ギリシャから帰国して、数日。
長かった異国での滞在の余韻も、三千院家では日常の色にじんわりと移ろいつつあった。
穏やかな陽射しに包まれたお屋敷。朝の慌ただしさが引いたあと、玄関先で、マリアがブーツを履いて振り返った。
「それでは、少し出かけてきますね」
彼女は、いつものメイド服ではなかった。
淡いアイボリーのブラウスに、落ち着いた色合いのプリーツスカート。
派手さはないが、清潔感と柔らかさを兼ね備えた装いだ。控えめなのに、つい目を引いてしまう。
「……なんだマリア。寝巻きのまま出かける気か?」
「このオシャレ服が寝巻きに見えますか」
マリアは軽く主人を睨め付けてから、咳払いを一つ。
「ちょっと服を買いに行ってきますわ」
「あれ?メイド服のスペアがなくなったんですか?」
「……ハヤテくん、なんでメイド服限定なんですか」
ナギの後ろできょとんとするハヤテに、マリアはジト目を向ける。メイド服以外着ないだろうと言わんばかりの決め付けである。
「あ、いえ!その……マリアさんってメイド服のイメージが強いので、つい」
「ギリシャでも私服をちゃんと着てましたわ」
ムッとしたように唇を尖らせるメイドさんだが、ナギとハヤテは顔を見合わせる。
「でもなぁ、あれも本編に関係ないから敢えて触れなかったけど、違和感が凄くて。なぁハヤテ」
「はい……基本的に僕の過去編の決着回でしたからそんな事はスルーしてましたけど……確かに違和感が」
「そんな事とは何ですか!!私だって17歳なんですから、私服くらい着ます!」
しかし2人はまだピンと来ていないようである。失礼極まりない主人と同僚に、マリアは呆れたようにため息をつく。
「……ともかく」
くるりと踵を返し、玄関の扉に手をかける。
「私服を買いに行ってきます。お二人は、留守をよろしくお願いしますね」
扉が閉まる音が、やけに軽く響いた。
その、ほんの数秒後。
「……ハヤテ」
「はい」
「気にならないか?マリアがどこでブツを入手しているのか」
「まぁ、確かに……その言い方だと薬の密輸みたいなんですけど」
ナギは玄関の方を見つめたまま、言った。
「と言うわけで、冷戦を阻止するスネークよろしくスニーキングミッションをしようと思う」
「え?マジですか?」
「マジもマジ、大マジだ。サン⚪︎リーの創業者も『やってみなはれ』の精神で頂点へと上り詰めたという。思い立ったら吉日なのだ」
「いや僕ら別に葡萄酒を売るつもりはありませんが」
まぁ言わんとしていることは理解できる気もしなくもない。
そんなわけで、2人は最低限サングラスと帽子、マスクという急拵えの変装を整えつつ、メイドさんをこっそり尾行することに。
数十分後。
人の波が絶えない繁華街の一角で、マリアは足を止めた。
古い商店と新しいテナントが混在し、昼の喧騒がそのまま路地に溢れている。
少し離れた位置――帽子にサングラス、マスク姿のナギとハヤテは、同時に看板を見上げた。
「……なあハヤテ」
「はい」
「ここは、服屋……だな?」
二人の視線の先。
マリアが立ち止まったのは、とある7階建の雑居ビル。
――《コスプレ衣装専門》。
ナギとハヤテは、同時に言葉を失った。
数秒後、マリアは何事もなかったかのように店内へ消える。
「……入っちゃいましたね」
「……入っちゃったな」
沈黙ののち。
「追うか」
「マジですか。これ以上プライベートを詳らかにすると色々問題が」
「バカもの!ここまで来て引き下がる事など出来るか」
主人の鶴の一声により、尾行は続行。
店内は意外にも整然としていた。制服はサイズ別に並び、素材も本格的だ。コスプレは階数やエリアごとに様々なジャンルがあるようで、まずマリアは警察官と書かれたエリアへ入って行った。
「ふ、婦警……プレイだと」
「お嬢様誤解を生みかねないセリフはやめてください」
様々な、いわゆる警察官チックな衣装がズラリと並ぶエリア。その中から、マリアは迷いなく一着を手に取り、店員と軽く言葉を交わす。
そして――試着室。
「試着する気だぞ」
「……で、ですね」
心なしかハヤテの頬が赤らんでいる。
数分後、カーテンが開いた。
「…………」
一瞬、言葉を失う2人。
派手さはない。だが、やけに様になっている。
白いシャツに、タイトなスカート。警察官風の制服だが、布越しに浮かぶラインは、隠す気があるのかないのか分からない絶妙さだ。
帽子を軽く被り、肩のラインが綺麗に出る制服。
背筋を伸ばして立つだけで、自然と目が引き寄せられる。
「……似合ってる、よな」
「はい……似合いすぎです。ですけど」
言葉を選ぶ暇もなく、二人の視線は自然とマリアへ吸い寄せられていた。
制服はきちんとした作りで、露出が多いわけではない。
だが、体の線に沿う仕立てと、彼女の立ち姿が相まって、妙な存在感を放っている。
腰に添えた手。
揃えた踵。
わずかに顎を引いた視線。
それだけで、空気が変わる。
――「制服を着ている」のではない。
――「制服に着させている」。
マリアは鏡に映る自分を一度だけ眺め、帽子の位置を指先で整えた。
「……動きやすさは問題ありませんが、少し肩が張りますね」
真面目な感想だった。
それが余計に、二人の理解を追いつかせない。
「流石マリアさん……コスプレにも機能性を求めるとは」
「いや感心する所じゃないだろ」
ふと、マリアはちらりと二人の方に視線を寄越した気がした。刹那、ハヤテは声を上げずに、ナギの肩を抱いて角に隠れる。
(は、ハヤテ!?こ、こんな場所でそんな大胆な──)
(マリアさんに見つかったかもしれませんッ)
(なん……だと?)
呼吸を整えて、恐る恐る角から顔を覗かせる2人。マリアは既にカーテンを閉め、着替えをしているようだった。
(せ、セーフ……か?)
(ですね。流石にバレたら僕たちの命が尽きていたでしょうし)
(やべー任務だな冷静に考えて)
やがて、試着室のカーテンが開き、私服のマリアが出てくる。
「購入は見送りますわ」
結論はあっさりしたものだった。そのまま店舗を後にする。
「え?まだ尾行します」
「無論だ。毒をくらわば皿までと言うだろう」
「えぇ……」
さて、続いて入ったのは、ひとつ上の階。
――《キャビンアテンダント専門》。
「次は空か」
「……まぁ鉄板ですね」
「何のだよ」
CAエリアは、さきほどよりも落ち着いた雰囲気だった。照明は柔らかく、並ぶ制服もどこか洗練されている。
マリアは一着を手に取り、生地を確かめるように指先を滑らせた。その仕草が、やけに慣れている。
「……素材、軽いですね」
店員と短く言葉を交わし、再び試着室へ。
「……また試す気だぞ」
「警官の次がCAって……いよいよ見てはいけないものを見てる気がしますけど」
数分後。カーテンが静かに開くと、ネイビーを基調とした制服に身を包まれたマリアがご登場ならぬご搭乗。
身体の線をなぞるようでいて、決して主張しすぎない仕立て。
しかしスカート丈はやや短く、明らかに正規の衣装ではないことが分かる。
それなのに。
姿勢を正して一歩踏み出すだけで、不思議と空気が変わる。
首元のスカーフを、指先で軽く直す。その動きが、あまりにも自然だった。
「なんかやけに着慣れてませんか?」
「まぁCAは空のメイドとも言うしなぁ」
「言わないでしょ、初耳ですよ」
マリアは鏡の前で一度だけ向きを変え、背中のラインを確認する。
「長時間の立ち仕事には向いていますが……私服としては、少し“切り替わりすぎ”ですね」
淡々とした評価。
「……え?何私服として見てるのアレ?」
「どうしよう……マリアさんが分からなくなってきました」
困惑しきったナギとハヤテを残し、マリアは静かに試着室へ戻った。
やがて、何事もなかったかのように店を出る。購入袋は、ない。
「買わないんですね」
「らしいな」
安堵と拍子抜けが入り混じる間もなく、マリアはそのまま通路を進む。
そして、更に上の階――白に赤十字をトレードマークにした看板の前で、足を止めた
――《ナース専門》。
ナギとハヤテは思わず揃って息を呑んだ。
そんな2人の様子など知る由もなく、マリアは一瞬だけ足を止め、何の躊躇もなく中へ入っていった。
「入ったぞ」
「……遂に、〝本命〟ですか」
「だから何のだよ」
もはや確認するまでもない。尾行は継続中だ。
このエリアは先ほどまでとは空気が違った。照明はやや落とされ、白と淡いピンクを基調にした内装。並ぶ衣装も、どこか“見せる”ことを前提に作られている。
マリアはラックの前に立ち、数着を指先で分けるように眺める。その所作が妙に落ち着いていて、場違いな感じがしない。
やがて一着を手に取った。
シンプルな白。露出は控えめだが、体のラインに沿う仕立て。胸元は詰まりすぎず、腰の切り替えがはっきりしている。
店員と短く言葉を交わし、試着室へ。
ナギは腕を組んだまま、無言で天井を仰いだ。
「なあハヤテ」
「はい」
「私たちは今、何を見せられているんだ」
ハヤテも全く同じ感想であったが、敢えて口にはしないでおいた。
そして数分後。
カーテンが、静かに開く。
「……」
白衣に包まれたマリアは、先ほどまでとは別人のようだった。
身体に沿うラインがはっきりと出ているのに、下品さは一切ない。
胸元は抑制された仕立てながら、体に沿う生地がはっきりとした起伏を形作っていた。
ウエストはすっと絞られ、そこから滑らかに続くスカートライン。丈は膝上だが、立ち姿が端正すぎて、むしろ露出を感じさせない。
だが。
太腿のライン。 ストッキング越しに分かる脚の形。一歩踏み出しただけで、視線がそこに吸い寄せられる。
白衣の袖から覗く手首は細く、指先まで無駄がない。胸元に揺れる名札が、わずかに呼吸に合わせて動く。
「……」
ナギは無意識に口を閉じた。
ハヤテは、目を逸らすタイミングを完全に失っている。
マリアは鏡の前で、軽く姿勢を正した。
それだけで、背筋がすっと伸び、全体の印象が一段引き締まる。
――色気が、意図せず滲む。
見せようとしていない。だが、隠そうともしていない。
ただただ、完成度が高すぎるのだ。何の完成度かは聞かないでおいていただきたいが。
数秒後、マリアは小さく首を傾げた。
「……動きやすさは問題ありませんが」
それだけ呟き、名札の位置を指で整える。そして、静かにカーテンを閉めた。
一連の様子を見届けて、ナギはようやく息を吐いた。
「知らない方が良かった気もするな」
「忘れましょう。僕たちは今日何も見なかった」
「うむ、懸命だな」
数分後、私服に戻ったマリアが試着室から出てくる。
「こちらも、見送りますわ」
淡々とした結論。
店を出る背中は、いつものメイドのそれだった。
先ほどまでの白衣の余韻が、嘘のように消えている。
それでも。
「ハヤテ……こうなった以上、最後まで見届けるか」
「はい……お供いたします」
もはや引き返すという選択肢は、どこにもなかった。
さぁ、次はどんなびっくりなコスプレ衣装を探しにいくのか──
そんなある意味妙な期待は見事に裏切られる事になる。
この後マリアは、何事もなかったかのように、通りの奥――普通の私服ブランドが並ぶ大型ショッピングモールへと歩いていった。
まるで、最初からそこが目的地だったかのように。
賑やかさはそのままだが、看板の色合いが落ち着き、通りを歩く人の足取りも少しだけ大人びる。
ガラス張りの入口が連なる、大型ショッピングモール。
マリアは、何の躊躇もなくその中へ入っていった。
「……普通の店、ですね」
「ようやくだな。ようやく“服を買いに来た”感じがする」
ナギはどこか安堵したように息を吐く。
つい先ほどまで白衣だの制服だのを見せられていた身としては、その感覚も無理はなかった。
モールの中は、柔らかな照明と静かな音楽に包まれている。
マリアは通路を進みながら、いくつかの店舗を流すように見ていき――やがて、一軒のブランドショップの前で足を止めた。
派手さはないが、質の良さが一目で分かる、シンプルな内装だ。
店内に入ると、彼女はすぐにラックの前へ向かった。
指先で生地を摘み、軽く引き、光に透かすように確かめる。
スカート。
ブラウス。
カーディガン。
どれも落ち着いた色合いで、線はすっきりしている。
それでいて、どこか柔らかい。
「うーむ……なんかどれも地味な感じだなぁ」
「いやいや、僕らの目が馬鹿になってるだけですって」
婦警にCAにナース。鮮烈な衣装の数々に比べたら、ここに並ぶアイテムはどれも落ち着いて見えるに決まっている。
マリアはハンガーに掛けられた服を一着ずつ眺め、指先で生地を確かめていたが、やがて、淡いグレーのワンピースを手に取った。
シンプルな形だが、腰の切り替えが柔らかく、丈も上品だ。
少しだけ首を傾げ、別の一着と見比べる。ほんの数秒の逡巡。
そのとき、マリアの視線が、鏡の横――誰もいない空間にふっと流れた気がした。
無論、ナギもハヤテも、その仕草には気付くはずもなく。マリアはそのままワンピースを腕に掛け、試着室へと入っていった。
カーテンが閉まり、しばしの沈黙から数分後。
静かにカーテンが開くと、淡いグレーのワンピースに身を包んだマリアが姿を現した。
体の線をなぞりすぎないが、曖昧でもない。肩から胸、腰へと続くラインが、無理なく整っている。
露出はない。
だが、立ち姿そのものが、自然と目を引く。
マリアは一歩、前に出た。
裾がわずかに揺れ、膝下のラインがきれいに見える。
鏡の前で軽く姿勢を正し、視線を落とす。
布の落ち方を確かめるように、指先で裾を整えた。そして、鏡の中の自分をもう一度だけ見てから、頷いた。
カーテンが閉まる。
しばらくして、マリアは私服に戻って出てきた。手には、先ほどのワンピースと、もう一着。
レジへ向かう背中は、迷いがなかった。
「あ、買うんですね」
「らしいな」
袋を受け取り、店を出る。
通路に戻ると、マリアは一度だけ立ち止まり、袋の持ち手を持ち直した。そして、軽く振り返ってクスリと微笑みを一つ。
「え?」
後ろの柱に隠れていたハヤテとナギがきょとんとするのも束の間。
突如、施設にアナウンスが鳴り響いた。
『――お呼び出し致します。黒い帽子にサングラス、マスクを着用した男女二人組のお客様。お連れ様がお待ちです。一階のインフォメーションセンターにお越しください』
「ハヤテ」
「はい」
「――作戦中止」
二人は同時に踵を返した。さながら、潜入ミッション中に第三者の無線介入によって作戦をバラされたIMFのチームのごとく。
柱の陰へ、店の裏手へ、人の流れへ紛れ込む。そして息を潜め、数秒。
「……バレてましたね」
「多分最初からだな」
肩を落とすナギ。
ハヤテも深くため息をついた。
「ということは……さっきの警官も、CAも、ナースも」
「遊ばれていただけ、か。おのれマリアめ」
「因果応報、ですね」
2人してガックリと肩を落とすのだった。
夕方。
屋敷に戻ると、玄関ホールでマリアが待っていた。
いつものメイド服。
いつもの穏やかな微笑み。
「おかえりなさいませ」
そして、一拍。
「――お出かけは、楽しかったですか?」
言葉の最後に、ほんの少しだけ悪戯っぽく、片目を閉じる。
ナギとハヤテは、何も言えなかった。
「……降参だ」
「完全敗北ですね」
二人同時に白旗。
満足したのか、マリアは小さく笑う。
「分かったら、人の事を無闇に尾行してはいけませんよ」
「まったく人が悪いぞ。マリアがブツをどこから調達するのか興味があっただけなのに」
「……人を麻薬の密売人みたいに言うのはやめてもらえます?」
風評被害も甚だしい。
「そもそもだな、私服なんて誰かに見せるために買うわけでもないだろうに。だから余計に気になるというか」
「ま!失礼な子ですねー」
ジト目で主人を睨むと、こほんと軽く咳払いをひとつ。
「フツーにいますわ、見せたい相手くらい」
その言葉に、ナギが瞬きを一つ。ハヤテも思わず顔を上げる。
「ちょ、ちょっと待てマリア。それはどういう意味だ」
二人して視線を向けると、マリアは楽しそうに小さく首を傾げた。
「どういう意味、とは?」
「いやだから、その……誰にだ、とか」
「実は、既にそんな方がいたりとか?」
興味津々な様子の主人と執事に、マリアはくすりと笑った。
「さぁ?」
わざとらしいほど軽い一言。
「想像にお任せしますわ。年頃の女の子には、秘密の一つや二つあって然るべきでしょう?」
そう言って、指先で口元を隠す。
「――では、夕食の準備がありますので」
くるりと踵を返し、そのまま廊下を進んでいく。残された2人は三度顔を見合わせる。
「ハヤテ……これは尾行ミッションpart2を計画するべきかもな」
「いや……それこそ僕ら本当に地獄送りとかになりませんか?」
問いは残り、答えはどこにもない。
ただ、妙に楽しげな背中だけが、遠ざかっていった。
新年明けましておめでとうございます。今年も何卒よろしくお願いします。
新年1発目はやさりマリアさん、と言う事で私服ならぬコスプレ回と相成りました。
原作ではメイド服でお買い物に出かけてるシーンもよく見かけますが、凄く目立ちそうですよね。勿論どんな服装でも似合いそうですが、出来ればマリアさんのもっといろんなコスチュームを拝みたいものです。何卒何卒……。
初詣のお願いは言わずもがなアテネ編映画化です。ここ数年の恒例祈願になっとりますが、今年もそんなこんなでよろしくお願い致します!
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい