
カンビオンという種族はハーフが存在しない。生まれてくる子供は、両親のうちのどちらかの種族になる。私の場合は、母親の方の種族が優先されたわけだった。
昔はよく、人間として生まれていたらどうだっただろうか? などと考えることがあった。でも、最後に辿り着く答えは、いつもこうだ。
人間でも悪魔でも、大した差はない。
私は私だ。
「こっち」
私のささやかな部屋にジェイラを招く。ベッドが一つに、机と椅子。それと今の季節用に炭ストーブが置いてあった。棚に並んでいるのは、本とか文房具。小さな置時計が一つ。花とか絵とか装飾品の類は一切置いていない。私はサッパリした部屋が好きで、物を置くのが嫌いだった。
「おー、きれいな部屋じゃん」
「なんにもないだけ」
「確かに、なんもないな」
「それ褒めてるの?」
なははと笑ってごまかされる。この変な笑い方は、ジェイラの癖のようなものだった。
「待ってて」
隣の物置から折り畳みの小さなテーブルを持ってくる。それを床のカーペットの上に直接広げた。即席の勉強机というわけだ。私の机を使ってもよかったけど、こっちの方が楽だし。それに、ストーブの側にも寄れて温かい。私はそこまで寒くはなかったけど、ジェイラは好むと思う。いくつかのクッションも用意した。
「寒いでしょ。今、火入れるから」
ストーブの炭に火を起こす。パチパチとはじけて、温かくなってくる。勉強のために一応、明かり用のランタンにも火を入れた。特殊なガラスがはまっていて、小さな火でもとても明るくなるやつだ。ノームの発明家の作で、ほとんどの家で使われている。お金持ちの家では魔法でずっと明るく輝くコンティニュアル・ランタンが使われているらしいけど、普通の家にはそんなものはないし、その必要もない。この小さな部屋に、そんなマジックアイテムが必要だろうか。マジックアイテムなんて、ケータイが一つあれば充分だろう。
そのケータイすら、私はほとんど使っていないし。ジェイラ以外には。
「おー、ありがたい。さびー」
温まり始めたストーブに近寄って、ジェイラが手をかざす。マフラーは未だ巻いたまま。私はとっくに外していたけど、ジェイラは本当に寒がりだ。背中を丸めてストーブにべったりなその姿を見ていると、本当に猫みたいだと思った。まるでその頭の上に、猫の耳でも生えてきそう。
「あったかいお茶の方がよかった? 持ってくるけど」
アビスをテーブルの上に出して尋ねる。
「あー、眠くなっちゃうからなあ。アビスでいいっす、うす」
「なにそれ。冗談?」
「体育会系のマネ。忘れて」
特に意味はなさそうだったので、そのまま流した。眠さを飛ばすための気合いと受け取っておこう。
二人でじっとしていても話が弾まないのは以前からの習慣だったので、早速勉強に取りかかる。私にとって大切なのは会話ではなくて、ジェイラと二人で一緒の時間を過ごすということだった。
教会での時間もそうだったけど、今はその時間が尚更特別なことに思える。私にとって世界は今、この狭い部屋の中でしか展開していないわけで、そしてそこにいるのは私とジェイラの二人だけだった。思えば思うほど、これは凄いことではないだろうか。
いや、いかん。なんかおかしなことを言っているような気がしてきた。ここは忘れて、勉強に集中しよう。
ジェイラの希望で、まずは数学から。ジェイラがどのくらいまで理解しているのかを知るために、基礎的な問題を出してみる。結果は、惨憺たるものだった。
予想はしていたけど、これはひどいな。
「まずは数式を覚えていこう。コツを掴んでいけば、なんてことないから」
「はい。ってか、その顔はわたしがまるっきりバカだと思ってるなー」
「…………………………………ちょっと」
「このやろ」
私の頭を小突いてきた。正直に言っただけなのに。でも、ちょっと楽しかったのは気のせいではないだろう。
勉強会といっても、そんなにじっくり時間が取れるわけでもない。じきに外も暗くなってしまうし、あんまり遅くなればジェイラの家族からも心配されてしまう。それに、休み休みの勉強でもあったから、正味一時間といったところだった。ジェイラはどうも、長時間の集中は向いていないらしい。手のかかる生徒。
「ふぁーっ、そろそろ終わろっかー」
伸びをして大欠伸をしながら、ジェイラが言った。いや、叫んだ。
ジェイラも私も、なんだかんだで結構頑張った。初日にしては上出来だろう。軌道に乗ってしまえば、ジェイラの飲み込みも早かったし。これなら確実に成績は上がると思う。
なんだかさっきから、上から目線になってないか? 私。
でもまあ、学業に私情は挟むべきではない。ここはジェイラのためにも、感情は抑えていくことにしよう。
「休憩ー」
ジェイラがそう言って、ゴロンと横になる。そのままモソモソと動いて、ストーブの側に這いずっていった。なんだかすごい横着者に見えるけど、言ってみればそれは、心を許している相手の前だからすることなのであって、つまり……。
いかん、またまた変なことを考え始めてしまった。
一人で勝手に盛り上がるなって。
私って、こんなだったっけ? 自分でも制御しきれなくなっているような気がする。
押さえろ、私。
「なんか、ごめんねー、色々」
ジェイラが目をつぶり、眠そうな声で言ってきた。
「なにが?」
私が尋ねると、そのまま薄目をこっちに向けてくる。
「勉強ー。わたしに教えても、ルシーズに得、ないでしょ。逆にわたしが教えられることなんて、なんもないしねー」
あははと笑い出す。まるで溶けて消えてしまいそうな笑い声だった。すごく眠そうだ。
「そんなことない。私は充分、得して……」
「んー?」
「いや、なんでもッ」
「そうー?」
なにを言おうとしてるんだ私は。声が半分裏返っていたけど、眠さが勝ってジェイラは気に留めていないようだった。
「そーだルシーズー、ちょっとこっち来て」
「え? なに?」
「こっちこっち」
手招きされるままにジェイラの隣に座る。
「お借りしま、す」
ジェイラがそのまま、私の足を掴んで頭を乗せてきた。
教会以来の膝枕。思わず、わひゃと変な声を上げる。って、これじゃ私、完全に変なやつだよ。
ジェイラの顔を覗き込む。スースーと寝息を立てて、完全に眠っているみたいだった。
なんか、久しぶりの感覚。
初めて私の足に寝そべってきたとき、ジェイラは、膝枕なんて私以外に求めたことはないと言っていた。あんまり自然に頭を乗せてきたので、思わず「そうなの?」と聞いてみたけれど、ジェイラは「別に、しないでしょ。膝枕なんて」と言って流すだけだった。
それじゃなんで私だけ? と思って、変に赤面してしまったことを覚えている。
その答えはまだ聞き出せていないけれど、特に理由はないのかもしれない。
特に理由のない行動で私をどぎまぎさせるのは、正直あまり歓迎できないけれど。そういう意味では、きちんとした理由が欲しい気もした。
そんなことを考えながら、ジェイラの寝顔を見る。
繊細な中にもあどけなさが残るその顔は、とても美しいと思った。
やっぱりジェイラは美人だ。かわいい。
いかん、ドキドキしている。
なんだこの胸は? なにをドキドキしてる?
同級生の友達の寝顔を見て胸を高鳴らせているなんて、私はなんなんだ。
何度も言うけど、私はそういうやつじゃなくて……。
あれ? そういうやつって、どういうやつのことなんだっけ?
頭がグルグルしてきた。
考えがまとまらない。
気が付くと、ジェイラのすぐ側まで顔を寄せている自分がいた。
ジェイラの息がかかってくるほど近い。
そのまま私の目は、ジェイラの口元に釘付けになっていた。
きれいな口だった。
多分、柔らかくて……。
「んー、どうかした?」
「いや、なにもッ」
急に声をかけられて、ひっくり返るほど動転した。声は実際、裏返っていた。
「ジェイラは、眠いのかな?」
気の動転をごまかすために、あたふたとして言った。見れば眠そうなことぐらい分かるだろう。なにも考えを練ることができなくなっている結果の質問だった。
「んー、だいじょぶ。ちょっと、休憩してるだけ」
「あぁ、そうなんだ」
変に笑って流す。変に笑うのはジェイラがよくやることなのに。
「やっぱ、ルシーズの膝枕はいいねぇ。落ち着くよ」
「それは、ありがとぅ」
だめだ。これじゃまともに受け答えなんてできない。
一人、窓の外を眺めながら、ふひゅうと深呼吸した。
この状況をどうしたらいいだろうか。一人悩み始める。教会での会合のときなら放課後のチャイムが同時に膝枕終了のいい合図になったけれど、今はどうすればこの状況が終わりになるのか、分からない。
私としてはずっとこのままでいたい気もするけれど、ここで何時間もジェイラを膝で眠らせておくわけにもいかない。母親も帰ってくるし、お節介の祖母に心配されて部屋を覗き込まれでもしたら、それこそ私の顔から火が出てしまう。私の性格からして、しばらくは祖母の顔を見ることもできなくなるだろう。それは困る。
そのときふっと、昨日のことが思い出された。私はまだ、ジェイラに直接、昨日のことを謝っていない。さっきの町での予期せぬやり取りの中で、その機会が流れてしまったから。
今ここでジェイラにそれを言わないと、もう次の機会はないような気がしてくる。たとえ後日、言ったとしても、なんだか心のないものになりそうだった。そう思うと、なんとももどかしい気持ちになってくる。
改めて、ジェイラの顔を覗き込む。謝るための言葉を考えなければ。それと、ちょっとした言い訳も。
私の口がなにかを言おうとして、モソモソと動いた。でも出てくるのは、ひゅーひゅーという、喉から空気の漏れる乾いた音だけ。
『ジェイラ、あのさ』
心の中で、かけるべき言葉を探し続けた。
『私は、ジェイラのことが』
……………あれ?
私の心の中で、私が変なことを口走ろうとしている。
『す、好きなのかな? 多分、好きなのかも、と思って』
な、なにを考えているんだ私は。
いよいよ私は、どうかしてしまったのか?
だめだ、どうしよう。教会での膝枕では、そこまでの気の動転はなかったはずだ。ジェイラと特別仲良くなりたいと思うあまりの妙な気恥ずかしさが、私の心を満たしていただけなのだと。
でも、これは。
これはどう言ったらいいんだ?
私の中で、新しい私が私のことを支配しようとし始めている。これはマズい状況だ。
かなりマズい。
ジェイラとは友達で、仲良くなりたい。多分、一番の仲良しになりたいと思っている。
だから、好きかと言われれば、好きなことに違いはない。
でも、これは。
こういうのでは、意味が違ってくるじゃないか。
いっそのこと、ジェイラとそういう間柄になることを考えてみる。
つまり、つ、付き合ってみるという、そういう間柄。
いや、しつこいようだけど、私はそういうやつではない。ないはず。はずだ。
ジェイラだって、それはそうだろう。ジェイラは優しくて、私の妙な言動にもしっかり付き合ってくれる。ただそれだけのことなのだ。変に期待なんかしたら、お互いに大ヤケドしてしまうだろう。私はいいとして、ジェイラにそんなことをさせるわけにはいかない。
あれ? 今、私、期待とか言ってたような。
私はジェイラに、そういうことを期待してるってこと?
ジェイラの方から言われたら、多分私は拒まないと思う。戸惑いはもちろんあるだろうけど、多分断らない。
手を繋いで、膝枕もして。それはまあ、仲の良い友達ならあり得ることだ。私の中ではとても特別なことだとは思うけれど、ジェイラは案外それを受け入れてしまっている。だからこれは、そんなに気にすることもないのだろう。
でも、それ以上のことは……。
ハグ、は多分オーケーだと思う。仲の良い友達の範疇に加えてしまっても、恐らく差し支えない。のではないだろうか。
……キス、となってくると、これは大きく壁を越えてしまう。でも、恋人として付き合うとなれば当然そういったことも選択肢の中に入ってくるわけで。それはやっぱり、大いに考慮しなければならないことだ。
ジェイラとキス……をすることを想像してみる。
手を取って、顔を近寄せて……。
わー、わー、と、胸が暴走した。
私は別に、ジェイラとキスがしたいわけではないのだ。でも、ジェイラの方からどうしてもと頼まれれば、まあ、ちょっとくらいは。でも私の方からねだることなんて、多分、ない。はずだ。
しつこいようだけど、私はただジェイラと特別な間柄になりたいと思っているだけで、キスだとかなんだとか、そういったことはその延長線上に過ぎない。
あれ? それって延長線上で済まされることなのだろうか? 言った端から疑問が生まれた。
私の中での定義が、大きく揺らぎ始めている。
そのとき、膝の上のジェイラが寝返りを打って私の方を向いてきた。気が大きく動転していた私は、思わずドキッとなる。
ストーブの熱が照り付ける。私にとって、それはまるで真夏のような暑さだった。
喉がヒリヒリしてくる。頭も重い。
「ルシーズー」
「ひゃえっ」
急に声をかけられて、心臓が飛び出そうなほどになる。ジェイラが膝の上から、私のことを見上げていた。
そんな目で見ないでくれ、と大声で叫びたい心境だった。結果として、いつものように目を逸らしてしまう。
「な、なに?」
目を逸らしたまま応える。ジェイラには、いつもの光景に映ったに違いない。
「どうしたの? 顔、真っ赤だけど。暑いの?」
「ぜ、全然オッケー」
そう言って、両手を上げてガッツポーズを取った。なにをやっているのか、自分でもアホらしく思える。
「なにそれ。一発ギャグ?」
「そんなんじゃない」
途端に、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなった。
「そう」
ジェイラがまた目を閉じる。くああ、と小さく欠伸をした。
「ルシーズ先生のおかげで、大分賢くなったよ、うん」
目をつぶったまま、ジェイラが、へらーっと笑う。
「やっぱルシーズは、頭がいいんだねえ。さすが、教授の娘」
「やめて」
ちょっとしたいつものやり取りがあって、私の心もちょっと冷静になる。今なら、きちんと話ができそうになってきた。
「ジェイラ、あのさ」
「んー?」
『私は、ジェイラのことが』
さっきのセリフが蘇える。頭を振って、散らした。
「昨日……悪かったなあ、って思って」
「あー、昨日ね。それはもういいって。家の用事でしょー?」
「あ、うん」
家の用事なんて、もちろん嘘だ。そんな嘘をジェイラに通したままでいるのも心苦しい。でも、嘘だったと言って、嫌われでもしたらと思う。ジェイラならそういうこともあっさり流してくれるような気がするけど、やっぱり内心いい気持ちにはならないはずだ。
「いや、その、実は、家の用事があったわけじゃなくて」
言ってしまった。続く言葉はどうする? まだ私は、そこまで頭がまとまっていないというのに。
『ジェイラが他の子と私を同じに扱ってるみたいな気がして、嫌だった』
本当のことを言おうか迷ったけど、やっぱりそんなことは言えない。これじゃまるっきり、私のことだけを特別扱いしてほしいと言っているのと同じことだ。それに下手をすれば、わがままの押しつけのようにも思われてしまいかねない。
どうしようかと迷っている、そのとき、
「いいよ、無理しなくても」
「え?」
ジェイラがまた私のことを見上げてきた。
「だいじょーぶ。ルシーズは、特別だから」
ええ? それって、どういう……。
「それは、どういう……」
思わず尋ねたけど、ジェイラはすぐに瞳を閉じてしまう。
「そのまんまだよー。ルシーズは、わたしの……」
またスースーと寝息を立て始める。結局、最後まで聞くことはできなかった。
改めて聞いてみようかとも思ったけれど、やめた。
私の膝の上でまどろむジェイラが、愛おしく感じる。
その姿を見て、思った。
定義だとかなんだとか、あれこれ考えるのはやめにしておこう。
私の心の中を、安らぎが満たしていくのを感じる。
私にとっては、これがジェイラとの定義なのだ。人から変に思われたって、別に構わない。
ジェイラとのこの特別な関係をずっと続けていけるのなら、それでも。
今はただ、このままジェイラと共にいたい。そう思った。
ジェイラと二人だけの、この小さくて狭い素晴らしき世界の中に。