怪物の見た『夢』   作:ココナッツ・アナコンダ

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『夢現』

 

 

『実況は私、赤坂。解説は細江さんに来ていただいております』

『よろしくお願いします』

『よろしくお願いします。さて、各ウマ娘がゲート前に集まっております。どのウマ娘も気合は十分といったところでしょう。細江さんのイチオシはどのウマ娘でしょうか?』

『やはり、一番人気のオグリキャップは手堅いところですが、私としましては同じく()()()()()()()()()()()()()()()()()の活躍にも期待したいですね』

『そうですね。フジマサマーチはローカルシリーズ所属時、オグリキャップとライバル同士であったそうです。トゥインクルシリーズでは初の対決となるこのレース。二人の勝負の行方にも注目したいところです』

『それにしても本当に良かったですね。一時期は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ですから、こうしてターフに並んで立つ姿を見られて、喜びも一入(ひとしお)です。きっと素晴らしいレースを見せてくれることでしょう』

『他にも、皐月賞を制したヤエノムテキを筆頭に強力なウマ娘が揃っていますからね。誰が勝つか、最後まで分からないレースになりそうです』

 

 実況の区切りに合わせて、ファンファーレが鳴り響く。

 ウォーミングアップや精神統一。それぞれ最後の調整を行っていたオグリキャップ含む出走ウマ娘たちは、大歓声に見守られる中、各々に割り当てられたゲートの中へ順に入っていく。

 

『開戦の狼煙とも言えるファンファーレに導かれ、ウマ娘たちのゲートインが完了したようです』

 

 大外に位置するオグリキャップ。

 頭は冷静に、心は熱く。肺いっぱいに空気を吸い込んで、大きく吐き出す。

 

「オグリ」

「……マーチ」

 

 隣のゲートに入っていたフジマサマーチが、前を見据えたままオグリキャップの名前を呼んだ。オグリキャップは視線だけを僅かに動かして、またすぐに前へ戻した。

 

「あの時の約束。形は変わってしまったが……確かに果たしてもらった」

「ああ──」

 

『一緒に東海ダービーで走ろう』

 そう言って交わした握手の熱さは、今もなお鮮明に覚えている。

 同じ目標を目指していたのに、叶えられたはずなのに果たせなかった。

 オグリキャップが破ってしまった大切な約束。

 ズキリと頭が痛んだ気がした。

 

「すまなかったマーチ。けど、また一緒に走れて、私は嬉しい」

「……私もだ」

 

 自然と喜色が乗ってしまう。二人はそんな様子だった。

 騒がしいレース場の中でも、不思議とお互いの声はよく通った。

 

「だが勝つのは私だ。オグリキャップ──お前に勝って、私は私の強さを証明する」

「受けて立とう。私も負けるつもりは毛頭ない」

 

『さぁ、クラシック三冠を賭けた第二戦目、日本ダービー! 選りすぐりの優駿24人による執念の激突! 栄冠を手にし、頂点に君臨するのは一体、誰になるのか? 今──』

 

 誰もが息を呑む、開幕の一瞬。

 ゲートが一斉に開かれた。

 

『スタートしました! おおっと、八枠大外オグリキャップ少し出遅れたか?』

『彼女の武器は最終直線での爆発的な末脚にあります。前半は体力の温存に努めるとすれば、ここで後方に位置するのは許容範囲内でしょう』

『三番手につくのはサクラチヨノオー。その外にメジロアルダンが控え、二バ身程離してフジマサマーチといった並び。ここまでが先頭集団、バ群を引っ張っていきます!』

 

 中団よりやや後方に控えるオグリキャップ。

 前方には同じく中団で脚をためているヤエノムテキ、そして隣にはディクタストライカが見える。順位は大きく変わらず、第一コーナー・第二コーナーを抜けていく。

 

