午前の光が白い壁に反射して、病院のロビーを静かに照らしていた。
自動ドアが開くと、涼やかな靴音がひとつ。アテネが姿を現し、後ろからマキナが小走りでついてくる。
「ヨゾラ!本当にもう動いて大丈夫なのか?」
ロビーの一角、荷物を整えていたヨゾラが顔を上げる。
入院着から普段のメイド服へと戻り、表情は以前と変わらぬ落ち着きだ。
「問題ありません。担当医からも許可は出ました。……お嬢様の日常生活監視業務にもいつでも復帰可能です」
「復帰しなくていいのよ、その業務は」
アテネのぴしゃりとした声に、ヨゾラは一礼で返すだけだった。
「ところで──アイルの様子は?」
アテネが問いかけると、マキナとヨゾラは一瞬だけ視線を交わし、微妙に言い淀んだ。
「……まあ、見た方が早いと思う」
マキナに案内され、三人はアイルの病室へ向かった。
ドアを開けると──
金属の鎖がじゃらり、と嫌な音を立てた。
白いベッドの上。アイルが、胸元から足元にかけて几帳面に固定されていた。両手の自由も奪われ、まるで脱走癖のある猛獣の扱いである。
本人は淡々とした表情だったが、目の下の影だけが「げんなり」を物語っていた。
「……おはようございます」
鎖の拘束で、軽い会釈すらぎこちない。
アテネはしばし沈黙したあと、額にそっと手を当てる。
「……あなた、前科でも増やす気なの?」
「今朝起きたら、こんな有様でして……」
マキナが補足するように手を挙げる。
「看護師さん、めちゃくちゃ怒ってたぞ。『深夜に無断外出、屋上で飲酒、説教してる最中も反応が淡々としてて余計ムカついた』って」
「とはいえ、そのような理由で鎖による拘束というのは、いささか厳重すぎるのではと私も──」
「当然でしょう」
アテネがぴしゃりと言い放った。そのままベッド脇へ歩み寄ると、鎖の状態を確認してから小さく頷く。
「しばらくは、このまま安静にしていなさい。あと数日は入院しててもらうわよ」
「……お嬢様がそうおっしゃるのであれば」
ヨゾラは淡々とした声で補足する。
「念のため申し添えますが、看護師長と主治医の共同判断です。二十四時間の反省という扱いだそうで」
「……さいですか」
さすがのアイルも、そこでようやく小さく肩を落とした。
病室をあとにした三人。ロビーを抜けると、外は柔らかな朝の光に満ちている。
海風が混じるギリシャの空気は乾いていて澄んでおり、アテネはほんの少しだけ深呼吸をした。
「……さ、戻りましょう」
先頭に立って歩き出すと、ヨゾラとマキナがそれに続く。
病院前の駐車スペースに待たせていた車のドアが、静かに開けられた。
「お嬢様、先輩へのお見舞い品はどうしますか?」
「後でまた持ってきましょう。今は……早く帰って、家を整えたいわ」
そう答えた声は柔らかだった。昨夜の涙の痕跡を感じさせるものの、もう揺れてはいない。
車が滑らかに発進し、舗装された道路を走り出す。
病院の白い建物が遠ざかり、かわりにオリーブ畑と低く茂る森が視界に広がっていく。
そのとき──
「……あれ?」
助手席のヨゾラが小さく声をあげた。
アテネも前を見据え、思わず瞬きをする。
一羽のペリカンが、道路のすぐ上をふらふらと飛んでいた。
しかも──
白い麦わら帽子を嘴でくわえている。
「帽子……?」
「餌と間違えてるのかな?」
きょとんとするマキナ。
ペリカンは落とすどころか、器用にそのまま森の方へ進んで行く。
「……止めて」
アテネの短い指示に、車はすぐさまブレーキを踏んだ。彼女だけがドアを開けて外へ出る。
「お嬢様? 追うのですか?」
「えぇ……少し気になるの」
森の入口近くまで歩き、ペリカンの飛ぶ方向へ指を軽く弾いた。
ぱちん、と小さな音。
風がその一点だけ渦を巻いたように強く吹き上がり、ペリカンは「クルッ」と見事にバランスを崩した。
ついでに、嘴に咥えていた帽子も空へ舞い上がり──ひらひらと落ちてくる。
アテネはその軌道を読み取り、落ちてくる帽子をそっと掬い上げた。
白地に青いリボン。
陽に透けるほど薄く白い帽子。
少女のために作られたような、小ぶりのサイズ。
──誰のものか、瞬間で察した。
「……なるほど」
風が一度だけ木々を揺らし、森の奥から駆けてくる足音が近づいてくる。軽く、でも真っすぐで勢いのある足音。
「私の!私の帽子は──」
森の影から飛び出してきた少女がひとり。白いサンドレスに、夏の光を跳ね返す明るい金髪。まだ幼さの残る瞳は、必死にこちらへ伸ばされて──
「……え?」
目が合った。アテネは微笑んだ。
その微笑には、気づいた者だけが抱く静かな確信と、優しい距離が含まれていた。
「飛んでいきそうだったから、拾わせてもらったわ」
