春休みというものは、不思議なものだ。
始まる前はあれほど長いと思っていたはずなのに、終わってみれば一瞬に感じる。
無論、これは人による。
充実した日々を過ごした者にとってはあっという間だ。あれもやろう、これもやろうと溢れ出る活気に思いを巡らせているうちに気が付けば区切りを迎えてしまう。
しかしながら、だらだらと過ごした者にとっては、一瞬である。まだだらけたい、だらけ足りないと思考を停止させているうちに、気が付けば終焉を迎える。
……つまるところ、結局誰でも一瞬である。
「んっ!!」
勢いよく窓を開け放つと、ほんのりと冷たい春風が頬を掠める。カーテンを引いた三千院ナギは、遠慮なく降り注いでくる朝日を身体いっぱいに浴びながら、大きく伸びを一つ。
長かった春休みもついに終わり、今日からいよいよ新学期、新学年ある。
まさに新たなスタートにふさわしい、清々しい朝と言えよう。
何よりも、その爽やかさな朝を支えている要因はといえば――
「お嬢様。本日の朝食でございます」
そう。ナギの専属執事、綾崎ハヤテの手作り朝食である。
焼きたてのトーストはハヤテが厳選に厳選を重ねた素材を使った食パンを絶妙な焼き加減で整えており、屋敷で栽培した無農薬で新鮮な野菜をふんだんにつかった色鮮やかなサラダが添えられている。そして、最高級の烏骨鶏卵を使い丁寧に焼かれたオムレツと、三千院家御用達の老舗店から仕入れたAAランクのキリマンジャロを独自の焙煎で仕立てた香り高いコーヒー。
メニューは極めてシンプル。故に一つ一つの妥協なき素材へのこだわりが顕著に表れている。
「うむ」
ナギはオムレツを口に運び、コーヒーをひとすすり。
「やはりお前の料理は最高だぞ、ハヤテ」
「ありがとうございます」
コーヒーカップを片手に目を閉じると、柔らかなクラシック音楽が耳をかすめる。
この至福のひと時は、何人たりとも邪魔されぬ。まさに珠玉のモーニング。
――さて、ここで白皇学院について少し説明しておこう。
この学院は、日本でも屈指の名門校であり、在籍している学生の多くは、金持ちである。
そして金持ちというものは、往々にして怠惰である(偏見)。
そんな事情もあってか、この学院の春休みは一般の学校よりも長い。白皇の新学期のスタートは、なんと四月下旬なのである。
――ちょっと待て。金持ちで怠惰な学生が多い学校で、そんなに休みを長くして大丈夫なのか?
そう思った諸君の疑問は、実にもっともである。しかし、そこはご安心を。
「では」
朝食を終えたナギは、優雅に口元をぬぐうと、おもむろに立ち上がり、学校かばんを手に取った。
「では、ハヤテ、」
「はい、お嬢様。学校ですね」
「……そうだな」
ナギはたおやかに笑みを浮かべ、くるりと踵を返すと――
そのまま自室へ。
そしてドアに、堂々と張り紙を貼った。
『何人たりとも、入るべからず』
そう。全然大丈夫ではないのである。
「ちょっ、お嬢様!!分かってましたけど、何予想通り引きこもってんですか!!」
「うっさい!私の辞書に登校などという文字はないのだ!引きこもることにこそ真なる人の道があるとしか書いてない!!」
「そんな学術書があってたまりますか!」
新年度早速の引きこもり。理由は至って単純だった。
やがて室内からはガチャガチャとコントローラーの音が響く。
今日はそう、あの伝説のRPGのリメイクが発売されたのである。
「私は学校などに行って、平和を享受している場合ではない!エス●ード島だけが世界ではないことを私が示さないとならんのだ!」
「それはフィッシュベルの少年少女の役目です!」
暖簾に腕押し。いくら執事が訴えても、その扉は頑として開くことがない。その木片は今だけはかの天岩戸よりも強固だと思い知るだろう。
「仕方ありませんわね……」
行く行かないの押し問答を続けること5分。
ハヤテの後ろから、ため息まじりにナギの専属メイド・マリアが近づいてきた。
「今日は、ハヤテ君だけで学校に行っていただけますか?」
「……初日ですよ?」
「えぇ、新学期初日ですもの」
マリアは微笑んだ。
「きっと他の
「全然フォローになってない……」
ドアの向こうから聞こえてくるのは、お嬢様(漁師)の勇ましい戦闘ボイスだけだった。
春風に、木々がそよぐ。
校門へと延びる坂を囲む桜並木は満開を迎え、淡い花びらが風に乗って舞っていた。
