唐突に、視界が開けるような感覚とともにオグリキャップの意識は覚醒した。
(…………ここは?)
辺りを見渡せば、そこは見覚えのある地下バ道の入場口。
淡い橙色の照明が灯る薄暗い通路から、煌々と太陽が照らす本バ場へと続く境界線の前。オグリキャップは、自分が今そこに立ち尽くしていたのだと気付いた。
(……何故)
朧げな記憶を辿ろうとした時、スタンドから歓声が聞こえてきた。
快晴の空の下、本バ場ではレースに向けて実況が既に入場したウマ娘たちの紹介をしているようで、期待と希望に満ちた声援が鳴り止む気配がない。
凄まじい熱気だ。こうした興奮は『地鳴りにも似た』と表現されることもあるが然もありなん、実際に身を置いてみれば中々的を射ているのがよく分かることだろう。
“負けるな” “頑張れ” “走れ” “勝って” ──会場のボルテージは地を震わすほどに高まりつつあった。
(……そうだ、レース。私もこのレースに出るんだ……)
確認のように反芻するオグリキャップ。
そうだ、自分はレースに出走するためにここにいるのだ。
周りからきつく諭され朝食は控え目にしたし、慣れないながらもセーラー服を基調とした勝負服も着込んで、簡単なウォーミングアップも済ませた。
レースの時がいつ来てもいいよう準備は整えられている。
万全の状態だ──見た目だけは。
(……なのに)
髪に張り付くように、耳がペタリと垂れ下がっている。
今の彼女はいまいち執念・気迫というものに欠けるようだった。無いわけではないがしかし余りにも足りない。“芦毛の怪物” とまで呼ばれた強者の面影は鳴りを潜め、例え今の姿を誰が見たとしてもレースを直前に控えているとは到底思わないだろう。
(どうも実感が湧いてこないな)
ぼんやりと目の前の光の向こうを眺めて思った。
少し進めば自身もターフに立つ場所まで来ているというのに。何処かに現実的ではないというか、大切なものが抜け落ちてしまっているというか。冷ややかな風が通路の奥から流れてくる。
オグリキャップは顔を下げ、自身の手のひらに視線を落とした。いつもならば心から沸き立つ興奮に震えるはずなのに、今はやけに落ち着いている。
不調と言うわけではない。だが違和感がある。不思議な感覚に首を傾げながら、オグリキャップは何かを確かめるように軽く手を握っては開いてを繰り返して思案に耽っていた。
「オグリ」
「オグリちゃん」
そうしていると足音と共に、背後から名前を呼ぶ聞き馴染んだ声が聞こえてきた。
耳がピンと伸びる。オグリキャップはゆっくりと振り返った。
「北原。それにベルノも」
「よう」
「応援に来たよ」
地下バ道の奥からやってきたのは、トレーナーの北原穣とサポーターのベルノライトだった。
笠松在籍時にはローカルシリーズを共に駆け抜け、
とても親しげな雰囲気が地下バ道の一角に広がっていく。
心ここにあらずだったオグリキャップにとってこの来訪は喜ばしいもので、どうにもスッキリしない様子だった表情にも柔らかさが浮かび始めた。
目を細め、手を振って二人を迎えようとして──。
(……ん?
ふと、妙な引っ掛かりを感じ取った。
すぐに霞のごとく消えてしまったが、オグリキャップの動きが一瞬止まった。
(何だ?)
漠然と広がる不明瞭な感覚。違和感はあるが直感的で細かくは分からない。かと言って些事と切って捨てるには胸のつかえは大きく、気掛かりは拭えず晴れそうにない。
まるでモヤモヤが渦を巻いているようだ。オグリキャップの意気もまた曇り模様になりつつあった。
何か、そう何か大事なことを忘れているような──そんな寂しさが心の隅から顔をのぞかせているようで。
「なんだオグリ、緊張してんのか?」
オグリキャップの近くまで来た北原は、口の端を上げてからかうようにそう言った。彼女の普段と異なる様子を緊張と受け取ったのだろう。当人の小悪党面も相まってイヤらしさがかなり様になっている。
とはいえ傍で聞いていても決して嫌味に感じさせないのは、オグリキャップと北原の信頼の為せることか。ベルノライトも非難することなく、友を気遣うように頷いて見せている。
ちなみにオグリキャップは北原の問いかけを聞いていなかった。絶賛、思い悩みに没頭中である。
「仕方ないですよ。だって今日は
「だ、だよなぁ〜……実は俺も、ずっと背中の真ん中が痒くて痒くて……」
応援に来た割に、尻すぼみの声が何とも情けない。
ベルノライトは内股気味に小さな身体を丸めてさらに縮こまり、北原も届かないとわかりつつ背中に手を回して唸っている。
行動は違えどその表情は似たりよったりで、ソワソワと落ち着きがなく固い。それに少し青ざめ、震えているようにも見える。明らかに本人よりも緊張している様子だった。
「……ん?」
ここでオグリキャップも周りの雰囲気を察知して、北原とベルノライトの変調に気付いたようだ。
知らぬ間に珍妙な動きを始めた二人に疑問符を浮かべ、すぐに閃いたと手を打った。
「大丈夫か二人とも? トイレか?」
「緊張って言ってたよね私たち」
「目の前のやり取りだったはずなんだけど。さては話聞いてなかったな?」
心配そうに声をかけるものの見当違いも甚だしい。そんな訳ないだろと切って返されてしまう。
“えっ、違うのか?”というオグリキャップに、北原たちは “マジかこいつ” と言いたげな表情が隠せない。ニブチンに人の心を図ることは難しいのだ。
「なんというか、そういう所はいつも通りなんだな」
「まぁ、オグリちゃんらしくていいんじゃないですかね」
感心したような、呆れたような、そんな言葉を北原がため息と混ぜて漏らした。
ベルノライトも似たような感じで同意する。
少しだけいつものノリが帰ってきた。多少だがベルノライトと北原の肩の力が抜けたように見える。
「あっ、そうだオグリちゃん!」
思い出したように声を張り上げ、ベルノライトがサイドポーチをまさぐり始めた。
目当てのものは取り出しやすいようにしていたらしい。さほど時間は掛けずに、何だ何だと待機するオグリキャップの前にソレを差し出した。
「これ、控え室に忘れてたよ」
手のひらに大事そうに乗せられていたのは、黄色の菱形模様が並ぶ王冠のようなデザインが特徴の髪飾りであった。
オグリキャップはそれに見覚えがあった。
デビュー戦に合わせて母から譲り受けた大切な髪飾り。
目を点にした後、すぐにギョッとして頭部を確認する。指先に触れるのは髪の毛ばかりで、他に何も感触はなかった。
「気付かなかった。ありがとうベルノ、危うく忘れるところだった」
「いいよこれくらい」
表情は変わらないのに、明らかに慌てた様子で髪飾りを受け取った。
ずっと身につけているものなのに、一体いつ外したのだろうか。
心当たりは無いが、つけてなかったのなら何処かで外したのだろう。オグリキャップは胸を撫で下ろして、髪飾りをまた付け直す。
「うん。やっぱり髪飾りがあった方がオグリちゃんって感じがする」
「そうだろうか?」
「ずっと身に着けてるもんね、デビューしてからどんな時も。一緒にいたからよく知ってる」
思い出を懐かしむように、ベルノライトは瞳を伏せる。
かと思えば、そういえば、とクスクス笑い始めた。
「その髪飾りが届いたとき、オグリちゃんすっごく嬉しそうにしてたよね」
「うっ、か……からかわないでくれ」
オグリキャップの頬に赤みが差して、ちょっと照れくさそうだ。
ごめんね、と一言挟み、ベルノライトは言葉を続ける。
「ずっと一緒にいた。ずっと近くで見てきた。だから、私は知ってるよ。オグリちゃんがすっごく速いこと、誰にも負けないくらい強いこと」
優しく微笑んで、ベルノライトはまっすぐ友人の瞳を見つめている。薄暗い中でも輝く強い光を宿して。
ベルノライトの茶色の瞳に、オグリキャップがはっきりと映り込む。揺れることなく、ひたすらに堂々と。
「私、信じてるから。今日のレースも、オグリちゃんが必ず一着になるって」
驚きはあった。事実、オグリキャップは呆気に取られている。
これまでベルノライトから、これほど実直に背中を押されたことはなかったから。
しかし驚きよりももっと、オグリキャップは嬉しかった。
友の激励が心を揺さぶる。
信じている、その一言に胸の奥が熱くなる。
「頑張ってね」
「ああ。任せておいてくれ」
二人で力強く頷き合う。
まだ完全に心のわだかまりは解けていない。
それでもベルノライトのおかげで、オグリキャップの闘志が再び燃え盛ろうと
オグリキャップの握りしめた拳に熱がこもる。
「なぁ、オグリ」
今度は北原が一歩前に出た。
入れ替わりに、ベルノライトが後ろに下がる。
「一つだけ、確認したい」
北原はいつになく真剣味を宿してオグリキャップの前に立った。
声は低く鼓膜の奥に響くように重い。しかし、その表情は声色とは裏腹にとても優しげで、その相反に何かを感じ取ったオグリキャップは自然と背筋を伸ばしていた。
「…………」
「…………」
微かな沈黙が生まれる。けれどスタンドの歓声は途切れない。
会場の熱がオグリキャップを煽り急かし立てるようだ。早く来い、早く走れと。
それでも、彼女は動じず北原の言葉を待った。
互いに合わせた目は逸らさない。間もないはずなのに沈黙が長く感じ、やけに自分の呼吸音が大きく聞こえる。
やがて、一呼吸を挟んだ北原が重い口を開いた。
「レース、楽しみか?」
出てきた言葉は意外なものだった。
どういう意図があるのかさっぱり分からないオグリキャップは、困ったように眉をひそめて首を傾げた。
「北原?」
「お前にはさ、色んなもん背負ってもらってる」
応えず、北原は続ける。
「
フワリとオグリキャップの尻尾が揺れた。
「目標のために、中央でお前は結果を出し続けてくれた。名だたるウマ娘たちを下して、重賞を制覇して、もう誰もお前を地方の田舎娘だとは思っちゃいない。誰もが認める現トゥインクルシリーズ屈指のスターウマ娘だ。このレースに勝てば、それが確固たる事実としてURAの歴史に刻まれる。だから、みんな期待してる」
一つ一つ耳に入る言葉は以前、ニュースにも取り上げられたことがあるものばかりだった。
けれどそれを聞いていたときより、遥かに言葉の重みが違う。
「この会場のお客さんたちだけじゃない。トレセン学園の友人たち、笠松のみんな、ろっぺいさんにお袋さん──それに、ベルノも俺もだ。オグリが最っ高の走りで、最っ高のレースを、いの一番に駆け抜けていく姿を見たいって」
──けど。
北原に影が差す。
「それってさ、結局俺たちの我儘なんだよ。そうあってほしいっていう理想を押し付けてる。応援なんて聞こえはいいけど、やってることは勝手に期待して、お前に重しを残していってるだけだ」
これは、トレーナーとしてはあるまじき発言かもしれない。
それでも北原は止めるつもりもないし、ベルノライトも咎めない。オグリキャップも、静かに聞き入れる。
「小さな背中にゃ乗り切らないだろうものをそれでも押し付けちまってる。オグリの義理堅いところはよく知ってるさ、背負った分きっちりゴールまで運ぼうとしてくれるってな。だから心配なんだよ。変なプレッシャーとか悩みを抱えて、自分で自分を追い込んでないか?」
一拍、間をおいて。
「レース、楽しんで走れそうか?」
もう一度、同じ質問をオグリキャップに投げかけた。
ここまで聞かされれば、いくら鈍感なオグリキャップといえども北原の意図を理解できる。
随分と回りくどく、不器用な発破だと思う。オグリキャップの回答がわかっているからこその質問。内容の割に表情が穏やかだったのも頷ける。
(……そうだったな)
北原が認識している緊張をオグリキャップが抱いているわけではない。が、しかし、彼女が色々と頭を悩ませていたのは確かだった。
悩み事は脚を曇らせる。オグリキャップも北原も、そのことは重々承知している。
「私は──」
オグリキャップが言葉を紡ぐ。
紡ごうとする、その直前に。
──コツリ。
地下バ道の奥から、蹄鉄が床を叩く音がした。
数は四つ……いや、一つ遅れて
真っ直ぐに入場口に向けて進んでいるようだ。
「おいでなすったか」
「みたいですね」
北原とベルノライトが楽しそうに反応を示す。
オグリキャップも気になったが、確認する前に二人が少し通路の端に寄ったので、先に同じく身体を移動させることにした。
音は段々と、一定のリズムを刻みながら近づいてくる。
──カツリ。
一際、大きく響いた。
もう誰が来たのか、オグリキャップが視認できる距離まで彼女たちは来ていた。姿を確認して、ドクリと心臓が跳ね上がった。
それはオグリキャップの見知った顔だった。トレセン学園で同じクラスに所属する同級生たち。
今日、これからのレースにおいて最大の壁となる好敵手たちだった。
先頭を進むのはヤエノムテキ。
彼女はオグリキャップの横を通り過ぎる際、一度止まって身体を向きなおし、深々と一礼していった。
凛とした和装の勝負服と合わさり、その姿は正しく武人。その佇まいからは並々ならぬ覇気が溢れていた。
二番手はサクラチヨノオー。
彼女は爛漫な笑顔を咲かせ、小さくオグリキャップに手を振って去って行った。
ヤエノムテキと同じ和装ながら、こちらは姫のような柔らかさがある。それでも、去りゆく姿からは強い意志を感じられた。
次にメジロアルダン。
彼女もオグリキャップの前で立ち止まり、ドレス調の勝負服の裾を持ち上げ、微笑みを携えて恭しく頭を下げる。深窓の令嬢と呼ぶに相応しい優雅な立ち振舞い。けれど、前を見据える瞳には断固たる決意が煮えたぎっていた。
続くはディクタストライカ。
彼女は視線を流すようにオグリキャップに向けると、敬礼のように二本指を揃えて額へと当てて離した。その表情は好戦的に笑っており、勝利に向けての気合は十分だった。
そして──。
集団が入場を果たして、後に遅れてもう一人。
最後尾に位置する
学ランをモチーフにした、肩と腿から下に黒のラインが伸びる白い勝負服を翻し、腰まで伸びた芦毛の髪を靡かせながら、オグリキャップには目もくれず。
あの頃から変わらない堂々とした姿。
ただ “お前にはもう負けない” ──見送った背中には、不撓不屈の覚悟に満ちていた。
自分たちの横を悠然と通り過ぎ、光の中へ溶け込んでいく彼女たちを見送ったオグリキャップは、しばらくそのまま後ろ姿を眺めていた。
皆、それぞれの思いを胸にレースに臨んでいる。
全力のぶつかり合い、その先にある栄光を求めて。
気がつけば、身体を抱きしめていた。そうしなければ震えが抑えられそうになかったから。燃えるような熱と共に、オグリキャップの闘志が膨れ上がる。
全てを捨て置き、にべもなく走り出しそうになる足を諌め、彼女は獰猛に笑った。
「……北原」
「なんだ?」
「私はこのレースが楽しみで仕方がないんだ」
だからこそ今、伝えねばならないことがある。
「ヤエノがいて、チヨがいて、アルダンがいて、ディクタがいて、そして──。強いライバルたちと一緒に走れて、全身全霊を燃やして競い合えるのが楽しくないわけがない」
「そうだな。きっと最高の盛り上がりになる。応援もすごいぞ?」
「応えてみせるさ」
「大丈夫か〜? さっきまでボーッとしてたけど」
「悩んでたのは確かだ。けど、それは後で考える。今はこのレースに全てをぶつけたい」
「大一番のレースで期待は重いぞ?」
「それはみんな同じさ。誰もが誰かの期待を背負ってる」
「一番人気なんだ。他のウマ娘たちの比じゃない」
「承知の上だ。それに、期待も応援も重いだけじゃない。背中を押して、前に進む原動力になる」
「……お前からそんな言葉が出るなんてな」
「北原が教えてくれたことだ」
「……そうか」
「ああ」
それを聞いて北原は安心したように息を吐いた。
枯れていた闘志は燃え滾っている。地に足がついている姿からは、もう迷いは感じられない。
「だったらもう俺から言うことはないな!」
腰に手を当てて、大きく胸を張って叫ぶ。
なんの憂いもなく、オグリキャップを送り出せると満足気に。
「そろそろオグリも行くんだ。みんなが、お前が来るのを待ってる」
「わかった」
北原が入場口を顎で指して促す。
オグリキャップは頷き、二人に背を向けて歩き始め──ふと、入場口前にて足を止めた。
「北原、ベルノ」
そして、オグリキャップは頭を振り返らせて、キョトンとする二人に向かって不敵に言い放った。
「信じて待っていてくれ。必ず、勝って帰ってくるから」
数瞬、目をパチクリと瞬かせた二人。
クスリと声を出したのはどちらであったか。北原は快活に片腕を掲げて高らかに、ベルノライトは身体揺らすかのように大きく手を振って。任せたぞと、言外に示してオグリキャップを送り出す。
二人の鼓舞を受け、今度こそ彼女はターフに向けて一歩を踏み出した──。
芝の青い匂い。
顔を撫でる温かい風の感触。
割れんばかりの大歓声。
溜まった唾を飲み込んで。
目の前に立つウマ娘たちが、オグリキャップを睨めつけている。
もう我慢する必要はない。
オグリキャップは溢れる衝動に任せて、身体を震わせる。
これから始まるのは一大レース。その開幕を実況が高らかと宣言する。
『ここ、東京レース場に24人の精鋭たちが集いました。全てのウマ娘が目指す栄光の頂を賭けた熱き戦い! 芝2400m、“
3話構成の予定です。