ナースステーションを抜けた先の廊下は静かだった。消毒液の匂いと、一定の間隔で鳴る電子音。
病室の前で、アテネはプレートを一度だけ確認する。表情は変えず、ノブに手をかけた。
「入るわよ」
返事を待たずに扉を開ける。
「……おや」
彼女を迎え入れたのは呑気な声色だ。
ベッドに腰掛けていたアイルが、書類からキョトンとした顔を上げている。
「揃ってお見舞いとは」
「……何よ、文句ある?」
ジト目になるお嬢様の後ろには、マキナとヨゾラの姿もあった。
「いえいえ。嬉しいですよ、お嬢様が直々に見舞いに来てくださるなんて、感涙ものです」
「あーはいはい、思ってもいないくせに」
よく言うわ。
アテネは軽く払いのけるように手を振って息を吐く。視線はベッドからテーブルの上へと自然に流れた。
ヨゾラが一歩前に出て、紙袋を差し出す。
「先輩、お見舞いです」
「ありがとうございます」
アイルは受け取り、中を覗く。街中で買ったばかりなのだろう、パンの香ばしい香りと果物の新鮮な甘みが鼻腔をくすぐる。
しかし、食べ物だけではなかった。複数枚のハガキサイズのカードの束をアイルは取り出してみせた。
「……あの、なんですかこれは」
「一人寂しい先輩のために、私たちが人肌脱いだわけです。私とお嬢様の特製水着ブロマイドという事で」
「待ちなさい!聞いてないわよそんなの──ッ」
慌ててアイルの手から数枚の奪い取るアテネ。自分の水着写真など全く身に覚えがないが──
「……ただの子猫や子犬の写真なのだけれど?」
「小粋なメイドジョークです。楽しんでもらえました?」
「全ッぜん、面白くありませんわッ」
ブロマイドは愛らしい子猫や子犬のキュートなショットが記録されていた。似ても似つかないとはいえ、これはこれでよく見れば中々どうして。
「けれどまぁ、これは癒しアイテムとしては良いチョイスね。ヨゾラ、後で私にも手配してちょうだい」
「御意」
ペコリとお辞儀をするヨゾラ。そんな二人の様子に苦笑していると、今度はマキナがちょこちょことアイルの側にやって来た。
「アイル!だいじょーぶか、モスのハンバーガーいっぱい持って来たぞ!食べるか?」
「あぁ、ありがとう。後でいただくよ」
頭をわしゃわしゃと撫でられ、マキナがくすぐったそうに笑う。
その様子を、アテネは少し離れた位置から眺めていた。
腕は組んだまま。けれど視線は険しくない。むしろ、ほんのわずか柔らいでいる。
「……まったく」
小さく息を吐くが、叱る調子ではなかった。
「ここが病院だってこと、忘れてないでしょうね」
「えー?でもアイル、元気そうだぞ?」
「そういう問題じゃないの」
そう返しながらも、マキナを止める気配はない。
アテネは視線をアイルへ戻す。
「入院してる自覚、ちゃんとある?」
「ええ、一応は」
「その〝一応〟が信用ならないのよ」
言葉は辛辣だが、声は低く落ち着いている。ヨゾラが一歩引いた位置から口を挟んだ。
「先輩、医師からは安静第一と」
「承知しています」
「……でしたら、机の上のそれは?」
テーブルの上には書類の山。入院中とはいえ、最低限の執事業務はしっかり進めていたらしい。アイルは一瞬だけ視線を逸らし、苦笑した。
「後で片づけます」
「今にしておきなさい」
アテネは指先で書類を軽く揃え、端に寄せた。
しかし動作は乱暴ではない。相手を気遣うそれだった。
指先を離し、何事もなかったように腕を組み直す。
「……相変わらずね」
呆れた調子はそのままに、視線だけをアイルへ向ける。
「仕事熱心なのは結構だけれど、場所を選びなさい」
「耳が痛いですね」
アイルは小さく笑って受け流した。
ヨゾラが一歩引いた位置で時計に目をやる。
「……お嬢様、そろそろ」
一拍置いて、アテネは淡々とアイルの方に視線を向ける。
「あなたたちは先に車に戻っていなさい。私は少し彼に話があるから」
「……了解しました」
理由などは聞くことをせずに、ヨゾラは短く頷いて、マキナの方へ視線を送る。
「では行きますよ、マキナくん」
「おー」
マキナは一度だけアイルを振り返る。
「アイル!ちゃんと休んだぞ」
「あぁ、ありがとう」
二人が病室を出て、扉が静かに閉まる。
残ったのは、アテネとアイルだけだった。静かな室内には、医療機器の電子音が、一定の間隔で鳴っている。
アテネはその音を暫く聞いてから、ゆっくりと向き直った。
「……さて」
先ほどまでの軽さが、わずかに引く。
アテネは、すぐには言葉を続けなかった。腕を組んだまま、しばらく医療機器の規則正しい音を聞いている。
それから、ようやく口を開いた。
「……この方が、お互いに余計なことを考えずに済むでしょ」
「というと?」