息を切らして立ち止まるナギへ、アテネは微笑み、両手でそっと帽子を差し出す。
彼女は帽子を抱えるように受け取り、姿勢を正して会釈した。
「あ、ありがとうございます……」
声は小さいが、丁寧で必死だ。
その不器用な律儀さに、アテネの表情が少しだけやわらぐ。
「大事な物なのね。無事に返せて良かったわ」
「い、いえ……気をつけます。落とさないように」
帽子の縁をぎゅっと握りしめる。彼女のその仕草だけで、それがかけがえのない宝物なのだと、はっきり分かる。
(……可愛い子ね)
アテネは胸の内で小さくそう呟くと、柔らかく言葉を添えた。
「こちらこそ、ありがとう。貴女に渡せて良かった」
「え……?」
何故自分が礼を言われているのか分からず、ナギの目が丸くなる。
困惑と照れが混じったようなその表情に、アテネは一瞬だけ微笑を深くした。
そして、言うべき言葉だけをそっと選ぶ。
「本当に……ありがとう」
ナギの口がぽかんと開く。
意味は分からなくても、その声音が嘘ではないことだけは伝わった。
「では……気をつけて帰ってね。ナギさん」
「あ……はい!失礼します!」
帽子を胸に抱え直し、ナギはぺこりと頭を下げると、小走りで森の中へ戻っていった。
その小さな背中が見えなくなるまで見送り、アテネはそっと瞬きを落とした。
木々の間を抜けて歩みを速めると、舗装道の端でマリアが安堵したように手を振った。
「ナギ、帽子は大丈夫でした?」
ナギは胸に抱えた白い麦わら帽子を掲げるようにして見せた。
「うむ。ちゃんと戻ってきた。親切な人に拾ってもらってな」
帽子の質感と重みを確かめるように、指先で縁をひとなで。その仕草に、帽子がどれだけ大切なのかが自然とにじむ。
マリアは頷きながら、さりげなく問いかけた。
「お名前は聞かなかったんですか?」
「いや……」
そこでナギはふと立ち止まり、帽子を手の中で回すように見つめた。
「……あれ?」
つぶやきは自然に漏れた。
「あの人……私の名前を呼んでたが」
記憶をたぐるように瞬きをする。
初対面のはずだ。帽子を拾ってもらっただけだ。
なのに──確かに。
『気をつけて帰ってね、ナギさん』
ナギの眉がわずかに寄る。知らない相手のはずなのに、どこかで会ったような気さえしてしまう。
理由は分からないが、胸の奥で微かに引っかかった。
マリアは一瞬考える素振りを見せたが、すぐにやわらかく声をかける。
「ナギ、そろそろ参りませんと。飛行機の時間が迫っていますよ。ハヤテくんたちが空港で待っています」
「あっ、そうだった!」
帽子をしっかりかぶり直し、ナギは足を速めた。
「急ぐぞ、マリア!主人が置いていかれたら一大事だ!」
「はいはい、走りすぎて転ばないようにしてくださいね」
背後で森の木々が風に揺れ、葉のざわめきが遠ざかっていく。
一方、ナギの気配が完全に見えなくなったあとも、アテネはしばし動かず、指先で軽く帽子の残り香を払うように手を下ろしていた。
風が一度だけ、彼女の金髪を揺らした。
(……彼のこと、お願いね)
呟きにもならない言葉が胸の奥で滲み、アテネは深く息を吸う。
涙を流した昨夜とは違う。けれど、ほんの少しだけ胸の奥が疼くような寂しさがあった。
「……お嬢様」
気配を読むように、後ろからヨゾラの声が落ちる。
振り向くと、木々の影の中からすっと現れた彼女は、相変わらず沈着な顔で、軽く一礼した。
「随分と時間をかけておられたので、様子を見に来ました。……何かありましたか?」
アテネはほんの一瞬だけ視線を揺らし、それを悟らせないよう、微笑に整えた。
「いいえ。少し風にあたりたかっただけよ」
ヨゾラの瞳がほんの僅かに細められる。
嘘を見抜いているわけではない。ただ、彼女の心の起伏を察している気配だけが漂った。
「アテネ、帽子は?」
「ごめんなさい、見失ってしまったわ」
ヨゾラの側にいたマキナはキョロキョロと辺りを見回すが、アテネは小さく息を吐く。
舗装道の端で車が待つ方へ歩きながら、アテネは小さく伸びをした。
胸の奥にわずかに残っていた重さが、森の風とともにほどけていくようだった。
「さて……」
車へ戻る寸前、ふとアテネは足を止めた。
「ヨゾラも退院できたことだし──皆でパーっと買い物でもしましょうか」
唐突な提案に、マキナは目を丸くしたあと、ぱぁっと笑顔を咲かせた。
「いいのか!?行きたい店がたくさんあるんだ!まずは……モスバーガーの新作を食べたいぞ!」
「はいはい。食べ歩きは計画的にね」
ヨゾラも静かに微笑む。
「では、私はお嬢様に似合いそうなカリスタ・クラフツの新作を選ばせていただきたく」
「良いわね。なら、貴女の分も一緒に選びましょうか」
「光栄です」
病院での緊張感は影もなく、ギリシャの朝の空気はどこまでも軽やかだった。
晴れやかな空の下、市街地の白い街並みには海風の香りが窓から流れ込む。
あれこれ言い合いながら、三人は賑やかに店や屋台を巡った。
「……」
ふと、ふわりと空気が震えるような音がした。飛行機のエンジン音。離陸の勢いをまとった低い響き。
アテネは自然と振り返った。
白い機体が、ギリシャの青空へゆっくりと持ち上がっていく。
その向こうに誰が乗っているのか、彼女は知らない。
ただ──胸の奥が、不思議と静かに温かくなった。
「アテネ!これも食べよう!これ!」
「マキナくん、そのままだとアイス落ち……あ、落ちた」
「ぬわぁぁああ!!」
賑やかな呼び声が飛んできて、アテネは笑みを戻した。
「はいはい、今行くわ」
飛行機へ向けていた視線をそっと下ろし、彼女は軽やかな足取りでふたりの元へ戻っていった。
機内では、離陸の衝撃が収まり、アテネの街並みが小さく遠ざかっていく。
「ひゃああああああっ……ムリですマリアさん!!」
「大丈夫ですよ、ヒナギクさん。深呼吸して……はい、ゆっくり」
ヒナギクがマリアの腕にしがみつき、歩があたふたしている――
そんな騒ぎをよそに、ハヤテは窓の外をじっと見つめていた。
ナギが静かに隣の席から声をかける。
「……楽しい旅行だった。そういう感想で締めくくって、大丈夫そうか?」
ハヤテは一瞬だけ目を伏せ、そしてまっすぐに微笑んだ。
「……はい。最高の春休みでした」
その笑顔は、どこか晴れやかで、何かを乗り越えた後のように穏やかだった。
そして再び窓の外へ視線を向ける。
遠ざかるアテネの青と白を眺めながら、ぽつりと呟く。
「アテネって……この星で最も偉大な女神の名前なんですよ」
その言葉に、ナギは小さく頷く。理由は尋ねない。問いただしもしない。
ただ、隣にいる執事の横顔を見つめながら、静かに笑った。
「そうだな」
飛行機は雲の上へ滑り込み、ギリシャの光景は白い世界の向こうへ消えていった。
夕陽の名残をわずかに含んだ風が、アクロポリスの丘を静かに撫でていた。
石畳に落ちる影は長く、空にはゆっくりと上昇していく飛行機の尾が細い白線を描いている。
セレネはその軌跡を目で追いながら、金の髪をひとつかき上げ、耳にかけた。
「……大体の事情は把握したよ。アイルくんの目的も、君たちの関係も」
さらりと告げたあと、しかし言葉はすぐに続かなかった。
白線が光に滲むように揺れるのを見つめながら、セレネはぽつりと付け足す。
「──だから、尚更解せない事がある」
隣に立つ姫神が、仮面の向こうでわずかに視線を向ける。
「というと?」
「君の目的だよ」
セレネは歩を進めることもせず、その場で淡々と続ける。
「アイルくんと袂を分ち、庭城の力を私に預けようとしている……では、君にとってのメリットは、どこにある?」
石畳の上に置かれた姫神の影が、風に揺れる。
「……メリット、ね」
「君が庭城を残しておきたいというのは理解できるよ。けれど、不意をついて私から奪うつもりも、利用する気配もない。君からはそういった濁りが見えないんだ」
そこで一度、セレネは姫神の横顔を覗くようにして言った。
「昔から──〝そういうこと〟に殊更敏感でね」
風が、仮面の下で沈黙する姫神の前髪を揺らす。
しばらくの間のあと、彼はゆっくりと視線を落とし、手元に目を向けた。細い呼吸をひとつ置き、言葉を選ぶように口を開く。
「ただ……後悔、したくないだけだ」
その声は驚くほど静かだった。
「後悔?」とセレネが小さく反芻する。
「そのためには、今ここで庭城を消されては困る。確実に安全な場所に置いておきたい。それだけだよ」
セレネはわずかに目を細めた。それは信用とも不信とも似つかない、しかし何かを探るような視線。
「別に信じなくてもいいさ」
姫神は言葉を切り、飛行機の白線を一度だけ見上げる。
「お互い、今はそんなことに気を回す時期でもないだろう」
それだけ告げると、彼は踵を返した。アクロポリスの石段を下る足音は軽く、しかしどこか遠い。
残されたセレネはその背中を、まるで何かの答えを探すようにじっと見送る。
飛行機の白線がゆっくり風に滲み、黄昏の空へほどけていく。
風が静かに丘を渡り、雲一つない青へと溶けていった。
アテネ編、これにて完結です。長い期間お付き合い頂き本当にありがとうございました。様々な独自設定を含めてですが、当初から考えていた流れでなんとか走り抜けることができました。
シリアスが続きましたので、暫くはまたギャグコメディを書きたいです。引き続き何卒よろしくお願いします!
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい