司祭(ジェイラ)さんと悪魔(ルシーズ)さん 作:ゼルダ・エルリッチ
夕方五時。私はいつものバイト先の食堂にいた。
土曜と日曜のこの時間は、大抵この場所にいる。祖母の知り合いのおばさんが経営している大衆食堂で、町の繁華街からは大分離れたところにある。でも、この食堂のある一角だけは、なぜか五、六件の飲食店が寄り添うように並んでいた。こんな場所に同じ様な店が建ち並んでいて、よく共倒れにならないなと思う。でも不思議なもので、それぞれの店はお互い、そこそこに繁盛していた。
夕方五時というのは、つまり店の開店時間だった。五時きっかりに、店の入り口の鎧戸が開かれる。たとえ一分前であろうとも、店が開く気配は一向にない。でも時間になれば、何事もなかったかのように平然と店は開かれる。看板に明かりが入り、店内にBGMが流れる。客の方もそれを分かっているので、店の前で開店時間が来るまで、何組かが平然と待っているのがいつもの光景だった。
『ヴィモールのごたまぜ料理』それが私の働いている食堂のうたい文句だった。ヴィモールというのは私の住んでいる地域からずっと北東の方にある地域で、雑多な文化が混じりあっていることで知られている。元から雑多な地域なのに、更にごたまぜときているのだから、店の方向性については大体の想像がつく。つまり、何でも屋だ。一応メニューはあるのだけれど、載っているのはほんの一部のみ。後は店主のきまぐれで、メニューが増えたり消えたりする。常連の客ともなれば、食べたいものの希望を伝えるだけで、その意向に沿った料理が黙って運ばれるといった具合だった。
経営者のおばさんは、別に全くヴィモール出身というわけではない。なにか店の特色を出したいと考えた結果、ヴィモールの名を掲げることにしたらしい。でも実際、こんな田舎町に遥かヴィモール出身の人がわざわざやってくることなんてまずなかったから、特に問題はないようだった。多分、本場のヴィモール人がうちの店に食べにきたら、なんじゃこれは、と怒るか、逆に話題の一つとして笑うかすると思う。私の目から見ても、うちの料理は国籍不明の目茶苦茶料理だったから。
っていうか、そもそもヴィモール料理ってなんなのか? それも知らなかったし。
それと、祖母の知人だけあって、おばさんは性格が弾けている。店に客がいないときには、厨房から大音量の歌声が響くこともしばしば。上手いとは言えないけれど、その熱量だけは伝わってくる。興じてくると、そのままホールまで踊りながら出てくることもあった。どこの出身かは知らないけど、ルルムという珍しい種族の血が入っているとのこと。ずっと南の方に住んでいる種族らしいけれど、よく知らない。見た目は普通の人間だったし、角が生えているわけでもなかった。
店にはあと二人、日替わりで出勤してくるコック達がいた。二人ともおばさんの知り合いで、おじさんとおばさんが一人ずつ。その両方とも、言葉がカタコトだった。こちらもヴィモール出身ではなく、どこか東の方の国の出身らしいけれど、詳しく聞いたことはない。経営者のおばさんは、「夢の国から来たのよ」とか言うだけ。本人達も出身を話題にすることはなく、私も特に気にすることもなかった。
今日も開店早々、何組かの客が入ってくる。客層は様々で、一人の客もいれば家族連れもいる。一人の客は大抵がおじさんで、常連客。いつも決まった席に着いて、言われなくてもまずビールとグラスを運ぶのが常だった。私とも顔見知りになっていたから適当に言葉を交わす。経営者のおばさんの言うことには、私がバイトで来るようになってから、おじさん客が増えたとのこと。やっぱり悪魔は珍しいのだろう。見世物のような気がして、ちょっと嫌だったけど。
バイトは私一人。個人経営のこぢんまりとした店では、これで充分だった。下手に同僚が多かったりするとその分気遣いが増えるので、私としては都合がよかったと言える。バイトを始めたきっかけは、高等学校に上がったばかりのときに祖母が勧めてきたから。土日だけだし、大きな店でもなかったから、特に断る理由もなかった。
なにより、親から自分のお金は自分で調達しなさいと言われていたので必然だったこともあった。祖母から勧められなくても、自分からどこかバイト先を探していたことだろう。通学の馬車のお金までは手が回らないので出してもらっていたから、これ以上、親に金銭的な負担をかけさせるわけにもいかなかったし。
厨房から声がかかり、カウンターに置かれた料理を運ぶ。玉子とトマトの炒め物だった。こんなメニューもあったのかと思わず見入る。相変わらず、料理の種類が覚えきれない。っていうか、同じ料理でも毎回微妙に違った見た目なので、果たしてこれが同じ料理なのか別の料理なのか、なんとも判別がつかなかった。
注文を取り、料理を運び、客が帰れば後片付けをするのが基本の流れ。いつもそこそこに忙しかったので、ただ黙々と働くことが多い。こうやって機械的に働くのは余計なことを考えなくて済むので、むしろ歓迎だった。下手に客が少なかったりすると常連客の話し相手をさせられることになる。色々と私個人のことを尋ねられたりすることもあって、それは勘弁してほしかった。
一番困るのは、私のユニフォームについて茶化されること。仕事中なぜか私だけ、取って付けたようなひらひらのメイド服を着せられている。厨房の人も店主のおばさんも簡単なエプロンをしているだけなのに、なんで私だけ? と思ったけど、おばさんの言うことには『若いし、その方が受けがいいから』とのこと。
仕方なしに着てはいたけれど、この姿はジェイラには見せられないなと思う。多分、顔から火が出るだろうし、そのままどこかへ逃げ出してしまいかねなかった。
だからジェイラには、このバイト先のことを絶対に教えるわけにはいかない。口が裂けても言えなかった。
例え全世界の人達にこの姿を披露することになったとしても、ジェイラだけはごめんだ。
午後八時半を回る。帰宅の時間もあるので、午後九時がバイト終了の時刻だった。
私のような未成年者は午後十時以降はバイトをすることが条例で禁じられていたため、それに合わせてのことでもある。店は十一時まで開いていたけれど、九時を回れば、あとは長っ尻の常連客が酒をチビチビやっているばかりのことが多かったので、人件費の面から言ってもこの辺りが妥当といったところだと思う。
って、経営のことなんて、私には全然分からなかったのだけれど。
客足が引いて、二組の客が残っているだけになる。私は、さっき帰った家族客のテーブルの後片付けをしていた。両親と十歳くらいの女の子との三人連れ。女の子は年齢の割にとても礼儀正しく、私が料理を運ぶと「ありがとうございます」とお礼を言ってくるような子だった。食事中も騒ぐこともなく、作法を守っている感じ。
その姿を思い起こして、自然と昼間のことがまた頭を埋め始める。ショッピングモールから帰ってジェイラと別れた後から、私の頭は今日の出来事のことで一杯だった。
とても仕事になりそうもなかったのでバイトを休もうかとも考えたけれど、家に一人で籠っていると余計に色々なことを考え過ぎてしまいそうだったので、ちゃんと来ることにした。忙しく働いている方がなにも考えなくて済むので、気が楽になると思ってのことでもあった。
お客の女の子から想起されたのは、言うまでもなくあのワツィとかいう子のことだった。
一体何者なのか? いくら考えても分からなかった。ジェイラは妹の同級生だと言っていたけれど、とてもそれだけで片づけられるような相手でもない。もちろん、エンピリアンなんていう話も到底信じられるようなものではなかったけど。
とにかく、今日モールの飲食店でのワツィの一連の発言は、私の世界を大きく揺るがす大事件に発展したのだ。最初、自称天使だというあの子が私とジェイラの間に割り込むようにくっついてきたことは、私にとって迷惑以外の何物でもなかった。今日のジェイラとの約束は私にとって大きな勇気の産物なのであって、それを誰かに邪魔されることは我慢がならなかったし、汚されたくもなかったから。
あんな小さな子に対してまでそんなことを考えてしまうのは、やっぱり大人げないとも思う。でも私にとっては、相手が誰であろうと同じことだった。折角の私の苦心を、さして苦労もしていないだろう相手に崩されてはたまらない。
それが一変した。
ジェイラからの耳打ちで、食事の後は二人でゆっくり時間が過ごせると思って浮き足立っていた私に対して、ワツィが言ってきた言葉。
私がジェイラのことを、『好き』だということ。
思いが過ぎて吹いてしまったけれど、客観的に考えてみれば、それは単に私とジェイラの様子を見て、ただ仲が良いと感想を述べただけに過ぎないとも言えた。だから、それだけだったのなら、大したことでもなかったはずだ。
しかし、続くワツィの発言に私はすっかりやられてしまった。
ワツィが協力云々を言い出して、ジェイラがなんのことかと尋ねた後だったと思う。
ワツィによって私の耳にささやかれた言葉は、次のようなものだった。
「あなたとジェイラさんが『りょうおもい』になれるように、力をお貸ししましょう」
頭の中が真っ白になって、わけの分からない叫び声が出た。
な、な、なにを言い出すんだっ、こいつは。
はっきりいってパニック状態だった。
「あなたのことは、よく分かっているのですよ」
ワツィが言ってきたけど、そんなはずがあるわけない。ワツィとはもちろん初対面だし、私の気持ちを誰かに漏らしたことも、もちろんない。どんな占術呪文を使ったとしても、そんなことまで分かるはずもなかった。それこそ、神そのものでもない限り。
続く私の行動は、シンプルだった。気が付けば、私はワツィの手を取って引っ張り出していた。このワツィという子がなにを知っているのか? 本当に私の味方となってくれるのか? それを確かめなくてはならない。目の前にジェイラがいたけれど、もはや私の行動は止められなかった。
離れたところで、二人で話す。
「なんであなた、きみ、は、そんなこと知ってるの」
「ふっふっふ、ウンメーの成せるワザなのです」
「運命って。ちゃんと説明して」
それから聞き出したワツィの説明は、よく分からないものだった。なんでも、天上界での知り合いとかいう人から、私とジェイラのことをよろしく頼まれたとかなんとか。『チカ』とかいう名前の人らしいけど、もちろんそんな人のことは知る由もない。そもそも、そんな人が実在するのかどうかも大分怪しかった。子供の言うことだったし。
結局、ワツィの言っていることはほとんど分からなかったけれど、ワツィが私の気持ちを知っていて、私とジェイラの仲を取り持ってくれるという点だけは確かなようだった。りょうおもい……、という表現には語弊があるかもしれないけれど、この際構わないことにする。私はジェイラの特別な存在になりたいと考えているわけで、それを突き詰めれば、あながち間違ってはいない表現かもしれないし。……間違ってるかな?
とにかく私は、思わぬことでこの不思議な理解者を得ることになったのだ。
多分、この世界でただ一人の。
だから、それで満足して席に戻ることにした。変に気持ちが高ぶって、なんだかそわそわしていたと思う。多分、口元が緩んでもいた。
ジェイラから見れば、おかしく見えただろう。でもとても、ジェイラにはこんなことは言えなかったけど。
そんな浮ついた心持ちでいたところに、まったくの不意打ちを受ける。
ワツィがいきなり、今度はジェイラのことを好きだと言い出した。
思わず、口に含みかけたお茶を吹き出す。
おい、仲を取り持ってくれるんじゃないのか。約束が違うぞ。
そのまま、私はワツィの耳に顔を寄せて抗議の声を上げていた。ひそひそ声で話すのがやっとなほど、私の心は平常を失っていた。相手が子供であるということなど完全に忘れていた。
「ちょっと。協力してくれるんじゃなかったの?」
「もちろんです」
「じゃあ、変なこと言わないで」
「変と言いますと?」
「ジェイラのことが、好きとか」
「だって好きですよ」
「だから、いいの、そういうことは言わなくて」
「ふーむ、そんなものですか?」
「そんなものなの」
「難しいですね」
ワツィの声が通常通りだったので、ジェイラにはワツィの声は全部聞こえていたはずだ。多分、なんの話かと訝しんでいたことだと思う。
それからの私は、不満タラタラだった。一方のワツィは、全く気にするそぶりもなく涼しい顔をしている。ジュースを飲むワツィがジェイラに気にかけられているのが、恨めしくも思えた。
私の中の嫉妬心めいたものが形となって、行動に出る。ワツィの持ってきたお茶を手にするジェイラの前に、別のお茶を置いた。そのまま、今度はジェイラの隣に強引に割り込んでいる自分がいた。
全く子供じみているということは、我ながら分かっていた。現に今こうして、そのことを猛烈に後悔している。ワツィに対して悪いことをしたという気持ちもあるけれど、それよりもなによりも、ジェイラに悪い印象を与えてしまったのではないかという気持ちの方が強かった。
ジェイラに嫌われることは、私にとって世界の崩壊に等しい。それだけは避けなくてはならなかった。それなのに、嫉妬だとか不満だとか、私の中の感情がそれを邪魔してくる。ジェイラに嫌われないようにしなくてはならないという気持ちと、ジェイラの心にもっと近づきたいという気持ちが、私の中に混在していた。それは全くもって、自分でも制御不能の厄介な相手だった。
多分、最後のワツィの言葉がなかったら私は今でもワツィに不満を持ち続けていたと思う。そして、嫌なやつのままだっただろう。
ワツィが今度は、私のことを好きだと言い出した。
ハッと、我に返った気持ちだった。
ワツィはただただ、純真な子供だったのだ。ジェイラを好きだと言ったのも、ただ純粋な気持ちからそう言っただけだ。私はなんて嫌なやつだったのだろう。激しい自己嫌悪に襲われて思わず身を縮こませる。贖罪の気持ちに包まれて、ワツィの入れてくれたお茶のカップを手にしていた。
そのあと、ワツィが映画を観ようと言い出して、私はそれを承諾した。私なりの、ワツィに対する償いの気持ちからのことだった。
ジェイラの方は乗り気じゃなかったみたいだから、ちょっと悪かったかもと思う。同時に、それはジェイラが私と二人だけで過ごしたいという気持ちからくるものだと思って、ちょっと舞い上がってしまってもいたのだけれど。
こんな展開じゃなかったなら、二人だけで映画観られたのになあ、と、ちょっと落胆する。いずれまた二人で映画なんて観られたら最高だろうから、ここは我慢して夢は次回に持ち越すことにしよう。
取り敢えず、ジェイラと一緒に映画を観られたことには違いないし。
焦るな、焦るな。チャンスはまだある。
償いついでにポップコーンを奢ろうという気持ちになって、ジェイラの分も買った。座席でこぼしながら食べるワツィをジェイラが世話しているのを見て、またしても私は子供じみた行動を取り始める。ワツィの真似をして、ジェイラに気にかけてもらいたいという。
我ながら恥ずかしい。ジェイラに世話を焼いてもらっているときの私は、どんな気持ちだっただろうか。なんだか気持ちがふわふわしてしまっていて、正直よく覚えていない。でも少なくとも、悪い気はしなかったと思う。どんなことであれ、ジェイラが私を気にかけてくれるのなら大歓迎だから。その内容については、ともかくとして。
そして帰り道。
私はずっとワツィの言葉を考えていた。
主に、『りょうおもい』という部分について。
私はジェイラとそういう関係になりたいのか? 改めて自問してみる。
両想いとはなにか? お互いにお互いのことを『好き』に思う関係。そこから突き詰めて、お互いがお互いのことを求め合う関係。求め合う……と言ったら、ちょっとそれはアレのような気もするけれど、意味するところは一緒だ。
お互いに、相手を心の支えにしたいという気持ち。励ましたいし、励ましてほしいという気持ち。
喜びも悲しみも共有し合って、共に一緒の時間を過ごしてほしいという気持ち。
etc……etc……。
うん。やっぱり私は、ジェイラとそういう関係になりたいと思う。
それは、嘘偽らざる事実だから。
でも、そこに両想い、つまり恋愛感情があるのかというと……はっきり断言するのは難しい。もう何度も自問してはいたけれど、結局未だ答えは導き出せずにいた。
ジェイラのことを好きだと思う気持ちに偽りはない。特別な存在であるし、特別な存在に思ってほしいとも思う。
だからあとは多分、その感情がどこに由来するのか、というその一点に絞られるのだろう。そして、それが一番の難敵だった。
今まで私は、こんなことで頭を悩ませたことなんてなかった。小さな頃からそうだ。本当に小さかった頃ならば、好きな同級生の一人くらいはいたはずだけれど、それでもそこまで想いに暮れたことはなかった。小さかったということもあるし、そんなものだろうと思う。それに多分、その頃は普通に異性の男の子を気にかけていたはず。
でも、ジェイラは私と同じ女の子だ。もし、同性であるジェイラに対するこの気持ちが恋愛感情だったのだとしたら、私はおかしいのだろうか? 変なのだろうか?
経験がないのだから、自分でも分からない。そしてこんなことは、誰にも相談できるようなことでもない。もとより、相談できる相手なんてどこにもいなかった。
だから私は、踏み込むしかなかった。勇気を持って、ジェイラに。
私の未来は、その先にしか待っていないのだ。
ここで縮こまっていては、なにも変わらない。後には後悔だけが残ることになる。
ワツィの存在の後押しもあって、私は前に踏み出した。
帰り道、
私は大いなる勇気を抱いて、ジェイラに踏み出す。
『私は、ジェイラのことが、』
以前のセリフが脳裏によぎる。
言ってしまえ。
心の中の自分が、私の勇気をせっついた。
「私は……ジェイラの……」
「友達、になりたい」
……そこまでだった。
今の私に踏み込めるのは、ここまでが限界だった。
勇気の最後の一滴まで振り絞っての結果なのだから、それは讃えなければと思う。
ジェイラは私の態度をどう思っただろうか。
変なやつだと思っただろうか。
意味不明だと思っただろうか。
でも、
私の勇気は私に大いなる宝物をもたらした。
ジェイラが私のことを、特別な相手だと言ってくれた。
今の私にとっては、それだけでも充分だった。
未来は開けている。
予想とは多少違う未来ではあったけれど、未来は絶えず揺れ動くものだから。
満足するしかない。欲張り過ぎれば、罰が下る。それは歴史も証明しているし。
ジェイラに対しては、私はこれからも踏み込んでいくだろう。それが私なのだから。
自分を偽りたくない。人から変に思われようとも、自分の心に素直になりたいと思う。
ジェイラに出会う前には、こんな私は想像もできなかった。縮こまって、人の目を気にしながら生きていたと思う。
そんな私には戻りたくない。だから私は、これからも前を向いていきたいと思う。
まずは、ジェイラへのこの気持ちの正体をはっきりさせなければ。それからだと思った。
それは私の未来において、とても重要な問題だから。
そしてやっぱり、困難を極める道であるとは思うけれど。
「ほれほれ。手が止まってるゾー」
店主のおばさんに声をかけられて、思わずビクッとなる。今はバイト中だった。
「すいませんっ」
思考の旅から帰還して、一時停止していた布巾を再生する。
今日は土曜日。
早く月曜にならないかと、私の頭はすでに未来へと飛翔していた。
翌、日曜日。午後の気怠さに呑まれてなにもする気が起きず、部屋のベッドに寝転がっていたところに、突然伝話が鳴り響く。私にかけてくる相手なんて決まっていた。
突然のご褒美をもらった犬のように、ケータイに飛び付く。画面を確認して、私の期待は一気に高まった。
『ルシーズ、今度の土曜、昼間大丈夫?』
伝話越しにジェイラの声が響く。やっぱりジェイラの声はいい。心が安らぐ感じだ。
胸に沁み込むその声に幸福を感じつつ、ようやく私はジェイラに質問されていることに気付く。
えと、この質問は?
これはもしかして……デートに誘われているのだろうか?
心が逸り過ぎて、想像が一気に飛躍してしまう。
いや、それはないかと、すぐに気を取り直した。
「えと、大丈夫だけど。バイトは五時からだし」
平静を装って簡素に応える。言いつつも、心はジェイラの次の言葉に期待していた。
『前に言ってたやつ、メアから誘いがあってさ。皆で遊ぼうっていう、あれね』
ああ、あの話か。やや落胆する。
そういえば、そんな約束をしていた。
最近の私はジェイラのことばかり考えていて、そんな約束のことなんかすっかり忘れてしまっていた。今ジェイラに言われて、ようやく思い出した始末だった。
同時に、遊びに行くのを承諾していたのに忘れるなんて、ちょっとジェイラの友人達に悪い気もしてきたけど。
「ああ、その話。それで、どうなったの?」
『皆でキャンプに行くのとショッピングモールとボードゲーム、どれがいいと思う?』
「ボードゲーム?」
『ああ、それはテセナの提案。あいつも基本インドア派だから、家でみんなでワイワイ遊ぼうという』
「ああ、そうなんだ。ふーん」
正直あまり興味が湧かなかった。私が皆の輪に加わってゲームでワイワイ遊んでいる姿が、我ながら想像できない。っていうか、キャンプも買い物も、基本的に私はみんな、さして興味があるというわけでもなかったんだけど。私にとって重要なのは、そこにジェイラがいるかどうかというその一点だったから。無趣味なのは昔からで、なにか見つけた方がいいのだろうかとは常々思ってはいたのだけど。
一つだけ、胸を張って言える趣味といえば……。
ジェイラかな。それって趣味じゃないだろうけど。
『あまり興味がないかな、ルシーズちゃんは』
私の心を見透かされたかのように言われる。さすがはジェイラだ。私のことをよく分かっていらっしゃる。って、今はそういう場合じゃないか。
「別に、そんなことないけど」
『そうー? まあいっか。で、どこ行きたい? 他になにか提案あれば、それでもいいけど』
うーん。考えてみたけれど特に思いつかない。私に皆で遊ぶアイデアを考えろといっても、無理な話だった。
「特にないけど。ってか、それって私が決めていいことなの?」
『そう言ってたよ。今回の企画は、まあ、ルシーズがメインみたいなものだから』
「それは……ちょっと困るんだけど」
なんだかますますプレッシャーを感じてしまう。でもまあ、なにに決めても私にとって大きな差はないだろうから、この際気にせず決めてしまおうかと思う。やっぱり、メアとテセナの二人には悪い気がするけれど。
そうだ、一つ思いついた。
ジェイラの意見を尊重すればいいじゃないか。
ジェイラの提案なら、私も拒絶する理由なんてないはずだ。これはいい。
「ジェイラは、なにがいいと思う?」
さりげなく振ってみる。
『わたしか? そうだねぇ、特にないかな』
「おい、私には決めさせといて」
『なははは、冗談。一応、キャンプがいいかなって言っといたけど。メアの提案だけどね。モールは行ったばっかだし、混んでるし。ゲームもちょっと。消去法』
キャンプか。まあ、いいと思う。アウトドアが好きというわけじゃないけれど、自然の中に身を置くのは嫌いじゃないし。
なにより、ジェイラの希望なら。
「そっか。じゃあ、私もキャンプにするよ」
『お、気が合いましたね。さすが仲良しさん』
「そうだね」
さりげなく同意する。心の中では、沸々と心が沸き立っていたのだけれど。
今は我慢。自分の心に素直になるとはいっても、露骨にそれを表すのはやっぱり避けなければ。ジェイラに変なやつだと思われて、距離を置かれたら元も子もない。
『一応、期末の期間が始まる前に行っとこうって話。それにキャンプっていっても午後までだから、そんな大袈裟なものじゃないし。多分、ご飯作ったり、川で遊んだり、そんなとこだと思うよ。あ、それと、場所は多分、メアの家の裏山ね』
「分かった」
『いやいや。決まってよかった。じゃ、伝えとくから。時間とか詳細は、明日会ったときに』
「うん。お願い」
ジェイラの言葉に、心がまた浮き足立つ。考えてみれば明日も学校帰りに会えるわけなのに、それでも今、私に伝話で伝えてきてくれたわけだった。
思わず、口元を緩ませている自分がいた。優越感といったらおこがましいかもしれないけれど、ジェイラと私の間の揺るぎない関係性というか、そんなものを感じずにはいられなかったから。
『じゃ、また』
あっ、と思ったときには、伝話はもう切れていた。メールもそうだけど、やっぱりジェイラの伝話はあっさりしている。私の方はまだまだジェイラとの時間を保ち続けていたいのだけれど、ジェイラの方は用件が済んだと感じたらそれで伝話を切ってしまうのが常だった。
別にジェイラが悪いというわけではない。こういうところは感覚の違いなのだろうと思う。いくら仲良しとはいっても全てが同じなんてことはありえないのだから、それは仕方のないことだ。ちょっと苦笑。&自制。
再び一人になって、枕に頭を埋める。さっきまでつながっていたケータイの画面を見ながら、静かに思いを馳せていた。今は真っ黒なその画面に、私の顔が映っている。
ふう、と溜め息を一つついて、億劫な身体を起こす。そのまま滑るように床に座り込んで、ベッドに背中をもたれかけさせた。
簡素な棚を見上げて、カレンダーを確認する。十一月の下旬を回っていた。
遊びに行くのは次の土曜日。嫌というわけではなかったけれど、やっぱりジェイラの他にも誰かがいるというのは少しもどかしさのようなものを感じる。どうせならやっぱり、二人だけの方がよかった。昨日の、でぇー、ショッピングモールでの約束も、二人だけではなかったし。
でもジェイラが私のことを、仲良しだと言ってくれた。
それに、昨日の勇気がもたらした『特別』という言葉も私の心を占め続けていた。
ジェイラの言葉の波動を思い起こして、一人また口元を緩ませる。
肩がブルッと、歓喜に震え出した。
色々忙しいな、私。
ふと手が伸びて、枕元に置いてあったキーホルダーを手にする。昨日ジェイラと一緒に買った、お揃いのやつだった。そのちょっと間の抜けた表情に、癒しを感じる。いや、正確には、これをジェイラと共有しているという事実に癒されているのだろう。別にジェイラからの贈り物というわけではなかったけれど、それはこの際置いておく。要は、お揃いだというその点が大切なのだ。
多分、今ジェイラとお揃いでこれを持っているのは世界で私だけだろう。そんな他愛のない事実だけで、私の心は簡単に浮き足立った。我ながら単純だとは思うけれど。単純だな。
再び、土曜日のことを思う。メアにテセナ。ジェイラの同級生。
悪い奴ではないということはすでに確認済みだけど、一緒に遊ぶことにはまだ少し抵抗があった。でも、未来に向かって踏み出すことを決意している私だ。この際これも、そのための糧にしてみたいと思う。
ジェイラ以外の同学年の女の子と一緒に遊んでみれば、ジェイラに対する私の気持ちに、なにか手がかりが見つかるかもしれない。
ただ仲良くなりたいという気持ちが特別に行き過ぎてしまっているだけなのだろうか? それとも、ジェイラに対するこの気持ちが、そういうあれなところにまで辿り着いてしまっているのだろうか?
やっぱり私一人では、その答えを見つけるのは難しい。
だから、踏み込む。踏み込んで、もがいてみる。泥臭くても。みっともなくても。
自分の気持ちに正直になることに、恥じることなんてないのだから。
今日もバイトだ。家を出るまで、あと二時間ほど。
キーホルダーを握りしめる。今週もまた、学校帰りにジェイラに会える。それを考えて、また嬉しくなる。
期末試験もあるから、勉強会にも、もっと力を入れてみようか。このキーホルダーのこととか話題にしてみようかな。キャンプについても話したい。
未来は忙しい。
考えることも、山積み。
今は取り敢えず、バイトに備えてちょっと休もう。
キーホルダーを胸の上に置いたまま、瞳を閉じる。
側にジェイラがいるみたいで、心地よかった。
目的の場所は最初の予定通り、メアの家の裏山のキャンプ場だった。だから方向からいって、今回もまたジェイラの家で待ち合わせる。この間はつい浮き足立って、集合の一時間前にはジェイラの家に着いてしまっていた。どうしようかと迷ったけれど、結局なにもできずに家の周りをウロウロしているだけになった。あれをジェイラの弟に見られていたのは、まずかったと思う。おかげでジェイラにまで、変な目で見られてしまった。反省。
「おっす、今日は時間通りじゃん」
家の前でジェイラに伝話して、すぐにジェイラが出てくる。私服のジェイラに、また見とれてしまう。制服姿も素敵だけど、やっぱり私服となるとグレードが一段階アップだ。
いいなぁ、私服。
「いつも時間通りだけど」
心の鼓動をいさめるように、敢えて素っ気なく応える。このままだと、また変に顔に出てしまいそうだったから。にやけ顔をジェイラに見せるわけにはいかない。理由を聞かれても、言い訳に困るし。
「そうー? こないだは随分早かったみたいだけど。まあ、遅いよりはマシかな」
この間の私の奇行を引き合いに出される。今日は反省して、きちんと時間通りにジェイラの家に着いていた。
明らかな成長だ。自制心が身についた? どちらだろうか。
「まあいいや、行こっか」
並んで歩き出す。歩き出した途端、自然にジェイラが私の手を取ってきた。
何度もつないではいるけれど、未だに平常心を保つのは難しい。しかもジェイラの方から私の手を取ってくることはあまりないから、余計だ。多分また、顔が赤くなっている。耳も熱い。
「ルシーズの私服見たの、二回目かな。相変わらず、よくお似合いで」
ジェイラがそう言って、ふへへと笑ってくる。どうやら冗談のつもりらしいけど、私にはそれを理解するだけの心の余裕がなかった。私服を褒められたのはこれで二回目。この間の服が褒められたので今回はどうしようかと思ったけど、同じ服を着てくるのもどうかと思って別の服にしてみた。セーターは緑で、その上から白のコートを羽織った。この間ジェイラの着ていたコートの色と同じだ。今回がお揃いになることは保障されていないけれど、もし同じならちょっと嬉しいと思ったから。
下はやっぱり群青色のスラックス。これはこの間と同じ。トップスに合わせて色々変化が付けられるほど私は衣類を持っていなかったし、これが一番色合い的にも合っていたから。
ジェイラの方は、今回はこの間よりもラフな服装をしている。チェック柄の茶のスカートに、白いカーディガン。それにオレンジ色の皮のジャケット姿だった。白のコートではなかったのでお揃いにはならなかったけれど、このジャケットもとても可愛い。アウトドアということで動きやすい服装にしたのだろうか? それとも、今回は私以外の友人達が一緒だから、そんなに服装に気合を入れてこなかったのかもしれない。
そうだとしたら、またちょっと優越感めいたものを感じる。私と二人だけの約束のときには特別におしゃれをしてきてくれるのだと。
「ジェイラこそ、私服スカート、いいと思います」
ちょっと変な言い方になってしまったかな? 別に私は、スカートフェチではない。
「ああ、アウトドアだからどうしようかと思ったけど、結局コレ。動きやすいんだよね。ちょっと寒いけど」
この間もスカートだった。制服もそうだけど、ジェイラはスカートがよく似合う。やっぱり美人だからだろう。私の方は、制服は別にしても人前で足を露出するのは気恥ずかしさがあって、スラックスばかりを履いていたのだけど。
スカートだとジェイラの足が見られるから、歓迎かな。そんなことを考えて、ついついジェイラの太ももに目がいってしまう。
って、おいおい、なにを考えているっ。これじゃまるっきり変態だ……。
頭の中がジェイラの私服とスカートと太ももでごちゃ混ぜになりつつ、旅は続く。この間は遠巻きに見ていただけだったメアの実家の二つランタン亭が、眼前にそびえてきた。取り敢えずそこで待ち合わせて、それからキャンプ場まで向かう予定だった。
やはり大きい。本館の他にも別館が二つあって、それぞれが特色を出している。建物の屋根の上には大きなゴールド・ドラゴンの飾りがついていて、見上げる者を威圧するかのようにその巨大な口をこちらに向けて開いていた。
造りといい装飾といい、見るからに高級旅館といった感じ。温泉まで備えているらしい。宿泊料金も高そうだ。こんなところにいつかジェイラと二人で泊まれたら最高だろうなぁ、と一人夢想する。美味しいもの食べて、温泉入って。
温泉……ジェイラと温泉……。
想像だけで、のぼせている私がいた。
暴走するなってば。ふひゅうと息をついて落ち着きを取り戻す。
「実はわたしも、ここ来たの、こないだが初めてだったんだよね。やっぱ凄いなこりゃ」
建物を眺めてジェイラが言ってきた。ここに来たのは、この前メアにバードウォッチングに誘われたときに待ち合わせ場所として訪れたのが初めてらしかった。つまり、今日を入れて合計二回しか来ていないことになる。友人だからもっと普通に何回も来たことあるのかと思っていたから、ちょっと意外だった。
なんだか妙に安心してしまう。私の知らないジェイラが、私の知らないところで他の友人と仲良くするのは正直嫌だったから。
メアやテセナとそんなに深い付き合いがあるわけでもない、と言っていたジェイラの言葉を思い出す。改めて、ホッとしてしまっている自分がいた。
なんか欲張りになってないかな? 私。
そんなことを考えて、今更ながらこのままジェイラと二人で遊びに行けないかな、などと思い始める。でも、そんなことを考えている暇もなく、ジェイラの友人達に私達の姿を見つけられてしまった。ここで待ち合わせてたのだから、当たり前だろうけど。
「おーおー、来たなジェーイラちゃん」
ツインテールの女の子がこちらに向かって両手を高く振り上げる。町で見たことがあるのですぐに分かった。メアだ。隣にはそのメアより一回りくらい背の高い子がいて、同じく手を振っていた。テセナだろう。
「おーっす。テセナも」
ジェイラが軽く手を振って、メアとテセナの二人に応える。私は新参者なので、なんとなくジェイラの影に隠れながら近づいていった。
「おお、そちらは、かねて噂の」
「噂なんてしてないでしょ。ルシーズね」
ジェイラから紹介されて軽く頭を下げる。やっぱりまだ、馴染むのが難しい。
「おーおー。おおーおー」
メアがそう吠え(?)ながら、私の方へ寄ってくる。私の周りをぐるぐる回りながら、ジロジロと観察し始めた。なんなんだ?
「え、と。なに?」
「あー、気にしないで。こういうやつなんだよ」
私の不審に、ジェイラが代わりに応えた。
「そうそう、まあ気にしないでな。それより、おっす、ルースーちゃん」
満面の笑顔で手をかざしてきた。ジェイラの言う通り、大分変わった性格らしい。人見知りとは無縁なその様子を見て、ちょっとうらやましいとさえ思った。童心というか。
「おっす、ルースーちゃん」
メアに便乗する形で、テセナの方も手をかざしてくる。でもこちらの方は、大分控えめな様子。ジェイラから優等生だと聞いていたけど、実際の見た目もそんな感じだった。冒険はしないというか、やるべきことが分かっているというか。
「お前ら、わたしのルースーちゃんを困らせるなよ。普通に呼べ」
「自分も言ってるじゃん」
「言ってるじゃん」
メアがジェイラの腰を手でパンと叩く。テセナも便乗。ジェイラも合わせて、あははと笑う。
やっぱり、自然体の友達というやつは違うと思った。私では、こうはいかない。私とはタイプが明らかに違う。
ジェイラはやっぱり、こういう自然体の相手の方がいいのだろうか? ちょっと落ち込む。でもジェイラが私のことを『わたしの』と形容してくれたことに嬉しさを感じてもいて、思わず口元が緩んだ。相変わらず忙しい。
「んじゃ、いこかー。レッツ、キャンプっ」
「おー」
メアの掛け声にテセナが小さく手を突き上げて応える。でもジェイラは付き合わない。私もジェイラの後をくっついていくだけ。そのうち私も、この空気に馴染んでいくのだろうか? まだ自信はないけれど。
メアが先頭になって、裏山に続く小道を上がっていく。私はやや離れて、皆を後ろから眺めている感じ。メアの格好は一見子供っぽかったけど、やっぱりアウトドアに慣れている感じの服装だった。黄色のニット帽に、デニムのオーバーオール。デニムの下は青と白の横縞セーターで、足元は茶色のトレッキングブーツで固めている。
一方テセナの方は、町に買い物にでもいくような感じ。白の襟付きセーターに、タータンチェックのスカート。その上から、大きな黄土色のダッフルコートを羽織っている。青色のニット帽を斜めにおしゃれに被っていた。一見して、品の良いおしゃれなお嬢様といった感じ。でも、その背に背負った大きな無骨リュックサックが全てを台無しにしてしまっている。このリュックは明らかに彼女のものではないだろう。多分、メアのだ。メアの方は、その身一つで手ぶらだった。
これだけで、この二人の関係性が垣間見えてくる。テセナの方が、手のかかるメアの相手をしてやっているといった感じ。友達というより、母子的な? でもこの二人の場合は、その関係性がぴったりはまっているようにも思えた。お互いに自らの役割を受け入れていて、歓迎してもいる感じ。仲がいいんだろうなと思う。私もこんな風に、ジェイラと自然体の関係になれたらいいと思った。
私の場合は、やっぱりメアの存在の方に近いのかも。ジェイラの方が、私の面倒を見ている姉的存在というか。
あんまり手を焼かせないようにしなくては、と、ちょっと反省。
「それにしてもよー」
前を向いて歩きながら、メアが言ってきた。
「来てくれて嬉しいぜ、相棒。今日はよろしくなー」
振り返って、私に手をひらひらと振ってきた。
「あ、うん」
思わず縮こまる。照れてる? あんまり、人からこんなことは言われないから。ジェイラを相手にするのとはまた違った感じの照れ臭さを感じた。メアはどうやら、見た目以上に色々な側面を持っている人物らしい。ジェイラが友人として付き合っているのが、ちょっと分かった気がした。
「よろしくね、ルシーズさん」
テセナもニッコリ笑って言ってきた。テセナもやっぱり、魅力的な人物に思えた。ジェイラに対する感情とは違うけれど、仲良くしたいと思える。人を優しく迎える包容力がテセナにはあった。
そんな私の心を見透かしてか、ジェイラが私の顔を覗き込んでニッコリ笑う。
いい連中でしょ? とでも言いたげな様子。
それに応えるように、私も微笑んで返した。
小道を抜けると、視界がパッと開ける。周囲を森に囲まれた、黄色い芝生の空間が広がっていた。
ここが目的のキャンプ場。見渡せば、いくつかのテントがすでに張られている。
隅にはちょっとした炊事場と水回りの設備があって、土曜ということもあってか、何組かの家族連れがワイワイと楽しそうにやっていた。コーギー犬が小さく走り回っているのが見える。
「キミ達は初心者だから、わたしが色々ご教授して差し上げよう。いいかお前ら、冬山を甘くみんなよっ。死ぬぞっ」
メアが指を突きつけ、胸を張って言ってくる。どうやら探検隊のリーダーのつもりらしい。口元にマフラーの端っこの毛糸を当てて、ヒゲの代わりにしていた。リーダー=ヒゲという安直なイメージの表現らしかった。
「どんな探検に付き合わされんだよ。付き合わんぞ。キャンプに来ただけだし」
ジェイラが呆れたように応える。テセナは静かに見守っている感じ。メアがなにか変なことを言ってジェイラが突っ込みを入れるという図式が成り立っているようだった。ちょっと、私とのやり取りにも似ている。傍から見ていて、こんな感じなのかなと思った。
でも、ちょっと違うか。別に私は、ボケ担当というわけでもない。
「まーまー。んじゃー、準備やってこーか。テセナ隊員っ」
「いえっさー」
間延びした返事をしつつ、テセナがリュックを降ろして中から色々なものを取り出していく。ジェイラが、運搬担当を割り当てられていた折り畳みのテーブルを広げる。テーブルといっても大袈裟なものではなくて、キャンプ用に開発された軽いものだった。でも充分頑丈で、少しくらい重いものでも楽に乗せることができる。
ミニコンロとか、水とか食糧とか。細々した荷物をテーブルに出している間、メアの方は少し離れたところに野営地を設営し始める。手際よく地面にペグを打ち込んで、タープという日除けシートの様なものをポールで持ち上げる。その下に折り畳みの椅子を四つと、折り畳みのミニテーブルを広げて、見る間に快適そうな空間が誕生した。
ジェイラから聞いてはいたけれど、やっぱりメアのアウトドア好きは堂に入っている。凄いなと、ちょっと感心してしまった。
「おー、一気にキャンプっぽくなったな」
ジェイラも感心しているみたい。「おおー」と、試しに椅子に座ってみたりしている。この椅子はアルミと布でできていて、驚くほど軽い。しかも、折り畳めば三十センチの袋に収まってしまうコンパクトさ。こんな椅子が四脚もどこから出てきたんだとちょっと驚いていたけれど、話を聞けば納得だった。以前ジェイラが運ばされた屋外観測用のテントは、とても重かったと聞いていたのだけれど。キャンプとバードウォッチングでは、装備の方向性(?)が違うらしい。よく分からないけど。
共通なのは、メアはいつもそれを人に運ばせるということだった。やはり凄い。
「メアー、お湯湧いたよ」
テーブルの方からテセナが呼びかける。ミニコンロの上の小さな鍋の中で、お湯がぐらぐら沸いていた。
「よしっ。まずは極めて重要な儀式からだ」
メアが大袈裟に言って、テーブルにカップを並べ始める。そこにココアの粉末を入れて、お湯を注ぎ始めた。重要な儀式って、ココアのこと? ちょっと思う。
「では諸君。我が『野外活動隊』の新入隊員、ルースーちゃんを歓迎して。乾杯っ」
「かんぱーい」
「野外活動隊ってなにさ」
ジェイラが突っ込みを入れたけど、メアとテセナは気にせずココアを飲み始める。
っていうか、私も隊員なのか? まあ別にいいけれど。
「ぷはーっ、これがキャンプの醍醐味だぜ」
「醍醐味だぜ」
カップを突き出し、メアが叫ぶ。テセナも追随。
「ぷはーってほど、飲んでないだろ。熱いし」
「細かいことは言わんよーに」
そのままカップを持って、メアの言うところの前哨基地に移動。四人で椅子に座って、ミニテーブルを囲む。私は自然と、ジェイラの隣に腰を降ろした。
ジェイラの方を見て、目が合う。ジェイラは、ふへへと変に笑っていた。多分、意味はないと思うけど。でも、なにか嬉しかったのは事実で。
「今日は凄いぞ。じゃーん、見たまえ」
メアが開口一番、小さな袋を見せてくる。袋の中には、小さく切った野菜が色々入っていた。
「ただの野菜に見えるけど」
ジェイラが言うと、
「甘いねジェイラーさん。これはなんと、素揚げしてあるのだ」
「素揚げしたただの野菜に見えるけど」
「それがミソなんだってばよ。これをだな、こう、カレーと一緒に煮込むとだな、なんと、時間の節約になるのだよ」
「ふーん、節約ねえ」
ジェイラはやっぱり、ピンとこない様子。
「今日はデイキャンプだからね。遊ぶ時間を増やしたいでしょ?」
テセナが追加の説明を加える。なるほどと、私も理解できた。
「なるほど」
ジェイラも理解した様子。っていうか、メアの説明だけじゃやっぱりなにが論点なのかがよく分からないし。
「ちなみに、素揚げしたのは私ね」
「余計なことは言わんよーに」
テセナの言葉に、メアが口をはさむ。メアは料理担当ではないみたいだった。なんとなく分かるような気がする。
「さて諸君。作戦会議を始めようじゃないかね」
メアが音頭を取る。大袈裟に言ってはいるけれど、要するにただの談笑のこと。これからの計画だとか、お互いのこととか。世間一般の言うところの、いわゆる女学生のおしゃべりというやつだった。
メアとテセナは、お互いによく話す。それにジェイラがちょいちょい加わるという具合。
私の方は自分から話すことは特にないし、話を振られたらそれに応えるといった感じ。個人的なことを聞かれて困ると、ジェイラが横から助け船を出してくれる。
ジェイラがいてくれてよかったと思う。私だけだったなら、この新たな友人達との間が持たなかっただろう。メアとテセナのことは理解しつつはあったけれど、やっぱりいきなり打ち解けるのは私の性格からして無理なことだったから。
「んじゃー、いいお話が聞けたところでよぉ。そろそろ行ってみるか」
頃合いを見て、メアが提案する。
「行くってどこへ?」
ジェイラが尋ねて、
「川」
テセナが応えた。
そのまま、メアの案内で森の中に分け入っていく。五分もしないうちに、私達は森の中に流れる綺麗な小川に到着した。
季節が季節だったから泳ぐなんてことはしなかったけれど、それでも、メアが準備してきてくれたサンダルに履き替えて水の中に入ってみたりする。冷たい水が妙に心地よかった。
ジェイラがふざけて水をかけてきて、私が応戦する。まるっきり子供じみた感じだったけれど、それが変に楽しかった。
見ると、メアが川の中に小さなダムを作って水をせき止めていた。「ヤマメが捕れんだよ、ヤマメ。旨いぞ」などとニコニコしていた。さすがアウトドア派。でもテセナの方は魚が苦手らしく、メアと距離を置いている。この二人でもやっぱり好みの違いがあるのだなと、変に思った。
小川のせせらぎが、私を心地よく包んでいく。それは、私が久しく忘れていた感覚だった。
川で遊ぶなんていつ以来なのだろう。それに、こんな風に皆でワイワイ遊ぶのは初めてかもしれない。
保育園くらいのときに、同じ組の全員で遊んだことならあったと思う。でもそのときはただ、私は『みんな』の中の一部分として存在していただけだった。
特に仲良しの子もいなかったし、受け持ちの先生の手ばかりを握っていたと思う。
『私を置いていかないで』そんな気持ちでいたことを僅かばかりに記憶している。
今は……どうなんだろう。私は、この輪の中に入っていると言えるのだろうか?
メアもテセナも、すごくいいやつだと思う。でも、それでも。こういう輪の中に私が入り込むことに正直違和感があることは否めなかった。
私はずっと、そういう風に過ごしてきたから。一人で。独りで。
独りがつらいと感じたことはない。寂しさも、特に感じたことはなかった。
むしろ人付き合いの煩わしさから解放されていることに、自由を感じているくらいだった。
その気持ちに変化が生じ始めている。ジェイラという、私の前に現れた光の存在によって。
そして私は多分、それを歓迎している。一人の孤独から、解放されるときなのだと。
成長……と言ったらそうなのかもしれない。閉じこもった心のままでいるよりは、明らかな成長だろう。
でも、その相手はジェイラに限定されているわけで、本当にそうなのかと自問している私もいた。
やっぱりまだまだ、私がこの世界に踏み出すのは難しい。
その後も、キャンプの定番が続く。まずは、ご飯作り。いわゆるキャンプ飯というやつだった。
「どんなものができるか、驚くなよー」
メアが鍋の前で自信たっぷりに言って、
「さっきカレーって言ってなかった?」
ジェイラが突っ込みを入れる。
「ただのカレーじゃないんだってばよ。テセナ、あれの準備を」
「いえっさー」
さっきも見たようなやり取りがあって、テセナが小さな袋を取り出す。
「これには魔法の粉が入っているのだ。なんと、一ポンド入りが一袋で1リル」
「めっちゃ安いじゃん。大丈夫かよ」
「おうおう、けんか売ってんのかこらぁ」
メアとジェイラがお決まりのやり取りをして、
「コンソメスープの粉末ね。これ入れると美味しいんだよ」
テセナの説明が入った。
ちょっと不安だったけど、出来上がりを食べてみればびっくりするほど美味しい。あっさりとした味わいの奥から、コンソメスープがガツンと効いてくる。さすがにジェイラも、「おー、こりゃ旨い。謝罪しよう」などと言って、メアが「分かればいいのだ」などと胸を張っていた。といっても、調理はやっぱりテセナだったけど。
食後に焼きマシュマロをチョコビスケットで挟んだおやつが出て、みんなで賞味。笑顔のほころぶ美味しさで、皆ご満悦だった。甘さが体に沁み渡る。
「ルースーちゃん、どーよ?」
メアが感想を聞いてきて、
「うん、美味しいね」
素直に気持ちを伝えた。
ジェイラが横から「ルシーズ素直じゃん」と、からかいを入れてくる。私は普段、どんなにへそ曲がりだというのか? ちょっと非難めいた視線を送っておく。もちろん、本心ではないけれど。
食後は皆で展望台に登って、景色を堪能。空と、空気と、木々と。改めて自然はいいものだと思う。私もまたキャンプなんてものに出かけてみるのもいいかもしれないと、がらにもないことを思った。
そのときはもちろん、ジェイラを誘って。
夜は焚き火を囲んで、テントに二人で寝て……って、いかん。また妄想。
こんなに雄大な自然の前で、なにを考えているんだ私は。自分の矮小さに恥じる。
ふと横を見ると、テセナがこちらを見て意味深げにニッコリ笑っていた。……なに?
時間は直ぐに過ぎていって、解散の時間が近づいていた。これはつまり、私のバイトの時間に合わせてのこと。本当ならもっと時間をかけてゆったり過ごすのがキャンプのいいところなんだろうけど、なんだか無理に急かしてしまったみたいで悪い気もしてくる。私だけ先に帰るということもできたけれど、メア達の方が気を使って私に合わせてくれたみたいだった。
「ルースーちゃん、キャンプはどうだったかな? お外もいいもんだろ」
帰り際になってメアが尋ねてくる。私がアウトドア派ではないということはジェイラから聞いていたらしいので、その気持ちに変化があったかどうかを確認したいみたいだった。これでアウトドア仲間を増やしたいというのが本音みたいだけど。
「うん、気分が晴れたよ」
半分だけ正直に、後の半分はお仕着せのように応える。
「そーだろそーだろ。うんうん」
メアの方は、私の返答にご満悦の様子。「またやろーぜ、キャンプ」などと言って、「次はバードウォッチングで」と続ける。ジェイラがすかさず、「やだ」と応えていた。
「ルシーズさん」
テセナが、私の目を覗き込みながら言ってきた。急になんだ? と思っていると、
「またね」
それだけ言いたかったらしい。さっきの笑みもそうだったけど、なにかテセナの言動は、さりげない中にも色々な含みがあるように思えてなんだかそわそわしてしまう。やっぱり、優等生というのは思考の構造自体が違うのだろうか? やや難解な問いだ。
「んじゃまたなー」
「またなー」
二つランタン亭まで戻ってきて、メアとテセナが別れの挨拶を送ってくる。ここからはまたジェイラと二人で帰路につくことになるので、二人とはここで別れることになった。
「寄ってってあげようか? 家」
「なぜに上から目線? ずーずーしい」
「じゃあ帰ろう」
「いや、寄ってけ」
そんなやり取りをしながら、二人が遠ざかっていく。仲良いなあ。やっぱりうらやましい。
それと結局、メアからは最後までルースーちゃんだった。別にいいけど。
下り坂を降りて、知らない町並みを進んでいく。日は早くも傾き始めていて、季節の変わり目を痛感する。空気まで変わり始めた。知らない町並みに、変わりゆく季節。でも目を隣に向ければ、そこにはジェイラがいて。
自然とまた、昔の記憶が思い起こされる。保育園の頃の私は深く考えることもなく、ただ寂しさから、言わば本能のままに先生の手を追い求めていた。でも、どこまで行っても、私の心が安らいだことはなかったと思う。私の求めるものは、ここにはないのだと。
それは家でも同じだった。両親とは、仲が良くはない。格段に悪いわけでもない。でも、そこにやっぱり、私の心の安らぎめいたものを感じることはなかった。
だから必然のように、私と両親とは疎遠になっていた。愛情めいたものを求めることも、いつの間にか消えてなくなっていた。砂が風に乗って、サラサラと消えていくように。その思いは親の方にも伝わってしまっていて。特に、母親には。
そのまま時は過ぎていって。私は未だに一人のままだった。祖母のことは好きだ。取っ付きにくいところはあるけれど、私のことを心配してくれている。でもやっぱり、私の方がそれに応えることは少なかった。なんだか気恥ずかしさの方が勝ってしまって。少なからず、申し訳ないという気持ちはあったけれど。
今までの私の人生は、そんなものだった。人生というほどまだ歳を重ねてはいないわけだけれど、なんだかもうすでに私というものが確立してしまっているみたいだった。なにに感動するということもなく、特に打ち込むものもなく。ただ、凡庸に。無難に。流れの中に。
ジェイラの出現が、私の中のなにかを揺り動かした。それは間違いないことだった。
あの自称天使のワツィは、それを運命と言っていた。子供の言うことだし、多分深い意味なんてないんだろうと思う。でも、私はその言葉をただ聞き流すことはできなかった。運命……かどうかは別にして、ジェイラとの出会いが私を変えたことは確かだったし。
ジェイラの横顔を見て、思いを馳せる。私の思いの根底には、いつもジェイラの存在があった。なにを考えても、結局その矛先はジェイラに辿り着く。全然関係ないようなことでさえも常にジェイラに結びつけて考えている自分がいた。ジェイラのことを考えて、一喜一憂。
今日もそれは変わらなかった。メアやテセナと比べていたのは、常にジェイラだった。他に比べる相手がいなかったから、必然と言えば必然なのかもしれないけれど。でもやっぱり、私はそれを望んでいて。ジェイラを基準に考えることを望んでいた。
よくここまでジェイラジェイラと言えるものだと我ながら感心してしまう。でも、それはジェイラだからなのであって、他の相手ではこうはいかないということも認識していた。今日メアとテセナに会って、それは確かめられていた。メアやテセナとは、やっぱりジェイラのようには付き合えない。ジェイラが特別な相手なのだということは、確かだった。それを再認識できただけでも、収穫だった。
「今日はどうだった? ルースーちゃん」
「その呼び方、やめてほしいんだけど」
急にジェイラが尋ねてくる。私の頭はジェイラのことばかりで、急に外部からそのジェイラ本人に話しかけられると思わずビクッとしてしまう。我ながら、おかしいなとは思う。結果として、当のジェイラに素っ気ないような態度を取ってしまうこともしばしば。違うのだ。本当はもっとこう、仲良しさんのように接したいのだけれど。メアとテセナのように。ジェイラにはなかなか素直な自分を表現できなくて、もどかしかった。
「二人には呼ばせてたじゃん。わたしだけダメなの?」
「ダメっていうか、ジェイラからは、他の呼び方が良くて」
ジェイラからは他の子と同じ扱いをされたくない。それが本音だった。ジェイラだけが呼んでくれる呼び方があったなら、それは是非とも受け入れたかったけど。ただし、変なあだ名でなければ。『悪魔ちゃん』とかは断りたい。ルー。ルース。うーん、やっぱりルシーズでいいか。
「ふーむ。じゃあ、なにがいいかな」
「ルシーズでいいよ」
「普通じゃん」
「そうだね」
普通か……特別なジェイラが相手なら、それが一番なのかもしれないと思った。普通が特別。特別な普通。ジェイラとは、そんな関係でいたいのかもしれない。
「んで?」
「え?」
話が飛んで、なにを話していたのかも分からなくなる。こんなことは良くある。それは往々にして、私が勝手に思いを飛翔させてしまうからなのだけれど。
「楽しかったのかな、ルシーズは。気分が晴れたのかなーと」
メアに言った私のセリフを反復させてくる。確かに半分はそう思ったけど、結局私は今日もずっとジェイラのことばかり考えていた。そういう意味では、私の気分が晴れたとは言い難い。それが解消されるのは、ジェイラへの気持ちに対するこの問題が解決してからでなければ。
来るのか? そんな日が。横目でジェイラをチラチラと見つつ、また委縮してしまう自分がいた。
「まあ、それなりには」
全部本心のつもりで応えたけど、なにがそれなりなのか? 自分でもよく分からなかった。
「そっか」
ジェイラがそう言って、ふむ、と息を漏らす。これもジェイラの口癖だった。でも、こんなときのジェイラがなにに思いを巡らせているのか、私にはイマイチ分からなかった。全然関係ないような話題に飛んでしまうこともあるし、私の心を見透かしたように追及してくることもある。ジェイラに対するマニュアルなんてものは、いつまでたっても見えてこない。だから私も、ただもがくだけ。
「もし嫌だったら、構わんよ。気を遣わなくて。メア達は、わたしが適当にあしらうから」
ジェイラが私の目を覗き込みながら言ってくる。今回は、私の心を追及してくる方だった。メア達には気を遣って言ったけれど、それをジェイラは見透かしていたらしい。ジェイラが私の本音を理解してくれているのは素直に嬉しい。でも、ちょっと困るのも本音だった。どう対処するのがいいのか迷ってしまうから。
「大丈夫。嫌ってわけじゃないし、楽しかったのは本当だから」
「それならいいけど」
ジェイラがそう言って口元を緩める。その笑顔に、ついつい見とれてしまう自分がいた。
って、まずい。変な風に思われてしまう。多分顔にも出ている。思わず目を逸らした。
「あ、あそこいいじゃん。ちょっと行ってみよう」
「え?」
急に振られて、手を引っ張られる。そこは高台のちょっとした休憩所みたいになっていた。木製の東屋の下に石のベンチが二つ並んでいて、木の柵の向こうになだらかな丘陵が続いている。そちらに人家はまばらで、馬車が通るために敷かれた道が、ぐねぐねと伸びているのが見えた。
「高い所って、好きなんだよね。解放される気分?」
ジェイラがそう言って、両手を天に突き出した。うーん、と伸びをして全身をマッサージしている。ジェイラが自分の好みのことを話すのは珍しい。私もあまり話さないけど。多分この前聞いたのはバウムクーヘンが好きとか、そんなことだったと思う。私の方から好みを尋ねることもあったけど、うーん、とか、なんだろ、とか、言葉を濁されることが多かったから。
「小さい頃は、高いとこばかり登ってた気がするよ。なんか、そのままどこまでも飛んで行けそうな気がしてた。そんで、親や先生に危ないって怒られて、降ろされて、おしまい」
そう言って、なははと笑ってくる。ジェイラの小さい頃。想像して、自分の姿をそこに重ねる。もしその頃にジェイラに出会っていたとしたら、どうだっただろうか? 私は、どう変わっていたのだろうか。
寂しさに包まれて。愛情に飢えていて。そんな自分が思い起こされる。
心を求める相手もいなくて。自分の殻に閉じこもっていった。
いつしか、それが日常になって。私は私として、ただここにいた。
なにも感じることはない。寂しさも。悲しさも。
私は、そのまま進んでいくだけのはずだった。
そうだ。
はっきりと理解する。
私がジェイラに求めているのは、過去の自分の清算なのだと。
今まで置いてきた、忘れていくだけだった、その思いの欠片の全てを包み込んでほしい。
受け入れてほしい。
私は結局、寂しかったのだろう。悲しかったのだろう。
感情を押し殺して、平然なフリをしていた。だけど本当は、愛情を求めていたのだ。
理解してくれる相手を、切望していたのだ。
私は強くない。だから、打ち寄せるその感情の波から逃れ続けていた。受け止めれば、ただ弾き飛ばされてしまうだけだから。
でもジェイラに出会って。私の中のバリアーは消失した。
今の私の心は、無防備の丸裸だ。だから私は、新たな防御を求めている。
私を救ってくれる、光を求めている。
それを与えてくれるのは、ジェイラだけだった。
「ちょっと座ろうか。なんか疲れたし」
ジェイラがベンチに腰かける。私も、そっとその横に座った。
「アビスでも飲みたい気分だねえ。あはは」
冗談めかして言ってくる。さすがに今日は、私も用意していなかった。
「んで?」
「え?」
またジェイラに尋ねられる。今度はなんだろうと思っていると、
「いや、なにか言いたいことがあるのかなと」
見透かされていた。さっきからやっぱり、私は挙動不審だった。ジェイラのことばかり考えていて、ジェイラの方をチラチラと見て、なにか言いたそうに口をパクパクさせていたのだと思う。ジェイラに対する思いが溢れて、それを抑えることもできなくなっていた。どう向き合えばいいのか? 分からなくて、心は益々迷走して。
『私の過去まで全部包み込んでほしい』なんて、どうやったら言えるのだろう。どう伝えればいいというのか。そんなことを言ったら、ジェイラに奇異の目で見られかねない。もしそんなことになったら、私はもうおしまいだ。もう二度と、ジェイラの前に顔を出すこともできなくなる。
心が、苦しさに締め付けられる。
どうすれば。一体どうすれば。
「…………ジェイラ」
ジェイラの名を口にする。続く言葉を絞り出すのに、私がどれほどの体力を使ったのだろうか、計り知れなかった。
「膝枕……させてくれないかな?」
ジェイラの方を向くことができなかった。
ジェイラがどんな顔をして私を見ているのか。
こんなところでいきなりこんなことを言い出して、変なやつだと思われているのは間違いない。でもジェイラなら、それさえ受け入れてくれそうで。それにつけ込んでいる自分がいた。
「え? ここで?」
当然の反応だった。人家からはちょっと離れた高台だったけど、まだ日中だったし、どこに人の目があるのかも分からない。そんなところで、女学生がもう一人の女学生の膝に頭を乗せて身を委ねている光景なんて、やっぱりおかしかった。
「だめ、かな」
「うーん」
心はバクバクと鳴り響きっぱなしだった。もはや自分でも、なにをしているのか分からなくなっていた。やっぱり嘘、と叫んで、そのまま走って逃げてしまいたい心境だった。でも、私の身体は私の頭とは別の行動を取り続けていて、ジェイラに全てを委ねていた。飼い主の前におなかをさらけだして寝そべる、飼い犬のような心境だった。
「いいよ。どんと来い」
ジェイラの声が聞こえて。
ジェイラの手が、私の頭を引き寄せた。
わわわっ、と身体を持っていかれて、心が準備を終える前に私の頭はジェイラの膝の上に乗っていた。
包み込まれるように。親の身体に寄り添う子供のように。
瞳はキョロキョロと泳ぎっぱなしで。頭はグルグルと回りっぱなしで。
でも、ジェイラの温かさと香りに包まれて、心はこの上もなく安らいでいて。
ああ、やっぱり。
心から思う。
私の安らぎの場所は、ここにあるのだと。
「ルシーズ、なんか子供みたいだねぇ。お母さんって呼ばないでよー」
そう言って、ジェイラが私の頭を撫でてくる。
「呼ばない、し。それに、ジェイラの方が、よっほど膝枕してる」
精一杯の強がりを見せる。気恥ずかしさと気持ちの真意を悟られないようにするための、必死の抵抗だった。
「あ、それもそうか」
ジェイラが、思い出したように応える。
「ふーむ、わたしの方がルシーズの子供か? なんか違うな」
それは違うと私も思ったけれど、でもどっちでもいいかとも思う。
ジェイラと心がつながれるのなら、どちらでも。
ジェイラの温もりが私の心を満たしていく。頭よりも身体よりも、心がそれを感じていた。
時間も空も、全てが停止しているように思えて。他の全ての生き物がこの世界から消えてしまって。私達二人だけがここに存在しているみたいだった。
「ルシーズー」
「え?」
ジェイラがそう言って、
「うりゃ」
「わわっ」
私の身体を自分の方へ引き倒した。
私は仰向けになってジェイラの顔を見上げる形になった。身体は不安定に、ベンチの上に投げ出されている。
「いや、こっちの方がいいんじゃないかと」
ジェイラが笑みを浮かべて、私を見つめていた。私はもう、ジェイラを見ることもできずに視線を遠くに飛ばしてしまう。本心はジェイラの顔をずっと見ていたいと思うけれど、今の私にはそれは酷なことだった。こんなのはずるい。全くの不意打ちだった。
ジェイラの匂いが私の鼻腔をくすぐる。今までで一番の近さなのは間違いない。
頭の中が真っ白になっていく。これは夢か? それすらもよく分からなくなっていった。
そんな私に、ジェイラが更なる追い討ちをかける。
私の顔に、自分の顔を近づけてきた。
え? え?
完全にパニック状態だった。
なにが起こっている?
ジェイラの髪が、私のおでこに触れる。
こそばゆいような、心地いいような、なんとも言えない感覚。
息づかいが届く。
そのまま、ジェイラの口びるが私に近づいてきて……。
私の口に……。
「うーん、やっぱり分からんな」
「へ?」
ジェイラが急に顔を上げて、首を傾げる。
ええ? ええっ?
それはない。それはないっ。
心が落胆の悲鳴を上げていた。
頭をハンマーで殴られたような衝撃というのは、まさにこのことだった。
「こないだのルシーズの気持ち。今なら分かる気がしたんだけど」
「こ、こないだ?」
「膝枕で起きたら、ルシーズがわたしの顔を覗き込んでたやつ。頭打って悶絶した」
「あ、あれは……つまり」
「つまり?」
「ぼ、母子的な? 距離が、縮めて、そういうやつで……」
なにを言っているのか分からない。今の私に、まともに文章を捻り出せといっても無理というものだった。
「母子的な距離ねえ」
ジェイラが、ふむと頷く。
「やっぱりそうだったか。うん」
「……やっぱりって?」
「いや、わたしと距離を縮めようとしてたんだろうなと。そんな気がしてたんだよね」
この間の私の失敗について、ジェイラも色々考えを巡らせていたらしかった。あれはどう考えても、おかしいと思われて当然だった。でもジェイラは、深く追求してこなかった。それはジェイラの優しさだったから私もそれに甘えて、それ以上この話はしなかった。
あのときの私は妄想が行き過ぎてしまっていて、気が付けばジェイラの口びるに自分の口を寄せていた。もしジェイラが起きなかったなら……想像すると今でも自己嫌悪に苛まれる。寝ている隙に付け込んでなんて、そんなのは最低だ。するなら、ちゃんと許可を取って……。
って、違う。許可を取ればいいとか、そういうことじゃない。
私は別に、ジェイラとキスがしたいわけではないんだってば。……したくないわけでもないけど。あれ?
「今、ルシーズの気持ちが分かるかなと思ったんだけど、ごめん、やっぱ分かんなかった。でも、直接聞けたからすっきりしたよ。やっぱ、人の心は難しい。うん」
そう言って、ふへへと笑う。いつものジェイラに戻っていた。いや、戻ってしまったというべきか。
「ルシーズ」
「はい」
急に呼びかけてくる。ジェイラが私を見つめていた。
「わたしなら、いつでもオープンだから。距離とかなんとか、そんなのは別にいいでしょ。気にしなくても」
ジェイラの言葉が胸に沁み込んでいく。同時に言葉の意味を汲み取ろうと必死ではあったけれど、ジェイラが私に心を大きく開いてくれているのだということは理解できた。私は今、幸福に包まれているのだと。
「それは……私だけ?」
欲をかいた。ジェイラの優しさのことは知っている。それが他の子に向けられることもあるのだということも。
だけど今は、それを私だけに向けてほしい。
メアやテセナには向けてほしくない。
欲張りだということは分かっている。これは独占だと。
でも、今は……。
私だけを見てほしかった。
「ああ、そういうことか」
ジェイラには、なにかが伝わったみたいだった。
はっきりとは聞けない。
でも、なにかが、確実に。
「まあ、そういうことにしてあげよう。ルシーズちゃんは良い子だから、ごほうび」
まるっきり子供扱いだ。でもジェイラなら、それもなんとも心地いい。
「冗談。ルシーズは特別で、わたしはルシーズにしかこんなこと言いません」
「ひゅえっ」
顔から火が出そうだった。私だけが特別で。私だけを特別に受け入れてくれていて。
最高だった。なにも考えられない。とにかく、最高だった。
浮かれ過ぎているということは良く分かっている。私は変なのだろうか? バカなのかもしれない。
多分、後者だろう。でも相手がジェイラだったら、それでも構わないと思った。
「あれだ。メアやテセナとは、それなりに距離は取ってるし。まあ、だからルシーズはー、うん、遠慮はしなくてもいいわけで」
ジェイラの方も、なんだか落ち着かない感じ。照れてる? やっぱりジェイラでも、こういうことを言うのは気恥ずかしさがあるのだろう。友情とか愛情とか、それを面と向かって相手に伝えるのは、誰だって抵抗はあるはずだ。
「なんか、あれだな。わたしはやっぱり、こういうのは向いていないかも」
ジェイラが、にへーっと笑って場を取り繕おうとする。思いもかけず自ら気恥ずかしいムードを作り出してしまって、それを慌ててごまかしているみたいだった。
「ジェイラ」
ジェイラの名前を呼ぶ。ジェイラの気持ちが伝わって、私の心は静かに落ち着き出していた。
胸の動悸は激しく、ドキドキと鳴り響きっぱなしではあったけれど。
今更ながら、心は胸ではなく別の場所にあるのだということを認識する。その心に直結した口が、言葉を伝えた。
「……これからも、一緒にいてくれる?」
身体が熱で溶けてしまいそうだった。これが限界で、これ以上のことはなにも言えなかった。私がこんなことを言うなんて。今までの私には全く想像すらできなかっただろう。
私の願いを心から伝えたい相手が、私の目を見つめている。
「まあ、どんと来い」
いつものジェイラが、私を包む。
その姿に、心の底から安堵している私がいた。
宝石のような時間が過ぎて、二人でまた帰路につく。言葉は少ない。いつもの二人。
その手はちゃんと、つながっていて。
多分、心も。
ジェイラが私の方を向く。ふへへ、と変に笑っていた。
前を見据える。十年先も、二十年先も、私はジェイラと共にいたい。
共に、この世界の上に……。
ジェイラの手が私の頭に触れる。頭を撫でられて、ジェイラの温もりを感じて。
ジェイラとの時間は、私の宝物だった。
改めて思う。私は本当に、ジェイラのことが好きなんだと。