菊花賞を迎えた京都レース場。一冠目の皐月賞は、雨天による決戦であったが一転して最後の三冠目は、まっさらな晴天、良馬場。絶好のレース日和であった。会場も観客が押し合いへし合いして熱気に包まれていた。
私は、その熱気から離れるようにウマ娘が出走準備を行っている控室へと足を進める。こちらは表とは違い、係員や出走するウマ娘が行ったり来たりでせわしない雰囲気であった。そうこうしてタンホイザの名札の部屋を見つけるとそのドアをノックした。
「どうぞ~」
いつもの間延びした返事を聞いて扉を開けるとタンホイザは、衣装チェックをしていたのか部屋の鏡の前で座っていた。
「やぁ、タンホイザ。調子はどうだ」
「あぁー! アイルトン! 来てくれたんだ~。うれしいなぁ!」
タンホイザのいつものほんわかとした笑顔にこちらも顔が緩む。いつもの制服とは違い、勝負服に身を包んでいる。
「勝負服は久々だな。ちゃんと着れてるのか?」
「もう! 大丈夫だよ。さっきしっかりネイチャとイクノと一緒に準備したもん」
彼女はふくれっ面を浮かべた。普段から抜けているところがあるから心配だったが余計なお世話だったらしい。
「ネイチャさんとイクノさんも来ているのか」
「うん! ターボとトレーナーさんは、福島のレースがあって来れなかったけど、次のマイルチャンピオンシップの下見も兼ねて、ネイチャとディクタスが来てくれたんだー」
「へぇ、ネイチャさんは次にマイルか。それにしてもディクタスさんはタフだな。今年の2月から休みなしだろう。てっきりもう休養かと」
「まだまだ走るんだって。マイルチャンピオンシップの後はジャパンカップも出るらしいけど……」
「えっ、ジャ、ジャパンカップ?」
耳を疑った。ジャパンカップは、マイルチャンピオンシップの次週、つまり連闘だ。それにレース場も京都から東京へと移動が必要だ。過去にオグリキャップもそのローテーションを組んだことがあるが、その年はケガの影響もあり秋のオールカマーの始動であった。春から休みなく走り続ける彼女の頑丈さに驚きを隠せない。
「イクノは、出れるレースは出るって言ってたけど、元気だよね~。私も見習わなきゃ!」
「いやっ、それは別に見習わなくていいと思う」
部屋に備え付けのテレビからは、第7レースが終わっていた。菊花賞が近づくにつれ、タンホイザにもぎこちなさが出てきた。普段のほほんとした彼女も今回ばかりは、ひどく緊張しているようだった。
「あっ、そうだっさっきネイチャとイクノが陣中見舞いって言っておまんじゅう持ってきてくれたんだ~。一緒に食べよ――、あばっ!」
私の方へ饅頭を持ってこようとして、椅子に蹴躓いて転びかける。私は間一髪どうにか彼女を支えることができた。
「――あっ、危ない! ……まったく気をつけたまえ。レース前にまた鼻血を出す気か」
「えっ、えへへ~。ありがとう」
タンホイザを椅子に座らせると私は、レースとは関係ない話を始めた。トレーニング、食堂のメニュー、最近話題のおいしいスイーツ等々他愛ない話題に最初は、少し緊張のせいか表情に硬かったが、だんだんと話に乗るにつれてコロコロと笑っていた。
「あはは、おかしいって、あれっ? もう2時半だ! お話に夢中になってたら、こんな時間になっちゃった」
「ああ、だがだいぶ緊張はほぐれてきたな。いい笑顔だ」
「えっ、あっ、そっかアイルトン。私が緊張しないために……」
私は、席を立った。さすがにレース直前まで話しているわけにはいかない。動きにぎこちなさは見られなくなった。この様子だともう大丈夫だろう。
「もう時間だ。そろそろ私は行くよ」
「うん、ありがとう。 レース楽しみしててね」
「あぁ、だがレースだけじゃなくてライブもしっかりしろよ。ルドルフさんもウインニグライブをおざなりにするなって言ってたからな」
「もちろん! しっかり練習してるから安心して!」
「なら安心だ。……センターで踊るところ楽しみにしてるからな」
「っ、……うん。だからライブも楽しみにしてて!」
控室を出てからどこで観戦するか考えていなかったことに気づいた。菊花賞となると観客も多く、席は取れたものではない。レースの見やすい最前となるともう人が密集していて今からでは、難しいだろう。
(友人が応援に来てたはずだから連絡……いやっ、ネイチャさんとイクノさんがいるからそちらと合流するのも手か?)
そうスマホを片手に頭を悩ませていた時だった。
「アイルトンッ!」
凛とした声が響く。ピンと耳が立ち、背筋が伸びる。声の方へと振り向くとそこには、皇帝が鎮座していた。
「やはり君も来ていたか」
「はい。同居人のタンホイザが出走するので……、さっき陣中見舞いを兼ねて会ってきました」
「うん、いい心がけだ。友人は大切にするべきだ。特にルームメイトは肝胆相照の仲であるのが好ましいからな」
「もちろんです。やはりルドルフさんは、生徒会関係でこちらに?」
「それもあるが、やはり前三冠ウマ娘として……、本音を言えば一ウマ娘として三冠ウマ娘が誕生するか否か……、それをこの目で見届けたいんだ」
そう口にするとルドルフさんは、ターフの方へと目を向けた。その眼はどこか物懐かしさを醸していた。その脳裏に浮かぶは、三冠を達成のときであろうか。三冠を得たときは、どんな感情がこみ上げてくるのか。私には及びもつかなかった。
「そうだ。もう君はどこで観戦するか決めているのか?」
「いいえ、まだです。タンホイザの応援で頭がいっぱいで、実は観戦のことまで考えてなくて……」
「なら、ちょうどよかった。これから観覧席に向かうんだが、君も一緒にどうだろうか」
「えっ、いいんですか!」
まさに渡りに船とはこのことか。私は、ルドルフさんの提案に二つ返事し、小躍りせんばかりに喜び、彼女についていったのだった。
会場の熱は高まりつつあった。菊花賞の発走30分前になり、観客もパドックに大勢いるらしいが、それでもG1の観戦ということもあり、眼下では多くの人がスタンドに押しかけて、ごった返していた。
「普段は、学園や報道関係者、生徒会の者ぐらいしか通せないんだ。あとはマルゼンスキーやシービーぐらいかな」
ルドルフさんが連れてきてくれたのは、スタンドの上層部にある観覧席であった。下の熱気溢れるスタンドとは、記者や学園の職員が忙しなく駆け回っており、また一味違った雰囲気があった。
「そうなんですか。でも私なんか連れていいんですか?」
「あぁ、生徒会長特権で特別な。あまり公私混同はよくないと言われるかもしれんが、たまにはいいだろう」
ルドルフさんは、悪戯っぽい笑みを浮かべる。それにつられ私も秘密を共有できたこと、彼女からの特別という言葉から気分が高まりつつあった。テイオーに自慢してやりたい。彼女がどんだけ羨ましがるだろうかとほくそ笑むのだった。
出走時刻が刻々と迫る。ルドルフさんは三冠ウマ娘としてインタビューがあるために解説席へと向かい、一人になった私は、いったん室内へと戻りモニター前の席に腰掛けていた。画面には、パドックが映し出され、皆思い思いの勝負服に身を包んだ姿を披露していた。私は、机に購入していた新聞を広げ、画面のウマ娘とその紙面のコメントを照らして読みこんでいく。その中で一人のウマ娘のコメントが目につき、それと同時にモニターに映し出されていた。
「11番人気は、神戸新聞杯など重賞2勝! 今日はブルボンには楽に逃げさせないと堂々の逃げ宣言! キョウエイボーガンです!」
他のウマ娘に比較して一回り小さい体形に印象的であった。彼女については、学園のクラスが同じであったこともあって見覚えがあった。春のクラシックこそケガの影響で出場できなかったが、夏に初の重賞勝利を挙げると、秋にはその勢いのまま神戸新聞杯に勝利、まさに「夏の上がりウマ娘」として話題になっていた。戦法は主に逃げである。そんなボーガンがなぜブルボンに執着するのか。それは、前走の京都新聞杯にて大敗を喫したからであった。実力ウマ娘として話題となったボーガンは、京都新聞杯にてブルボンと初対戦ながら3番人気に押された。しかし結果は、10頭中9着の大惨敗。ブルボンにハナを譲り、二番手で追走したものの自らのペースを乱し、実力が発揮できなかったためだ。
数日前のニュース番組にて菊花賞が特集されており、ボーガンもインタビューを受けていた。
「前走は、逃げを打てず自分の走りができませんでした。ですが今回はそうはいきません! ブルボンに鈴をつけてやります!」
「鈴をつける」とは、レースの用語で逃げ馬に競りかけることでそのペースを乱すことを意味する。ペースを狂わせることで余分にスタミナを使い逃げウマ娘の本来の実力を発揮させないのである。今回で言えば、ブルボンに競りかけるということだがこの戦法を行えば、ボーガンも相当なスタミナを消費する。まして菊花賞3000m、この戦法では、勝利は至難の業であり間違いなくボーガンも潰れるであろう。そんな玉砕めいたことをするだろうか。
今までブルボンは逃げで競りかけられたことはない。ハナに立つとそのまま先頭のままゴールする。冷静なレース運びであり、正確なラップを刻むことからサイボーグの異名を持つ彼女である。競りかけられたとしても容易に対処するかもしれない。だがもしもということもある。私はジッと画面に映しだされたブルボンを眺めていた。
「待たせたな。そろそろ出走時刻だ。誰が勝者となるか、見届けようじゃないか」
インタビューが終了したルドルフさんとともに観覧席へと向かう。上からの眺めは、まさに絶景であった。多くの観客が今かいまかとレースの始まりを待ちわびていた。
熱狂する観客の熱にあてられ、まるでレース前のような高ぶりが私の胸に宿りつつあった。だがそれとは対照的に菊花賞が始まらないでほしいという思いもあった。一度は目標として志した菊花賞。もう一年先であれば、いや半年先であれば、私の出走も……。どこかそんな幼稚めいた考えがもたげる。
「……やはり菊花賞を断念したことを悔いているか。アイルトン」
いまだ諦めきれない思いが表情に出ていたか、ルドルフさんが問いかけてきた。
「正直に言えば……、まだ割り切れないところはあります」
私の言葉を聞いてルドルフさんは言葉を選びつつ口を開いた。
「そうか……。君に菊花賞を断念させたとき私は君によかれと思っていた。だが一人になって立ちかえってみると私の胸中に渦巻くものがあった。君の意見を無下にしてしまったのでは、私の独断専行であったのではないかと」
横目で彼女を伺う。どこか憂いを秘めた眼をターフへと向けていた。思いつめた表情に後悔の念がにじみ出ていた。
「私の理想はウマ娘の誰もが幸福であることだ。だが本当にあの選択が正解だったのか。私のエゴを押しつけただけじゃないのか。私自身が君の幸福を潰してしまっ――」
「そんなことはないです!」
彼女の言葉を遮った。それ以上ルドルフさんに口にさせるわけにいかなかった。
「たしかにあなたの言葉で私は、菊花賞を諦めました。ですがそれは結局は私が取った選択です。……もしあの時私がルドルフさんの意見を聞きいれず菊花賞を目指していたらどうしていましたか?」
「それでも目指すというなら止めはしなかった。……君の選択を尊重していたよ」
「……あなたならそう言うと思っていました。私が無理を通せば受けいれてくれたでしょう。それをわかったうえで私は菊花賞を諦めたんです」
「それに言ったでしょう。『アイルトンは走る』と、その言葉を信じることにしたんです。たしかに今はその選択が正しかったと断言できないかもしれません。けど私自身の走りでこれから正解にすることはできるはずです。まぁ出走を止めるために出まかせを言ったのなら別ですが」
「……そんなことはないよ。君は間違いなく走るはずさ。いや、走る」
ルドルフさんはこちらへと向き口にした。その眼には間違いなく噓偽りはなかった。私の心中に誇り高い気持ちがこみ上げてくる。自分の目標とするウマ娘が自らの才を保証してくれる。これほど心強いことはなかった。
「……なら安心しました。あなたに恥じぬレースを見せるだけです」
ルドルフさんと話している間に、出走はすぐ目の前だ。すでにスターターがリフトアップして旗を振った。ブラスバンドによって高らかに関西のG1ファンファーレが奏でられる。演奏が終わると同時に観客から地鳴りのような大歓声が巻きおこり、会場の熱気は最高潮となった。
「ルドルフさんは……ブルボンが三冠を達成すると思いますか?」
「可能性はあると思うよ。だがレースは走ってみなければわからない。誰もがこの一生に一度の舞台、勝負を諦めている者はいないだろう。ならば何が起こってもおかしくはない」
ターフへと目を向ける。すでに大型ビジョンには、ゲート入りが完了しようとしていた。18人のウマ娘。ついに最後の一冠をかけた戦いの幕が上がった。
ゲートが開き一斉にウマ娘が飛びだす。逃げのブルボンが先頭かと思いきや、外から勢いよく飛びだす小さな体、キョウエイボーガンが一気に1番手へと躍りでた。
(やった! 本当にやったぞ)
そのままボーガンは2番手についたブルボンから2,3バ身つけて先頭を行く。だがそれだけではダメだ。前にウマ娘を見る形ではあるがブルボンの次の3番手はさらに数馬身。ほぼブルボンが逃げを打っている状態と同じである。
だが1週目の第4コーナーを回り状況が一変した。
『キョウエイボーガンが先頭! ミホノブルボンが2番手。ポツン、ポツン、ポツンと後続が続いている! これから一周目の第4コーナーに向かっていきます! マチカネタンホイザは4番手、おおっと、ミホノブルボンが差を詰めてきました。敢然といったキョウエイボーガン先頭!』
場内の放送から解説の声が聞こえてくる。最初のホームストレッチにウマ娘たちが入ってくるとさらに一際大きな歓声が上がってきた。今一番三冠ウマ娘に近い走りがファンの目の前を過ぎていった。1000mは59から60秒のまずまずといったペース。18人が縦に長いレース展開であった。
直線に入ってブルボンとボーガンの2、3馬身の差は、1コーナーで1馬身に縮んでいた。肉眼で見えなくなったところで場内のターフビジョンに目を移した。コーナーを曲がるボーガンが映され、つづいてブルボンの走る姿が現れた。
「まずいな。ブルボンが行きたがっている」
ルドルフさんはポツリと呟いた。私は、ビジョンに映るブルボンの顔をよく確かめた。たしかにブルボンは普段から無表情だ。しかしよく見るとその顔には、汗が見られ、口を通常よりか頻繁に開き呼吸も少し荒いかもしれなかった。間近で見ているわけでないし、ルドルフさんが言わなければ、気付かないような変化だ。
「まさか、掛かっているんですか」
「確証があるわけではないが……、これはもしかするかもしれないな」
向こう正面に入っても展開は変わらない。先頭ボーガン、2番手ブルボン、ポツンと、ポツンと離れ、4番手にタンホイザ、5番手ライス、さらにそこから少し離れて後続集団が続いている状態。非常に縦に長いレース展開と言ってよかった。
向こう正面も半ばとなって各ウマ娘は淀の坂に差しかかっていく。別名「心臓破りの丘」とも称されるこれを上がっていく。
『18人が縮まった山の上! しかしミホノブルボンは2番手、満を持してといった感じか!』
ブルボンがコーナーの半分でボーガンに体を併せていく。ボーガンも小柄な体を動かして必死に耐えようとするがもう限界であった。ボーガンは後ろへと下がっていく。
ついに先頭に立ったブルボンだったが後続からも別のウマ娘が強襲してきた。しかしそのウマ娘もそこまで。直線へと向かう。
『ミホノブルボン先頭で第4コーナーカーブする! あと400m! どっからでも、何でも来いという感じかミホノブルボン!』
直線でもはやブルボンの勝利のパターンへと入ったかに見えた。しかし後ろを見て背筋凍った。この席にいても、あの夏に見た殺気が突きささって蘇るようであった。それと同時に上がってくる同居人を見てて声を上げた。
『ライスシャワーが襲いかかってくる! 外からライスシャワー、外からライスシャワー! 横にはマチカネ、横にはマチカネタンホイザ! さあミホノブルボン逃げる、逃げる!』
タンホイザは、必死にブルボンの内から食らいつこうとしていた。200mのハロン棒を超えて4番手以下とは差ができていく。もはや優勝はブルボン、ライス、タンホイザのいずれかであった。
「行っけぇぇー!! タンホイザ! ゴールは目前だ!!」
力をふり絞り大声を腹から出す。少しでもタンホイザに聞こえるように、少しでも応援が伝わるように会場の声援に呑まれぬように声を張りあげた。
内から追うタンホイザ。先頭で粘るブルボン。だがその外から来る漆黒の影が二人を覆っていった。
『外からライスシャワー! ライスシャワーかわしたか、ライスシャワーかわしたか! 内からマチカネ! 内からマチカネ!』
タンホイザがブルボンを追い越した、そう思った瞬間であった。三冠への執念か、驚くべき勝負根性かブルボンがさらに伸び、再びライスシャワーに迫ろうとした。だが届かない。もはや二人を離していくライス。
『あぁ、ライスシャワー先頭に立った! ミホノブルボンは三冠にならず! ライスシャワーです! ライスシャワーです!』
三冠の夢破れる。ライスシャワーは先頭で見事ゴール板を駆けぬけていった。
会場は熱狂から一転してどよめきに包まれていた。その中で私はポツリと呟いた。
「やはりブルボンでも距離の克服は不可能だったか……」
「いや、そんなことはないよ。アイルトン」
そう言ってルドルフさんは着順掲示板を指さした。それを見て私は衝撃を受ける。
「3分5秒0!?」
レコードタイムだ。今からちょうど10年前に記録された従来のレコードが3分5秒4である。コンマ4秒だが、レースで着差にすると2~3バ身となる。その差の大きさがわかる。またブルボン・タンホイザとライスの差は1と4分の1バ身程度。当然タンホイザとブルボンも従来のレコードを超えていたのだ。
「ブルボンはたしかに距離を克服した、それは間違いない。自らの肉体を極限まで追いこむスパルタトレーニング結果だろう。だがそれ以上に長距離の才を持ち、かつブルボンと同様に身体を鍛えあげたライスシャワーがいた。それが最大が敗因だろう」
「タンホイザも同じだ。ブルボンもタンホイザもそれぞれ年が違えば、菊花賞を取ることができただろう。だからこそ二人を蹴散らして勝利したライスシャワーは見事だ。その獅子奮迅の走りはまさに驚嘆に値する!」
ルドルフさんは音を立てて拍手を送った。当惑していた観客からもまばらではあるが、少しずつ拍手があげられていった。だが劇的な勝利と比べその歓声は少なかった。
ウイニングライブも終わりを迎えた。まさに異質な空気と言わざるをえなかった。勝者をたたえる声もあるが、どこかブーイングめいた雰囲気がそこにはあった。センターに位置するライスもライブ中こそ必死に笑顔を浮かべ歌いきったものの、ライブ終了後はいたたまれなかったか、すぐに舞台裏へと帰っていった。
「あーあ、せっかくブルボンが三冠だと思ったのに」
「ブルボンの三冠制覇楽しみだったのに」
観衆の中を歩いていても、どこからともなくそんな声が聞こえてくる。だがそれ以上に厳しい言葉もあった。
「ブルボンには明らかな不利があった、くだらないウマ娘が逃げたばっかりに……」
前を歩くベレー帽をかぶった紳士が吐き捨てる。その言葉を聞いた瞬間組み付いてしまいたい気持ちに駆られたが必死に抑えこむ。
ライスシャワー以上に批判の矛先が向いたのが、キョウエイボーガンであった。だがどんなウマ娘であろうと出走する限りは優勝を目指すのが、ウマ娘たる所以である。ボーガンにとって自分のベストの走りは逃げであった。その逃げを取るには、ブルボンに対して競りかけるしかなかったのだ。ベストを尽くして走ったウマ娘にくだらないという言葉に対して怒りがこみあげてきた。だが手をあげてはならない。昂った気持ちを抑えるためにその場を離れるのだった。
いまだ多くの人が帰宅の途につく京都レース場。人ごみを移動するだけで一苦労だ。多くの人が移動する合間を縫っていく。
「あの子、とても小柄だったのにすごいわね!」
ライスをたたえる声かと思っているとどうやら違うようだ。近くのご婦人――主婦の方であろうか――が連れの人と話しているようであった。
「あんなに小さいからだで必死に先頭を走っている姿はとっても立派だったわ。……それにボーガンって子、母親を亡くしてるって。雑誌でその話を見てから妙に気になっちゃって。本当に今日はよく頑張ったわ!」
……ボーガンに親がいないという話は知らなかった。だがどこか救われるような気持ちになった。恨む人もいれば、応援してくれる人がいる。そんな些細なことを再認識できた気がするのだった。
タンホイザとともにトレセン学園へと戻ろうと彼女の控室へと向かった。ウイニングライブ後、そろそろ着替えも終わって頃合いであろう。控室前に来るとドアの前にナイスネイチャとイクノディクタスが前に立っていた。
「そんなところでなにを――」
二人に問おうとしたときであった。ドアの向こうから泣き声が聞こえてきた。部屋の主からして誰が泣いているかは明白であった。いつも笑顔の彼女からは聞いたこともないような悔しさがにじむ声。
「あぁー、今ちょっとタンホイザは取り込み中だからさ。帰るんだったら先に帰んな」
「……わかりました。彼女によろしく伝えてください」
私はドアに背を向け、来た道を戻って表へと出た。だいぶ少なくなった人波を追うようにトレセン学園への家路につくのだった。
お久しぶりです。続きを待っていてくれた方には、本当に申し訳ありません。今後はもっと早く投稿できるように努めたいと思います。
長らく投稿を明けていましたが、その間競馬界では色々ありました。日本馬によるBCF&Mターフ制覇、マルシュロレーヌによって日本馬初のBCディスタフ勝利、エフフォーリアの活躍、コントレイルのJC制覇、マカヒキさん復活等々目白押しでした。ただ年明けから度重なって訃報が続いているなど残念なこともありました。せめてこれからはもっと朗報が多い年になってくれればと願うばかりです。
次話は、菊花賞の後日談的な話ですぐに投稿できると思います。今後も楽しんでいただけると幸いです。