主人公はジェリド・メサ   作:中津戸バズ

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エピローグ
U.C.0093/3/12 恋人たち


 

「三、二、一……」

 ぱん、と手を打つ音が聞こえた。ファの意識は、一気に覚醒する。彼女は驚いたように、目を瞬かせた。何度やっても、この感覚には慣れない。

「……どうでしたか、先生」

 不安げに彼女は聞いた。彼女の目の前の、眼鏡をかけた女は笑顔を浮かべて頷いた。

「ええ。順調です。……このような催眠療法も、今回が最後でしょう」

「そうですか?」

「はい。充実した生活を送られているようですね」

 見透かしたような眼鏡のカウンセラーの言葉に、ファははにかみながら頷いた。

「……そうかもしれません」

「よいことです。平和な生活は精神の安定につながりますから」

「はい」

 ファは椅子に座ったまま、しっかりとした目つきで頷いた。このカウンセラーの患者の中では優等生だ。受けた心の傷は深いはずだが、順調に快方に向かっている。

 カウンセラーは処方箋用紙を手渡した。

「お薬の量は減らしました。薬剤師からの指示も忘れずに。何もなければ、また来月」

「はい、ありがとうございます!」

 ぺこりと頭を下げて、ファは席を立った。カウンセラーの助手が、ファの鞄を返す。

「お大事に」

「ありがとうございました!」

 そう言って、ファは診察室を出た。ふう、と息を吐いて、カウンセラーは椅子の背もたれに体を預ける。

「あなたはどう感じましたか? フォウ」

 そう声をかけられて、助手の女が振り返った。

「うん。あの子は辛い記憶がなくなったわけじゃないけど、でも、確実に薄れてきている。いい思い出が増えてるみたいだ」

「そうですか」

 やはり、とでも言うように満足げに頷いて、カウンセラーの女はカルテに経過を書きつける。フォウと呼ばれた助手が、患者用の椅子に腰掛けた。今日診察する患者はファで最後だった。

「ナミカーの方はどうなの?」

「何がですか?」

「研究だよ」

 フォウはそう言って、少し心配そうな視線を向けた。彼女の視線の先のカウンセラーは、ナミカー・コーネル。かつてはムラサメ研究所のインストラクターであり、今はこのミドゥサ・カレッジの研究員兼スクールカウンセラーだ。

「そうですね……。ムラサメ研究所の頃と比べれば、スピードは遅すぎますよ」

「やっぱり、あんな素人の学生たちから志願者を募っても……」

「ふふ、いいんですよ、フォウ。時間ならありますから」

 コーネルは、ミドゥサ・カレッジでは新人類学の教員も務めている。いわゆる、ニュータイプ研究だった。

「平和な世になりました。あの頃のような強い負荷を与える研究は、もう必要ないのです」

 すでにニュータイプという言葉に惹かれた学生が集まって、コーネルゼミというべき集団が出来上がっていた。ニュータイプに憧れる学生たちによる善意の集団だ。民生用サイコミュの開発を進め、将来的には、高濃度のミノフスキー粒子散布下での通信や低負荷のサイバネティクス技術などに生かすつもりだ。

「フォウこそ、いいのですか? まだ記憶は戻っていないのでしょう? それなのに旅をやめて……」

「地球のインドではいろんな人と会ったよ。嫌なこともあったけど、でも、今は幸せさ」

 フォウは床を蹴った。くるりと丸椅子の座面が回り、彼女の視線は窓の外へ向かう。

「宇宙は広いんだってこと、あの子にも伝えてやりたいんだ」

「あの子?」

「ふふふ」

 インドで出会った欲求不満の少女。フォウは彼女のことを思い出して、口元を緩ませた。

「年は離れてるけど、友達かな。ニュータイプだと思うよ」

「そう。大切になさい」

 コーネルは目を細めた。

 アクシズ落としが阻止された後、フォウと彼女はムラサメ研究所を退所した。ムラサメ研究所の上層部は、フォウに記憶を返すつもりなどなかったからだ。それから二年ほど経って、ムラサメ研究所は人道的見地から解体された。

 傷痍軍人扱いを受けたフォウは多額の年金を軍から受け取りそれを資金に地球圏中を旅していたが、コーネルに招かれ、今年度から彼女の助手としてミドゥサ・カレッジで働いている。

 まだ過去の記憶は断片程度しか戻っていない。だが、彼女はそれでもいいとさえ思えていた。コーネルとの記憶が、そして五年間の記憶が、彼女を支えていた。

「いい思い出をたくさん作るのですよ」

 一方のコーネルは、かねてから打診があった大学に研究員として再就職。今では教員としての仕事どころか、強化人間のインストラクターとしての経験を生かしてスクールカウンセラーの職も兼任している。

「作ってるよ。ナミカーともね」

「まあ」

 コーネルは口元に手をやって笑った。無愛想だったフォウも、もうすっかり丸くなっていた。

「お昼、まだでしょう?」

「うん。行こうか」

 コーネルが席を立ち上がって支度を始めた。ふと、フォウは窓の外を見下ろす。正門では、さっきの患者が友人らしい男と話しているのが見えた。

 

 

 

「おう、ファ」

「ごめん、カミーユ。待った?」

「少し」

 カミーユの軽口に、ファは小さく笑い、彼の肩を小突く。大学の正門は、夕方の今は人もまばらだった。

「どうだった?」

「順調だって。充実した生活を送ってるそうよ」

「充実か」

 ファもカミーユも、親元を離れてこのフォン・ブラウン市にあるミドゥサ・カレッジに通っていた。約五年前、命をかけて戦った面影は無かった。

「……良かったよ、お前とこうして歩けて」

「何よ、いつものことじゃない」

「いや……本当に良かった」

 二人は空を見上げた。空は、採光用の窓以外は、ドームの内側の青色だった。青空と呼ぶにはいささか味気ないが、二人はそれが気に入ってもいた。

 彼らは、駅に向かって歩き出す。広い遊歩道の先に、車が行き交う車道が見えた。

「カミーユは、どう? 最近」

「暇だよ。空手もやめなきゃよかったかもな」

「一人暮らしだって楽じゃないでしょう。今度、何か作って持って行くから」

 鞄を両手で持ち、ファはカミーユの右の二の腕に肩を寄せる。カミーユは素早く、静かに、自分の鞄を左手に持ち替えた。

「別にいいよ。それより宇宙心理学のレポート、忘れるなよ」

「順調よ。カミーユのおかげでね」

 ファは先のグリプス戦役とその療養のため、二年と少しの間、勉強が遅れている。カミーユよりも一学年下だった。

 行く手に、うるさく騒ぐ学生の集団が見えた。カミーユたちは遠慮して歩調を緩める。

「ねえカミーユ。グリーン・ノアにはいつ帰るの?」

 あと二ヶ月もすれば春の休暇だ。ファは、休暇の予定を聞いていた。

「ん……どうしようかな。別に親父も待ってるわけじゃないし」

「お父さんは?」

「ようやく離婚したからさ。母さんだって、急に帰られても困るだろ」

 視線を逸らすカミーユの腕に、ファは自分の腕を絡めた。

「そうかしら。この前話した時は、カミーユのこと気にしてたけど」

 驚いたようにカミーユはファに視線を落とす。

「お前、いつから母さんと仲良くなったんだよ」

「好きなんだもの、カミーユのこと」

 ファはそう言っていたずらっぽく笑った。街路樹の木陰が顔にかかった。

「カミーユ?」

 先を行く学生の集団の一人が振り返った。鍛えられた体つきの、体育会系の学生だ。彼はカミーユたちを一瞥し、小さく鼻で笑う。

「なんだよ、男か」

 そのまま、その男は友達との会話に戻った。その声を聞き、カミーユは思わずその男を見る。

「カミーユ?」

 ほんの一瞬、彼が殺気だったようにファは感じた。

「いい。悪気はないんだろ」

 カミーユはまるで気にしていないように、ファの腕を少し強く引いた。

「名前、好きになったの?」

 ファはしっかりと、カミーユの顔を見上げた。木漏れ日がファの目には眩しかった。

「親がつけてくれた自分の名前だ。嫌いになれるかよ」

 そう笑って、カミーユは手を伸ばす。二人は手を繋いで、道を歩いていった。

 

 

 

 手を繋いだ二人組が、こじゃれたレストランの前で立ち止まった。男は短髪。女はロングヘアを高くまとめ、ややフォーマルな彼らの服装は、少し背伸びをしているようにも見えた。

 重厚感あるドアを開けると、甲高いチャイムと小さく流れるジャズの音楽が聴こえた。十秒も経たないうちに、ウェイターが顔を出す。

「いらっしゃいませ。ご予約ですか?」

「はい、カツ・コバヤシです」

「かしこまりました。二名様ですね?」

 小さく女性が頷くと、ウェイターは気取った動きで歩き出した。

「こちらでございます」

 案内された席からは、窓越しに夜景が見えた。このコロニーは一年戦争の被害からいち早く立て直しに成功していた。グリプス戦役にも巻き込まれず発展を続け、今ではコロニー復興のモデルケースでもある。オフィス街はまだ明るく、眠る気配はない。

 テーブルクロスが引かれた机に、シャンデリア風の電灯の光が複雑な影と光を映していた。

 ウェイターがメニューを取りにその場を離れる。女性の向かいの男は、どうにも座り心地に慣れないようで、何度か座り直して口を開く。

「三ヶ月ぶりだね、サラ」

「寂しかったんだから」

 少しむくれてみせたサラに、カツは苦笑いする。

「ごめんって。ちょっと立て込んでてさ」

「もう、言い訳ばっかり」

 その時、ウェイターが戻ってくる。ドリンクのメニューを手渡し、やや大きな板に記された今日のコースメニューを説明する。

「本日はご来店いただき、ありがとうございます。オードブルは地球産トラウトサーモンとタマネギのカルパッチョ、バジル風味。スープは……」

 興味津々といった様子で、サラはその説明を聴く。このような高級店に通った経験は、彼女にはほとんどなかった。遊びのない青春時代。シドレのことを、彼女は少し思い出していた。

 その彼女の顔を眺めつつ、カツは素早くドリンクのメニューに目を走らせる。

「以上となります。ドリンクは……」

「ああ、これを二つ」

「かしこまりました」

 うやうやしく礼をして、ウェイターは去って行く。サラは少し怪訝そうにカツを見た。

「いいの?」

「こういう時、ジュースとかを頼むと味がわからなくなっちゃうんだってさ」

 カツはまだ、酒が飲めるようになったばかりだ。ほとんど飲酒経験のない彼を、サラはからかっていた。

「ふうん。それでどうだったの? 月の……ええと、」

「ああ。自治経済連合警備隊。ムーン・エゥーゴでしょ?」

 グリプス戦役後、エゥーゴは解体され、自治権を得たフォン・ブラウン以外の月の諸都市は月面自治経済連合を名乗り、新たに軍隊を組織した。

 その名も月面(Moon)自治経済連合警備隊(Autonomous Economic Union Guard)。略称はムーン・エゥーゴ(A.E.U.G.)。その名を見ればわかる通り、エゥーゴが解体されたというのも形だけのもので、ほとんど旧エゥーゴそのままである。

 司令官にはヘンケン・ベッケナーが就任し、アムロをはじめとするパイロットたちも所属している。

 さらには、アクシズ落としの前後でエゥーゴに降ったネオ・ジオンの戦力の一部も吸収していた。ムーン・エゥーゴに入らなかったネオ・ジオン軍人たちの中には他のジオン残党に合流したものもいたが、社会復帰を目指すものや、サイド3の故郷に帰ったものたちが多かった。

「そう。ムーン・エゥーゴのお仕事はどうだった?」

「だから、僕はムーン・エゥーゴじゃないって。アナハイムのテストパイロットだよ」

「同じでしょう? モビルスーツを作ってるんだから」

「まあ、そうかもしれないけど」

「それで? 確か、サイド1に行ったんでしょう?」

 アナハイムの狙いは、スペースノイド全体の協調だった。各サイドに経済的に進出して、経済面からスペースノイド全体の融和および連携を図る。カツの派遣は、そのための足掛かりだった。

「僕の同僚が女の人だったんだけどさ。この人の性格がキツくって。サラよりもちょっと年上かな」

 カツがこぼす愚痴に、サラはにこにこと笑いながら頷いていた。他愛のない話であっても、彼女にとっては愛する人の話だった。

「その上、そのシャングリラってコロニーのジャンク屋なんかとも揉めちゃって、最後には元ティターンズのパイロットまで出てきたんだよ」

「嘘でしょう?」

「いや、それがね……」

「お待たせいたしました」

 二人の会話が、ウェイターによって中断される。皿が並べられ、ボトルからグラスにワインが注がれる。その鮮やかな手つきを目で追った彼らは、ふと、互いの目を見つめ合った。

 ワインの説明も、ほとんど耳に入っていなかった。

「では、ごゆっくりお楽しみください」

 そのウェイターの言葉で、二人は我に返る。慣れない手つきで二人はグラスを手に取った。薄く透ける白ワインが揺れた。

「乾杯」

 

 

 

「乾杯」

 グラスの中で、琥珀色の液体に氷が浮かんでいた。ちびりと舐めるように、金髪を後ろに撫でつけた男はその液体を口に含んだ。

 鼻から息を吐き出して、その香りを楽しむ。

「ふむ」

 彼の向かいのソファには、もう一人の男が座っている。巻き毛の男も同じようにウィスキーを飲み、グラスをテーブルに置いた。

「よく来れたものだ、忙しいだろうに」

「私もお前のようにパイロットだけをやれれば良かったがな」

 小さな皮肉に、巻き毛の男は肩をすくめる。アムロ・レイだ。

「お前から預かった奴らには、俺もロベルトも手を焼いてるんだ」

 アムロの軽口に、金髪の男、シャア・アズナブルは笑って見せた。

 ムーン・エゥーゴは反地球連邦という思想も強い。アクシズから来たものもいれば、ジオン共和国軍くずれもいる。

 シャアの頭に、とびきり負けん気の強い黒髪の青年の顔が浮かんだ。アムロに預けたニュータイプ候補生の一人だ。

「若いのさ。だが彼らには素質がある」

「戦争しかできんようになっては困るがな」

「ああ。ニュータイプの力は戦いのためのものではない」

 シャアの視線が、ウィスキーのグラスに落ちた。

「私たちのようなことは、あってはならん」

「……まだ俺のことが憎いか?」

 アムロの声は、無感情だった。シャアはグラスの中の氷を、人差し指でゆっくりとかき混ぜる。

「正直に言わせて貰えばな。だが、私はザビ家への憎しみも忘れた男だ」

 氷同士が擦れ合い、ウィスキーの温度に溶かされて行く。いくらか薄くなったウィスキーを、シャアは一口分、口に含んだ。

「……そうか。そういえば、ミネバは?」

「元気に暮らしているよ。私に親代わりが務まるかわからんが」

 ミネバは今、グラナダに住んでいる。ボディガードや監視はつけているが、健やかに成長していた。

「できるさ。月の大統領なら、子守くらい」

「世辞はよせ」

 こそばゆそうに、シャアは破顔した。

「兄さんのお部屋、準備できたわ」

 リビングに、金髪の妙齢の美女が入ってきた。シャツにスラックスというシンプルな服装だが、その立ち振る舞いには気品がある。着ているものも、派手でこそないが高級品だ。

「助かるよ、アルテイシア」

「セイラ・マスだろう」

「すまんな」

 アムロに指摘されたものの、シャアの笑顔は変わらなかった。

「何の話?」

 セイラは二人の間の椅子に腰掛けた。自分のグラスを取り、氷を入れる。

「シャアの娘さ」

「ミネバのことだよ。彼女ももうじき、自分で考えられる年だ」

「兄さんに戻ってくれればいいのだから」

 セイラは少し唇を尖らせた。アムロが片手でウィスキーのボトルを掴み、セイラのグラスに注ぐ。

「連邦が、人類が変わるまではまだかかるようだ」

「なら、カイの言うように連邦議会に入っても良かったでしょう?」

「そうだな。月の大統領では、お前に会うのも一苦労だ」

「そうね……」

 ジェリドがエゥーゴと結んだ戦時条約は、戦後に連邦上層部によって承認された。フォン・ブラウン市以外の月の諸都市は連邦から独立し、月面自治連合を名乗っている。

 月面自治連合の大統領であるシャアが地球に住むセイラの家を訪ねるには、かなり面倒な手続きを踏んだ。お忍びでの来訪だったが、彼のボディガードは屋敷の外にも中にも控えている。この部屋から追い出すのも大変だった。

「寂しくはないか?」

「ふふ、兄さんは?」

「寂しいさ」

 とぼけるような口ぶりだった。セイラは、二人のやりとりを満足げに見守るアムロに気づいた。

「フラウたちも月にいるんでしょう? 上手くやれてるかしら」

 五年前からのこととはいえ、父親の不在は大きいだろう。セイラはフラウのことが心配だった。

「カツが一家の大黒柱をやってますよ。キッカも、大学が楽しそうで」

 アムロも同じ考えのもと、休暇のたびにコバヤシ家を訪ねていた。フラウも今ではすっかり元気に母親をやっている。

「ミライさんともよく会ってるそうです。セイラさんは、ハサウェイとチェーミンとはまだ会ってませんか」

「ええ。私が出国すると面倒だもの」

 金に苦労はしていないが、セイラの暮らしは不自由だった。シャアには劣るものの、彼女の名前の威光は反連邦主義者にとっては未だ大きい。

「ブライトも元気だよ。ムーン・エゥーゴを取り仕切ってくれている」

 シャアが口を挟んだ。ホワイトベース隊の思い出話には、彼はついていけない。セイラはグラスを手に取った。一口飲んで、呟く。

「カイも呼んだのだけどね」

「ああ、彼か。仕事か?」

 セイラは首を振った。

「アイルランドですって。時々行ってるそうよ」

「ほう」

 話題が尽きたわけではないが、一瞬の沈黙が流れた。深く息を吐き、シャアがソファに背中を預ける。

「兄さんは、明日は早いんでしょう?」

「ああ。明日は会談がある」

「どうなのかしらね、連邦の新しい首相は」

 明日の予定を聞き、セイラは少し物憂げだった。アムロやシャアと違って、彼女はその男と顔を合わせたことがなかった。

「うまくやれますよ。あいつは連邦を内側から変えてくれてるんですから」

 アムロの言葉に、シャアが頷く。シャアのグラスの氷は、半分ほど溶けかかっていた。

「ああ。彼が成功すれば、私も安心して隠居ができる。嫁さんでももらって、……セイラを安心させてやれるさ」

 セイラと名を呼ばれて、彼女は嬉しかった。照れ隠しのように、ウィスキーを傾ける。

「ジェリド・メサ首相か……」

 

 

 

「首相! 到着いたしました」

「ん……」

 ジェリドはタブレットから視線を上げた。無数のデータを頭に入れながら、彼は体を起こす。

 リムジン車のドアが開き、SPたちの中をジェリドは立ち上がった。

 すでに空は真っ暗だ。SPに連れられて、彼は五階建ての頑丈そうな建物の中に入って行く。

 歩きながら、秘書官が早口で捲したてる。

「明朝、七時半にお迎えにあがります。移動中に木星公社の対応の打ち合わせ、参謀次官と合流して、九時から自治経済連合のシャア・アズナブル大統領と会談。十二時からはコロニー公社の幹部陣との会食。十三時からは保健衛生省の復興会議に出席。十六時には連邦安全保障会議で汎アフリカ解放同盟について……」

 ジェリドは小さく相槌を打ちながら彼の言葉を聞く。初めからドアが開いているエレベーターに彼が乗りこむと、SPが居住階のスイッチを押した。

「では、また明日。お疲れ様でした」

「ああ。明日もよろしく頼む」

 エレベーターのドアが開き、ジェリドはその中に足を踏み入れる。地球連邦の首相官邸の調度品は豪華だった。執務や応対を行う他のブロックには劣るものの、居住階も高級感あふれる内装だ。ふかふかの毛足の長い絨毯に、黒く艶めいたフローリング。天井からは一抱えほどのシャンデリアが下がり、その下には長髪の女性が立っていた。

「おかえり、ジェリド」

「ただいま」

 帰ってきた彼を出迎えたのはマウアーだった。

「今日も遅くまでお疲れ様。大変ね」

「このくらいで弱音は吐けんよ。マウアーは?」

 ネクタイを緩めながらジェリドが聞いた。マウアーは笑って首を振り、彼のジャケットを脱がせる。

「いたって健康よ。軍にいた時の方が大変だった」

「ふふ。この家にも慣れてきたな」

 アクシズ落とし阻止の功績を引っ提げて、ジェリドは政界に打って出た。地球圏最強の軍閥勢力の長である彼は、ジャミトフの支持基盤を利用し、時として彼らの汚職弾劾をしながら、連邦議会での発言力を高めていった。

 そして、つい先日。彼は地球連邦の首相の座を手に入れたのである。

 ジェリドはソファに腰を下ろした。

 連邦はそう簡単には変わらない。だが、税制を見直し、コロニー事業への協力を広く募ることで、地球圏のパワーバランスに変化をもたらしてはいた。給料の遅配を是正し、未だ残る一年戦争の傷跡の復興に注力し、地球連邦をより強固な組織へと立て直す。

 彼の隣に、マウアーが腰掛ける。ジェリドは何を言うでもなく、彼女の肩を抱いた。太くたくましい腕。マウアーはそっとジェリドの肩にもたれかかった。

「あっという間だったわね。首相になるまで」

 ジェリドは彼女の頭に頬を当てる。いい匂いだ。

「五年か。短いもんだ」

「そう。グリプス戦役から」

 グリプス、またの名をグリーン・オアシスへのエゥーゴの襲撃に端を発したティターンズ、エゥーゴ、アクシズ三陣営の混迷を極めた戦争は、アクシズ落としの阻止を以て終結を見た。グリプスに始まり、グリプスに終わった戦いだった。

「カミーユもサラもすぐに軍を抜けちまった」

「安心したでしょ、本当は」

「まあな。軍に残ってるカクリコンだって、会うたびに子供の写真を見せてくるんだぜ」

 戦後、カクリコンはアメリアと結婚した。彼は妻との間に二児を儲けている。

 皮肉めかしてジェリドは言った。

「つかまり立ちができただの、パパって言っただの」

「やきもち?」

「前までは、少しな」

 マウアーは、腰を浮かしてソファの端に座り直す。彼女が自身のふとももを軽く叩くと、ジェリドはそこへごろりと横になった。

 電灯の明るさが目に沁みる。ジェリドに膝枕をするマウアーは、彼の手を握った。冗談を言ってこそいるが、彼の表情はまだ険しい。

「明日は……シャア・アズナブルとの会談ね」

「月には頑張ってもらわなきゃ困る。競合相手がいるおかげで連邦の上層部も引き締まってるんだ」

 ジェリドの言葉は事実だった。設立から一世紀。地球連邦という大組織の上層部は腐敗していた。その原因の一つが、圧力の無さである。

 外圧があれば、組織の腐敗は食い止められる。ジェリドもすでにティターンズの憲兵隊を内部監査組織に仕立て上げ、上層部の汚職を次々に取り締まっているが、腐敗が大きすぎる点は否めなかった。

「ジャミトフがティターンズを作った理由もわかっちまったよ。連邦があのままじゃ、地球も人類も駄目になる」

「ジャミトフの目的を継ぐわけじゃないんでしょ?」

「地球を守りたいってのは俺も一緒だ」

 途方もない理想だ。人一人の人生で達成することは不可能だろう。ジャミトフもそうだった。たった一人で世界を掌握し変えようとしたシロッコにもできなかったことだ。

 険しいジェリドの眉を、ほぐすようにマウアーの指が撫でた。

「そう。だからあなたも託すのよ」

「託す……。そうだな」

 どうしても、ジェリドには熱くなりやすい性質があった。マウアーはいつも、その弱点をカバーしてくれる。膝枕されているジェリドは、彼女の腹に自分の耳を触れさせた。

「聞こえるの?」

「感じるよ」

 マウアーの中にある、新しい命。自分と最愛の人の血が混じり合った、彼らの未来だった。

 

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