その先にそびえる壮大な正門の前では、真新しい制服に身を包んだ新入生たちが、期待と緊張を入り混ぜた表情で足を踏み入れていく。
小等部の子どもたちは親の手を引きながらきょろきょろと周囲を見回し、中等部の生徒たちは少し背伸びした顔で友人と言葉を交わし、高等部の新入生たちはそれぞれの未来を思い描くように、門の先をまっすぐ見据えていた。
そんな光景の中を横目に、ハヤテは小さく息をつく。
「新学期、僕も今日から2年生か……」
どこか浮ついた空気に包まれている敷地内を見回し、
「……お嬢様がいつ登校できるかは分からないけど。まず僕が新クラスに馴染んで、お嬢様が少しでも通いやすい環境を作らないと!!」
ぐっと拳を作り、決意を新たにする執事。今年度の目標は、変わらずお嬢様の引きこもり改善である。
言うは易し行うは難し。とはいえ、諦めていては何も前に進まない。高い目標を掲げて気持ちを胸に、校舎へと足を進める。
視界に校舎が入ったちょうどその時だった。
「……ん?」
ふと、視線の先に違和感。
中庭の一角。木々の間に――妙な気配がある。ハヤテは足を止め、目を凝らした。
枝の上に人影が。しかも――よく見覚えのあるシルエットで。
「……あれ、ヒナギクさん?」
生徒会長、桂ヒナギクである。ひしっと木の幹にしがみついたまま完全に動きを止めている。よく見れば、彼女の腕の中には、白い子猫が丸まっているではないか。
以前、そっくりそのままの光景を目の前にしていたような記憶があるが、気のせいだったか。否。
見上げたまま一瞬だけ間が空き、その光景にハヤテは思わず目を細めた。
「な、なによその目は」
「何よ、と言われましても……」
「し、仕方ないでしょっ!」
彼女の腕の中には小さな子猫が一匹、不安そうに鳴き声をあげた。
「この子が降りられなくなってたんだから……放っておけるわけないじゃない」
「それで登ったはいいけど、自分も降りられなくなった。前回とまんま同じ構図じゃないですか」
「うぐっ!!」
全くもっての指摘に、生徒会長は頬を真っ赤にしてあっさりと言葉を失った。
「では、じっとしててくださいね。今降ろして差し上げますから」
「うぅ……一生の不覚だわ」
「また大げさな」
ハヤテが木に近づこうと足を踏み出した時、くいっと服の裾が引っ張られる感覚。見れば、いつの間にか彼のすぐ隣にちょこんと立っているアリスの姿が。
「え?アリスさん?」
どうしてここに?
その言葉を遮るようにして、アリスはじっと木の上――で固まっているヒナギクを見つめている。
「なるほど。生徒会長というのは非常に啓蒙的なのですね」
「へ?」
突如現れた謎の幼女に見つめられ、目を瞬かせる生徒会長。
しかしアリスは、一人で何かを納得したように数回頷いて。
「木乃伊取りが木乃伊になる。自ら体を張って他生徒にそれを示してあげるなんて」
ぐさり。
幼女から放たれた言葉の矢は、容赦なくヒナギクの胸を貫いた。見事な命中率、これがアーチェリーなら五輪選手になれるだろう。なれない。
「あ、アリスさん……」
「あら?何か間違ったことを言っていて?」
「ははは……」
アーたんにそっくりだ。
そんな言葉が喉元まで出かかった言葉をそっと押し戻して、ハヤテはがっくり項垂れている生徒会長へと目を向ける。
「ヒナギクさん、今降ろしますね。しっかり掴まっていてください」
「……お願い」
普段の凛とした面影はどこへやら。消え入りそうな声で頷くヒナギク。その腕の中では、白い子猫がひとしきり鳴いた後、ひょいっと身を翻して枝伝いに軽やかに去っていった。
「あ」
「……お見事」
アリスが、去っていく子猫の背中を眺めながらぽつりと言った。褒めているのか呆れているのか、判然としない声色だった。
ハヤテはため息をひとつ吐くと、気を取り直してヒナギクを丁寧に地面へと降ろしてあげた。
「ありがとう、ハヤテ君……」
「いえ。お怪我はありませんか」
「体は……ええ、まあ」
精神面のダメージは言わずもがな。表情がそのまま全てを語っていた。
ふとハヤテが視線を動かすと、アリスがいつの間にか踵を返し、別の方向をぼんやりと見上げていた。
その視線の先には――白皇学院のシンボル、時計塔。
東京タワーをも凌ぐとも言われるその巨大な塔は、春の青空に向かってまっすぐに伸びている。
「アリスさん」
「……」
「登ってみたいですか?」
ハヤテが聞くと、アリスはこちらを振り返りもせず、こくりと一度だけ頷いた。
素直な反応に、ハヤテは思わず口元を緩める。
「頂上に生徒会室があるんですよ。ベランダからは都内が一望できる、まさに絶景です」
「ふぅん」
アリスは相変わらず塔を見上げたまま、興味があるのかないのかよく分からない調子で相槌を打つ。その横顔が、どこかアテネに重なって見えた。
と、その時。
「だったら……連れていってあげるわ」
振り返ると、ヒナギクが凛とした姿勢で立っていた。先程まで木の上で縮こまっていた面影はもうどこにもなく、生徒会長らしい落ち着きと威厳を取り戻している。
「ここの生徒会長として、白皇に来てくれたお客様をご案内するのは当然のことですから」
にっこりと微笑むヒナギク。
アリスはそんな彼女をしばし無言で見つめてから、ふと小首を傾げた。
「高所恐怖症なのに、高い場所ばかりにいらっしゃるのね」
ぐさり。
ヒナギクの頬が瞬く間に赤くなる。
「し、仕方ないでしょッ! 私だって好きであんなところにいたわけじゃないわよ!」
「でも、さっきは自分から登ったのでは?」
「それは……それは、この子が困ってたから……!」
生徒会長の威厳タイム、終了。
アリスは特段追い打ちをかけるでもなく、ただ淡々と塔の入口へと歩き始めた。
「……ハヤテくん、あの子、何者?」
「ははは、あとでご説明しますから」
ヒナギクは額を押さえ、天を仰いだ。
時計塔の頂上から見渡す白皇学院の敷地は、壮観の一言だった。
遥か遠くまで広がる緑と建物の群れ。春霞の向こうには都内の高層ビル群も霞んで見える。
アリスは窓のそばに立ち、その景色をじっと見つめていた。
普段は感情の読みにくい紅い瞳が、今だけはほんの少しだけ輝いて見えた。
「……綺麗」
ぽつりとこぼれたその言葉は、独り言のようでいて、確かにここにいる誰かに向けられているようでもあった。
ハヤテは、そんなアリスの横顔を見ながら、そっとヒナギクの方に顔を近づけた。
「あの、ヒナギクさん。アリスさんのことなんですが」
「うん」
「実は、天王州さんの親戚の子なんです」
ヒナギクの目が、ぱちりと瞬いた。
「アテネさんの……?」
「はい。ここに来てびっくりしたんですが、アーた……天王州さんに本当にそっくりで」
「……言われてみれば」
ヒナギクはそっとアリスに視線を向ける。金の縦ロールに、紅い瞳。凛とした佇まい。確かに面影がある、どころの話ではない。
「そっくりどころか……ほとんど同じじゃない」
「ええ、僕も最初は二度見しましたよ」
ハヤテが苦笑交じりに振り返ると、アリスはまだ窓の外を眺めたままだった。
春風に揺れる桜並木が、頂上からはまるで薄紅色の絨毯のように広がって見える。アリスはその景色を、言葉もなくただ静かに見つめ続けていた。
その横顔を見ていると、ハヤテの胸の奥に、懐かしいような、くすぐったいような感覚がじわりと広がった。
――アーたんも、こんな顔をしていたのだろうか。
あの城の窓から、二人で外の世界を眺めていたあの頃。
思い返しかけて、ハヤテは軽く頭を振った。今はそういう話じゃない。
その時だった。
バン、と音をたてて生徒会室の扉が開け放たれた。
「た、助けてヒナえもん——っ!!」
飛び込んできたのは、見覚えのある女性だった。
乱れた水色の髪に、スーツの下に覗くよれたブラウス。白皇学院教師にしてヒナギクの実姉、桂雪路である。
「お姉ちゃん……何やってるの、いきなり」
ヒナギクが盛大なため息をつく。
「何って!大変なのよヒナえもん!ちょっと聞いてよ!」
「ヒナえもん言うな」
「大変大変!一大事なんだって!」
雪路は部屋に転がり込むや否や、ヒナギクが座る椅子をがっしりと掴んだ。
「なんと!なんと私が、今学期から担任を降ろされちゃったの!副担任に格下げよ、副担任に!!」
「……妥当な処置じゃない」
「ひどいよヒナえもーん!!お給料すごーく下がっちゃうのよ!?」
ジタバタと地面で転げ回る白皇学院の教師。成人。
「しかも新しい担任がね、白皇の卒業生で、めちゃくちゃ頭が良くて、しかもかなりの美女らしいのよ!?」
「……へえ」
「へえじゃないわよ! このままじゃ私の教員生活が完全に乗っ取られるじゃないの——っ!!」