『向こう正面に入り、やや縦長の展開となっております。先頭からシンガリまで11バ身といったところでしょうか』

『既に順位を上げてきている娘もいますね。ここからは展開が常に変動して目が離せなくなります』

『先頭ではフジマサマーチが内に入ってメジロアルダンに並びました。中団、ジリジリとヤエノムテキが上がってきています。オグリキャップはまだ動かない』

 

 オグリキャップは内側で脚をためている状態だ。大ケヤキを越えた辺りで外に出る予定ではあるが、それまでにどうポジションを確保するかも重要なのだと言った北原の言葉を思い出しながら、チラリとサイドに目を向ける。

 その時は、然りとオグリキャップも神妙に頷いてはいた。気付いたときにはバ群に飲まれて出られませんでした、では話にならないことくらい重々承知している。

 そのためバ群の流れに気を配りつつ、不穏な予兆を感じたら早めに外へ抜け出す。

 当初はそうすることになっていた。

 

(見通しが甘かったか、もう囲まれ気味だな。どうするか……)

 

 冷静に己の今の状況を分析するオグリキャップは、少しだけ悩ましげに眉をひそめていた。

 これまでのオグリキャップの快進撃を見てきたウマ娘たちによる徹底したマーク。気を配ろうとも、徒党を組んだかのように複数人で当たられてしまえば為す術はない。

 内に入った時に前を塞がれ、後方から上がってきたウマ娘に横に並ばれてしまい、序盤のうちにあっさりと囲まれてしまった。抜け道は今のところない。

 

『さぁ、先頭が大ケヤキを越えて第四コーナーへ来ました! 残りは600m! ここから仕掛けるウマ娘は出てくるのか!』

 

 先頭が直線を抜け、コーナーに入った。

 

『ここでサクラチヨノオーだ! サクラチヨノオーが抜け出した!』

 

(むっ、先頭が動き出したか……少しマズいな)

 

 できることならそろそろ動き出したいところだが、オグリキャップは未だバ群の中。後ろに控えたディクタストライカ共々、中々に厳しい状況にあった。

 先陣を切ったのはサクラチヨノオー。しかし、動いたのは彼女だけではなかった。

 

『その内にメジロアルダンとフジマサマーチ! 外からはヤエノムテキも上がってきた! 先頭は四人の鍔迫り合いだぁ!』

 

 有力なウマ娘たちがどんどんと仕掛けていく。

 ここで動かねば敗色濃厚。焦りは伝播し、後方に流れるにつれて大きくなっていく。

 

『おっと後方も動き出したぞ! スピードを上げて前への距離を詰めていく! しかしこれは大丈夫か!?』

『無理に上がろうとしているように見えますね。これは最後にスタミナが切れるかもしれません』

 

 レースが大きく動き始めた。次々とウマ娘たちがスピードを上げて前に進もうと躍起になっている。

 当然、中団に控えるオグリキャップもその煽りを受けることになるのだが。

 

(あっ──)

 

 クラシックレースの格言に、こんな言葉がある。

『日本ダービーは、最も運のあるウマ娘が勝つ』

 なぜスピードでも、パワーでも、スタミナでもなく “運” なのか。今ではその理由を知るものは多くない。

 しかし、ファンも有識者も選手もトレーナーも。皆、口を揃えてこういうのだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と。

 

(道が拓けた)

 

 前方を塞いでいたウマ娘たちがコーナーで仕掛けた。

 多少、無理をしたのだろうその娘たちはパワーが足りず、身体が外の方に流れてしまっていたのだ。

 つまり、()()()()()()。さらに拓けた先のウマ娘の並びは疎らになっている。

 天啓のように進むべき道が見えた。オグリキャップのパワーとスピードがあれば、今の位置を抜け出し、その隙間を縫って進むのは容易だろう。

 正に雲間に差した一筋の光明。オグリキャップは迷わず、芝を強く蹴りつける。

 

(タイミングも良い。攻めるなら今!)

 

 瞬間、加速する。

 周囲のウマ娘たちがオグリキャップの加速に気付いた時には、既に背中が遠くなっていた。必死に追いすがるが地力が違う。とてもではないが追いつけそうにない。

 諦めない。諦めたくないのに。そんな悲痛な声が聞こえるようだった。

 オグリキャップの後方に控えていたディクタストライカもまた苦々しそうに顔を歪めていた。オグリキャップが抜け出したとき追随しようとしたが上手く脚に力が入れられていない。皐月賞の前にした怪我がまだ完全に癒えていなかったようだ。

 光の道標は既に断たれた。敵に攻め入る隙を何時までも晒しておくほど、ここにいるウマ娘たちは甘くない。ディクタストライカは遠くなるオグリキャップを見送りながら、痛む脚に小さく舌打ちをして、そっとスピードを落とした。せめてゴールだけはと、小さく願いながら。

 

『先頭のサクラチヨノオーとメジロアルダンが並んで第四コーナーを抜けた! フジマサマーチ、ヤエノムテキは少し遅れているか!?』

『この先には坂があります。スタミナ消費の増すソコを登りきってからが勝負になりそうですね』

『先頭の四人が次々と坂に入っていく──おぉっと、ここでオグリキャップ! オグリキャップです! オグリキャップが捲って上がってくる! 後続を突き放す凄まじい加速だぁ!』

 

(まだ遠いな……)

 

 見事なごぼう抜きを見せたオグリキャップは、第四コーナーから先を行く四人の姿を捉えた。

 浅く呼吸を繰り返す。集団を抜けるのに苦労するかと思っていたが、想定より体力の消耗は抑えられた。これならば、ここからスパートを掛けても問題ないだろう。

 より深く、より大きく。姿勢を倒し、ストライドを広げ、オグリキャップもコーナーを抜けて一気に坂を駆け上がる。

 一方、前方では坂を越え最後の直線へ。そこで遂にメジロアルダンがサクラチヨノオーを抜いて前に出た。追いすがるサクラチヨノオー、そのすぐ後ろにヤエノムテキも迫る。フジマサマーチは一人、さらに後ろに離されていた。

 

『メジロアルダン抜いたぁ! 悲願のダービー制覇なるか! サクラチヨノオーも必死に追う! ヤエノムテキも負けていない!』

 

 実況から自分の名前が外されたことに歯噛みするフジマサマーチ。勝ちの目は薄いと嫌でも突きつけられる。それでも、フジマサマーチは潤む眼で尚も勝機を見失わない。

 元々、短距離路線が適正と言われたフジマサマーチにとって、ダービーの2400mは苦難の道。厳しいことは始めから分かっていた。それでも出走すると決めたのは──。

 

『ここでオグリキャップも差を詰めてきたぁ! 一気に坂を登りきってメジロアルダンとの距離はおよそ四バ身! フジマサマーチは既に射程圏内だ!』

 

 オグリキャップが上がってきた。

 風のように並ぶこともなく、フジマサマーチを追い越していく。

 瞬く間に、とはこのことを指すのだろう。

 フジマサマーチは喉が張り裂けんばかりに叫びだしそうになる衝動に駆られるも、辛うじて耐える。そんな余計なことに体力を使うくらいなら、みっともなかろうが勝つために足掻くべきだから。

 何の為にこの舞台に立ったのか。答えはまだ手の届く所にある。

 整わない呼吸を断ち切り、深呼吸を無理やり挟み込む。重たい身体に酸素を行き渡らせ、力の抜けていく筋肉に喝を入れる。

 このまま負けられない。もう一度、フジマサマーチがオグリキャップに迫る。

 

(マーチ……)

 

 ピッタリと自分の背後にフジマサマーチが張り付いたことをオグリキャップは感じ取っていた。

 体力は風前の灯だろうに、離れない彼女の放つプレッシャーは衰えないままだ。

 

『オグリキャップ、遂に先頭集団に追いついた! すぐ後ろにはフジマサマーチ! 再び上がってくる!』

『スリップストリームを上手く活用していますね。残った体力の消費を最後の瞬間まで極力抑えるつもりなのでしょう』

『さぁ、役者は全員揃った! 残り200m! まだ勝負は分からないぞ!』

 

 気力を振り絞るレースもあと僅か。観客たちのボルテージも最高潮だ。

 風が汗を裂き、地を踏みしめるたびに芝が剥がれ飛ぶ。

 誰が叫んだか、はたまた空耳か。ターフに木霊するウマ娘たちの切望が空気を震わせる。

 

 ──絶対に! 一着はっ! 譲らないっっ!!!

 

 執念の疾走。在りし日に誓った遠い憧れはもう目前だ。

 けれど、どれだけ想い焦がれようとも、現実は力の足りない者を容赦なくふるい落としていく。

 

『差し返したぁ! サクラチヨノオーがメジロアルダンを差し返して先頭! ヤエノムテキ集団から下がる! 皐月賞ウマ娘ここまでかっ!?』

 

 伸びない。

 ヤエノムテキは懸命に走る。けれど脚が、身体が前に進んでいかない。

 離されていく。

 オグリキャップが、サクラチヨノオーが、メジロアルダンが。

 好敵手たちが自分よりも前にいるのに、それを追い越していくだけの力がない。

 ここがお前の限界だ。そう見せしめられているような気分だった。

 心技体、及ばず。食いしばった歯をさらに強く噛みしめる。

 それでも、勝ちたい。例え絶望的であろうが、まだレースは続いている。

 限界が壁となるのならば簡単な話だ、乗り越えていけばいい。壁を越えられずして、頂点を決めるレースに勝てるはずなどないのだ。

 不屈の闘志にこそ活路あり。逆境程度でヤエノムテキは挫けない。

 

『メジロアルダンも追いすがる! しかし抜けない追いつけない! サクラチヨノオー僅かにリード!』

 

 弾けそうな心臓、体力は既に尽きかけている。

 それでもメジロアルダンは下を向かない。ガラスの脚を持ち、デビューも遅れ、お前は大成しないと嘯かれ、それでも自分を信じてここまでやってきた。

 今、正に誰もが認める栄光が指先に触れる距離にある。

 ガラスはまだ割れていない。ならばまだ前へ進める。メジロ家の誇り、メジロアルダンとしての意地。決して折れぬ決意を胸に。

 祖母もよく言っていた。勝利を渇望し、ゴールをひたむきに目指す者にこそ、奇跡は起きるのだと。

 ならば、ここで勝負を投げ捨てる理由はない。メジロアルダンの両足は、進むために在るのだから。

 

 ──まだっ! まだ何も終わってないっ!

 

 ヤエノムテキも、メジロアルダンも、そしてオグリキャップを追走していたフジマサマーチも。蜘蛛の糸ほどにもなった希望を離すまいと、己の身体に鞭打って駆けていく。

 サクラチヨノオーも、もう誰にも抜かされまいと全身全霊を尽くして走る。

 限界を越えて、その先にあるゴールを目指して。

 一歩、また一歩。風を切ってなお力強く。

 その脚を止めることはなく。

 渇望を満たさんとする姿は、命を吹き込まれた絵画と見まごうまでにひたすらに美しかった。

 そして。

 勝利を信じて進む彼女たちが目にしたのは、眩しいまでの “白” 。

 風になびく芦毛の髪。強者の背中。

 

『いや、内から! 内からオグリキャップだ! 正に疾風迅雷! あっという間にフジマサマーチを置き去りにしてサクラチヨノオーと並んだぁ!

 

 栄光と、希望と、期待と、勝利。

 力が──“芦毛の怪物” が(ことごと)くを踏み抜いていく姿だった。

 

『オグリキャップかっ! サクラチヨノオーかっ!? まだ後ろに強力なウマ娘たちが控えているぞ!』

『メジロアルダンは二人との差も大きくありませんし、ヤエノムテキにフジマサマーチもまだ挽回できる位置にいます! チャンスはまだ全員にありますよ!』

『熾烈なデッドヒート! 残り100mを切った!』

 

(流石だな、みんな)

 

 遂にサクラチヨノオーを捉えたオグリキャップは、背後から迫る足音の威圧を受けながらも何処か嬉しそうにしていた。

 

(日本ダービー……本当にすごいレースだ)

 

 先頭に追いつくために全力を出した疲労が重く嵩張って、なのに足は軽やかに回っている。このままどこまでも駆けていけそうだった。

 これまでオグリキャップが走ってきたどのレースとも比較にならない熱気と熱意。身も焦げつく興奮が潤滑油のような役割を果たしているのだろう。

 また、それだけではない。

 

(聞こえる。私を応援してくれる声が)

 

 耳を澄まさずとも、自然と耳に入ってくる。

 オグリキャップの名を叫ぶ声が、スタンドから波のように押し寄せて。

 多くのファンが、オグリキャップの勝利を信じて応援してくれて。

 胸に温かい感情が止めどなく溢れてくる。

 この声が無ければ、オグリキャップは日本ダービー(ここ)にはいなかっただろう。

 オグリキャップが中央に来たとき、既にクラシック級の登録期間は終了していた。当然、クラシック登録を逃したウマ娘に出走権利は与えられない。

 中央の定める規則は絶対。例外は過去一度として無く、最早クラシック級のレースは諦めざるを得ない状況だった。

 それでもオグリキャップは立ち止まらなかった。

 それでも多くの人たちがそれを良しとせず、オグリキャップの走りを見たいと声を上げてくれた。

 たくさんの想いが折り重なった結果が今だ。

 支えられ、助けられ、そうしてオグリキャップは今の大舞台を駆けている。

 

 ──オグリぃ!!

 ──オグリちゃん!!

 

 ──勝てぇ!!!

 

 最たるものは二つ。

 大歓声の中、はっきりと聞こえた。

 

(ああ。分かっているとも──)

 

 一人ではここまで来られなかった。感謝の言葉はどこまでも尽きない。

 だからこそ、オグリキャップは奮起していた。この恩に報いるために、皆が望む形で期待に応えたいから。

 ウマ娘としての本能が覚醒する。

 胸の奥から活力が漲って止まらない。

 今、オグリキャップの全てが “レースに勝つため” に動きだし、託され、ずっと背負ってきたものが、オグリキャップの背中に優しく手を添え、力強く前へ押してくれる。

 大きく一呼吸。

 

「──往くぞっっ!!!」

 

 吐き出した息に合わせて、二度目のスパート。

 特異な柔軟性と類まれなる瞬発力が生み出した二つ目のエンジン。オグリキャップの身体が半バ身、いや一バ身ぶん突き抜ける。

 

『オグリキャップかわした! オグリキャップかわした! ここで先頭に出たオグリキャップ! 恐ろしい末脚だ!』

『まだこれ程の余力を残していたなんて……!』

 

 解説から驚きの声が漏れる。

 観客たちも、他のウマ娘たちも同様だった。

 完全にオグリキャップに追い風が吹いていた。追随は許そう、だが前には行かせない。そう後続たちに突きつける剛の走り。

 オグリキャップはスピードを緩ませず、落とさず、そのままゴールへと突っ切って行く。

 

『サクラチヨノオー粘るがしかし──!』

 

 誰もいなかったはずの景色に、白い影が割り込んだ。サクラチヨノオーの喉からか細く声が漏れる。

 どうして? 何でなのっ!? 分かりきっていることを何度も自問して、その数だけ目尻から涙が伝う。溢れているそれを、風は拐っていってはくれなかった。

 “敗北” の二文字が脳裏をよぎり、鎖で締め付けられたように身体が重くなる。真っ暗闇から “諦め” が手を伸ばしてきて、足が地下へされるがままに沈んでいく。

 このまま終わってしまうのか──そう思った。

 しかし暗闇の先、その奥に薄っすらとした光が──赤い勝負服に身を包んだ敬愛する先輩の姿が浮かんだ。

 彼女は全戦全勝でトゥインクルシリーズを勝ち抜いた生粋の猛者だった。けれど彼女もまたURAの定めた規則によって、クラシックレースへの参戦が認められないウマ娘の一人だった。

 当然、日本ダービーもそうだ。『大外枠でもいいから走らせてほしい』──そんな願いも、頑として聞き入れてもらえなかった。

 当時のことを話す先輩は、普段の大人びた印象から打って変わり、散りゆく花のように弱々しい笑顔だったのをよく覚えている。

 それがとても痛ましくて、だから──。

 そうだった。サクラチヨノオーの瞳に力が戻る。

 だから、自分が先輩の無念を代わりに晴らすと誓った。

 そして約束した。今日この日、このレースを見ていてくれると言った先輩に勝利する姿を見せることを。

 不様な姿は見せられない。

 まとわりついた邪魔なものを振り払って這い上がる。

 腹の底からこみ上げる感情を露わにしながらオグリキャップを睨みつける。サクラチヨノオーは負けられない、負けたくない。

 誰にも、誰であろうと。特に、大好きな先輩ですら得られなかった例外を引っさげて来た、この()()()()()には。

 

『いやサクラチヨノオー伸びる! オグリキャップ離せない! 差が縮まっていく! 凄いぞサクラチヨノオー!』

 

 オグリキャップの全力を持ってなお、サクラチヨノオーは食い下がる。

 獰猛な獣を思わせるほど闘争心をむき出しにして、身体の芯をも震わせる咆哮をあげながらオグリキャップを追う。

 サクラチヨノオーだけではない。

 後続に残された三人もまた、己の限界を越えてきたのだろう。サクラチヨノオーと遜色ない気迫を持って先頭に迫ってきていた。

 

『オグリキャップ差し切れるかっ! サクラチヨノオー差し返せるかっ! それともヤエノムテキがっ! メジロアルダンがっ! フジマサマーチが意地を見せるかっっ!?』

 

 観客たちも固唾を呑んで見守っている。瞬きの間さえ許されないような緊張した空気だ。

 オグリキャップが加速すれば、サクラチヨノオーが負けじと距離を詰める。

 サクラチヨノオーがオグリキャップに迫れば、自分もとヤエノムテキが前に出る。

 ヤエノムテキが前に出れば、メジロアルダンもさせないと追いかける。

 メジロアルダンが進めば、フジマサマーチも黙ってやられないと上がっていく。

 フジマサマーチが近づくと、闘志に当てられたオグリキャップがまたも加速する。

 ゴールまで残り数十m。皆、必死だった。

 走るフォームはとうに崩れ、流れ出る汗を拭うこともできず、呼吸は掠れ、肺は酸素を求めて焼け付くような悲鳴を上げている。

 それでも、切れたスタミナを根性で補ってひた走る。ゴールを見据えて走り続ける。

 ゴール版が見えた。先頭は、未だ変わらない。

 

『譲らない! 譲らないぞオグリキャップ!』

 

(──ああ、これだ)

 

 遠くから自分のことを見ているかのような浮遊感とともに、オグリキャップはそうしみじみと思った。

 限界の先にある全てを出し尽くしたレース。

 その中にしか存在しない、熱い熱い高揚感。オグリキャップが求めていたもの。それが両手の中にある。

 たった一度しかないチャンスを逃さないために、好敵手たちと “勝ちたい” という気持ちをぶつけ合って、死力を尽くして競い合うこの瞬間が、嘗てなくオグリキャップの胸を躍らせてくれる。

 油断など出来ない状況下だというのに、その事実が心を何処までも晴れやかにして、どうしても笑みを抑えきれなかった。

 

(本気で競い合うというのは、本当に楽しいな)

 

 苦しいのに、辛いのに、それでも楽しい。

 大地に新芽が顔をのぞかせるように、蕾が花開くように。暗い彩りの中にも確かに明色が存在していて、じんわりとオグリキャップの心に温かな色合いが混ざり合っていく。

 身体がフワフワと軽くなっていって、いっそ足など地についていないのではないかとすら思えてしまうほどにオグリキャップは満たされていた。

 

(ふふっ、何だか空を飛んでいるようだ)

 

 不思議な気分だった。温かくて寂しい。

 このまま時間が止まってしまうかのような。

 終わりが近づいているのに、永遠に続いていくかのような。

 不鮮明で、不明瞭で、不安定で。

 そう、()()()()()()()()──。

 

「……あっ」

 

 ピシリと、何かに亀裂が入った音がした。

 気付いた。

 オグリキャップは気付いてしまった。

 

(……そうか。ああ、そうだった)

 

 熱が急速に冷めていく感覚が、オグリキャップに諦めにも似た脱力感をこびりつかせる。

 同時に、地面をも震わせた歓声がぱったりと止んだ。

 世界を彩っていた色が、匂いが、音が、風が、絵を描かれる前の真っ白なキャンバスに戻っていく。途端に、世界が色褪せて行く中、オグリキャップだけが一人取り残されていく。

 

(……いや、()か)

 

 楽しそうに浮かんでいたオグリキャップの笑みが、苦笑に上書きされていく。

 思えば、夢と仄めかす手掛かりはあった。レース前に感じていた喪失感や現実感の無さがそれだ。ここにあるものは全て、何をしても叶わないオグリキャップの願望の集まり。オグリキャップが欲して、望んで、こぼれ落ちてしまったものばかりなのだから。

 靄がかかって見えなかった違和感の正体が鮮明になり、一つ一つが線で繋がっていく。

 繋がっていく度に、オグリキャップの瞳が徐々に閉ざされていく。

 

 

『走って走って、お前よりも永くレース場(ここ)に立ってみせるよ』

 

 ──フジマサマーチは、共に中央には来なかった。

 彼女は今も、笠松で走り続けている。

 

 

『俺、中央のトレーナーライセンスに挑戦してみるよ。お前に見合うトレーナーになってみせる』

 

 ──北原はこの時、トレーナーとして側にはいなかった。

 ずっと目標にしていたものを諦めてまで、背中を押してくれた。

 

 

『オグリキャップ。君のダービー出走は……叶わない』

 

 ──そして、日本ダービー。

 東海ダービーに代わる、新たな目標。けれど、それに出走することは出来なかった。

 

 

 甘い夢。楽しい夢。何もかもが揃った “怪物” の夢。

 だが、それももう終わる。

 夢とは永遠に続かないもの。気づいてしまえば “覚める” が道理だ。

 どうしたとしても、失ったものは戻らない。

 オグリキャップも、眠りからの覚醒が近づいていることを感覚的に理解していた。

 身体が薄くなりつつあるのを見ながら、オグリキャップの瞳は静かに閉ざされた。

 

(……今度こそはと、思ってたんだが)

 

 この夢に未練はない。未練はないが──。

 惜しむらくがあるとすれば、一つ。

 

『信じて待っていてくれ。必ず、勝って帰ってくるから』

 

(……()()()()()()()()()()()()()

 

 そんな自嘲を最後に、何かに吸い込まれるようにしてオグリキャップの意識は霞となって溶け落ちていった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 誰もが一生に一度は夢に見る最高峰のレース『日本ダービー』。

 世代の頂点の座を求めたウマ娘たちが、次々とゴール板を駆け抜けていく。一人、また一人とゴールしていく。

 夢叶った者と夢破れた者。

 例え望んだ結果にならずとも、誰もがそのレースを走り抜いたことに誇りを抱いて、お互いの健闘を称え合った。

 

 その栄光のゴールの先に、オグリキャップがたどり着くことは──(つい)ぞ無かった。

 

 

 

 

 




もう一話だけ続くんじゃよ
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