「周囲の気遣いとか、建前とか」
アイルは小さく笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「お気遣いなら、ありがたい話ですが」
「それを言っている時点で、もう余計なのよ」
一拍。
「あなた、最近変よ」
アテネが目を細めて、顔を近付ける。
「なんだかこう……気味が悪いというか」
「乱暴ですね、いきなり悪口から入ります?」
軽口にも付き合わず、アテネは更に一歩距離を詰める。
「……まるで何かから、遠ざかろうとしてる顔」
責める調子ではない。ただ、思った事を並べているだけだった。
「気のせいですよ。強いて言うなら、立場を弁えているだけです」
「そんな事聞いてないわ」
「えぇ……」
無慈悲に即座に切り捨てられる。相変わらず一方的なやり取りにはさしもの執事も困惑の色を隠せない。しかし、主人は構わずに続ける。
「私は〝今〟しか見ていない」
アテネは視線を逸らさずに続ける。
「ミダス王の呪いは解けたし、私を含めて誰も取り返しの付かない状況にはならなかった……いえ、確かに私のせいで、貴方を含めて周りの人を傷付けてしまったけれど──」
「お嬢様、私たちはただ自分の意思で」
「黙って聞いて」
押さえつけるようにして続けるお嬢様。
「けれど、少なくとも、取り返しの付かない事態にはならなかった」
「……」
「それに……」
アテネは少しだけ目を細めて、胸に右手をそっと当てる。
「ハヤテとも、もう一度ちゃんと会うことができた。結末はどうあれ、ちゃんと、お互いに気持ちを伝え合って、和解することが出来たわ」
まだ痛むであろう胸を、軽く深呼吸をすることでなだめる。深呼吸を終え、アテネはゆっくりと手を下ろした。
「それが現状という事」
言葉を選ぶようでいて、迷いはない。
「つまり、私が言いたいのは、これだけよ」
一歩、距離を詰める。けれど、視線の高さは変えない。
「あなたが今回の件で、責任を感じる必要は一切ない」
先ほどより、声は低い。
「誰も失わなかった。私は呪いから解放され、ハヤテとも和解した」
一つずつ、指折るように並べる。
「それ以上に、何が必要だというの?」
「……」
「失敗を探す理由なんて、どこにあるのよ」
アイルは答えない。
「全ては私の未熟さが招いたこと。私の未熟さや判断まで……代わりに背負われる筋合いはないわ。それは傲慢というものよ」
きっぱりと言い切る。しかし、それはあまりに一方的な宣言でもあった。アイルは逡巡するように少しだけ視線を彷徨わせた後、彼女を見つめ返した。
「……私がどうして責任を感じている、と?」
アイルの声は穏やかながら、その問いは芯があった。
確かに、彼は一度もそんな事を口にしていない。アテネは一瞬だけ口を閉じる。ほんの僅か、眉が動く。
「そうね……けど、気のせいじゃないわ。私がそう思ったんだもの」
「それはまた……一方的ですね」
「それで結構」
思わず苦笑する執事にも構わず、間を作らない。答えに迷った余白を、語気で押し潰すかのように。
「そんな顔をしているもの」
「顔、ですか」
「ええ。妙に慎重というか……貴方らしくもないというか」
一歩。その問いにかけて、距離だけを詰める。
「何となく癪に障る」
「それはまた、理不尽な」
さもありなん。それは当てずっぽうの感覚などでは決してなく、長年隣にいた者だけが持つ確信に近いものだった。
アイルは一瞬、考えるように視線を落とし、やがて穏やかに息を吐く。
「ですが、そう見えるのでしたら――」
「〝そう見える〟のが問題なの」
遮る声は低い。
「私は、見えたものしか扱わないわ」
「……」
「見えない
そのきっぱりと割り切った答えに、アイルは軽く笑う。
「流石ですね、お嬢様。そう言われてしまうと、返す術がない」
「それって褒めてる?」
「いいえ、呆れてます」
あら、そう。目を細めるアテネは、気にする素振りも見せず、わざとらしく咳払いを一つ。
「繰り返すけれど、今回の件で、あなたに責任はない」
先程よりも強い声色で、理屈を挟ませる隙を与えない。
「これについての異論は認めません。判断するのはあなたじゃない、私よ」
「……」
「私が、そう決めたから」
短く、強い。それは感情ではなく、立場で押し切る言葉だった。
アイルは何か言いかけて、やめる。その一瞬を、アテネは見逃さない。
ほんの少しだけ声を落とす。
「分かったら……余計なことを考えないで、これまで通り業務に従事しなさい」
沈黙が落ちる。アイルは一度だけ視線を伏せ、静かに息を整えた。
「承知しました」
その答えを聞いて、アテネはようやく小さく頷く。
「よろしい」