三十路の女性が生徒会室の床を転げ回っている。由々しき光景である。
思わず額を抑える妹に構わず、姉はふと動きを止め、ハヤテの方に目を向けた。
「……ねえ綾崎くん」
「は、はい?」
「年上のお姉さんって、好きよね?」
ハヤテが答える間もなく、雪路はぱっと手を振る。
「いい!好きそうな顔してるから、答えなくて大丈夫」
一体どんな顔なのか。ハヤテは思わず自分の顔に手を当てた。
「ちょっとね、その新しい担任の先生に告白してきてくれない? なんなら押し倒しちゃってもいいわよ」
「はい?」
想定外すぎる依頼に、ハヤテの思考が一瞬止まった。
「なに言ってんですかアンタ」
「決まってんじゃない!不純異性交遊の決定的証拠を撮るためよ!」
雪路はどこからともなく取り出したコンパクトデジタルカメラを、ニヒルな笑みと共にかざしてみせた。
「それさえあれば、あの美人担任を一発で失墜させられるわ!学校側だって庇いきれないはず!」
「それ完全に犯罪の領域に踏み込んでますよ!?」
「私のお給料を守るためなら、犯罪の1つや2つやってみせるわ」
「かっこいい顔で最低の宣言しないでくださいよッ」
ハヤテの渾身のツッコミも、雪路には欠片も届かない。
「だってだって!もう綾崎くんしか頼れる子いないんだもん!」
今度はうるうるとした目でハヤテに迫る雪路。成人。再確認。
「さっきアイル君にも頼んだんだけど……軽くあしらわれちゃって!ひどくない!?私一応教師よ、年上よ!?私の威厳って」
刹那――
室内の空気が一瞬で凍り付き、雪路の言葉もぴたりと止まった。ただならぬ圧が、自身のすぐ背後から迫ってくるのを肌で直観する。
恐る恐る、振り返った彼女の視界に入ったのは
「……お姉ちゃん?」
木刀(政宗)を手に、仁王立ちする妹の姿であった。
その声は恐ろしく静かで冷たく、目は据わっていた。
「え、えーと……ヒナ?いえ、ヒナギクさん?」
生命の危機を直観し、じりじりと後退する雪路だったが。
「なに他人様に迷惑かけてんのよ——っ!!」
生徒会長の雷が落ちた。
木刀が唸りを上げ、雪路に直撃する。
悪・即・斬!!
「ぎゃあああーっ!!」
鬼に金棒。生徒会長に木刀政宗。今日もヒナギクの剣捌きは超一級であった。
「うわぁ……容赦ないなヒナギクさん」
慈悲など与えず、姉をしばき回す妹。
ハヤテは呆れ半分、同情半分でその光景を眺めていた。むろん同情の先は雪路ではなく、ヒナギクである。
いつの間にか、隣にアリスが立っていた。嵐のような姉妹の攻防など、まるで関係ないというように、ただ静かにその様子を眺めている。
「……あの二人、本当に姉妹ですの?」
「白皇七不思議のひとつだね、間違いなく」
ハヤテが苦笑交じりに返すと、アリスは小さく息をついた。
部屋の奥では、ヒナギクの猛攻に、雪路が悲鳴を上げながら机を盾にしていた。そんな光景を眺めながら、アリスはぽつりと呟いた。
「ですが……彼女になら、託してもいいかもしれませんわね」
「……アリスさん、なにか言った?」
ハヤテが聞き返すと、アリスはすっと視線を窓の外へ移した。
「いいえ、なんでも」
春風が時計塔の頂上をそっと吹き抜けていく。
アリスの横顔は、どこか遠くを見ているようで、何かを決意したようでもあった。
その瞳の奥に何が映っているのか、ハヤテには分からなかった。ただ、その表情がどこかアテネに似ていることだけは、確かだと思った。
「って、そういえば。アリスさんはどうして白皇に?」
「あら。天王州アテネが理事長なんですもの、敷地内にいるのは当然でしょう」
「そっか、アーたん達は日本に戻ってるんだったね」
「ええ。公舎にいても退屈でしたので、散歩をしていたんですの」
納得しそうになり、いやいやと首を横に。
「え?勝手に抜け出して大丈夫なの?アイルさんたちが心配してるんじゃ」
「ふふん。そこは抜かりありませんわ。報連相は徹底していますから」
同時刻。
理事公舎のテーブルには、手書きのメモが一枚。
『我慢できない 探さないで』
そのメモをのぞき込み、顔を見合わせるアテネ、アイル、ヨゾラ。
「これはアリス様の筆跡。でしょうか」
「文言的に……家出、ですかね」
「……はぁ」
アテネはたまらず天を仰ぐのだった。
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい