オグリキャップが目を覚ますと、そこは車の中だった。
三人が掛ける後部座席の真ん中で、力無く頭を垂れ下げて眠っていたようだ。
「……ん」
ゆらりと揺れる首を起こす。
仄暗さに少しだけ光が混じる視界。背中からは微かな振動が伝わり、小さなエンジン音と共に雑踏が遠くに流れ去っていく。どうやら、まだ道行の最中らしい。
ぼんやりとした意識のまま、オグリキャップは姿勢を正して天井や隣に手を当てないよう器用に身体を伸ばした。随分と強張っていたらしく、腰に肩にといたる所から軽快に音が鳴る。緩慢な動きであったが、逆にそれが良かったのかもしれない。リズムに合わせて身体に血液が回る心地良さに、たまらずくぐもった声が喉奥から漏れ出してしまう。
カーブに合わせて、ゴトリと車体が揺れた。
(ふぅ──)
そのまま一息ついて、前を向く。
バックミラーには運転席と助手席の見慣れた二人と、毎朝よく見る自分のしかめっ面が映っていた。さらにその先のフロントガラスからは時折、太陽がビルとビルの隙間からチラチラと顔をのぞかせては隠れていく。
浮かんでは消えるその姿を眺めながら、オグリキャップはそっと胸に手を当てて先程まで見ていた夢を思い出す。
楽しい夢だった──まだ静かに、確かに胸に興奮と寂しさが残っていた。
「おっ、起きたんかオグリ」
眠気と熱気。その余韻に浸っていると、左隣からカラカラとオグリキャップを呼ぶ声がした。
そこには赤い耳カバーをピコピコ揺らす、芦毛の小さなウマ娘が一人。腕を組み、不敵に笑う姿はさながら生意気盛りの子供のようだが、その健脚は『中央』でも上澄みに位置する実力者である。
オグリキャップは残った眠気を拭うように目を擦りながら返事をした。快活な相手の声とは反対に、思っていたよりも重たい声が出た。
「……タマ、おはよう」
「はいはい、おはようさん」
タマモクロス──オグリキャップのライバルであり、良き友人、良き理解者でもある。幾度となくレースで競い合い、また、寮も同室、同じ芦毛とオグリキャップとは何かと縁があるウマ娘だ。
だからというべきか、今まさに溢れ出している、傍からすれば不機嫌だと受け取られるオグリキャップの圧にも動じる様子はない。きっともう慣れたものなのだろう。
「おはようオグリちゃん」
「なんだもう起きたのか。もう少し寝ててもよかったのに」
「おはよう……みんな」
そんなタマモクロスの声につられ、助手席からひょこりとベルノライトが顔を出した。運転席の北原も、微かに視線を動かしてバックミラーからオグリキャップの様子を確認している。当のオグリキャップの反応はといえば、やはりとても鈍い。
「お菓子食べる?」
「ありがとう」
しかし、食べ物のこととなると彼女の動きは早かった。
ベルノライトから差し出されたお菓子を袋から束で取り出して頬張ると、先程までの圧は何処へやら、途端に周りに漂う雰囲気が柔らかくなっていく。
あいも変わらず、食いしん坊は健在のようだ。
「ベルノさんや、あんまり食べさせ過ぎないでね」
「分かってますよ。ちゃんと考えてますから」
この一箱くらいなら大丈夫ですよ、とベルノライトが菓子箱を振る。オグリキャップの体調管理において、北原はおろかオグリ本人よりも適切な彼女の言葉なので信用に足るものだろう。
「毎度毎度思うんやけど、何で
そう言ってタマモクロスは隣に半目を向ける。呆れているようで、けれどその声色は優しさも感じられた。
どんなレース前も普段と変わらない。図太いというか、肝が据わっているというか。今だって耳を陽気に揺らしてポリポリ、ポリポリと菓子を頬張るオグリキャップの姿は自然体そのもの。実に美味しそうに食べるものだ。
そんな子供っぽいところが微笑ましくて。
オグリキャップのそういうところが、タマモクロスは好きなのだ。
「ああ。タマはレース前、ナーバスタマちゃんになるからな。先週もずっと眠れてなかったし」
「ナーバスタマちゃん言うなや! しゃーないやん、色々考えてまうんやから!」
あとは悪意なく心に右ストレートかましてくる所さえなければと思わずにいられない。マイペースな性格も良し悪しである。
「ほんまオグリはほんまぁ! そういうとこやぞ!」
「北原、あとどれくらい掛かりそうだ?」
「もう10分しないくらいだぞ」
「聞かんかいコラァ!」
タマモクロスのツッコミが冴え渡る。
今日も彼女は絶好調だ。
「俺さ、オグリのああいうトコのおかげで大一番でも緊張とかしなくなってたんだよないつの間にか」
「奇遇ですね、私もです」
気を尖らせるタマモクロスは余所事みたいにそう言う前二人に鋭く視線を向ける。が、バックミラーの中でどこか悟ったような顔をして笑っているのを見てすぐさま標的を元凶に戻した。
聞こえない聞こえない。乾いた笑い声から耳を背けたりなんかしていない。
「そういえばオグリちゃん、寝てる時ずいぶん楽しそうにしてたね。何か良い夢見れたの?」
威嚇を再開したタマモクロスを後目に、ベルノライトが身を乗り出しながら訊ねた。
「ああ、ちょっと残念だったけど……すごく楽しかった」
「残念?」
お菓子のおかわりを差し出してオグリキャップの言葉に首を傾げる。ポツリと漏れた呟きに、オグリキャップは相槌を打ってお菓子を口に運んだ。
「ダービーに出る夢を見たんだ」
パチリとベルノライトの瞳が瞬く。
「日本ダービー?」
「そう。日本ダービーだ」
「……そっか」
ベルノライトは身体を戻して、自分もお菓子を摘む。
少しだけ、車内の音が鳴りを潜めたような気がした。
「ヤエノがいて、チヨがいて、アルダンもディクタもいて──」
本当に楽しそうに、オグリキャップは夢で見たことを話し始めた。
景色も熱狂も興奮も、ゴール出来なかったことも含めて事細かに。目を閉じずとも容易にその情景が思い浮かぶ。
ターフに立つオグリキャップたちの姿、風を切るその疾走、ターフを揺るがす迫力までもがありありと。
そして、そんな夢を見た理由も大体の察しがつく。
ずっと楽しみにしていた。何度も思い描いていた。
だからこその鮮明さ──それが分かるからこそ、ベルノライトたちも相好を崩して聞き入っていた。
「それに聞いてくれ! マーチも一緒にダービーを走ったんだ!」
「え?」
──のも束の間、ギョッとしたよう素っ頓狂な声が上がった。
「私がか?」
「ああ! すごく速かった!」
いきなり槍玉に挙げられたのは、オグリキャップの右隣に座るフジマサマーチその人。先日、船橋のレースに出走したため近場に滞在しており、友の応援のため帰りの予定を遅らせてオグリキャップたちに合流した次第であった。そんな彼女は今、目をまんまるにかっ開き、思わずといった風に聞き返す。
他のみんなと同じくシンミリとしていたら、急に矛先を向けられてそれはもう焦る焦る。
「あのなオグリ、そう思ってくれているは嬉しいが……」
「懐かしいな、笠松で一緒に走ったときを思い出すよ」
「いやだから……」
「一昨日のレースも良かった。夢でも起きてても、やっぱりマーチはすごいな」
返ってきたのは純度の高い賛辞。言った方はいいかもしれないが、オグリキャップ程のウマ娘に言われた方は反応に困るもので、フジマサマーチもキュッと口を窄めて八の字眉を作っていた。せめて話くらい聞いてあげてほしい。
「ほ〜ん、オグリのお墨付きか。そいつはちょ〜っと気になるな〜」
「きっとタマも驚くぞ!」
「……」
「そろそろ勘弁してやってくれ」
タマモクロスまで茶化しにきたので、流石に北原からストップが入った。ケラケラと笑うタマモクロス。最早、フジマサマーチは居た堪れなさに石像のように固まってしまっているというのに、オグリキャップだけはよく分かってなさ気だ。
「それにほら、見えてきたぞ」
また余計なことを言う前に、北原がようやく顔を見せてきた目的地を指した。ひょこりとオグリキャップの耳が跳ねる。
聞くやいなや、前の座席の間に体をねじ込ませてフロントガラスの向こうをのぞき込む。街路樹とビルの隙間に確かにそれは見えた。
期待に満ちた瞳に映る、太陽の光を反射する広大な緑とその奥に佇む段状の大きなスタンド。何度も足を運んできたが、今日はまた一段と心が奮い立つ。
もうすぐ、もうすぐだと、オグリキャップの口角が釣り上がっていく。
“東京レース場”──今日、オグリキャップはここでレースを走る。
出走するのは“
数多の激戦をくぐり抜けた選ばれた猛者のみ出走を許されるレースで、今年は府中で中距離部門が行われることになっている。
芝、2400m。
馬場状態、良。
天気は晴れ。
さらに、レースを同じくする者もまた錚々たる面々。
特に注目されているのが──。
“花開くサクラ” サクラチヨノオー。
“剛毅果断” ヤエノムテキ。
“栗毛の弾丸” ディクタストライカ。
“割れないガラス” メジロアルダン。
かつての一大レースを思い起こす出走者たち。
これは再現だと歓喜する者たちが溢れるもののしかし、ここにもう2人、あの時いなかったウマ娘が今度こそはと名乗りを挙げている。
“高速のステイヤー” スーパークリーク。
そして──“芦毛の怪物” オグリキャップ。
この情報が発表されたとき、歓声で空気が揺れた。
誰もが思い描き、叶わず、今なお語られる。
“あの時、あのウマ娘が出ていたら”
それが今日、形こそ違えども相応しい舞台で成就する。
挑戦の果てに感動をくれた。挑戦を得られず無念に泣いた。同じ世代を駆けた優駿たち。
故に、ファンは口々にこう称する。
理想の実現──『夢のダービー』だと。
車は間もなく、レース場の駐車場に着いた。
外に出れば、冷房の効いた車内と打って変わり、ドロリと重い熱気がオグリキャップにまとわりつく。まだ一分も経たないというのに、もう汗が背中を伝う感触がした。
「──ふぅ」
さっきの夢の中は、もう少しカラッとした暑さだったかな。オグリキャップはそんなことを思いながら、手で影を作りながら目の前の建物を見上げた。
遠くからは既に人の賑わいが聞こえてくる。大人や子供に男性女性のはしゃぐ声。炎天下の中だと言うのに、ワイワイガヤガヤと大いに盛り上がっているようだ。
屋台もあるのだろう。時折、風にのってソースの焦げる匂いや焼き菓子の甘い香りも……。
「ふぅぅぅ〜〜〜………………っ!」
精神統一。流石にそれはまずいと邪気を払う。
強い自制心をもって欲を律しなければ、屋台の食べ物は流石に許されない。ダメだよと心の中のベルノライトも言っている。湧き出す汗は暑さのせいか。少なくとも昔、レース前の
「オグリ」
北原に呼ばれ、振り返れば皆、準備ができたようだ。
ベルノライトからトランクにしまっていた荷物を受け取る。シューズやタオルなどが入った学生バッグ。使い古されて所々ほつれてしまっていたりもするが、笠松にいたときから使っているオグリキャップの愛着のカバンだ。
「頑張ってね!」
差し出した手にバッグの持ち手をかけたとき、ベルノライトは一言そう添えた。目下で優しく微笑む彼女と、目線を上げた先でタマモクロスが、フジマサマーチが、北原が大きく頷く。
バッグのファスナーについている少し不格好な人形も、合わせて揺れたような気がした。
「ああ、任せてくれ!」
力強く応える。
これから相対するのは、これまでも幾度となく鎬を削ってきたライバル達。その実力も、その先の成長もお互いよく知っている。強敵たちばかり。
それでも、オグリキャップにレースへの不安はない。同じく緊張もない。それ故に全身全霊を持ってレースに挑める。楽しめる。
それはこうして、皆が背中を押してくれるからに他ならない。
「──よし、行こう!」
勇んだ気持ちを隠そうともせず、北原たちを連れ立って先陣を切るオグリキャップ。気力も仕上がりも十二分といったところか。
しかし、それはきっと他のウマ娘たちも同じだ。
どんなレースになるのか。どんな結果になるのか。
少し先の未来のことは、誰にも分からない。
だがだからこそ皆が憧れを抱き、夢を見て、希望を託して応援するのだ。そのウマ娘たちの走る姿に、胸を焦がされたから──。
これは“芦毛の怪物”と呼ばれたウマ娘が、ほんの少し──ほんの少しだけ夢の続きを見るお話。
終わりじゃよ
タマとイナリは京都で長距離走ったよ。
結果はルドルフがごぼう抜き。