声は低く、飽くまでいつも通りの品を保ったまま。けれど、その一言には、僅かながら安堵が滲んでいるようだった。
「つまり、今回の件はお嬢様の未熟さ、頑固さ、詰めの甘さが招いた事態であり、我々従者は精一杯の努力をし、満足のいく結果をもたらした。拍手喝采で讃えられるべきという事ですね」
「まぁ、そう言うことね……貴方にそう口にされると果てしなくムカつくけれど」
今さっきそう宣言したばかりなので認めざるを得ない。
「では、早速私への報酬兼事態の教訓として、お屋敷及び白皇に新規のSP100人の採用と配置を」
「それは却下」
「……お嬢様?」
「それはそれ、これはこれよ」
一蹴である。喉元過ぎれば何とやらだ。
「では、私は屋敷に戻るから。退院日は来週、よね?」
「そのようです。主治医の方を含めて心配性な方が多くて……許可さえあれば今日にでも復帰できるのですが」
「一般人なら全治半年の怪我でしょうに……」
その回復力には呆れるべきなのか、アテネはため息をつきつつ、踵を返す。
ドアノブに手をかけた、その瞬間――指先が、止まった。
「……ねぇ」
振り返らないまま、数秒。医療機器の電子音だけが、間を埋める。
「貴方は、アイル……よね?」
唐突である。その問いは低く、独り言のようでもあった。
「はい?」
きょとんとした声が返ってくる。当然だ。主人が急に錯乱でもしたのかと疑うような問いかけなのだから。
「お嬢様、急にどうされました?」
いつもの調子。困惑と、礼儀と、柔らかな距離感。
アテネは、そこで初めて振り返る。
視線が合う。
「……」
一拍。
その視線が、ほんの僅かだけ揺れた。
「貴方は……私の執事……そう、でしょ?」
確かめるような、だが確信を持てないような言い方だ。
アイルは一瞬だけ目を瞬かせる。二人の視線が交錯する。お互いの瞳には何が映っているのか。当人同士ですら計り知れない。
(……あれ?)
唐突に、アテネは違和感を覚えた。
脳裏をざらつくような妙な感覚。例えて言うならば、雑な編集で無理やり場面が切り替わった動画を見た時のような……奇妙な違和感。
逸らしていた視線を向けると、やはり要領を得ないという風に、アイルは不思議そうにわずかに首を傾げていた。
「あの、私は何か、おかしなことを言いましたか?」
その問いに、アテネは小さく息を吐いた。
「……いいえ、何でもないわ」
首を振り、話題を切り替えるように目を細めた。
「それより」
声を、意図的に強くする。
「医師の指示は絶対よ。安静第一、仕事も禁止。書類も端末も触らないこと」
畳みかけるように。
「異論は受け付けません。これは命令よ」
「……承知しました」
命令とあれば。執事は肩をすくめて降参の意を示した。アテネはそれ以上何も言わず、ドアを開けた。
廊下に出ると、いつのまにか橙色が窓に差し込み始めていた。
(あら……いつの間にこんなに時間が)
自分が思う以上に長く話し込んでいたのだろうか。
白い壁、足音を吸い込む床、淡々と続く電子音を背にしながら、彼女は立ち止まることなく歩き、エントランスを抜けた。
外気に触れた瞬間、車寄せに停められた一台のリムジンが視界に入る。
その脇で、ヨゾラとマキナが待っていた。
「お戻りですか、お嬢様」
「えぇ、用は済んだわ」
主人を迎え入れるべく、マキナは車のドアを開けた。
「アテネ!用事は終わったのか?」
「ありがとうマキナ。待たせてごめんなさいね」
マキナに微笑みかけつつ、後部座席に乗り込むアテネ。従者たちも、彼女に向かい合うようにして座席に着いた。
やがて、リムジンはゆっくりと走り出す。
「しかし……」
ヨゾラが窓越しにちらりと病院の建物を見上げた。
「割と長時間でしたね」
「そう?それほど経ってはいないと思うけれど」
「妙齢の男女が個室に二人きり……何も起きないはずもなく。的な展開になってるのかと」
あからさまに呆れたようなため息が返ってくる。
「バカな事言ってないで……滞ってる課題を片付けてしまいましょう。アレが戻ってくるまでにね」
「お任せを。白皇の方は暫定的に理事長室直轄で「何でも解決⭐︎美少女メイドヨゾラちゃん」を立ち上げました。と言うわけで私が暫く対応しますのでご安心を」
「……ねぇ、初耳なのだけれど。大丈夫なのその肩書き」
窓の外で、病院の建物が後方へ流れていく。アテネは一度も振り返らなかった。
ただ、肘掛けに置いた指先が、ほんの僅かに動く。言葉にはならない違和感だけが、胸の奥に沈んだまま残っていた。
もう1話ほど短編を挟んで、新章に入っていこうと思います!
引き続きよろしくお願いします!
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい